九十四 肉を食べたいなら狩ればいい

「お兄ちゃん。どう、似合う?」

 森の中、木々の隙間から漏れた陽光に包まれながら、ネルカのメイド服に着替えた津村実花が、見せびらかすようにくるりと回った。

「似合ってるよ」

 稔は素直に褒めた。

「えへへー」と嬉しそうに笑う。「前から一度着てみたかったんだー、この服」

 側で微笑んでいるネルカは、実花のセーラー服を纏っている。

「それでは、私はそろそろ見てきますね」

 と、ネルカは言った。

「いってらっしゃい、ネルカさん」

「気をつけてくださいね。何かあったら大声で呼んでください」

「はい」

 ネルカは踵を返すと、街道がある方角へと足を運ぶ。

 森は迷いやすい。似たような景色が続き、気づけば現在地が分からなくなってしまう。だがうかつに街道を進めば、グラウノスト帝国に捕捉されるだろう。だから森の中を進んでいるのだが、迷子になってしまえば元も子もない。そこでなるべく街道沿いに進むことで、迷わないようにしているのだ。ネルカが街道へ向かうのは、方角を確認するためなのである。

 もちろん前述した通り、街道に出れば誰かに見つかる可能性がある。実花は有名人であるし、稔は誰かに見つかれば魔人だと騒ぎ立てられる恐れがあった。そこでちょうど髪を切ったネルカが確認する役目を負ったのだ。とは言え、メイド服は目立つ。しかも一人でいればまず間違いなく怪しまれる。そこで二人は衣服を交換したのだった。幸いにもセーラー服は、実花の活躍により帝国でちょっとした流行になっている。おかげで服装に関しては怪しまれないに違いない。

 そのことにネルカは納得をしている。だけどいざ木々の隙間から顔を出す段階になると、さすがにばれないかドキドキしてしまう。髪型も格好も様変わりしているといっても、ネルカのことを知っている誰かが通れば気づかれてもおかしくないのだ。

 そうして、勇気を出してネルカは顔を出した。さっきまでのドキドキが嘘のように、街道には一人も人がいない。ほっと安堵しながら、ネルカは歩いてきた方角があっていることを確認すると、すぐさま稔たちの元へと戻ったのだった。


 実花はメイド服、ネルカはセーラー服を着たまま森の中を進んでいる。

 先頭を歩くのは稔。真ん中にネルカ。最後に実花が続く。

「ミノル様」

 と、ネルカは不意に発言した。

「なに?」

 稔は足を止めずに聞いた。

「シニャ、というお名前に心当たりはありませんか?」

「……シニャさん、か。懐かしい名前です。知っているんですか?」

「はい。今は帝都の大聖堂に勤めています」

「 俺のこと、すごく恨んでいたんじゃないですか。俺は騙していたことになるだろうから」

「それが、違うんです」

「違う? けど教会からしたら、魔人は悪ですよね?」

「それは、そうなのですが……。シニャ様は違うのです。貴方様のことをまるで恨んでおりません。むしろ、一緒にいたユリエと呼んでいたお方を気にかけておりました」

「由梨江を……」

 と稔は呟いた。背中しか見えないから、ネルカには彼がどんな顔をしているのかよく分からない。

「……ネルカさん」

 声を掛けたのは実花だった。ネルカは背後をちらりと見た。どことなく、彼女の顔色は悪い。

「ミカ様?」

「由梨江って人は、もう死んでいるの。帝国にね、殺されたの」

「え?」

 ネルカは驚いて、稔の背中を改めて見る。すると僅かに震えているのが分かった。

「それは、知らなかったとは言え、申し訳ありませんでした」

「……いや、いいんです」稔は声だけで返す。「昔のことだから。でも、シニャさんが由梨江のことを気にかけていてくれたことを知れて、良かったですよ。伝えてくれてありがとうございます」

「私は……特に何も」

 ネルカは感謝されるとは思っていなくて、思わず動揺する。

 それから暫く黙々と歩き続けた。稔は後ろの二人がきちんとついてきているか確認するために、時折後ろを振り返っている。そればかりか、周囲の警戒も怠らない。こういった旅に慣れている様子だった。

