8-33

「ゴールドバーグさん……。」

 シーナは呆然と二人を見ていた。濃い緑のスーツにシルクハットを被った裕福そうな男に、鮮やかな黄色いドレスの上に毛皮のコートを羽織った女。落ちない汚れとシワの目立つシフト、ボディス、エプロンを巻いたスカート姿※のシーナ。僅かな距離を隔てているだけなのに、彼らの間には近寄りがたい隔絶があった。

(※いずれも農民女性用の普段着)


「シーナ……。」

 クロウが声をかけた。

 だが、シーナには聞こえていないようだった。


 シーナは再びゴールドバーグの名前を口にすると、ふらふらと二人の方へ歩き始めた。


「ちょっと、シーナっ」

 クロウはシーナの肩を掴んだ。

 しかし、幽鬼の如くふらつきながら歩いていたにもかかわらず、クロウが置いた手は弾かれるように跳ね上がった。

 このまま行かせると良くないことが起こる。クロウは直感でそう思い、体を張ってでもシーナを止めようとしたその時だった。


「ゴールドバーグさん!」

 シーナが叫んだ。


 ふたりの男女の男の方だけが振り向き、女はその呼びかけに応じた男を不思議そうに見ていた。

 シーナを確認した男の顔から一瞬で血の気が引く。男は再びシーナに背を向けて、女の視線からシーナをそらすように彼女の肩に手を回してその場を去ろうとした。


「ちょっと待って!」

 おぼつかない足取りから一転、シーナは大股開きで男を追いかけた。

 あまりにも力強い歩みだったため、泥が跳ねシーナのスカートを汚したが本人は全く気にしていなかった。

 男も男で追いつかれまいとズボンの裾が汚れる勢いで逃げようとする。だが、事情の分からない連れの女に「ちょっと!」と抵抗され、とうとうシーナに追いつかれてしまった。


「ゴールドバーグさん……。」

 流行病に倒れていたかもしれなかった想い人の無事に、シーナは安堵の表情を浮かべていた。


「あ~……。」

 だが男の目は終始泳ぎ続けていた。


「ちょっと、あなた人違いよ」

 と、シーナの身なりをチェックしながら連れの女が言う。


「え?」


「ゴールドバーグ? この人はオリバー・マルティネス、私の婚約者フィアンセよ」


「オリ……バー? フィアン……セ?」

 シーナが男の顔を伺うと、男は帽子を深く被り顔を隠そうとする。その仕草で、さきほどまでの安堵の表情に一気に影が落ちた。


 クロウとアリアがシーナの名を呼びながら近寄る。

 アリアは二人の様子から何事かを察したようだった。


「ねえ、オリバー。この人たちなんなの?」

 と、女はクロウたちを怪訝に見ながら言う。三人の身なりから、彼女たちが堅気ではないということが見て取れたからだ。

 特に、シーナに至ってははねた泥でスカートが汚れ、より一層みすぼらしさに拍車がかかっていた。


「なんなのって彼はアタイの……。」


「ああっと! お嬢さん、?」

 と慌てふためいて男・オリバーが言う。


「……え?」

 シーナが愕然とする。

 

