変容を知らない苔生した青緑。

色彩フラグメント『青蛙』







 それは寂しい通夜だった。焼香の匂いの陰に、潮騒のかおりが静かに身を潜めている。海岸沿いに位置する葬儀会場は、平時は集会所として利用されている簡素な造りの建物だ。潮風が与える塩害が、無骨な建物のあちらこちらを腐食させている。


 漁に出るか、干物を作るか、ただそれだけしか生きる手段の無い港町だった。土地を持つ者は田畑を耕したりもしたが、お世辞にも気候に恵まれた土地とは言えない。納棺された清春きよはるも例に漏れず、数種類しかない生き方を流されるままに辿った。よわい六十六にしてその人生に幕を閉じた彼は、棺の中で言葉無く横たわりながら、通夜に参列する弔問客たちに最後の姿を晒している。人生最後の主役を務めていると言えば聞こえは良いが、精神を宿さない肉体に矜持きょうじなどあるはずもなかった。


 冒頭の寂しい通夜と云う比喩は、人の数や葬儀の規模を指しているわけではない。鷹揚と横暴を履き違えた清春の生前の生き方が、閉塞的な港町の中で悪評に晒されていたことは想像に難くないだろう。つまり彼の死は、決して人々の悲しみを誘わなかったのだ。湿っぽさの欠片もない淡々とした空気の中で、形式的な通夜がただ進められるだけだった。


 清春の精神は今、枕花として添えられた白い百合の花を、何とも言い難い気持ちで俯瞰している。花などに一切関心の無い彼には、その花言葉に『威厳』と云う意味合いが込められていることなど知る由も無い。


 脇を見やれば、彼の孫息子である完二かんじが、見よう見まねの焼香を終える姿があった。通夜と云うもの自体に初めて出席する完二に、今晩の通夜に漂う独特の寂しさを察する能力は無い。事実、喪服の代わりに冬用の学生服に袖を通している完二の頭の中は、未だ決め兼ねている高等学校の志望校のことで埋め尽くされていて、こうして遠く離れた場所に連れ出されたことを、迷惑のようにさえ感じていたのだ。


 完二は親戚に勧められるままに、恐る恐る祖父の遺体と対面した。俯瞰する清春は、その様子を少しだけ不憫に思ったが、完二は決して悲しみになど耽ることはない。それどころか生前と変わらない祖父の荘厳な顔立ちが、"祖父が亡くなった"という現実感を更に奪っていく。目の前にある祖父の遺体はどこか作り物めいていて、先日の修学旅行で見学した蝋人形の館を連想させた。


 目を逸らす完二に、「触れてあげなさい」と促したのは親戚の一人だった。完二はその真っ直ぐな瞳にほだされ、嫌々ながらも祖父の遺体に触れてみる。


 ただひたすらに逞しかった祖父の腕に、完二が思い切って手を触れた瞬間、完二の瞳からは思いも寄らぬ涙が溢れ出た。肉の硬さや冷たさを触覚が感じ取るよりも早く、理由も見当たらない涙が止め処なく一気に零れ落ちた。


 離れた場所で暮らす祖父とは、年に数度会うか会わないかの関係だ。生きていても死んでいても、完二の人生には殆ど影響なんて無いはず。それなのに。


 まだ柔らかさを残す完二の手のひらが、祖父の『死』に触れた瞬間──今更のように息苦しさがやってきた。やがてその息苦しさは、嗚咽に変わる。


 泣き崩れる孫の姿に、清春の胸は張り裂けるほどに傷んだ。『俺はいつ死んでも構わない』などと周囲に悪態をつき、不摂生に不摂生を重ねた日々を今更のように悔いる。井戸の底のような狭く暗い港町で、俺は果たして"生きている"と誇れるような姿を誰かに見せたことがあっただろうか、と。


 激烈な後悔とは裏腹に、清春の精神は少しずつ高い場所へと昇っていく。集会所の天井の壁さえもするりと擦り抜けて、吹き抜ける潮風の中をゆらりゆらりと昇っていく。


 寄せては返す濤声とうせいも、次第に遠く──辺りを見渡せば、黒い海がすべてを包んでいた。


 初めて思い知る大海の広さに、潮風が錆びさせていた自身の心を思い知りながら清春は逝く。








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