8-4

 メルセデスのゲンコツの音が鳴り響く同じ空の下、クロウは荷馬車の出発を待っていた。

 出稼ぎということでの離郷だったが、クロウの心持ちは逃亡犯のようなものだった。

 しかし、すぐにでも故郷を出て行きたかった彼女には都合が悪く、馬車の主が予定の積荷がまだ来ていないからと足止めをくらっていた。


――母さんを殺したのは私だ


 お互いを曲げようとしない母と娘の親子喧嘩。自分の生き方を押し付ける母に反発するあまり勢いで放ってしまった一言が、結果として母を殺めてしまった。

 そのことはメルセデスにも他の村の者にも話してはいないし、もちろん話したとしても彼女を責め立てる者はいなかっただろう。

 それでもクロウには、自分が手を下したも同然なのだという、直接刃物を手に取ったのとは違う、表現し難い罪悪感がつきまとっていた。

 クロウは出発を待ちながら曇天を見つめた。

 幸先の良い門出ではなかった。既に数滴の雨が、彼女の頬を濡らしていた。

 

「クロウっ」


 振り向くと、メルセデスとディアゴスティーノがいた。


「メルおばさん……。」


「いやぁ、間に合ってよかったよ」


 まっすぐに微笑むメルセデスと違い、ディアゴスティーノは複雑な表情で顔をそらしていた。そしてディアゴスティーノのように、クロウも顔をそらした。


「水くさいじゃないのさ。何も言わずに行こうとするなんて」


「……ごめんなさい」


「いやいや、責めてるわけじゃあないよ。ただ寂しくなるなぁって。アンタは娘同然だったからね」


 クロウはより深くうつむいた。


「たまには顔を見せとくれ。今生の別れなんてまっぴらゴメンだよ」

 そう言ってメルセデスはクロウを抱き寄せた。


「……うん」 


 メルセデスは、クロウの体の芯が強ばるのを感じた。

 与えられれば拒んでしまう。やはり自分の思いはこの娘には届かないのだろうか。メルセデスは自分が息子に言ったことを思い出した。


「……じゃあ、達者でね」


「メルおばさんも、体に気をつけて……。」


 メルセデスは親指で後ろのディアゴスティーノを指して言う。

「このバカのせいでおちおち病気にもなってられないよ」


「バカはねぇだろ……。」

 とディアゴスティーノが呟く。


「手紙とか、書くから……。」


「良いんだよ、気ぃ使わなくったって。何にもなけりゃあ大丈夫ってことだろ?」


「その、お母さんの事なんだけど……。」

 クロウがうつむき加減に口ごもる。


「気にするこたぁないよ」


「え?」


「お前さんは何も悪くないさ、皆まで言わなくたって分かる」


「でも……。」


「下手すりゃあお前さんの人生がマーリンに縛られ続けたかもしれないんだ。それはそれでいいもんじゃあないさ」


 クロウはそれでも何か言いたげにスカートの裾を握っていた。


「……いいかい、クロウ。罪悪感を糧に生きるなんてのはしょうもないやりかただよ。お前さんがやましいことをやったんなら法が裁くし、良心の問題ならそりゃあもう神様の裁量さね。私が保証する、お前さんには何も後ろめたいところなんかないよ。私が知らない何かがあったとしても、お前さんが飲み込めるようになった時に飲み込めばいいだけさ」


「おおい、まだかねぇ?」

 馬車の持ち主が待ちくたびれたように言った。


「ああ、すまないねぇっ」


「……いくね」


「ああ」


 そうしてクロウは馬車の荷台に乗り込んだ。御者が手綱を振るい馬車が走り出した。


「クロウっ」

 とメルセデスが声をかける。


「なぁに?」


「絶対に、見限らないでおくれよっ」


「……え? 何を?」


 メルセデスが何かを言ったが、馬車の揺れる音で聞こえなかった。


「――そうすれば、お前さんは無くしゃあしないんだからねっ」


「……あ、うん」


 メルセデスは旅立っていくクロウに手を振った。

 クロウも、小さくなっていくメルセデスにいつまでも手を振り続けた。


 ディアゴスティーノが言う。

「行っちまったな……。」


「ああ……。」


「これで良かったのかよ? お袋」


「……誰にだって、人生で一度はただ無条件に必要としてくれる場所や人が必要なんだよ。何ができるとか何をくれるとかじゃなくてね。普通は母親からそれを、そうでなきゃあ自分が子供を産んだ時にできるもんだがね、あの子には二つともないんだ。だったら、どこかでそれを見つけなきゃあならんのさ。まぁ荒治療ではあるがね」


