第84話 番外編 1
小さい頃から躾けられていたことは、何年も庶民として過ごすそうとも忘れてはいなかった。身体が覚えていた。
男爵家の領地では貴族として振る舞う必要はあまりなかったが、王都に戻れば違ってくる。エドの実家にあたる伯爵家はもとより、様々な貴族と渡り合っていくのに貴族としての振る舞いは必要になってくる。
セネット侯爵家は王家とも関わりのある家柄だったせいか、躾には厳しかった。五歳になる頃には、優雅な振る舞いを完璧にこなせるようになっていた。ブランクがあるとはいえ、セネット侯爵家で完璧に教育されていたことが大変役に立った。
「どうした?」
「どうしたですって? 私は半年前まで庶民だったのよ」
「ああ、それで?」
「だから、とても無理よ」
「そんなことないよ。君なら絶対に大丈夫」
「ムリムリムリムリ……」
この会話は昨日からずっとリピートしている。付き合っているエドは本当に我慢強い。
馬車が止まる音がした。そして、手続きが済んだのか中に通される。
「ああ、どうして簡単に通すのよ。もっと時間がかかるものではないの?」
「私たちは彼に呼ばれてここに来たのだから、簡単に通されるのは当たり前のことだ」
「ああ~、どうして王子様と友人だって教えてくれなかったのよ」
そう昨日まで私はエドとこの国の王子が親友と言われるほど仲が良いことを知らなかった。親友でアンドリュー王子はエドと私の結婚式に出征できなかったのをとても残念に思っているそうで、どうしても私に会いたいとおっしゃられたらしい。
初めは忙しいことを理由に断ったらしいが、それなら公式の夜会で話そうなどと不穏なことを言われたので仕方なく引き受けたそうだ。
「彼は堅苦しいところがないから、心配しなくても大丈夫だよ。それより君が王子と会ったことがないのが不思議だな」
エドが不思議に思うのも無理はない。アンドリューはセネット侯爵家の長男であるヘンリーとは幼いころから面識があると言っていたからだ。普通なら十四歳までセネット家の令嬢として育っているのだから、どこかで出会っているはずだ。
「両親は兄と違って不出来な私を王族の目に触れさせたくなかったのよ」
侯爵家の令嬢としてアンドリュー王子と年が近いにも関わらず、婚約話が出なかったのもそのせいだ。
まあ、もし話が出たとしても私の器量では王子の目にとまることはなかっただろう。
「セネット侯爵夫妻らしいな。だがそのおかげで王子にとられずにすんだのだから感謝するべきかな」
エドが私を見て片目を瞑ってみせた。彼の赤い瞳は笑っている。
平凡な私の容姿とは違うエドはこうして私を揶揄うことがある。本気にしたらダメだ。
ああ、胃が痛い。どうしてこんなことになったのかしら。
馬車から降りると王子直属の騎士団が迎えに来ていた。私は優雅さを失わないように深呼吸をして馬車から出る。
最高級の服を用意しえいてよかった。少なくとも服装で及第点をとることはない。
エドは私を完璧にエスコートしてくれた。初めのころは妻としてエドの隣に立つことが恥ずかしくてたまらなかったけど、最近では慣れてきたように思っていた。でもそれが間違いだったことに気づいた。
皆に注目されながら立つこの位置はとても緊張する。一挙一動、観察されているようだ。
ここでへまをすればあっという間に噂が広がるだろう。
エドだけでなく、育ての親でもあるセネット家にも恥をかかせることになる。私はごくりと喉を鳴らして、エドに合わせて歩く。エドの方も私に合わせて歩幅を小さくとってくれた。
沢山曲がって、進んで、曲がって、とここまでの道がわからなくなった頃、ようやくアンドリュー王子の待つ部屋の扉の前に到着した。
「アンドリュー王子は少し変わったお方だから、何を言われても気にしないでいいから」
「へ?」
昨夜から時間は沢山あった。どうして今頃そんなことを言うのだろう。
私が首を傾げてエドを見ると、エドの顔がこわばっていた。こんなエドを見るのは初めてかもしれない。
これからのことに緊張していた私は、エドの手を握って安心させるように微笑んで見せた。
「何があっても気にいたしませんわ。私にはエドがついているのですから」
「そうだな。私はいつも君の味方だから頼ってくれ」
エドの言葉にただの挨拶だけではなさそうな予感がしてきた。挨拶だけでも十分に緊張していたのに、これから何が起こるのだろうか。クリューに助言を求めたかったけど、もうクリューはいない。
私に頼れるのはエドだけだ。
扉が騎士の手によって開かれた。
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