百 モルガノ・メイトス

 貴族と言っても、その全てが貴族街にある豪勢な邸宅に住んでいるわけではない。

 カナルヤ・レイは森の中で世捨て人同然の生活を送っていたし、エフス・ドフトルはスラム街から近いぼろぼろな建物に住んでいる。貧乏な貴族は帝都に住まずに小さな街や村に居を構え、中にはグラウ城で住み込みで働く者すらいる。

 魔法砲撃部隊隊長のモルガノ・メイトスの場合は、貴族街に本宅があるものの、普段住まいは帝都の住宅街にある二階建ての小さな一軒家である。

 戦争中はさすがにグラウ城から近い本宅に住んでいたが、終結した今は主に住宅街の家で過ごしている。

 メイドや執事がいる本宅で何不自由なく過ごすのはとても楽だ。彼らは何から何までお世話をしてくれる。けれどそこでの生活は落ち着かない。研究も捗らない。

 だからモルガノは本宅から離れて、平民に紛れて生活をしている。ここでは本名を使わずに、ストメモと名乗っていた。

 そうして今は、二階の書斎で巻物を読んでいる。戦争で忙しかったせいで読めなかった巻物の一つだ。ドグラガ大陸の魔物について書かれた巻物で、色付きの絵が入っている。

「ストメモ様、いらっしゃいますか」

 階下から声が聞こえて来た。はっと頭を上げる。木窓の外から漏れてきた光が赤い。巻物が思ったよりも面白くて、つい時間を忘れて読み耽ってしまったのである。おかげでいつの間にか夕暮れになっている。

「……はいはい。今、行きますよ」

 面倒だが仕方がないと、モルガノは返事をしながら階段を降りた。

 扉を開けると、エルムント・ポルタレル司祭が立っている。さすがに目立つ修道服は着ていない。一般的な服装だ。

「エルムント様……」

 モルガノは思わず身構える。エルムントは今のところストメモの正体がモルガノだとは気付いていない様子だ。しかし、実際のところはどうだか分からない。分かっていて気付いていない振りをしている可能性を、モルガノは否定しきれることができなかった。

「今日は何のご用事でしょうか?」

「例の件です。今日の夜にいつもの場所で」

「……分かりました」




 モルガノは魔法研究所の研究員でもある。カナルヤは研究所に入った当時の先輩だった。当時の彼女は、入ったばかりのモルガノに対して「何か一つでもいいから研究テーマを持ちなさい」と教えたのである。

 言われた通り、モルガノはテーマを一つ考えた。それは『魔素が生物に与える影響』だった。その生物の中には当然人間が含まれていて、魔人も研究対象の一つとなるのは自然な流れであったと言える。とは言え、魔人を研究するのは同じ研究員からは難色を示された。カナルヤにも険しい顔で止められたほどである。唯一の例外は後輩のゴゾルで、非凡な才能を見せ付けていた彼が興味深そうにしていたのは素直に嬉しかった。だが肯定的なのは彼だけで、何かしらの禁忌のめいたものを感じざる得なかった。結局モルガノは魔人を研究の対象から外すことにしたのである。

 だが魔物の研究を続けるに従って、魔人への興味が沸々と湧き立ってしまう。獣が魔素によって魔物になるのなら、人は魔素によって魔人になるのではと、いつの間にか脳みそが思考し始めるのだ。けれど表立って研究をすることができない。

 そこでモルガノはもう一人の自分を用意することにした。と言っても二重人格という意味合いではない。それが帝国の一般的な民としてのストメモだ。

 初めはただの戯れだった。ただの気分転換。けれどこれが思いの外快適だったのである。貴族としてのしがらみから解放され、何者にも束縛されない自由。人にやらせるのではなく、自分で好きなようにできるという自由。もちろん大変なことは多い。毎日自分で食事を作らなければならないし、洗濯もしなければならない。掃除もしなければ汚くなるばかり。メイドや執事の大変さが実感できて、本宅に帰った時は彼らに以前よりも優しく接しられるようになった。まあ、変わりぶりに驚かせてしまい、心配させてしまうという事態が起きてしまったが。

 そうしてモルガノは思いついた。ストメモとして魔人をテーマに一本の巻物を書いてみよう、と。だがもちろん検閲があるし、下手を打てば教会や帝国に目をつけられる。そこで聖典の一文を引用しつつ、でたらめに魔人が邪悪である理由を説明してみせた。もちろんこれは偽装だ。合間合間に魔素の振る舞いが魔人にどう影響を与えたか、研究の成果を差し込んでみた。普通の人には分からないだろう。だが分かる人には分かる。それで十分だった。

