境界線を染める藍色。

色彩フラグメント『藍染』






 東雲しののめが、慈しむように朝月あさづきを呑み込んでゆく。

 烏兎うとはその月痕げっこんを名残惜しく思いながら、羽撃はばたきを強めて山へと急いだ。


 ──異形の存在は、光と共には生きられぬ。


 祖母の厳格な教えを胸に秘める烏兎には、人里への好奇心よりも長年染み込んだ習性が未だまさっている。月日が失わせる幼児性と共に、祖母の教えも日毎に色褪せるものであったが、烏兎が自身を駆り立てる未知への衝動を知るのは、まだ少しばかり遠い日の話である。


 山裾やますそに広がる槍のような竹林が、せわしく羽撃く烏兎の姿を覆い隠す頃、目覚めたばかりの陽光が、鬱蒼と茂る異界に熱を灯した。弱々しい魑魅魍魎ちみもうりょうたぐいは、「灼き殺されては堪ったものではない」と言わんばかりに、花崗岩の透き間に生まれる深淵へと避難する。獣道をうごめくろい粒の大群は、万が一にも人間が目にすれば、鼠の大移動のように映ることだろう。


 彼らの居場所は、そんなふうに闇の中にだけ在った。天狗の洟垂はなたらしである烏兎には、日光など恐れるに値しない存在であったが、山に潜んで生きる自分たちの境遇を、疑問に感じた事はやはり未だ無い。


 しかし烏兎は、ただほんの少しだけ──東雲が朝月を呑み込む不動の摂理に、小さな胸の奥がちくりと痛むような感傷を覚えていた。月痕を慈しむようでありながらも、一切の懇願を認めない青空の無慈悲に、光に疎まれながら生きている自分たちの姿を、無意識の内に重ね合わせていたのだろう。


 異形とは、いられる宿命にしいたげられる存在。

 それでも強く生きて欲しいと与えられた名の意味を、烏兎は知る由もない。


 『烏兎』とは、歳月を示す名でありながら、それと同時に月と太陽を示す名だ。


 金烏玉兎きんうぎょくと──太陽の中にはからすが、月の中にはうさぎが、氷炭相容ひょうたんあいいれずとも、互いを想い合うように巡り続けている。


 天狗の仔として生まれ落ちた稚児には、切実なる願いを宿したあたたかな名が与えられた。確かな祝福の中で、烏兎は穏やかな心のままに育った。


 しかし異形の存在が真に恐れるべきは、陽の光などではない。

 その光の下を好んで生活する、人間と云う名の大猿だ。


 烏兎の父と母は、その身をって烏兎に教訓を遺した。発端は、とある年に起きた大旱魃だいかんばつだった。一体何がひでりがみの逆鱗に触れたと云うのか──それは誰にも分からない。異形の者にも、人里の猿にも。


 千日せんにちをも思わせる日照りに、大地という大地は枯れ、生命という生命が涸れた。深刻な食糧難から、人里には頻繁に猪が下り、困り果てた人間は苦肉の果てに、大掛かりな鳥獣駆除に乗り出したのだ。


 人里遠く離れた山腹さんぷくにまで仕掛けられた虎挟みが、仕来しきたりに従って闇夜に生きる烏兎の両親を抉る魔手ましゅとなった。警戒する理由無き者の生命を、無造作に散りばめられた金属の牙が奪う姿は想像に難くない。


 「憎いか」と問う祖母に、烏兎は何も答えられなかった。その一因として、烏兎がまだ憎しみの感情を理解出来ないほどに幼かったことも挙げられる。呆気なく失われた両親の存在──その事実が残された仔の将来において、どれだけの損失をもたらしたのかさえも烏兎には理解出来なかった。


「ねぇ、その羽根、ほんもの?」


 空に放たれた丸っこい声に驚きながら地上へ目を向けると、鼈甲べっこう色のかんざしを挿した年端も行かぬ少女が、竹林の透き間から烏兎を見上げていた。彼女が身に纏っていた藍染めの着物の色は、まるで朝月夜あさづくよを呑み込む誰時たれどきの空のようだと烏兎は思った。


「ほんものに決まってる。林檎飴みたいなお前の目こそ、ほんものか?」


 烏兎はもちろん食したことなど無かったが、祭り囃子の聞こえる夜に、不思議な光沢を放つその物体を人間の子供が持ち歩いているのを目にしたことがあった。祖母に林檎飴を強請ねだった時の、困り果てた眼差しが烏兎を突き刺したことも記憶に残っている。


「ほんものに決まってるでしょ。この目の色のせいで、緋奈ひなはとっても困ってるんだけどね」


 緋奈は二つの林檎飴を輝かせながら、少しだけ膨れた様子で烏兎に返した。烏兎はその詳細を尋ねてみたいという衝動に駆られたが、祖母が眉をひそめる顔が脳裏をぎり、先を急ぐことにする。


「何だか知らないけど、またな。その目ん玉、今度よく見せてくれよ。あいにく、会えるとしたら藍色の空の下だけどな」


 金烏玉兎──太陽の中の烏と、月の中の兎のように。

 一羽と一羽が、相容れずとも互いを巡り合うように想い合うのは、これよりもう少し遠い日の話である。










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