九十五 悲しみの家

 津村稔たちは大きな岩の影に隠れて、そっと覗き込んだ。視界の先には、高い岩垣で周囲を囲った街がある。

「ここが私の故郷、アルサナです」

 と、ネルカは潜めた声で言った。

「あれがネルカさんの……」

 感慨深そうに実花は呟いた。

「はい。と言っても、もう随分と帰っていませんので、私が知っている頃とはだいぶ変わっているとは思います。ただあの岩垣は歴史あるもので、何でも千年以上前からあるとか。本当かどうかは分からないのですが」

「……千年。本当なら、すごいですね」

 稔はそう言いながら、街の観察を続けている。

「そう思います。あれを見るために街に来る旅人がいるくらいで、そのおかげでそれなりに発展したんですよ。さすがに、帝都やベネトには敵わないですが」

「……門兵がいますね」

「……はい……」

 指摘されて、ネルカは少しバツの悪そうな顔をした。

「実花、俺たちは残念ながら街には入れないよ」

「え、どうしてなの、お兄ちゃん? 私、ネルカさんの故郷を見てみたい」

「気持ちは分かる。でも無理なんだよ。あの門兵はな、訪れる人たちの顔を逐一確認するんだ。英雄の実花の顔が知れ渡っていてもおかしくないし、俺は俺で、魔人だと思われて騒ぎになってしまう」

「……何とか入る方法はないの?」

「一応あるにはあるが……この街でできるとは限らないし、何よりもお勧めできない。それに、ネルカさんの邪魔をしたくないだろ?」

「……分かった。我慢する」

 残念そうに実花は言った。

「すみません、ミカ様」

「ううん。いいの。お兄ちゃんと一緒なら大丈夫だから。ネルカさんは久しぶりの里帰りでしょう? 私たちのことは気にしないでゆっくりしてきてよ」

「……分かりました。そうさせていただきます」

 ネルカは岩から出て、アルサナへと歩いていく。その足取りは重かった。

 後ろ姿を見送りながら、稔は隣にいる実花に話しかける。

「このまま家族と一緒に暮らすことになったら、実花はどうする?」

 稔の質問に、実花ははっとなった。稔が言った可能性のことを全く考えて来なかった。

 ネルカとは離れ離れになりたくない。それは実花の嘘偽りのない本心だ。だから、ネルカが家族と同じ街にいることを選んだとしたら、それはとても寂しい。

「ネルカさんも、家族とずっと会えない苦しさを味わってきたはずだ。その苦しみは、実花はよく分かっているだろ?」

 実花が答えないでいると、稔はそう諭してきた。

 彼の言う通り、実花はお兄ちゃんに会えない苦しみを味わい続けてきた。ネルカが家族に会いたい気持ちは痛いほどよく理解している。だから、答えは最初から決まっていた。

「分かってるよ、お兄ちゃん」それでも実花は、寂しそうに笑う。「ネルカさんが私たちと一緒に来るよりも家族を優先したら、私はそれを受け入れるよ」

 ふ、と稔は優しい笑みを浮かべて、実花の頭を撫でた。

 稔の手は暖かくて、優しくて、心地良くて、実花は何だかほっとした。


「アルサナには初めてですか?」

 簡単に確認を終えた若い男の門兵は、にこにこと笑いながら尋ねてきた。

「はい」

 ネルカはそしらぬ顔で嘘を吐く。

「この街は大変長い歴史のある街です。千年もの昔に建てられた建造物が今もあるぐらいでして、例えば街を囲う石垣がその一つと言われています」

「それは素晴らしいですね。ですが、見ての通り私はへとへとです。宿で休んでから、ゆっくりと拝見させていただきます」

「ああ、これはすみません。どうも門兵というのは退屈な仕事でして、ついつい旅の方と話したくなってしまうんです」

「分かります。確かにずっと立って見張らなければならないのは、大変な仕事かと思います。ですが街を守る大切な仕事でもある。私はあなた方のことをとても尊敬していますよ」

