九十七 ベネトでの用事

「お兄ちゃん。ここでもあそこで顔を確認しているよ」

 津村実花はベネトの門へ顔を向けて言った。

「方法があるんだ」

「方法?」

「……奴隷さ。奴隷になれば顔を確認しないんだよ」

「ど、どれい?」

 実花は目を白黒させた。以前に聞いた話には出てこなかったことだ。確かによく考えてみれば、外見が完全に魔人にしか見えない稔が簡単に入れるわけがない。

「まあ、奴隷って言っても、フリをするだけだよ。偽造パスポートみたいなもんだ」

 こともなく稔は言った。けれどその目は懐かしそうに細めている。

「確か奴隷の印とかを用意してくれる人がいるはずなんだけど」

 稔は周囲を見回したが、それらしき人はいないようだ。

「あの……」

 今まで無言だったネルカが、申し訳なさそうに声を出した。

「どうしたの?」

「実は、今は奴隷の顔も確認しているんです」

「え、ええっ」

 稔は驚愕した。そんな馬鹿なと思う。

「その、ずいぶん昔に奴隷の顔も確認するようにと帝国からお達しがありまして……。あれは確か、二人組の魔人が出た後だったかと」

 二人組の魔人。それは間違いなく稔と喜多村由梨江のことである。その事実を分からない稔ではなかったし、ネルカもあえてぼかして言った。

「……お、俺のせいかぁ」

 稔はがっくりと膝を落として落ち込んだ。そんな彼のことを二人は可哀そうなものを見る目で見下ろしている。

「み、ミノル様……。その、用事というのはどういったものだったのでしょうか」

「あ、ああ」

 と、稔は気を取り戻そうとするかのように頭を振って、立ち上がった。その顔はショックから立ち直り切っていなかったけれど、ネルカに向かって説明する。

「実は、メーガスト食堂の小さな店員さんに伝えたいことがあったんだ。今でもいるのかどうか分からないんだけどね」

 実花とネルカは顔を見合わせて頷き合った。

「その食堂なら、私たちも知っています。その小さな店員さんも」

 ネルカがそう言うと、稔はまたも驚きの表情を見せた。

「そ、そうなのか」

「はい。なので、私がここまで呼んできますね」

 にこりと笑みを浮かべる。

 稔は一も二もなく頼んだ。




 無事に門を通過したネルカは、多くの人で賑わう通りを真っ直ぐ進んでいく。

 耳の中に自然と入ってくる声は、どれも魔人との戦争に勝利したことを喜ぶものだった。今までの憂さを晴らすように、昼間だと言うのにそこかしこで乾杯の音頭が上がり、酔っ払いがふらつきながら歩いている。酒場も戦勝を祝い酒代を安くしているせいでもある。

 みんな浮かれているのだ。

 だがネルカはそんな気分にはなれない。

 稔が用があると言うメーガスト食堂の小さな店員さん。たった一度しか会っていないが、彼女のことは覚えている。ユリエと言う女性が店で働いていたと、彼女は確かに言っていた。そうして稔が昔一緒に旅をしていた女性もユリエだと言う。しかも黒髪で黒目だ。

 偶然の一致とは思えない。同一人物であることは間違い無いとネルカは確信している。

 しかし、そのユリエはもうこの世にいない。稔の用事とは、そのことに関係しているのだろう。

 だからネルカは、気が重たかった。

 それに、稔はどうやらこの街には奴隷として入ったようなのだ。

 奴隷は物でしかない。人格は認められていない。彼がこの街でどのような扱いを受けていたのか、たやすく想像できる自分が嫌になる。

 昔こそ、奴隷は人間では無いと教えられたせいもあって、そういうものだと考えてきた。けれど今は、自分の考え方が大きく変わっていることを自覚している。間違いなく稔や実花の影響だった。

 奴隷も人間なのだ。物では無いのだ。

 魔人もまた、実際は変貌してしまった人間でしかないように。

 そうして、おぼろげな記憶を頼りに歩いていくと、ようやくメーガスト食堂に辿り着いた。外にいても中の騒ぎ声が聞こえてくるほど、この店は以前来た時と変わらずに活況であるようだ。