 稔は唐突に、掌を背後に向けた。反射的にネルカと実花は立ち止まる。

「……待て」

 稔の声は緊迫感を帯びていた。

 前方にある太い木の幹の陰から、何かがぬっと顔を出す。それは小さな四足の生き物だ。黒ぶち模様の毛並み、三角形の耳、しなやかな体。何よりも見た者をとろけさすような可愛らしさがある。

 その一見愛らしい姿を見たネルカは、思わずぞっと血の気が引いた。

 だが実花が、誰よりも早く日本語で叫んだ。

「猫だーーーー!!! お兄ちゃん、猫! 猫だよ! 猫!」

 今にも飛び出そうとする実花を、ネルカは慌てて押し留める。稔もまた、目の前に現れた生物から目を離さずに実花を止めた。

「落ち着け、実花。あれは猫じゃない」

「何言ってるのお兄ちゃん! あれはどこからどう見ても猫だよ!」

 実花がさっきから連呼しているネコとはなんなのか、ネルカには分からない。けれど唯一分かるのは、今非常に危険な状態であると言うことだ。

「だから落ち着け。ここは地球じゃない、ここはメルセルウストなんだ。あれは猫じゃない。猫によく似た魔物、ニャコプスだ」

「にゃ、にゃこぷす?」

 と、実花が間抜けな声を発した瞬間だった。

「ぴがぁっーー!」

 鋭い鳴き声を発しながら、ニャコプスが飛びかかってきたのである。そうしてその瞬間、ニャコプスの愛らしい頭部が一転、風船のように膨らんで、口を大きく開けた。大人を数人ほど一飲みにできるほど巨大である。また剥き出しになったニャコプスの歯は、まるでのこぎりの歯のように細かく鋭い。生き物を細断するのに特化した歯だ。もはや猫のような愛らしさは消え失せて、凶暴な本性が剥き出しになった恐ろしい顔である。

「え」

 驚きのあまり身を固めた実花に、ネルカは咄嗟に覆いかぶさった。

「メドル」

 死を覚悟したネルカの耳に飛び込んできた声は、稔のものだ。彼は二人の前に立って、右手をニャコプスに向けている。その右手は、何やら光っていた。

「ハーゲン」

 その刹那。稔の右手から魔力が放出し、ニャコプスの頭部を真っ直ぐに貫く。

「ぴぎゃああ」

 甲高い悲鳴をニャコプスはあげて、どう、と後ろへと落下した。頭部には大きな穴が開いていて、そこからどくどくと、青い血を垂れ流している。巨大な頭部のわりに、地球の猫ほどの大きさの体は、ぴくぴくと痙攣していた。

「お、お兄ちゃん……」

 実花は震えながら呟いた。

「魔物は初めてか?」

「う、うん」

 こくり、と頷く。

「ニャコプスはな、さっきみたいに、猫のような可愛い姿で相手を油断させたところを襲う凶悪な魔物なんだ。頭部を膨らませるところがあの魔物の魔法なんだろうな。魔物避けも、前に言った通り完璧じゃないんだ。ごくまれに、ああやって何かの間違いで襲いかかってくる」

「……ね、ねえ、お兄ちゃん。ほ、本物の猫は……?」

「非常に、酷なことにな。俺はこの世界で猫を見たことがない」

 がーん、という顔を実花はした。その絶望的な顔をといったら、ニャコプスが襲ってきた時よりも酷かった。

「あの」

 とりあえず危機を脱して安堵したネルカは、手を上げた。

「どうしました? まさか怪我を?」

「大丈夫です、怪我はありません。その、聞きたいことがありまして。ネコとは何ですか?」

 実花が怒涛の勢いで説明し始めた。地面に木の枝でひっかいて、簡単な絵を描いてまで。

 だけどネルカは言う。

「すみません。私もニャコプス以外では知らないです」

 実花はとても落ち込んだ。




 ネルカは再び街道を確認した。先の方を見やると二股に分かれている。右に行けば帝都方面。左に行けばネルカの故郷につながっている。

 故郷まであと数日はかかるはずだ。しかし森の中を進む行程は街道を歩くよりも時間がかかる。おそらく予想よりもかかるに違いない。

 故郷に帰り家族の姿を見るのを、ネルカは怖く感じていた。様々な不安が胸中にあって、左に進むのに忌避感がある。

 実際、道を指示しているのはネルカなのだから、右に行くと伝えれば、何も知らないと思われる二人は迷わずに行くだろう。もっとも稔がどれほど地理に詳しいのか分からないけれども。