「そう言って頂けると助かります。それでは良き滞在を」

「ありがとうございます」

 ネルカは街の中に足を踏み入れた。

 さすがに長い間帰ってこなかったこともあり、街の様相は記憶にあるものよりも変わっていた。けれど街の中の雰囲気は、昔とあまり変化がない。

 出店の多くが観光客目当てなところや、詐欺まがいの商品が立ち並んでいるところも。とは言え、マ国との戦争を経た今、仕方がないことだがあまり活況ではなかった。

 ネルカは懐かしく思いながら散策を続ける。けれど足が向く方向は、無意識のうちに家族が住んでいるであろうスラム街から離れていく。

 これじゃあダメだ。早く家族の顔を見て、ミカ様たちの元に戻らないと。そう思い直して立ち止まるが、一歩がなかなか踏み出せない。

 見るだけ。見るだけだから。と、何度も自分に言い聞かせる。実際に会うわけじゃない。見るだけだから。ばれなければ何も問題は起きないのだから。

 だけども不安が重くのしかかる。もしも見つかてしまったらどうなるんだろう。良いことが起きる気がしない。お互いに気まずい思いをすることは必然だろう。でもそれで終わるならまだ良い方だ。帝国に通報されでもしたら、どんな目に合うか分からない。ネルカだけならまだしも、あの二人に迷惑をかけたくない。

 このまま何事もなかったように引き返そうか。ちらとそんな考えが頭をよぎる。

 けれどやはり、家族の顔を一目見たい気持ちは強くて。

 ネルカは、スラム街に向けて足を踏み出した。歩みはとてもゆっくりだけれど、確実に一歩一歩進んでいる。

 そうして、たっぷりと時間をかけて、ネルカはスラム街に到着した。

 朽ちた建物が並んでいる。道の片隅には、うらぶれた若者が石壁にもたれて酒を飲んでいて、胡乱な目でネルカを睨め上げた。

 帝都暮らしに慣れた今、スラム街にいるような少女には見えないだろう。自分が場違いな存在であることは自覚している。それに、夜よりはマシだとは言え、スラム街を女性一人で歩く危険性も重々承知している。帝都でもそういう事件は時折起きていたし、ここに住んでいた時も嫌な声を稀に聞くことがあった。

 だから隙を見せないようにしなければいけない。ネルカは周囲への警戒を忘れないように改めて自分に言い聞かせる。

 幸いスラム街に住んでいた女性は、いずれも護身の魔法に長けていた。ネルカももちろん例外ではない。母に教えてもらった魔法がある。帝都で使う機会はなかったが、忘れないように練習は続けていた。

 警戒するのはそれだけじゃない。家族に見つからないようにしなければならないのだ。

 だから真正面から行くのは得策じゃない。ネルカは裏に回り込んだ。


「……お兄ちゃん、あれ」

 深刻な声を出して、実花は指で指し示した。

 稔は顔を向けると、一匹の獣に乗った兵士が街道を駆けて、一直線にアルサナに向かっているのが見えた。

「帝国兵か」

「うん」

 兵士は、そのままアルサナの中へ入っていく。稔たちを探しているところだろうか。

 不安になった実花は、稔の体に身を寄せて、心配そうに口を開く。

「ネルカさん、大丈夫かな?」

 稔は実花の肩をぽんと優しく叩いた。

「うん。きっと大丈夫だよね」

 実花は呟いた。けれど声は硬い。

 二人して、アルサナを見つめ続ける。何もできないのが歯痒かった。


 家が近づいていくにつれて、ネルカの鼓動が強くなっていく。楽しみな気持ちと不安がないまぜになって、体が緊張しているのを自覚する。

 一歩一歩進む。そうして、もう目と鼻の先だ。

 ネルカは壁沿いに体を這わせた。あとほんの少し顔を出せば、そこの穴が空いた木窓から中を見ることができる。

 早鐘を打つ心臓の音がうるさい。だけどもうここまで来たのだ。来てしまったのだ。

 ネルカは顔を出した。

 床に敷いたわらの上に座っている父と母の姿がある。

 父の頭は禿げていた。母の髪には白髪が増えていた。二人とも顔にシワが出来ている。年老いているのだと、ネルカは衝撃を受けた。

 ずっと離れていたのだ。老化していて当たり前だ。だけどずっと変わらないでいてくれると、なぜだか頭の片隅で思っていた。想像とは違う現実を突きつけられて、ネルカは衝撃を受けたのだ。