 ネルカは扉を開けた。

「いらっしゃいませっ!」

 客の騒ぎ声に負けないほど大きな声が二つ、ネルカを出迎える。

 さっと目を走らせると、小さな店員を見つけた。

 席につき、何かを頼むのが礼儀なのかもしれない。でも、あの二人を差し置いておいしいものを一人で食べる気など、ネルカには全く起きなかった。

 だから、真っ直ぐ小さな店員に向かい、声をかける。店員は振り返った。

「……どうなさいましたか?」

「あなたに、会わせたい人がいます」

 店員は、怪訝そうな顔を向けている。

 当然だろうとネルカは思う。怪しむのが普通だ。

「ユリエと言う方を、知っている人です」

 店員ははっとして、ネルカの目を直視した。

「行きます!」

 返事は早かった。


 楽しげな喧騒の中を、ネルカと小さな店員シシリアは深刻な表情で足早に抜ける。

 門から外に出て、ネルカが案内する方向には森がある。

「……あなたは、もしかして」

 シシリアはぽつりと尋ねた。

「そうです」あっさりと肯定する。「ツムラミカ様たちと一緒にいたメイドです」

「やっぱり……。でも、確か彼女は……」

「はい」

 ネルカは頷いた。視線は前に向けたまま、足を動かしている。

「そう……」

 悲しげに言った。けれど足は止めない。

 森の中に入る。木々の隙間を通り過ぎた先に、フードを目深に被り、灰色のローブで全身を覆った男が一人で待っていた。それはシシリアが予想していた通りの男であった。

「彼です」

 ネルカは言葉少なに紹介したが、シシリアは迷うことなく稔の前へ近づいた。

「……あなたは、ユリエちゃんと一緒にいた奴隷ね」

「はい」

「首輪はもうないのね」

「はい。奴隷から解放されましたから」

 奴隷から解放されるような制度がはたしてあっただろうか。シシリアはその辺りのことを詳しく知らない。だが、確かなかったように思う。

 諸々の、様々な疑問が浮かぶ。けれどシシリアは飲み込んだ。それらのことよりも大事なことがたった一つだけあるからだ。

「ユリエちゃんはどうしたの? 一緒にはいないの?」

 きょろきょろと見回すが稔とネルカ以外に姿が見えない。先ほどから嫌な予感を感じている。がらにもなく緊張していて、心臓の動悸が早まっていた。

「いません」

 と、稔は言う。嫌な予感が強くなる。

「いないって……。それは……」

 今はいないだけ。ただ、たまたま近くに立ち寄ったから、彼はここに挨拶をしに来ただけ。そうあって欲しいと願った。嫌な予感を否定して欲しかった。

「彼女は、死にました」

 けれど彼が重く告げた言葉は、予感を肯定するものだった。シシリアは信じたくはなかった。

「 しっ……死んだって……嘘でしょう?」

「本当です」

「や、約束したじゃないっ! ユリエちゃんを守るって!」

 目に涙を浮かべながらシシリアが怒った。稔は悪くない。それは分かっている。だけどこの感情は止められなかった。

「はい。約束を守れなくて、申し訳ありません」

 稔は深々と頭を下げた。

「なんで、なんで彼女は死んでしまったの?」

「言えません」

「言えないって! そんなの!」

「あなたのためです」

 感情が爆発した。涙を流しながらシシリアは拳を振り上げる。彼の頭は今やちょうど良い位置にある。容易に頭を殴ることができるだろう。けれどシシリアは一向に拳を振り下ろさない。何かを堪えているみたいで、ぷるぷると手が震えている。