 感想はいくつか来た。多くは魔人が邪悪である理由に感銘を受けたというもので、これにはさすがに罪悪感が起きた。そうした中、本命の部分に対する感想が一つだけきたのである。それはゴゾルからのもので、驚きのあまり思わず声が出てしまう。読んでみると、やや辛辣であったが、好意的な意見が書かれていて勇気をもらえて嬉しかった。やはり分かる人には分かるのだ。

 そうして後日、モルガノが城で仕事をしていると、その時すでに研究所の所長であったカナルヤに呼び出された。

「これ、知ってる? とっても興味深いの」

 と言って、彼女はストメモ名義で書いた巻物を出してきて驚いた。顔に出さないように努力しながら読むフリをしていると、カナルヤは核心をつく。

「これ、あなたが書いたものでしょう、ストメモさん?」

 モルガノは思わずむせた。それを見て、いたずらが成功した子供みたいにカナルヤは笑う。

「とても面白かったわ。でもほどほどにね。これは、とても危険な研究だから」

「せ、先輩。ど、どうして私だと……」

「魔素と生物の関係はあなたの研究テーマだもの。そのテーマの延長線上にあることはすぐに分かったわ」

 よく見ている。モルガノは嬉しく思いつつも、恥ずかしくも思った。

「でもね」と、カナルヤは嬉しそうに笑う。「少し安心したわ」

「安心、ですか」

「ええ。あなたは少し真面目すぎて、柔軟性に欠けるところがあったから。でもこういうお茶目なことができるようになって、良かったと思うの。貴族街から離れて平民に混じって生活を送ったおかげでしょうね」

「ええっ。し、知っていたのですか」

「もちろんよ。私を甘く見ないでちょうだい。かわいい部下のことはある程度は把握しているわ」

「……そ、その、どうかこのことは内密に……」

「誰にも言っていないし、誰にも言わないから安心してね」

「助かります……」

「でも、こういうことができてうらやましいわ。私もマネしようかしら」

 本気で思案している顔だった。

「そ、それはちょっと」

「冗談よ」

 冗談に見えない。

「は、はあ」

「ところで今度、ストメモさんのお宅にお邪魔してもいいかしら」

「あ、はい。それはもちろん。ですが、誰にも見つからないようにお願いします」

「その点は大丈夫よ。誰にも見つからない自信があるから」

 余談になるが、その数日後、言った通りカナルヤはストメモの家に遊びに来た。そうしてさらに数ヶ月後、カナルヤは研究所を辞めて、森の奥に隠居して周囲の人間を驚愕させたのであった。


 数年が経った。

 モルガノはストメモ名義で何本か巻物を執筆した。いくらかは売れるようになり、ストメモとしての研究生活も充実してきた矢先、人が訪ねて来たのである。

 扉を開けてみれば、そこにいたのが私服を着たエルムントだったのだ。グラウ城で見かけたことが何度かあったおかげで、一目見るなり司祭だと分かった。けれどそれを伝えることはしない。今はモルガノではなく、ストメモであったからだ。

「この巻物を書かれたストメモ様ですね」

「はい、そうですが。……何か?」

「非常に興味深かったです。それで直接聞きたいことがございまして」

「何でございましょうか」

 エルムントの質問は、魔人と魔素の部分であった。相手は司祭。戦々恐々としながら、モルガノは一つ一つ答えていく。

「ありがとうございました」

 やがて全て聞くことができたのか、エルムントは柔和な笑みを浮かべて頭を下げた。

 果たして彼は、どういう結論を抱いたのだろう。異端者としてモルガノを処罰するのか。それとも見逃してくれるのか。

 モルガノは彼の瞳を見た。深遠な青い瞳は何を考えているのか窺い知ることができない。

「またお邪魔してもよろしいですか?」

「は、はい」

「ふふ」と、彼は微笑する。「心配なさらずとも、どこかに告発したりはしませんよ」

 そうは言うが、どこまで信用できるのだろうか。

 モルガノは怖かった。


 それからエルムントは数週間後に訪れた。

 その日の用事は質問ではなかった。彼は自分の身分を改めて明かした上で、教会に対する疑問をモルガノに打ち明けたのだ。すなわち、原典には魔人が悪だと書かれていないのではないか、という疑問である。