「あの子は……ネルカは……どうしているのかしら」

 母は、視線を床に向けて言った。

「……言うな」

 父は、苦虫を嚙みつぶしたような顔で返した。

 もう、いいだろう。弟の顔を見れないのは残念だけれど、ネルカはここから離れようと思った。また機会があれば、家族の顔を再び見に行こう。そう心に決めて。

 だけども、実家の扉がとんとんと音を鳴らした。誰かが訪れたのだ。

 父は億劫そうに立ち上がり、扉を開けた。現れたのは、帝国兵である。

 ぎょっとしたネルカは、離れるのを止めて兵士に注視する。

「ネルカ様のご両親ですね」

 兵士の問いに、両親はこくこくと頷いた。

「……彼女は英雄ツムラミカ専属のメイドとして、サガラック砦に向かい、戦死しました」

 愕然とする両親の姿がネルカの目に映る。

「メメルカ女帝の言葉を伝えます。……非常に残念なことです。ネルカ様は有能なメイドとして、今まで献身的に尽くしていただきました。そのような彼女であったからこそ、ツムラミカ様の専属に任命したのです。彼女の真心がこもった心優しい奉仕がなければ、ツムラミカ様は思う存分に剣を振るい、マ王に勝利することはなかったでしょう。歴史に名が乗ることはないものの、彼女は紛れもなく英雄の一人でありました。私は一生彼女の名と姿を忘れないでしょう……以上です」

 母が泣き崩れた。額を床につけて、大きな声を上げている。父はそんな母に寄り添い、肩を抱いて慰めた。

 私はここにいる。生きているよ、お母さん。ネルカはそう言いながら二人の前に飛び出したい衝動に駆られた。でも、ネルカは胸を掻き抱いて押さえ込む。体は震え、目に涙を貯めた。罪悪感で胸が痛かった。だけど生きていることを明かすわけにはいかなかった。そうすれば、全てが台無しになってしまうから。黙って見ていることしかできなかった。

 兵士が袋を取り出した。重たそうな袋だ。動かすたびにじゃらりと音が鳴った。

 父は無言で受け取ると、中身を見た。ネルカからでも、中がちらりと見えた。それはお金だった。たくさんのお金が、袋の中に詰まっていたのだった。

 父は投げ飛ばそうとするかのような仕草を一瞬見せたけれど、すぐに踏み止まった。悔しそうな表情をしているが、泣いていない。泣くのを堪えているみたいだった。

 兵士は、これで全ての用は済んだと言わんばかりに、一礼をしてその場から歩き去った。

「……あの時! 私がもっと反対していればっ……」

 母の声が、ネルカの耳の中で響いた。

 もう見ていられなかった。これ以上ここにいたら、きっと二人の前に出てしまう。そう判断したネルカは、そっと踵を返した。

 来た時とは逆の門に向かう。

 スラム街を抜ける途中で、見覚えのある少年がすぐ横を通っていくのが見えた。

 どきりとして、思わず振り返る。

 背中しか見えないが、間違いない。ネルカの弟だった。

 あの頃よりも身長が伸びて、背中が大きくなっている。一瞬見えた横顔は、父に似ていた。

 声を掛けたい。でも、できるわけがない。私はもう死んだ人間なんだ。

 ネルカは姿を目に焼き付けようとしばし見つめ、それから実花と稔の元へ帰るために再び歩き始めた。


 そのすぐ後、少年は後ろに振り向く。

「……姉ちゃん……?」

 尋ねるように呟いた。けれど姉らしき少女の姿はもう見えなくなっている。

「……気のせいか」

 ひとりごちて、帰路に着く。

 悲痛な知らせが待つ、家へと。

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