第4話 シロ
「あ、優衣、おはよー!」
「亜紀ちゃん、おはよう!」
優衣に向かって亜紀が手を振る。よかった。亜紀が登校してきた。やっぱり亜紀がいると、安心できるなぁと優衣は思う。
「ねえねえ、昨日、裕也がキレたんだって?」
「え……」
ランドセルを机に置いた優衣に亜紀が聞いた。優衣はちらりと窓際の席を見る。しかしそこに、裕也の姿はまだなかった。
「あいつコワいよねー。やっぱ近寄らないほうがいいね」
「そ、そうだね」
そのとき、亜紀のことを呼ぶ声がした。顔を上げると、香織と何人かの女の子たちが、亜紀に向かって手招きをしている。
「なーに? どうしたの?」
亜紀が優衣に背中を向ける。そして香織たちのグループに入ると、なにやらこそこそと小声で話し出した。時々くすくすという笑い声がもれ、亜紀が優衣のことをちらりと見た。
――なんか、やな感じ。
そんな優衣の背中を誰かがぽんっと叩く。驚いて振り向いた優衣の目に、大げさなほど大きなガーゼを頬に貼った、翔の姿が映った。
「な、なに?」
翔は何も言わずににやにやしている。
「なによ?」
「お前、昨日、裕也と一緒に帰っただろ?」
香織や亜紀たちが一斉に振り向く。翔の周りの男子たちが優衣を見て笑っている。
「お前ら、つきあってんのかぁー?」
翔が教室中に聞こえるような声でそう言った。男子の笑い声がさらに大きく響く。
「へえー、七瀬は裕也が好きなんだー」
「あのお化け屋敷が好きなんだー」
――なに言ってんの? こいつら。
優衣が亜紀のほうを向く。亜紀はさりげなく優衣から顔を背ける。香織がそんなふたりを見て、くすっと小さく笑った。
「あ、七瀬さん」
放課後、担任教師がいつものように声をかける。
「これ、また三浦くんちに届けてくれる?」
優衣の前に差し出された一枚のプリント。教室のあちこちから、ひそひそとささやき声が聞こえてくる。優衣は黙って、教師の手からプリントを受け取った。
断ろうと思えば断れたと思う。だけど優衣はそれをしなかった。だって裕也のことなんて、なんとも思ってないから。思ってないから、手紙だって届けられる。
プリントを持ってランドセルを背負う。翔たちがにやにやと笑っているのがわかる。
「優衣……」
そんな優衣に亜紀が声をかけた。だけどそれと同時に、香織の高い声が聞こえてくる。
「亜紀ー! 行くよー!」
亜紀があわてて振り返る。
「ごめん、優衣。今日、香織たちと帰るから」
亜紀の赤いランドセルが、優衣の前から申し訳なさそうに消えていった。
プリントを握りしめて歩道を歩く。ひとりで帰るのはいつものこと。亜紀と一緒に教室を出たって、どうせ校門の前で別れるんだから……だけど今日は、何かが少しだけ違った。
もやもやする気持ちを、吹き払うように坂道を駆け上ると、裕也の家が見えてきた。いつものように門を開けて、玄関の前に立つ。しかしチャイムを押そうとして、優衣は手を止めた。
『殴られたんだ、お母さんに』
――裕也のお母さんって……怖い人なのかな?
プリントを持ってきた優衣の前に現れるのは、いつだって裕也だった。だから優衣は裕也の母親に会ったことがない。
玄関の前で戸惑っていると、優衣の背中を誰かが叩いた。
「なにやってんだよ?」
少しかすれた男の子の声。優衣は黙って振り返る。そこにはあの茶色い犬を連れた、裕也が立っていた。
「なんで学校来ないのよ?」
優衣が持っていたプリントを裕也に差し出す。
「ちゃんと学校来なさいよっ!」
「わかったよ、うるせえなぁ」
裕也は優衣の手からひったくるようにプリントを受け取ると、ぐしゃっと丸めてポケットにつっこんだ。そしてその場にしゃがみこみ、犬の頭を優しくなでた。いつも憎らしく吠えている犬が、クーンと鳴いて裕也にすりよる。
「こいつかわいいだろ? 俺の犬なんだ」
優衣は裕也につられて、同じようにしゃがみこんだ。どう見ても野良犬のようにしか見えないその犬は、あまりかわいいとは思えなかったけど、裕也は愛しそうに犬に顔をよせる。するとそんな裕也の頬を、犬がぺろぺろとなめて、裕也が声をあげて笑った。
――こいつ、こんなふうに笑えるんだ。
優衣はぼんやりと裕也を見つめる。裕也は犬をなでたまま、顔を上げて優衣を見た。
「なに?」
「え、あ、あのっ、その犬の名前、なんていうの?」
とっさにそんなことを聞いてしまった。
「シロ」
「茶色いのに?」
「しっぽの先が白いだろ? だからシロ」
「ヘンなの」
裕也がおかしそうに笑う。優衣の心臓がまたドキドキと音を立てる。
「こいつ、拾ったときはこんなに小さかったんだぜ?」
優衣の目の前で、裕也が両手で小さい円を作った。
「拾ったの?」
「そう、捨てられてたから、俺が拾ってやったの」
裕也はそう言うと、シロの頭をもう一度なでた。今、優衣の前にいる裕也は、いつもの反抗的な態度の彼とは別人のように見える。
そのとき、シロが身をよじり、いきなり吠え出した。それと同時に、門の外から人影が現れる。
金髪のような髪に派手な化粧をした若い女の人が、この前見た裕也の弟の手を引いている。優衣は反射的にその場に立ち上がった。
「ちょっと! その犬、早く捨ててきなって言ったじゃん?」
女の人が、シロをにらむように見てそう言った。
――もしかしてこの人がお母さん? 裕也のことを殴るお母さん?
そう思ったら優衣の体がこわばった。そしてしゃがみこんでいる裕也の背中も、同じように緊張しているのがわかった。
「聞いてんの? 裕也! まったくぐずなんだからっ」
女の人がイライラした口調で言いながら、ちらりと優衣の顔を見る。けれど何か口にすることもなく、裕也の弟を連れて家の中へ入っていった。
優衣は黙って裕也を見下ろした。裕也はあばれるシロの体を、なだめるように抱きかかえている。そんな裕也に、優衣は声をかけることができない。
重苦しい空気に胸がつまりそうになったとき、裕也が背中を向けたまま、ぽつりとつぶやいた。
「帰れよ、もう……」
どうしてだか泣きたくなって、優衣は逃げるようにその場から立ち去った。
それからもずっと、裕也は学校へ来なかった。
――『わかった』って言ったのに……嘘つき。
亜紀とは普通に話をしていた。だけどどこかぎこちない雰囲気に、きっと亜紀も気づいていたはず。優衣はいつしか自分から、亜紀と距離を置くようになり、教室ではいつもひとりでいることが多くなった。
そしてそのまま一学期が終わり、長い夏休みが始まった。
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