3-4

            ※ 


「こうして……ぼくの初恋は終わりを告げたわけだよ」

 顔を上げたロランの前髪の間から傷が見えた。


「人生のいかなる時に振り返っても、綺麗な思い出にはなりそうにないな」


 ロランは力なく微笑み、

「だろう?」

 と、言った。


「……もしかして、話の山場はとうに過ぎたと思ってる?」


「ああ、いま壮大なファンファーレが終了して幕が閉じるところを想像してる。機械仕掛けの神様も降りて来そうにないからね」


「逆さ、降りてくるのは神様なんかじゃあない。もっと……血の通っているにもかかわらず冷酷なものさ」


 怖がらせるつもりはなかったのだろうが、その瞳には血の気を引かせる冷たい光があった。


「それから数日して、屋敷内でロルフがタバサと頻繁に会うのを目にするようになったんだ」


「……もしかしてだが、例の事をお前さんの兄弟が知ってしまったなんてことはないよな?」


 ロランの涙袋が膨らみ唇の間からちらりと白い歯がのぞいた。

 クロウには笑顔には見えなかったが、笑顔のようだった。

「相変わらず勘が良いな、君は」


「わお」


「そう、どこかで見られたか……もしかしたら彼女が誰かに話してそれが伝わったのかもしれない」


 ロランは、彼女が直接兄弟に言ったとは流石に口に出せなかった。


 昨晩暖めたやった体は、今ではクロウの体を冷やしにかかっていた。

 クロウは、「虎口を逃れて竜穴りゅうけつる」という、東方の言葉を思い出していた。


                 ※


 ロルフとタバサは逢引あいびききにしては公然と付き合うようになっていた。

 だが、ヘルメス候は息子の放蕩癖がそれによってなりを潜めたと考え、特に口うるさく言うことはなかった。許婚がいたものの、ロルフが遊びなのは一目瞭然だったからだ。そして貴族が妾を囲うことも珍しいことではない。

 しかし、それを看過できない者が屋敷内にいた。


「ロルフ、話があるんだ」

 ロルフがノックされた自室の扉を開けると、開口一番イヴがそう言った。


 イヴはこれ見よがしにタバサと馴れ合うロルフに二重に我慢できなくなっていた。

 一つは自分の片思いの相手に手を出されたということ。だが、これに関しては何も言うことはできなかった。例え男同士であったとしても、タバサがロルフを選んだとしたら黙って耐えるしかなかっただろう。

 しかし、ロルフが当てこすりでそうしているのは明らかだった。


「何だよイヴ? 腕を取るのだけは勘弁してくれ」

 冗談めかしてロルフは自分の腕を庇った。


「タバサのことだ」 


 ロルフは来なすったとばかりに自室にイヴを引き入れた。

 あの夜と違って、ロルフは悠々と椅子に座り葉巻に火をつけ付加し始める。


「父上の書斎から拝借したんだ。やるか?」


「いい」

 と、イヴは断った。


 さも残念そうにロルフは葉巻を机の引き出しにしまった。


「どうした? あの侍女のことで何かあるのか?」


「タバサだ。一緒に遊んだ仲だろう?」


 ロルフは、はいはい分かりましたよと生返事をする。


「タバサがどうしたっていうんだ?」


 いざそう言われイヴは口ごもった。それは……と言った後が続かない。


「あのおん……タバサと俺が付き合ってるのかって話か?」


 イブは黙ってロルフを見た。


「付き合ってるって言うか……仲良くはしてるな。それがどうした? お前に関係あるか?まさかそんなことにまで説教しようってのか? 男同士でもそんなことしないぞ?」


「彼女は……きっと君のことが好きなんだ」


「かもしれないな」


「彼女の気持ちを……もてあそばないでほしい」


 ロルフは困ったようにイヴを見た。

 しかしその実、その目は大きな魚を釣り上げた子供のように爛々と輝いている。


「何を言ってるんだ? 俺があいつをどうしようと俺の勝手だろう?」


「そんな言い方ないだろう? 幼馴染だぞ?」

 またロルフは困ったように腕を組み思案するふりをして言う。

「そんなこと言ってもなぁ。幼馴染といっても、対等な関係じゃないからな。こっちは貴族であいつは平民だ」


「だったら、遊びだってのか?」

 思わずイヴの声が荒ぶる。


「本気のほうがまずいだろ? 父上が卒倒するぜ」


「じゃあ……じゃあ彼女の気持ちはどうなるんだ!?」

 イヴはロルフに歩み寄る。


 あの晩にこの兄妹と技量に差がないことをロルフは思い知っていた。

 椅子からのけぞるように下がる。それまであった余裕が陰っていた。


「落ち着けって。別に、彼女だって遊びだって事は知ってるさ」


「嘘だっ」


 イヴは今にも掴み掛かりそうな勢いだった。

 一方のロルフは、口はもう笑っていなかったものの目にはまだ笑顔が残っていた。


「本当だ。割り切った関係なんだよ」


「割り切った……関係?」


「分かるだろ? いい歳した男と女だ。つまり……だよ」

 分かるだろ? と問いかけたが、ロルフはイヴがそれを受け入れられない事を見越していた。


「そんな……彼女はそんな子じゃない。君が……君に憧れてる彼女をそそのかしたんだろう?」


「そんな子じゃない? お前、あの女の何を知ってるって言うんだ?」


「彼女は……ぼくの幼馴染だ」


「俺だってそうさ」


「一緒にままごとだってやった。君より長い時間一緒にいる……。」

 イヴの声には自信が失われ、次第にそれはか細くなってくる。


「ままごと?」

 と、ロルフが嘲笑する。


 イヴは消え入りそうにさえなった。


「長い時間? 俺だってそうだ、お前とは別の意味でな」

 ロルフはその兄妹の声を聞きながら、たまらない歓声を上げたくて仕方がなかった。

「あいつの内腿に黒子があるんだが、知ってたか?」



「落ち着け、よく知ってるかどうかの話さ」


「違う……君は知らないんだ、彼女はそんなふしだらな子じゃない。君の事をきっと本気で……遊びだなんて事を知ったら……。」


 あの素朴で包容力のある笑顔は、イヴにとってまだ信じるに値するものだった。

 しかし一方のロルフは、生き絶え絶えの闘牛に止めを刺すマタドールが、懐の剣をゆっくりと抜き出し狙いを定めるように、用意していた取って置きの言葉を放つ。

「遊びじゃないと言うのなら……どうしてあの女は金を受け取るんだ?」


「……え?」


「俺とそういうことをする度に、あいつは俺から金貨を受け取るんだが? だいたい最初から口説いて何かいやしない。金を出すからどうだ? って誘ったんだよ」


「嘘をつくな!」

 その刹那、爆発したようにイヴはロルフに飛び掛り襟首を掴んだ。

「うぐっ!」

 しかし冷静さを欠いたイヴはロルフの拳がわき腹にめり込むのを許してしまった。

 力が抜けた体を後方のベッドに押し倒されてしまうイヴ。

 すべてが、あの晩と逆だった。

 

 馬乗りになったロルフが言う。

「嘘と思うんなら、今晩裏庭にある物置小屋に来いよ。今日は特別な集まりがあるんだ」


「集まり? 何だそれは?」

 ロルフがイヴの体の上から降りながら言う。

「来てみれば分かるさ。ただ、あの女との思い出を綺麗なままにしておきたいなら、来ることはお勧めしない。お前が選ぶんだ」


 もうすでにロルフはあの日の復讐を果たしていた。次は屠られた牛をどう調理するかだった。

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