「……俺らじゃあダメなのかよ」


 メルセデスは微笑んでディアゴスティーノを振り返った。


「何だよ?」


「あの娘を嫁にしようってのかい?」


馬鹿野郎べっけろう、そんなんじゃねぇよ」


「分かってるさ。でもね、あのはそういうのを自分で勝ち取らなきゃあダメなタイプなんだよ」


 ディアゴスティーノは「分かんねぇな」と、呟いた。


 クロウは荷馬車に寝そべりながら空を見つめていた。起き上がらないのは、振り返りば決意が鈍ると思ったからだ。

 昼下がりの曇天。決して暗闇ではない。けれど、クロウの前後は闇夜のように見通しが悪かった。



 ベンズから一番近い街で荷馬車を降りると、クロウは真っ先に役場へと向かった。役場の前に張り出されている求人募集の掲示板を見に行くためだった。

 条件は住み込みのまかない付き。目当てものはすぐに見つかった。

 戦後、産業の発展とともに一時期は仕事が増えていたが、一段落すると反動で国中に失業者が溢れかえっていた。だがクロウには若い女という利点があった。

 仕事はキャバレーでの下働きで、炊事洗濯、フロアでの給仕というものだった。

 住所を確認してその店まで行くと、村から出てきたばかりの典型的なおのぼりさんだった彼女はその店構えに驚嘆した。

 そのキャバレーは、生まれ故郷のベンズにはない異界の技術で作られたコンクリート製の建物だった。

 さらに戦前の建築技術によって木造で増築され、その様子はさながら戦後の社会のいびつさの象徴のようだった。ひとたび大きな地震が来れば、ひとたまりもなく不自然な力によって支え合っている建物は崩壊してしまうに違いない。

 昼間はライトアップされておらず、建物自身は眠っているようだった。しかしその眠っている様も、目を覚ました途端に騒ぎ出し悪態をつく、酒癖の悪い酔っ払いの一時いっときのうたた寝姿のようであった。

 

 正面の入口が閉まっていたので、クロウは裏口に回って扉をノックをする。店内は夕方の開店に合わせての準備に大わらわだっため、扉が開くとともに料理を作る音や掃除の音、演奏家のための楽器や機材を運ぶ音が飛び出した来た。

 そしてその音に遅れて、中から男の従業員が顔を出した。


「……何か?」


「あの、求人の募集を見て……。」


「ああ……。」


 クロウはすぐにマネージャーを名乗る男に仕事部屋で引き合わされた。

 マネージャーは机越しの正面に座るクロウを品定めするように、というよりも文字通り品定めをする。

「君、踊り子希望?」


「あ、いいえ。住み込みの下働きの募集を見て……。」


 マネージャーはクロウの顔を一瞥したが、すぐに彼女の体つきを、それこそ服の下まで透視すように凝視する。

 クロウはここまで堂々と女の体を、何のためらいもなしに見つめる男に出会ったことがなかったので、居心地悪そうにスカートの裾を握り締めた。


「踊り子なら稼げると思うんだけどねぇ……。」


 クロウは返事をせずに、ただ俯いていた。


「いやホント、踊り子とただの雑用だったら全然収入違うよ?」


 クロウは何かを言おうとして顔を上げたが、やはりまた黙って下を向いた。

 彼女は母のような生き方をしたくないと言いたかったのだが、それを面接で話したところでどうにもなるわけではないからだ。


「……そうか、じゃあ仕方ない。気が変わったら言ってくれ」

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