 オリバーが女を見るが、女は男も不審な目で見ていた。


「彼女、貴方のことを知っているようだけど? もしかして……。」


 追い詰められたオリバーは、思いたように女の言葉を遮ろうとまくし立てる。 

「知らないよっ。困ったなぁっ。場所に来ると、こういうことがあるから……ねぇ?」

 と、女に同意を求めた。

「まぁトラブルはゴメンだからね」

 オリバーはシーナに近づきながら懐を探り、財布を取り出し硬貨を数枚取り出し、

 「お嬢さん、お困りのようですね。もし何かの助けになればこれを……。」   

 と、その硬貨をシーナに握らせた。


 シーナは、硬貨を握ったまま魂を抜かれたようにその場に立ち尽くしていた。

 男はじゃあ、と言うと連れの女の肩に手を回して軽やかに、しかし十分に焦りを見える動きでその場を去ろうとする。

 そんなオリバーに対し、シーナの口が何かを言おうと懸命に動いていた。だが、魂の抜けた体は言葉を出そうとする力さえ持ち合わせていなかった。


「ちょっと待てよ!」

 声をあげたのはクロウだった。

 その声に男女二人組が射すくめられた様に立ち止まり、シーナの抜けていた生気が戻った。


 シーナが振り返って言う。

「クロウ……。」


 クロウはシーナと同じように、スカートが汚れるのも厭わずぬかるんだ地面を歩き、シーナの手から硬貨を奪い取った。

「何のつもりだよこれは? 言うに事欠いて物乞い扱いかよ。なぁ、いったいいつ彼女がアンタに物欲しそうな顔をした? いつアンタに何かを? 施しを求めた?」


 アリアがクロウ、と声をかけるがそれでもクロウは止まらなかった。


「そんなに私らはみすぼらしいか? 惨めか? アンタだって……スカした戯曲の引用に散々つき合ってやったこの娘に、ほんのひと時だって癒されてたんじゃあないのか? 哀れな娼婦に手を差し伸べて、聖人ぶった自分に酔いしれてたんじゃないのか?」


 オリバーの顔が凍りついた。隣にいる女に一切の申し開きができないほどに。


「アトラディウスだ? 法律だ? アンタのくだらない嘘なんてとうに気づいてたさ。それでも、そんな幼稚な嘘だってカタのつけ方ってもんがあるだろ。手切れのつもりかよ? こちとらな、憐れんでもらうほど落ちぶれちゃあいないんだよ!」

 クロウは硬貨をぬかるんだ地面に叩きつけた。


「あの、いや、その……。」

 と、オリバーは忙しく目を動かしながら、しかし誰も見ることなく口ごもった。


 クロウがさらに何かを言おうとしたその時、

「クロウっ」

 と、シーナが声を上げた。


「シーナ……。」


「もう、いいって」


 クロウの怒りはおさまらず、さらに男に喰ってかかろうとする。しかし、シーナはクロウの前に進み出て、彼女が叩きつけた硬貨を拾い上げた。


「……ごめんね、おにいさん。アンタがに似てたから思わず声かけちゃったんだ……。でも人違いだった」

 シーナは硬貨を握り締める。

「ありがとう。これはもらっておくね。親切なおにいさん。……どうか、お幸せに」


「……シーナっ」


 シーナは二人に背を向け言う。

「いいんだよ、クロウ」



 騒ぎのあとの帰り路、馬車の荷台の上で三人ともしばらく無言だった。

 特にシーナは、ほんの少し針で刺してしまえばハジケて正体を失うくらいに不安定な悲しみに沈んでいた。


 アリアがシーナを気遣いながら言う。

「ねぇシーナ、あなたは騙されていたんじゃないのよ。ただ、夢を見てただけ」


 シーナが、返事の代わりに鼻をすすった。


「こういう仕事だからね。お金だけじゃないわ、夢を与えて夢を与えられ、そうやってみんな生きる糧にしてるのよ。すぐに慣れるわ……。」


 クロウが舌打ちをした。一瞬、険悪な空気が荷馬車の上をよぎった。

 アリアは空耳だったのだと思うことにした。


 シーナが溢れるような声で言う。

「慣れるって……じゃあ、プライド捨てて生きてけってこと?」


「……あなたたちに大事なことを教えておくわ。本当のプライドというのはね? 自分の中にある確固たる信念をいうの。どれだけ蔑まれても馬鹿にされても、決して傷つかないものなのよ。自分の価値というのは、自分だけが知り得るものなんだから。だから今回のことも、しょうもない男との縁が切れた程度に思えばいいのよ。せいせいするじゃない? あんな男にわたしたちを脅かす事なんてできないわ」


「……どれだけ蔑まれても?」

 とクロウが訊く。


「そうよ、クロウ」


「どれだけ馬鹿にされても傷つかない?」


「ええ」

 アリアが目尻に皺を寄せ、暖かく柔らかい満面の笑みを浮かべた。


「……アリア」


「なぁに、クロウ?」


 つり上がったクロウの口角から白い牙がのぞき、瞳孔が細くなった目は金色に光っていた。


 豹変したクロウに、アリアは満面の笑みのまま凍りつきシーナは悲しみを忘れて息を飲んだ。

 そしてそのまま荷馬車が娼館に着くまで、三人は固まったように沈黙し続けた。

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