8-6

「あ~しあわせぇ」

 店の隅でささやかなお茶会を催しながら、サンはほっぺたに手をあてながらうっとりと呻いた。


 クロウも、舌に伝わるチョコレートの素材と製法の複雑さに驚く。産地の異なるカカオを併せて作られたチョコレートだった。それはただ甘いだけでなく、香辛料のように刺激的でカラフルな味わいだった。

 どちらかというと、お茶よりも強めの火酒が合いそうだった。


「ほんっとやんなっちゃうよねえ、この生活格差」

 サンはつまんだチョコレートを眺めながら、改めて踊り子と自分たちの待遇を嘆いた。


 クロウはチョコレートをほおばりながら頷いた。


「ウチもさぁ、ここに入ったばっかりの頃、マネージャーに直談判したんだよ。踊り子になりたいってさ」


 クロウは目を丸くしてサンを見た。


「……おかしいかい?」


 クロウは激しく首を振る。

「いえ、ただどうして踊り子になりたいのかなぁって」


「アンタ、そんなのあたりまえじゃないっ。アイツらこんなものスナック代わりに毎日食べてんだよ? 食事だって近所のカフェで優雅にとってるし。それに比べてウチらはさ、毎日ナイフも通らないような黒パンを、とも言えないような残り物ぶっこんだシチューに浸して胃に書き込む毎日じゃなのさ。ウチに器量がありゃあすぐにでも踊り子になってやるね。売れっ子にさえなったら自分の部屋だってあてがってもらえるし、すぐにこんなところだって出ていける。だってさぁ、昨日の夜聞いた? ブレンダの奴、何か感極まっちゃったみたいでさ、聞えよがしに泣いてたじゃない。あの部屋の生活にだってもううんざり」


「泣いてたのは、ブレンダだったんだ……。」


「きっと故郷が恋しくなったんだろうさ」


 クロウが不思議そうな顔をするので、察したサンが言う。

「故郷を捨てて出てきたって、別に好きでそうしたわけじゃないやつだっているよ。故郷に仕事がないとか、何らかの事情でいられなくなったとか……どっちかというとそういう奴の方が多いんじゃない? ウチらも踊り子連中もさ」

 サンは、続けてアンタは違うの? とは訊かなかった。深入りをしないのが彼女たちの不文律だった。

「……アンタは踊り子にはならないの?」


「え?」


「アンタだったらイケるでしょ?」


「それは……。」


 母と自分の関係を今この場で話したところで、理解されるどころかより怪訝に思われるだけだろう。カップを持ったままクロウは下を向いて黙った。


「もし男にやらしい目で見られるのが嫌だってんなら、ちょいとウブが過ぎるんじゃないの? 都会でウチら女が生きていくためには体使うか男作るしかないんだからさ。まぁ、体使うってのもウチなんかこんなちんちくりんな体型だから、よっぽど特殊な趣味の店に行くしかないんだけどさ」