 その疑問に、モルガノは衝撃を受けた。

「……なぜ、その話を私に?」

「あなたは薄々と気付いているのではないですか? 野生の獣が魔物へと変貌するように、人間が魔人へと変貌するのではないか、と」

 冷や汗がモルガノのこめかみから頬へ流れる。視線をエルムントから外すことができない。

 エルムントは続ける。

「公にはされていませんが、人間から魔人が生まれてくる事例が確認されています。もちろんこれを知ったからと言って、教会はあなたを処罰するようなことはありませんので、ご安心ください。ですが、おかしいと思いませんか?」

 おかしい。モルガノはからからに乾いた喉から、そんな音が出そうになるのを寸前で堪えた。

「真実を知りたい、と思いませんか?」

 知りたい、と言いたくなる。

「今日はこれまでにしましょうか」と、エルムントは柔和な笑みを浮かべる。「また後日、伺います。答えはその時にでも」

 後日を待つ間、魔人との戦争が起きた。実際に魔人と戦い、直に触れることで、ますます疑念を深めることになる。

 こうしてモルガノはエルムントに協力することに決めたのであった。




 モルガノは夜の貴族街を歩きながら、エルムントとの出来事を思い返していた。今思えば、彼に疑問を打ち明けられた時にはすでに、心は決まっていたようなものだった。

 そうして今日、エルムントの邸宅にある地下室に呼び出された。例の件、と確かに言っていた。それはつい先日に入手することができた原典についてなのだろう。

 入手するためにモルガノも協力した。伝手を辿り、帝国一の贋作造りの名手と接触を果たし、偽物の巻物を作らせたのである。職人畑のその男は、奇妙な依頼に関わらず何一つも質問せずに精巧な偽物を作ってくれた。

 あの時は大変だったと述懐していると、エルムントの邸宅に着いた。教会と同じような左右非対称の邸宅。熱心な信徒である証拠だ。だがだからこそ、どうして彼がここまで真実を追求するのか分からない。

 いつものように合言葉を言い、中に入り地下室に行く。モルガノは六人目の入室者。ゆっくりと集った面々を見回した。軍人としての性質のせいか、彼らの素性は調べられるだけ調べてある。

 一人はエルムント司祭。ゆくゆくは大司教になるのではないかと目されている人物。モルガノを誘った張本人であり、教会への反乱とも取れる集まりの発起人でもある。

 二人目は、ドーメウス。原典を入手する際には送迎を担当した。獣のレースで何度も優勝を果たしたことのある有名な騎手。軽く変装をしているが、大衆に混じってレースを何度か見たことがあるモルガノにはすぐに分かった。調査した結果、弟が教会に処刑されている。罪状によれば邪教徒だったそうだが、身辺調査ではそれらしき影は見つからなかった。おそらく表向きの理由で、本来には別にある。おそらく弟は魔人であったのではないか、と確証はないがモルガノはそう見立てている。

 三人目は、ケルビス。商人だ。足がつかないように馬車を用意したのは彼である。他にも贋作作りの費用をだしてくれたり、色々と用立てを行ってくれたようだ。噂によればドグラガ大陸にまで行商を行っているらしい。

 四人目、トゲイスト。ケルビスの相棒だが、ここでは他人を装っている。

 五人目、ガーズル。普段は漁師として生計を立てているが、人間から生まれた魔人をドグラガ大陸にこっそりと逃している。教会から見れば、彼は処罰の対象だろう。原典入手の際には、カルメル山への進入と脱出ルートの選定を行った。

 六人目、ストメモことモルガノ。

 そして、かちゃりと音を立てて最後の一人が入って来た。

 七人目、シニャ。平民が良く着る服を着ているが、彼女は大聖堂で働くシスターだ。彼女は街道沿いにある教会から大聖堂に異動して帝都に来たのだが、調べれば調べるほど普通としか言いようがない人物。エルムント同様、熱心に教典の内容を教えて来た一人であるのに、どうしてこのような企てに参加しているのかモルガノには全く見当がつかない。ある意味では最も素性のしれない人物とも言える。

「揃いましたね」エルムントは言った。「今回皆様をお呼び立てしたのは他でもありません。先日入手した原典について報告があります」

 緊迫した空気が流れている。この場にいる全員が今か今かと待ちわびながら、同時に恐怖をも感じているのだろう。かく言うモルガノもその一人。何しろ教会における秘密を聞こうと言うのだ。ばれたら処罰は免れない。