「私のためって、何よ!」

「……言えません。ただ彼女が死んだのは、自分の力が足りなかったからです」

 稔は頭を下げたまま言う。そんな彼のことを見つめる。

 彼の体は見て分かるほど強張っていた。表情は窺い知れない。何を考えているのかも分からない。だけどその姿はまるで、捨てられたペットみたいに寂しそうに見えた。

「あなたを殴っても……彼女はもう帰ってこないのね」

 シシリアは力なく手を下ろした。

「殴らないんですか?」

 稔は頭を下げたまま聞いた。シシリアはため息を吐いて、流れた涙を袖で拭き取る。

「……殴らないわ。だってあなたの方がつらそうなんだもの」

 稔は頭を上げた。

 フードのせいで口元以外何も見えない。けれど唯一見えるその口は、一文字に結ばれている。殴られる覚悟で彼はここに来たのだろうとシシリアは思う。

「もう一つだけ聞かせて」

「何でしょうか」

「あなたは、あのツムラミカ様が探していたミノルなの?」

「……そうです。でも、どうしてそのことを?」

「ツムラミカ様たちが、たった一度だけだったけど、うちの食堂に来たの。妙に印象的だったなあ。ユリエちゃんと髪と瞳の色が同じだったからかな。あの時は、まさか帝国を救う英雄様だなんてちっとも思わなかったけど。だけど……そっか。そりゃあつらいでしょうねえ」

「そんなにつらそうに見えますか?」

「……見えるわ。一度水面を見てごらん。口元しか見えなくても分かるほど、ひどい顔をしているから。……あ、そうだ。あなたうちの料理食べたことないでしょう?」

「はい、ありませんが」

「それなら中に入って……って、街の中に入れるのならこんなところに呼び出さないか」と、シシリアは考える仕草を見せてから、両手をぱちんと合わせた。「よし。ちょっと待っていてくれるかな?」

「どうしてですか?」

「うちの料理、持ってきてあげる。元気がないのは、お腹がいっぱいじゃないからよ。もちろんお金はいらないわ。私のおごり」

「ですが……」

「いいのいいの。それにベネトに来てうちの料理を食べないのはもったいないわ。これでもちょっとした名物なんだからね」

 それじゃあすぐに店長に作らせるから、と早口で言った彼女は、物凄い勢いで街の方へと駆けて行った。

 稔はもちろん、ネルカもぽかんとした表情でシシリアのちっぽけな背中を見送ったのである。

 彼女の姿が見えなくなると、稔の背後からがさっという音が聞こえてきた。後ろの草むらに隠れていた実花が出てきたのだ。

 実花は不機嫌な顔を隠そうともせずに、稔と向き合った。

「何なのよ。お兄ちゃんの苦労も知らないで」

 あからさまに憤慨している。

「それだけ由梨江のことを心配してくれてたんだよ。それに俺が約束を守れなかったのもあるから」

「だとしても、自分は何もしていないのにお兄ちゃんを殴ろうとしたのは許せない。結果的には殴らなかったから良かったけど、もしも本当に殴っていたら私が殴り飛ばしていたわよ」

「まあ、よく我慢してくれたよ、実花は」

 稔は手を伸ばして実花の頭を撫でた。それだけで実花は大人しくなっていく。

 その光景を見たネルカは、さすがはミカ様のお兄様だなあ、と感心した。扱い方をよく心得ている。もっとも、あの方法は稔でしか効果がなさそうだけれども。


 思いの外早く、シシリアは戻ってきた。岡持らしき取手がついた木箱を持ってきている。

 早めに実花を隠れさせて良かったと、稔とネルカはほっと安堵した。

「お待たせっ。メーガスト食堂名物、ミートル包み焼き定食二人前っ」

 岡持をなるべく平たい岩の上にそっと置いたシシリアは、中から料理が乗っている皿とパルツが入っている籠、スープが入っているであろう小鍋と腕を取り出した。

「お腹空いてそうだったから多めにしてもらったから、ゆっくり食べてね。さすがに私ももう仕事に戻らないとまずいから行くけど、食べ終わった食器はこの箱の中に入れて置いてね。あとで回収に来るから、心配せずにここから離れちゃっても大丈夫だから」

