九十九 ダントツの一位

 太陽は沈みつつあった。

 いつもならそろそろ泊まる準備を始める頃合いだ。なのになぜしないのだろうと、津村実花は自分の二つ前を歩く兄、稔の背中を見つめた。

 ベネトを出発してから一言も話さないのも、振り向きもしないのも変だ。実花の前で歩いているネルカも同じようなことを考えているようだったが、何も言わずに稔についていく。

 稔の足取りは普段よりも重い。疲労が溜まっているのだろうか。

 この旅の中で一番負担がかかっているのは、間違いなく稔だ。夜の見張りは、さすがに今では交代で行っているが、それは実花とネルカで説得をしたからだ。そうしなかったら、稔が寝ずの番を続けたのは間違いがない。そうして交代して行うようになってからも、稔は、自分が当番の時間を長く受け持っている。野営の準備をするときも、稔が率先して動いて、実花たちの負担を少しでも軽くしようとしてくれる。

 稔らしいと言えば稔らしい。でも実花は、そんな兄のことが心配になる。なんだか無理をしているように感じてしまう。

「ねえ、お兄ちゃん」

 声をかけてみる。稔はなぜだか振り返らない。

「どうした?」

「その、そろそろ泊まる準備をしない? 私もう足がパンパンで」

 こう言えば、稔は止まってくれるはずだった。実花の妹としての経験則だ。だから、

「……すまん」

 謝ってくるとは思わなかった。

 稔は振り返らずに続ける。

「あともう少し。あともう少しだけだから。我慢してくれないか?」

「……うん」

 そう頼まれれば、実花は承諾するしかない。


 もう少し、と言うには少々長すぎる距離を歩いてから、ようやく稔は立ち止まった。

 実花の目に映るのは、夕焼けの中、二つに分かれた岩山だった。道は岩山の間に続いているが、鎖が張られており、来るものを拒んでいる。

「ここは……」

 ネルカが呟いた。実花は訝しい視線を送る。

「帝王オルメルが、魔人と戦った時に斬った岩山です。今は、岩が崩れて中には入れないのですが」

 そう説明したネルカは、稔の方を見た。実花も釣られて稔に目線を移す。

 稔は道の奥を見続けている。中は暗い。ネルカが説明した通り、岩が崩れたままになっているせいだ。

 やがて稔は二人の視線を感じたのか、

「……ここで、由梨江が死んだんだ」

 と、言った。

 実花はハッとした。そうだ、由梨江さんはベネトを出てから殺されたんだ。

「実花、まだ歩けるか?」

 足が張っていると訴えたせいであろう。稔はそう気を遣ってきた。空気を読めなかったのは私の方だ、と実花は反省する。私のために、お兄ちゃんの邪魔をするわけにはいかない。

「ううん。大丈夫だよ。まだ歩ける」

「そうか。近くに墓を作ったんだ。もう少しだけ頼むよ」

 淡々と話す稔の声は、平素とあまり変わらないように聞こえる。それがとても悲しい。

「うん」

「ネルカさんも、いいかな?」

「はい」

 そうして、稔は再び歩き始めた。

 岩山を回り込んで反対側へ。それから街道を大きく外れて森の中に入る。何年も昔のことなのに、稔の足ははっきりと覚えていた。淀みのない足取りで奥へ進む。

「確か、この辺りのはずだ」

 独り言を呟きながら、稔はがさごそと辺りを探る。

「……あった」

 と言い、伸びた草木を取り除く。

 出てきたのは石だった。長方形に近い歪な形で、やや大きい。地面に立てられていて、ざらざらした表面には字が刻まれている。

 漢字だ。

 喜多村由梨江。

 そう刻まれている。

「帰ってきたよ……由梨江」

 稔は呟いた。一滴の水滴が、ぽたりと落ちるみたいに。

 墓石を前に佇む姿を見て、実花は自分では決して入れない空気を察した。

 喜多村由梨江さん。実花が知らない稔を知る人。

 羨ましい、と思った。贅沢な感情だと知りながら、嫉妬を感じる。

「ネルカさん」

 二人の邪魔をしないように、実花は小声で話しかけた。

「はい」

「二人だけに、してあげようよ」

「はい」

 実花とネルカは、その場を離れた。


 少し離れた所で、ネルカは聞いた。

「あの石に何か刻まれていましたが、あれがミカ様たちの世界のお墓なのですか?」

「うん。あれはね、私たちの世界の字が刻まれていたんだ」

「なんて、刻まれていたんですか?」

「あれは、きたむらゆりえ、って読むんだよ。由梨江さんの本名だよ」

「……あの、前から考えていたのですが」

「うん?」

「ミカ様たちの世界の言葉を、私にも教えてください」

「……その、どうして?」

「少々言いにくいのですが、お二人だけでお話ししている内容が分からなくて、それが、もどかしいのです」

「あー、そうか。そうだよね。うん、分かった。お兄ちゃんと一緒に教えてあげる」

「ありがとうございます」






 大聖堂ミカルトで、シニャはいつもの仕事である患者の世話をこなしていた。

 しかし今日は上手く集中ができない。ついつい他のことを考えてしまうのだ。これではいけないと思うのだが、思うようにいかない。それで仕方なくいつも通りを装うようにしていた。