「結論として、魔人は邪悪であるという記述は、それを匂わす言葉も含めて何一つも見当たりませんでした」

 おお、とささやかなどよめきが小さな部屋の中で響いた。

「他にも奴隷に関する記述など、大小様々に現代の教典に書かれているものがありませんでした。これらは後の時代に新しく書き加えられたと考えて良いでしょう。問題は、なぜそのような必要があったかですが」

「それはやはり、利益を得るものがいたからではないでしょうか?」

 ケルビスが意見した。隣にいるトゲイストも頷いている。

「確かにそういうケースはあり得るかと思います。特に奴隷に関しては可能性が高いかと。ですがその場合、魔人に関する記述については少々弱いと言わざる得ません。全てをそれで片付けるのは性急でしょう」

「不満を魔人への怒りに転嫁させるためでは?」

 ドーメイウスがそう指摘した。

「確かにその可能性はありえるでしょう。ただ様々な推測を重ねても、可能性の域を超えません。そこで大司教様に問い質そうかと考えています」

「……確かに、あなたにならそれはできると思います。しかし、危険では?」

 モルガノは言った。

「ええ。危険を伴っているのは承知です。それでもこれは、私が絶対にやらなければならないことなのです。これ以上、教会の欺瞞を黙って見過ごすことはできないのです」

「……私もお供します、メルムント様。一人よりも二人で問うた方が大司教様にも話しやすくなるはずです」

 手を上げて決然と発言したのはシニャだ。その瞳は強い決意を秘めている。

「いけません。これは下手をすれば処刑をされてもおかしくない。あなたまで巻き込むわけにはいきません。私一人だけで十分です」

「構いません。元より私は、死を覚悟して臨んでいます。ここで逃げては、彼女たちと顔向けができません。お願いします、どうか私も」

 なぜごく普通のシスターであるはずのシニャはここまで強く言えるのだろうか。モルガノには不可解だった。それに、シニャが言う彼女たちとは誰のことなのか。それがきっと、シニャにここまでさせる原因に違いあるまい。

「俺も行こう」

「俺も参加する」

「俺もだ」

「俺も」

 続いてガーズル、ケルビス、トゲイスト、ドーメウスの四人が参加を表明。

「あ、あなたたち……。それでいいのですか? 本当に?」

 エルムントは驚き、呆れた。それぞれの顔を見回す。

 モルガノ以外の五人は一斉に頷いた。自分たちの命など些末な問題に過ぎない。それよりももっと大切なことがある。そう言わんばかりの決意に満ち溢れた清々しい顔をしていた。

 だがこうなってしまえば、今度はモルガノに視線が集まる。君はどうする? 言葉にせずとも視線が言っている。モルガノは内心でため息を吐く。これではほとんど選択肢がないようなものだ。

「……もちろん、私も参加しますよ」

「ストメモ様まで……」

 エルムントは今度こそ覚悟を決めたようだ。無論、みんなを最後まで巻き込む覚悟を。

「わかりました。我々全員で挑みましょう」




 太陽が昇り、昼まであと数刻ほどである。

 ルグストはグラウ城に訪れた。向かった先はケイザル・トラガの部屋。

 扉の前で手を上げて、躊躇する。ここで引き返せば、元に戻れるのではないか。仲間たちもきっと理解してくれる。

 けれど、脳裏にちらつく映像があった。それはばらばらに吹き飛ばされた姉の遺体。村人たちの死体。ケルトの最期の瞬間。それらは呪いのようにルグストを蝕んでいる。

 魔人を許すな。絶対に許すな。村の人たちを殺したのは紛れもなく魔人だ。邪悪以外の何者であると言うのか。

 姉の形見である弓を握りしめて、ルグストは部屋をノックした。

「誰だ?」

 と、ケイザルが扉を開けて顔を見せた。

「……私です。グリ村のルグストです」

「貴様か。どうしたんだ、思い詰めた顔をして。それに他の二人はどうした。一緒ではないのか?」

「あの二人は、いません。それよりも相談したいことがございます」

「……訳ありのようだな。中に入れ。聞いてやろう」

 ケイザルはルグストを中に招き入れる。

 ばたん。扉は重たい音を立てて閉まった。

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