境界線を隔てる灰色。

色彩フラグメント『灰猫』








 破瓜はかの痛みなど、彼女を押し潰そうとする絶望の中では些細なものだった。嗤う獣の瞳は爛々と輝き、無邪気に花弁はなびらでも摘むかの如く悦びに染まっている。或いは、蝶の羽根を一枚ずつ毟り取るような愉悦。こらえ切れない精液は、臭い息と共に何度も彼女に吐き捨てられた。鈍痛の満ち干きに合わせて、醜い脂肪が重力の方向へと流れる。しかし彼女を押し潰そうとする絶望は、やはりそのような痛みや重さの中には無かった。


 自身の身体を舐めるように見回す視線の狂気に、まさかこの日まで気が付かなかったわけではない。しかし二百は下らない奉公人の中に、彼女の柔肌に憧れを抱かぬ者など一握りも居ただろうか。してや雄であるのなら当然──。そういった意味では、自負があったのだ。おごりと自尊心の狭間に生まれた油断が、身の危険を察する本能を僅かに鈍らせた。彼女に女としての自覚があとほんの少しあれば、散りかけた夜桜の姿を最後に一目眺めようなどと思い至った時、その卑しい眼差しに即座に思い当たったはずだった。少女の憧れなどうに捨てていれば、花などは来年も再来年も飽きるほどに眺められたはずだった。


 破瓜はかの痛みの中で、彼女の視線は哀しげに揺れる八重の花弁を見ていた。遠い日に林檎飴に喩えられた、自身の瞳の色よりも仄かに淡い桜の色。夜風は優しく、他人事のようにその頬を撫で続けた。短い今さえを耐え抜けば、また穏やかな日々が訪れるのだとでも言いたげに。しかし彼女は、無関心な戦風そよかぜよりも幾分か聡い。屋敷が誇る庭の地中深くに埋められた鳥獣の死骸にも、紫陽花が青く咲いたあの季節にはうに気付いていたのだ。そしてこの春から、彼女に良く懐いていた灰色の猫の姿を見かけなくなったことにも。


 比喩では無く砕かれた腰が、時折耳を疑うような音を立てた。彼女の心は彼女にだけ従い、彼女の躰は彼女にだけ還る。そして彼女が捧げる無垢な魂は、今も尚穢れずに凛とした輝きを放っている。それでも。


 か細い首に伸ばされた逞しい腕に、幾筋もの猛々しい血管が浮かび上がると、獣はより鼻息荒く、腰の動きを早めていった。薄れ行く意識の中に在っても、彼女は気高く、命乞いの声など上げはしない。その半分は諦めであったが、残りの半分は気位きぐらいであった。かつて藍色の空を分け合った想い人への、純潔の誓いのようなものであったかもしれない。


 彼女に懐いた灰色の猫は、いつも人の世の醜さを嘲笑するようにぐるぐると鳴いた。そんな灰色の猫に彼女はいつも、人の世に憧れて止まない一匹のからすの話を説いたのだ。


 野生の桜と人里の桜。果たしてどちらが綺麗なのかなどと、今は他愛もない背比べの途中。山中の染井吉野は、気を早くしてもう枯れてしまった。彼が云うには、そもそもそういう品種らしい。だからこそ彼女は、より長い生命をって庭に咲く八重桜を、ただ一目彼に見せたかった。太陽と月のように隔たれた場所で、悠久の時間を送り続ける彼こそに。


 このまま朝まで眺め続ければ、彼が人里まで下りてきてくれるのではないかと、都合の良い幻想さえ抱いたのだ。


 淡く短い夢も、これで終わり。

 口許からだらしなくはみ出した舌が、次第に青紫色に染まっていく。


 古楽府こがふの故事に語られる双魚のように、せめて桜の花弁をその腹に呑み込んで逝けたらと彼女は願った。







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