「シニャちゃん、今日はどうしたんだい。いつもと様子がおかしいぞ?」

 ほぼ毎日接してきているせいだろう。不意に患者の一人に疑われてしまった。

「あ、いえ、大丈夫ですよ。少し疲れているのかもしれません」

 実花は曖昧に笑って返した。それに疲れているのは本当のことだ。

「無理しないでくれよ。シニャちゃんが倒れたら、俺は一体何を心の支えにすればいいんだ」

「またまたー。他のシスターがいるじゃないですか」

「……だって、セクハラしても無視されて寂しいんだもん」

「……自業自得です」

 ため息を吐いてみせた。普段通り振る舞えているか、不安になる。

 そうした時、扉が開いて先輩のシスターが顔を出した。

「シニャさん。エルムント司祭がお呼びです。ここは私が代わりますので、今すぐ行ってください」

 正直に言えば、安堵した。シニャは二つ返事で部屋から出る。

「ああ、そんなシニャちゃーん」

 悲哀に満ちた声が背後から聞こえたが、シニャは無視して歩き去った。

 廊下を歩く中、期待と不安が混ざり合った感情が胸の中で渦巻く。彼の用事は間違いなく教典に関連した事に違いない。

 そう、教典だ。

 実花が仕事に上手く集中できないのは、教典のせいに他ならない。教典の原典を入手したあの日、エルムント・ボルタレルと共に読んだところ、見つからなかった記述がある。

 それは、魔人が邪悪であるという記述だ。

 ある意味では見つかって欲しかった。教会が原典の内容を捏造していただなんて信じたくない。

 けれども、あの日は寝不足で疲れ果てていた。上手く集中して読めていなくて、読み飛ばしてしまった可能性がある。もちろん、魔人が邪悪であると書かれている箇所のことを、シニャもエルムントも覚えているし、前後の部分を一字一句漏らさずにそらんじることだってできる。それぐらい聖典は読み込んでいる。それでも、読み飛ばしてしまった可能性を否定したくなかったのだ。

 そこでエルムントが原典を預かって、万全な状態で再び精読に挑むことになったである。

 彼から呼び出されたということは、精読の結果を知らされる時が来たということだろう。

 もっとも結果を知ることはとても怖い。結論がどちらにせよ、シニャのこれからの人生が大きく変わるということでもあるからだ。だが、逃げるわけにはいかない。ツムラミカやミノル、それからユリエのことを想うと、この問題は必ず決着しなければならなかった。

 そうして、シニャはエルムントの部屋の前に着いた。ためらいがちに一呼吸置く。ゆるやかに右手を上げて、口内に溜まった唾を飲み込み、手の甲でコン、コンと軽く叩いた。

「……シニャです。ただいま参りました」

「待っていましたよ。どうぞお入りください」

 落ち着いた声が返って来た。

「失礼します」

 扉を開けて中に入る。司祭の部屋にはこれまでも何度か入室していた。けれど何度入っても、やはり慣れることはない。

 彼の部屋は広い。シニャの部屋が軽く四部屋は入る。部屋の両脇には天井に届くほど高い棚が立っていて、中にはたくさんの書物が整然と収まっている。特に目を向くのは、希少な巻物も少なからずあることだ。あの一本の巻物を売れば、庶民ならば何年も生きていけるほどのお金を手に入れられるだろう。その反面、庶民が手にするような娯楽的な巻物もある。

 エルムントは木製の上品な机の上で、何やら書き物をしていた。

「申し訳ありません、この書類を本日中に仕上げなければならないのでね」

「いえ、お気になさらずに。それでご用件とは、一体なんなのでしょうか」

「ともかくまずはお掛けになってください」

 言われるまま来客用の椅子に座る。シニャが使っている硬い椅子と違って、何度腰かけても驚くほどふかふかだ。

 するとまるで測っていたかのようなタイミングで、屋敷でも見かけたメイドがお茶と菓子を用意してくれた。湯気と共に立ち上がる香りは、とても芳しい。

 それからすでに打ち合わせていたのだろう。メイドは部屋から退出した。

「どうぞ召し上がってください」

「ありがとうございます。いただきます」

 シニャは視線を菓子に落とす。夜空のように黒い木皿の上に丸い薄黄色の菓子が二つあった。片方は大きく、もう一方は小さい。二つの月を表現している一皿。貴族の高級菓子だ。