「ありがとうございます」

 稔とネルカは二人して頭を下げた。

「いいの。ユリエちゃんのことは残念だったけど、教えてもらえて良かったって思うから。これはそのお礼。だから気にしないで。あ、それと、次来る時は直接お店に来れるようになっているといいな。他にもいろんなおいしい料理があるんだから。それにもっと色々とお話ししたかったし」

「そうですね、その時は是非に」

「うん。それじゃあ、また会う日まで」

「はい、また会う日まで」

 そうしてシシリアは、だーっと走って行った。

 稔は姿が見えなくなると、実花を呼んだ。シシリアが言っていたように、料理は多めだ。二人前だそうだが、これなら三人で分けても大丈夫だろう。お腹が空いているのも本当である。

 三人は食べ始めた。料理は驚くほど美味しかった。




 ちょうど稔達がミートル包み焼き定食に舌鼓を打っていた頃だった。

 薄汚れたローブを着た痩せた男が、ベネトに訪れたのである。

 男は喧騒に目もくれずに歩いていく。目的地以外は全く興味がないようだ。

 それにしても男が歩く速度はとても遅い。その何倍もの速度で、彼のすぐ脇をシシリアが走り去っったが、まるで頓着する様子がなかった。

 たっぷりと時間をかけて、辿り着いた場所は墓地だった。左右非対称の長方体の黒い石が整然と並んでいる。これがメルセルウストの一般的な墓石なのだ。

 迷いのない足取りで目当ての墓石の前に着くと、一輪の赤い花を懐から取り出した。それを無言のまま墓前に置く。祈りのポーズは取らずに墓石を見つめた。墓石にはエステナと名が刻まれている。

「お久しぶりですね、ゴゾルさん」

 背後から声がした。しかし呼ばれた痩せた男、ゴゾルは、一瞬だけ目を向けると墓石へと視線を戻した。

 声をかけたのは、東ベネト教会に属するシスター、ムルレイである。彼女は返事をしないゴゾルに対して気にすることなく彼の隣に立った。そうしてシスターらしく、ニーゼ教の作法に則った方法で祈りを捧げる。

「……これまでもエステナさんのお参りにいらしていたのは気付いていました。ですがなかなか声を掛けられる機会がなくて、今日ようやくあなたと会えることができたんですよ」

 ゴゾルは何も言わないが、ムルレイは続ける。

「魔法研究所に行く時が決まった時、あなたはエステナさんを生き返らせる魔法を開発するとおっしゃっていましたが、今でもその研究を続けているのですか?」

 ムルレイは待った。だがなかなか彼は答えない。やはりダメかと諦めかけたその時であった。

「……無理だった。研究をして分かったのは、死んだ者は何をしても絶対に生き返らないということだけだ。魔力を流して強引に動かしてみても、それは動く死体でしかなかった」

 淡々とだが、ゴゾルは答えた。

「そう、でしたか。やはり命というものは、とても尊いものなのですね。それにしても、研究所を辞めたと聞いた時は驚きましたよ。今はどうされているんですか?」

「……あなたには、知る必要のないことだ」

 ゴゾルはそう呟いた途端、空間魔法を発動させた。徐々にその姿は薄くなっていき、ついには完全に消失してしまう。

「行ってしまいましたか」ムルレイは独りごちた。「エステナさん、彼はあなたのことを今でも想っているのですね。なんて優しくて、なんて悲しいことなのでしょうか。エステナさん、どうか彼のことをいつまでも見守ってほしいです。彼は昔と変わらず、とても危なっかしい。と、それはあなたの方がよくご存知でしたね」

 ムルレイは空を見上げた。太陽がさんさんと輝いている。

「あの頃が、本当に懐かしい……。今でも私は、あなたが生きていた時のことを昨日のように思い出せます。あなた方は、本当に私自慢の生徒達でした。……それではまた来させていただきますね。その時にもまたゴゾルさんとお会いできればうれしいのですけれども」

 ムルレイは名残惜しむように、エステナの墓に背中を向けたのだった。

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