9-2
「……愚かな娘です」
サマンサが口を開いた。
「聖職者としてはあの
サマンサは修道服の裾を握りしめ押し黙った。
聖職者であることと家族であること、容易に妥協点を見つけられる生き方ではない。修道服で押さえ込んでいる相克が、今にも均衡を崩そうとしていた。
そしてその相克がサマンサを余計に可憐に見せるのだが、ここで手を差し伸べることは彼女の最も望まぬことだった。そのためにこそ、彼女は修道服で身を包んでいるのだから。
「……シスター」
「なんでしょう?」
「……あの事件ってのは何だい?」
サマンサと別れたあと、クロウはマルコムの店に足を運んだ。
店ではいつものように黒い肌の男がピアノを弾き、女が歌を歌っていた。そして酔っぱらいたちは演奏を聞いているのか分からない様子で世間話で盛り上がっている。
誰かの家に子供が生まれた、女房の飯がまずい、義理の両親が病気をした、以前にも聞いたような話が別の人間を通して話される。まるで同じ台本を持ち回りで諳んじているようだった。
騒がしい方が却って頭が静かに回転することもある。クロウはその喧騒を背にして酒を飲んでいた。
店主おすすめのその火酒は蒸留所が海の近くにあったらしく、潮の香りがほのかにする気の利いた逸品だった。
クロウは残った酢漬けの汁をパンにつけてほおばり、火酒を一気に飲み干してから熱いため息を吐き出した。
空のグラスを脇に置き、煙草を取り出し爪でマッチをこすって火をつける。普段より大きく煙を吸ってから一斉に吐き出した。サマンサから煙草を咎められ家では吸えなかった反動だった。自分の家だというのに。
白い煙が、カウンターの向こうの店主の姿をおぼろげにした。
そして煙の中、クロウはサマンサの話を思い出す。
ロラン、イブ・ヘルメスはヘルメス侯国の領主、アイザック・ヘルメスの長女として生を受けた。
幼い頃から淑女としての教育を受けた彼女だったが、彼女が興味を示したのは人形遊びではなく男の子たちと野を駆け回ることだった。
得意としていたのはテーブルマナーや楽器の演奏ではなく、法術や剣術の稽古。得意というのは、女が真似事をするにはというレベルではなく、純粋に他の兄弟を上回るほどという意味だ。現に、法術に関しては霊廟で老賢者の法術を破っている。
鍛錬したら鍛錬した分だけ技量が上がる、というのが剣術を教えたウォレスと法術の教師の言葉だった。
そして理由は不明だが、彼女は双子の兄のロルフに対しては幼少の頃より露骨ではないものの敵対心を抱いていた。だがロルフには何故自分が妹に嫌われるのか、まったく身に覚えがなかった。
まるで男達が意図せずにイヴを傷つけ続けていたかのように、彼女はいつも壁を作り自分の心の奥を覗かせることはなかった。
そのロルフとの壁のせいで、二人が成長するにつれ軋轢は大きくなっていった。
成長に際限のないイヴに対し、限りの見えるロルフ。ただでさえ女に負けているということで複雑な感情が生まれるのは避けられない。そして、以前からの
さらに、父・アイザック・ヘルメスの、「女に負けている息子」に対する眼差しのせいで、不穏の炎を広げる燃料は投下されるばかりだった。
そんな差がつけられる一方のロルフが唯一、完璧な妹に見つけた欠点、それが彼女の性的な嗜好だった。
イヴは男装を趣味として好むのではなく、あたかも中身が男であるかのように当然の如く男装を選んだ。さらには女性に対する眼差しも、男が女を見るように、甘く恍惚とした光が奥底にあったという。
ロルフはそんな妹を変人であるかのように非難することで何とか自分の体面を保とうとした。エルフたちは宗教上の理由で同性愛を禁忌していたので(ただし、教典には明確に同性愛を否定している箇所はない)、彼女の気質は格好の攻撃材料だった。
螺旋を下っていくかのように二人の関係は悪化する一方だった。そしてそれは屋敷に使える侍女の娘、タバサ・カイルをきっかけに終局地点を見ることになる。
元々は幼馴染程度だったイヴとタバサの関係は、しかし二人が成長するにつれより大きく深いものになっていった。
それは幼馴染の淡い友情というには濃厚過ぎた。タバサの姉サマンサ・カイルが、自身は男との恋愛を経験がなかったにもかかわらず、二人の感情が恋なのだと確信できるほどに。
常に自分の上を行く妹に対し何とかして一矢報いたい。そんな日頃からの鬱憤で、悪魔の囁きのような閃きに簡単にロルフは心を乗せられてしまった。悪魔は彼に、タバサを標的にした度の過ぎる悪戯を思いつかせたのだ。
それはタバサを自分のモノにすることで、男ぶったイヴに正真正銘の男とは何であるかを見せつけようというものだった。イヴには劣るものの、ロルフも名門の家柄だった。エルフの中でも特に美丈夫であり、さらに武人の父の血を引いているため体つきも逞しかった。既に多くの名家から縁談を持ち込まれるほどで、自惚れとはいえロルフにも少しの自信があったのだ。
だが、その自信は娘の無下な態度で打ち砕かれた。ロルフからのオペラの鑑賞の誘いを断り、タバサは以前からのイヴとの約束だった山での山菜採りを選んだ。平民の侍女の娘を、貴族でさえ鑑賞の容易ではない高価なオペラに誘い断られ、あまつさえ女との山菜採りを優先される……。砕かれ踏みにじられたプライドは代償を求めた。それも、陰湿で邪悪な代償を。
二人が山菜採りに出かけた日、ロルフはカルヴァンをはじめとする悪友たちと共謀し、二人が山奥まで来るのを待ち構えた。
ロルフの計画は、友人たちに賊を演じさせ二人を襲わせて、イヴが苦戦しているところをロルフが助けると見せかけて突如裏切り、タバサを人質に取りイヴを封じる、という実に子供じみた作戦だった。
しかし、不幸にもロルフを信頼しきっていたタバサは簡単にロルフの策にはまり、イヴは男達に拘束されてしまった。
男達は捉えられたイヴの前でタバサを
だがヘルメス侯が息子と侍女との落胤を認めるはずもなかった。彼はお抱えの医師にタバサの体から赤子を削り取るよう命じた。
だが、男達がえぐったのは娘の体だけではなかった。心もまた、修復不可能なまでに傷つけていた。
侍女の娘であるタバサが、裕福な家の者ではなければ世話になることのできないグリーンヒルで療養していたのはそういった経緯があった。
レインメーカーとはいえ、まだ人の心の残っているヘルメス侯はせめてもの贖罪と、厄介払いのために入院の書類にサインをしたのだ。
整理すると大まかな流れは同じだったが、決定的な所がロランから聞かされていた話と違っていた。
しかし、それでもクロウにはロランが嘘をついているとは考えられなかった。
体を重ね合わせた故の情というわけではない。彼からは、自分を騙そうとこちらの様子を伺いながら物事を天秤にかけている感じはしなかった。
ロランは自分の胸の奥にある魂の片鱗をぶつけていた。少なくとも彼の言葉にはそれを感じた。では何故、話が食い違うのだろうか。
ロランは嘘をついてない。しかし、サマンサも嘘をついてはいない。まるで、男にまたがり嬌声を上げるタバサと、男に押さえつけられ悲鳴を上げるタバサ、その両方が間違いのない過去として同時に存在するようだった。
クロウは再び大きくため息をついた。
物思いにふけ過ぎていたせいで、一回吸っただけの煙草の半分以上が灰になっていた。
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