 とは言え、ネルカはあの二人の好意を無下にしたくなかった。それに家族のことを一目だけでも見たい気持ちも当然ある。だからネルカは、二人の元へ戻ると左に向かうと伝えたのだ。

 そうしてまた行程を進めていくと、日が暮れてきた。

 手慣れた手つきで即席のテントを作り上げた稔は、二人に向かった。

「俺は、肉を食べたい」

「え、肉ですか」

 唐突の要求。けれど肉など当然持っていないネルカは戸惑いを隠せない。

「私も食べたい」

 肉と聞いて目の色を変えた実花も追従する。

 ああ、兄妹だなあ、とネルカは現実逃避気味に感慨にふけた。できることならこの二人の希望はできるだけ叶えてやりたいのだが、もちろん狩猟の経験などこれっぽっちもないのである。キルベルがいれば捕ってきてくれるだろうけれど、もうどこにもいない。

「あ、あの、肉は……」

 恐る恐る、無理ですと言おうとしたネルカを遮るように、稔はにかりと笑う。

「大丈夫です。俺が捕ってきますから」

 自信満々である。

「お兄ちゃん、私も手伝う」

 実花はすぐさま言った。

「は、はあ……」

 元マ王が狩猟をするのだろうか。ネルカにはよく分からない。だが大変な苦労を重ねてきた稔のことだ。即席のテントを作り上げた手並といい、狩りをしたことがあるのかも知れない。

「分かりました。準備をして待っています」

「では、ネルカさんにはこれを」

 稔はローブの中に手を入れて、何かをネルカに手渡す。四角い布製の小さな巾着袋である。

「ガーガベルトさんが魔物避けを施した紙が中に入っています。とはいえ、この前みたいに魔物や獣が襲いかかってくるかも知れません。何かあれば大声をあげて、街道の方へ逃げてください」

 こっそりと帝都の方へ行って、メメルカに何もかもを白状する。そういう可能性を考慮に入れていないのだろうかと、ネルカはふと思う。

 いや、あるいは、それでも構わないと考えているのかも知れない。優しさなのか、呑気なだけなのか計りかねるが、実花の兄だから、という理由で十分だろう。

「分かりました。お気をつけて」

 そうして、二人は狩りに向かった。


「お兄ちゃん。狩りってしたことあるの?」

「それが実はないんだよ」

「えーっ」

 実花は驚いた。てっきりドグラガ大陸で経験していたのかと思ったのに。

「俺の魔法はさ、初めの言葉で魔力を溜めて、次の言葉で貯めた魔力を発射するんだよ。強い分にはいいんだけど、弱くするのは難しくてさ。失敗すると獲物を跡形もなく消し飛ばしちゃうんだよな。そのせいで、狩りの時は参加させてもらえなかったんだ」

 このお兄ちゃんやっぱり馬鹿だと実花は思った。

「え、でも待って。あの時、サガラック砦でさ、私の首輪を壊したよね?」

「あれか。あの時はドキドキしたよ。少しでも言うのが遅くなったら、実花の首が飛んでたからね。練習したかいがあったよ」

 さらりととんでもないことを言われて、実花はぞっとした。まさかそんなにも綱渡りな行為であったとは。

「ごめんな。でも、実花を解放するためにああする必要があったんだ。一目見ただけで分かったよ。あれは奴隷の首輪だとね。俺もゴゾルにつけられた時があったから分かる。苦しかったよな」