 シニャみたいな庶民の人間、それも一般よりは多めに貰っている大聖堂ミカルト勤めのシスターであっても、数か月は貧乏生活をせねば手が届かないような代物である。当然、シニャも口にしたことがない。

 シニャは恐る恐る手を伸ばして、遠慮がちに小さな方を持ち上げて一口かじる。ふんわりした生地の向こう側から、上品な甘さの濃厚なクリームが口腔内に襲いかかった。

 美味しい。あまりにも。

 だけど今はしっかりと味わえる気分でもなかった。すぐに罪悪感がのしかかって来たのである。自分だけこんなにいい思いをしていいんだろうか。そう思ってしまったのだ。今でも病床では、戦争で傷ついたたくさんの人が治療を続けている。シニャなど比較にならないほど人を救ったユリエは、きっとこんなに美味しいものを食べることもできなかったに違いない。

「美味しいですか?」

 シニャの曇った顔を見て取ったのだろう。エルムントが柔和な声をかけて来た。

「はい、とても美味しいです」視線をテーブルの上に落としたまま、シニャは答える。「ですが、私にはもったいない代物です」

「気にしないでください。これは私からのお礼の気持ちですから」

「お礼、ですか。しかし、私はそんな大それたことなど一つも」

「あなたには色々と手伝ってもらえましたから。むしろこの程度で済ますなと、怒ってくれてもよろしいんですよ」

「そ、そんな。私はただ、したくてしていただけでですから」

「そう言うと思って、お菓子をご用意させていただきました。私は甘いものが苦手でしてね、残されても困るのですよ」

「……すみません、お言葉に甘えさせていただきます」

「ええ、どうぞご遠慮なさらずに」

 シニャは再び菓子を食べ始めた。あんまりに美味しいそれは、気づけばあっという間に平らげてしまう。

 甘くなった口をお茶を飲んで洗い流す。渋みのある味だ。だけど甘味と程よく合わさって、ちょうど良い加減となる。お茶もやはり高級品に違いない。

「さて、本日お呼びさせていただいたのは、他に伝えなければならないことがあったからです」

 ことり、とシニャはコップを置いて、エルムントと視線を合わせる。

「はい」

「原典をあれから何度も読み直しました。しかしやはり、魔人が邪悪、あるいはそれと類するような表現は見当たりませんでした」

「それは……つまり」

「ええ。信じたくはありませんが、教会は意図して捏造していたことになります」

 シニャは喉を鳴らした。ミノルやユリエが悪ではない。その証明に一歩近づいたことになる。

「他にも奴隷に関する記述がないなど、細かな部分で相違点がありました」

「奴隷ですか?」

「はい。原典には奴隷が出てこなかったのです」

「教会は……そんなところにまで私たちを騙して来たと」

 シニャの顔から血の気が失せた。どれほどの罪を自分たちは重ねて来たと言うのか。

「残念ながら、そうだとしか言いようがないのが歯痒いところです。とは言えシニャ様は被害者でもあります。そう気に病むことはありません」

「で、ですが……」

「仕方がないことですが、やはり割り切れませんか」

「はい……」

「しかし、分かりません。なぜ教会はこのようなことを行ったのでしょうか」

 思案げにエルムントは指摘した。シニャもその疑問には当然行き当たっている。

「……教会への不満を魔人へと逸らすためでしょうか?」

「可能性はありますね。我々より前の世代で、教会に対する不満が高まっていた時期があったことは事実です。問題は、この捏造はいつから行われていたのか、ですが」

 ふむ、と考え込む仕草をエルムントは見せた。シニャも考えてみるも、分からない。小さな子供の頃から、魔人は悪だと教わって来たからだ。

「この問題をよく知っている者は、恐らく大司祭のジージ様以外にいないでしょう。問い正す必要がありますね。シニャ様は、今晩お時間はありますでしょうか」

「はい、大丈夫です」

「ならば、今日のいつもの時間にまた集まりましょう。他の同志たちに報告する必要がありますし、今後の相談もございます」

「はい、分かりました」

「それでは、そろそろシニャ様を患者さんに返してあげなければいけませんね。シニャ様を独り占めしては、患者さんに恨まれてしまいますから」

「いえ、そんなことは」

「あると思いますよ」にかりとエルムントは笑う。「さる筋から聞いた話によれば、患者さんの間で独自に人気投票が行われたとか。その中でもシニャ様は、ダントツの一位を取ったと」

「え? それは、本当のことなのですか?」

「はい。二神に誓って、本当です」

 そんなことが行われたなどとは全くもって知らなかったシニャは、後で問い詰めようと、硬く決心したのである。

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