 サンは自分の腕を恨めしそうに見た。

 ホビットの彼女の体は子供のような小さかった。だが、子供そのものというわけでもなく、肌の質や筋肉のつき方は大人をそのまま小さくしたような体だった。

「まったく、ここ来て半年で気づいたよ、都会っていうのはエルフと人間のもんなんだってね」


「体を使うか男を作るか……。」


「そっ」


「それ以外は……。」


「え?」


「それ以外は……ないのかな?」


 サンはカップを置くと、顔を軽くしかめて言う。

「アンタ、もしかして“自分にしかない特別な何か”なんてもんがあると思ってんの?」


「それは……。」


「やめときなよ。そんな青臭い考え、ここじゃさっさと捨てることだね」

 クロウはカップをソーサーの上に置いた。

「現実的に考えなよ。エロオヤジにやらしい目で見られて触られるのをさ、ちょっと我慢して金作る方が、何年もここで掃除と炊事を続けるよかずっといいよ」


「少しの……我慢」


「そいうことっ。それに、別に男に媚びてるからって卑下することもないよ。踊り子連中は、男を手玉にとってるってくらいの考えでやってるんだからね」


 ささやかな茶会が終わると、クロウは手洗い場へ向かった。

 サンに言われたことを気に留めながら上の空だったが、手洗い場の扉を開けた途端、思わずたじろいでしまった。

 従業員用のトイレが、前日の当番だったブレンダがサボっていたために汚れたままだったのだ。便器のヘリにこびりついた汚物の悪臭が、クロウの鼻を捻じ曲げる。

 クロウはうんざりしながら軽く周辺を掃除すると、落とし紙で足場を確保して用を足した。

 不味い食事、狭い寝床、汚いトイレ……クロウは戻ってくるなりフロアの中央にあるステージを見た。あれは踊り子たちが自分の体を品定めしてもらう商品棚だ。けれど自分の何かを差し出して金を得るというのなら、掃除婦であることと売春婦であることに何の違いがあるだろうか。

 結局、クロウはこのキャバレーで働くようになって半年もかからないうちに、マネージャーに踊り子になることを直談判していた。


 クロウの母・マーリンが終生願った自分に追随する生き方。それを貧困と窮乏は彼女にわずかな期間で叩き込んだのだった。



 母譲りの才能か、クロウはすぐに踊りを覚えステージに立つようになった。

 しかし、男の視線に商品として晒される事に抵抗のあった彼女の踊りは、どこかぎこちなかった。形としては完璧であるものの艶を帯びるまでにはいかず、秀でた人気を獲得するまでにはならなかった。


 ショーの後に指名をもらって直接客の隣で給仕をする際も、やはり生来の気質は誤魔化しようがなかった。

 体を密着させるくらいの勢いで迫ってくる客に対し、クロウの視線や手癖といった所作はどうしても拒否反応を示してしまっていた。そのせいでせっかくのチャンスでもふいにしてしまうのだった。

 結局、彼女を見初めた客もすぐに別の踊り子を指名するようになっていった。

 クロウには先が思いやられた。下働きと比べれば高い収入だったが、それでも踊り子たちの中の順位では下の方だった。

 やはりここを出て独り立ちするには長い時間を必要としそうだった。



「――まるで石畳の間に咲いてる花みたいだな」


 そんな中、一人だけ彼女への指名を外さない男がいた。


「……どういう意味?」


「花畑からは離れて、あえて厳しいところで咲こうとしているってことだよ。頑丈な石畳を、まるで鎧のように身にまとってね」


 ポカンとしているクロウに慌てて同じソファに座る踊り子が言う。

「やだぁ、フェレロさんたら詩人っ」


 調子を崩されたように、やや苦さを含んだ笑いでフェレロはクロウを見る。


「は、はぁぁ~」

 クロウの口は作り笑いで歪み目は困惑で四方に泳いでいた。


 健康そうな日焼けした肌と、オリーブ油の香りの漂う男だった。フェレロと名乗るその男は、会話が噛み合わないにもかかわらずクロウを指名し続けた。

 自分の積極的さゆえに、かえって拒否反応を示すクロウであっても、フェレロはそこを面白がって指名しているようでもあった。



「クロウ、フェレロさん逃がしちゃあダメだよぉ……。」

 キャバレーの開店前、先輩の踊り子のベルが化粧台の前で口紅を塗りながら声色こわいろ高くアドバイスする。

 ベルの後ろでは下働きの女が彼女の髪のセットを手伝っていた。


 一方新人で、しかも指名の少ないクロウは独りでメイクと髪を整えていた。

「え……?」


「より好みしないの。アナタ、踊りは人一倍覚えるの早かったくせに、接客はまるでダメなんだから」


「それは……。」


「いつまで生娘ぶってんの? 色気も愛嬌も、か弱い私ら女に神様が与えてくださった武器なんだから、恥ずかしがる必要なんてないんだよ」


 それは子供の頃から幾度も聞かせられ、果ては暴力を振るってでも従わせようとした母と同じ言葉だった。

 クロウは頭ではその言葉を理解していた。だが、そのもっともな言葉が体を支配しようとする時、心の奥底から湧き出る衝動が、ギリギリのところで彼女を彼女として留めるのだ。

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