「……お兄ちゃん」

「さて、狩りだ。肉はどこかなあ」

 その時、小さな獣がさっと視界を横切った。

「いたぞ!」

 追いかける稔に、実花は追随する。

 獣はうさぎに似ている。白い短毛で、後脚が太く、耳が長い。けれど目が三つあって、鋭い牙が二本生えていた。

 獣はしばしっこく、右に左に走っていく。

 稔たちは追いつけない。なのに距離は一定で、まるで獣にからかわれているみたいだ。実際目の前の獣は時折振り返って、稔たちを見て、赤い舌をちろりと出してくる。

「こいつっ」

 稔は業を煮やした。よせばいいのに、ちょこまかと動き回る獲物に右手を向ける。

「メドル、ハーゲン」

 発射された魔法は、獣のすぐ脇の木にぶつかった。轟音を立てて、木が倒れていく。それも稔の方へと。

「なっ……!」

 驚いた稔は思わず立ち止まった。実花は舌を打つ。

「何やってるのお兄ちゃん!」

 実花は飛んで、揃えた両足で稔を蹴飛ばす。間一髪のところで、木が倒れた。

「いてて……」

 と、痛そうに立ちあがった稔に大した怪我はないようだ。ほっと安堵した実花は、稔にずかずかと近寄って、ローキックをお見舞いする。さすがに足甲はつけていない。

「いっだああっ」

 叫ぶ稔。記憶にあるよりも威力が凶悪なほど増していた。

「まったくもう。お兄ちゃんの馬鹿。気をつけてよね」

「……お、おう。すまん」

 ぷんすかと怒りながらも実花は、兄を蹴れたことが嬉しかった。まるで小学校のあの頃に戻れたみたいな気分だった。

 それから悪戦苦闘すること、地球時間に換算しておよそ三時間。稔が魔法を乱射して逃げ惑った獣が、運良く実花の方へと逃げていく。実花は剣を走らせた。小気味良い音を立てて、小さな獣の首が落ちる。

「よし! よくやったぞ実花!」

 喜ぶ稔の顔を見て、実花はとびきりの笑顔を浮かべた。




 それからも何日も何日も旅を続けて、ようやく街に辿り着いた。

 小さくはないが、大きくもない。高い石垣に囲まれたその街の名前は、アルサナ。

 ネルカの故郷である。







 太陽がまだ上って間もない時刻だった。

 帝都グラウ城の一室。当面の住まいとしてあてがわれたその部屋で、カナルヤ・レイは酒を一人でちびちびと飲んでいた。アルコール度数が高い蒸留酒を、ストレートで。

 いつも常飲しているのは、甘いカクテルだ。でも今はそんな気分になれない。一口飲み込むたびに喉が灼ける感覚が、まるで自分に罰を与えているような気がして心地が良かった。

 そんな折、扉が叩かれた。ともすれば眠気を誘うような控えめな音だ。

「どうぞ」

 カナルヤが促し、中に入ってきたのは見知った女性である。グルンガル・ドルガ率いる騎士隊、その魔法砲撃部隊隊長であるモルガノ・メイトスだ。

 華のある突撃隊や、あくのつよい魔法防御部隊に比べて、彼女の隊はいささか影が薄い。しかしその堅実な仕事ぶりは一部では高く評価されている。彼女たちの支えがなければ、グルンガルの隊はここまでの強さを発揮してこなかったろうというのが、評者たちの分析である。

「……また朝からそのような酒を」

 扉を閉めると、彼女は呆れたように言った。カナルヤは目線を逸らし、拗ねた顔を見せる。

「いいじゃない、別に。それで、なにかご用なのかしら?」

「拗ねないでくださいよ……。用事と言うのは、カナルヤ様のお耳にぜひとも入れたいお話があるのです」

「他人行儀ねえ。昔みたいに呼んでくれても構わないのよ?」

 モルガノはカナルヤの軽口には付き合わずに続ける。

「話というのは、恐らくこの国の、いえ、このメルセルウスト全体に大きく関係してくるものかと思っています」

「……聞かせてちょうだい」

 カナルヤの目がきらりと光った。

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