9-14

――クロウがソニアの館を訪れた日の夕方。ダニエルズ侯国領ネスレの外れの貧民街の一画にあるタイソン一家の住まい。


「ちょっくら出てくるぜ」


 既に夕食時となり、近所からは各家庭の献立の匂いがし始めていた。

 タイソン家の台所からも、夏野菜を自家製のケチャップで煮込んだ料理の香りが漂っていた。

 目の見えない妻だったが、タイソンと息子の簡単な補助さえあれば、目明きが作った料理と区別がつかないほどの出来だった。


「あら、こんな時間にお仕事? もう日も暮れるわ。それに夕食の準備もしてあるというのに」


 上着を羽織る夫にタイソンの妻が言った。彼女は肌の感覚やその他の感覚で日がもうすぐ落ちることを感じていた。


「仕事って程の事でもねぇさ。単なる野暮用よ。すぐに帰る」


 タイソンはふと、食卓の机で字の練習をしている息子のアルを見た。


「ほぅ、アル、お前字が書けるのか? 大したもんじゃないか。こりゃ将来はお役所勤めだな」


「おおげさ、学校でこの子の歳ならみんな出来るものなのよ」


「だがよ、覚えはコイツが一番早いんだろ?」


「あらあなた、余所の子のこと知ってるの?」


「知らねぇよ、だがそうに決まってらぁ」


 妻は息子の方を向いて笑った。方向は間違っていなかったので、彼女は息子に対して微笑んだように見えた。


「じゃあな、行ってくるぜ」

 と、タイソンが帽子を被って言った。


「……いってらっしゃい、父さん」


 タイソンはああ、とそのまま家を出ようとしたが、すぐに違和感を覚えて振り返った。アルが先程と変わらずに、熱心に字の練習をしていた。

 タイソンが妻を見る。彼女は薄らとまぶたを開けて、アルを見ていた。

 そしてタイソンは、もう一度「……じゃあ行ってくる」と言い残し家を出ていった。



 ダニエルズ侯国の役人・ミラーは、役所での仕事を終えると寄り道することなくまっすぐに家に帰った。

 彼がまっすぐに帰るのは今日に限ったことではなかった。良く言えば家庭人、悪く言えば朴念仁ぼくねんじんの彼を、同僚たちは随分前から飲みに誘うのを諦めていた。

 役所にほど近い、部署は違うが同じ役所勤めの人間がすむ集合住宅地帯にある一棟に彼の住まいはあった。切妻屋根の二階建ての煉瓦作り、中小貴族の次男坊という出自の彼にとっても質素すぎる建物だが、彼の性格には相応でもあった。

 ミラーが玄関の扉に続く階段を上り、扉に手をかけると中から息子の笑い声が聞こえた。来訪者の予定には思い当たらず、それに息子がこれほどまでに懐く人間をミラーは知らなかった。

 ミラーが扉を開けると、玄関からまっすぐに伸びる廊下に彼の妻が立っていた。妻はリビングの方向を微笑ましい様子で見ていた。


「……ただいま」


「あら、お帰りなさい。あなた、お友達がお見えになってるわよ」


 友達? ミラーは怪訝な表情で妻を見ていたが、妻のそばまで行くと胸を撫で下ろした。そこにいたのは放免のタイソンだった。タイソンは彼の息子とカードゲームに興じていた。


「おじちゃん弱すぎるよぉっ」


「いやぁ、坊ちゃんが強すぎるんでさぁ」


 汚れたコートと顔の刺青という、中上流階級の家庭のリビングには不釣合いなタイソンだったが、ミラーの妻と子は彼を何の抵抗もなく客人として迎えていた。


「……タイソン」


「旦那、おかえりなせぇ。お邪魔しておりやした」

 と、タイソンが頭をペコペコ下げて言う。


「今日はどうしたのだ?」


「へぇ、近くを寄ったもんで……と言いたいところですが、ちょいとご報告がありやして」


 タイソンの“報告”という言い回しに違和感を感じたミラーは妻に外出することを告げた。


「食事はどうするの?」

 と妻が言う。


「今日は……いい」


 夫の様子に異変を感じた妻は、特に意見することはしなかった。



 二人はミラーの同僚たちと鉢合わせることがなさそうな大衆食堂へと足を運んだ。庶民的で酒も出す食堂で、しかも夕食時で人が多すぎたものの、内密な話をするならかえって人の多いほうが声が紛れるという配慮だった。


 内密の話でもあったが、そうしなければ聞こえないので、顔を近づけて近づけてタイソンが言う。

「申し訳ございやせん、気ぃ使わせちまったみたいで」


「なに、大事な話なのだろう」


「へぇっ」


 二人のテーブルに給仕の女が注文を取りに来た。そこの店主の妻で、もう五十にもなろうという年齢だったが、化粧も服装も一切の気の緩みがなく、女としてのアピールに余年のない給仕だった。実際、店の常連の複数と関係を持っていた。


 色目と営業スマイルの区別のつき辛い声色で女は言う。

「ご注文はお決まり?」


「ああ、麦酒と葡萄酒を頼む」

 と、タイソンが言う。


「あと、ピクルスを適当に盛り合わせてくれ」

 ミラーが付け加えた。


 女はミラーの適当、という物言いを快く思わなかったのか、無愛想な表情で去っていった。

 女がキッチンに向かっていると、彼女の尻を常連(既に体の関係のある)が撫でてきたので、女はお盆でその手を払い、ついでに背中越しに中指を立てた。

 その店では日常なのだろうが、その奇異な光景を二人はしばらく眺めていた。


「……それで、話というのは」

 と、ミラーが切り出した。


「ええ、それです。実は……例の雑種殺しの件なんですがねぇ」


「進展があったのか?」


「それが、旦那にギルドの登録と一緒に頂いた出生記録の資料なんですが、戦時中と戦後間もない頃のモンが一部無くなってるんでさぁ」


「……それは、確認しなかったな」


「へぇ、それで役所の人間に訊いたところ、どうやら一昨年前の火事の時にどっかに行っちまったらしいんです」


「なるほど……。」


「けれど、アッシは火事で焼失したワケじゃあないと思いましてね」


「……ほう、何故だ?」


「実は、確認できる一番古い雑種の失踪は一昨年から始まってるんでさぁ」


「まさか……。」


「へぇ、そのまさかです。役人の中に事件に関係してる人間がいるかもしれねぇってことですわな。名前だけじゃあ雑種を判断するにゃあ心許ない。だから、確たる資料が必要だったと。あるいは……いつか捜査の手が及んだ時にこちらの仕事をやりにくくするためか……。」


 ミラーは周囲を見渡した。

「確かに可能性としては否定できない。だが、偶然という事だってあるだろう。滅多な事で私も同僚を疑うわけにはいないぞ」


 タイソンはもちろんです、と相槌を打った。

「ただ、この事件に関しては何か背後に大きなものを感じて仕方ねぇんです……。背後で糸を引いている組織のような……。」


「前にお前が言っていた、“吟遊詩人”というやつか」


「へぇ、この事件に噛んでいると……アッシが睨んでる組織というか、集団というか……。」


「あまり……情報にまとまりがないな……。」


「申しわけございやせん。けれど、その情報の断片から見える輪郭が、どうにも不気味で気になるんでさぁ……。」


「……タイソン、もし嫌な予感がするならそろそろ手を引いておけ。放免としての領分を越えているぞ」


 タイソンがへへぇっと笑った。

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