七十三 狩人たち

「ちっ」と、狼の魔人ウルガは舌打ちをする。「鬱陶しい」

 まるで人の血を吸いにくる矮小な羽虫のように、反撃をしてもすぐに逃げてしまうケルトを相手に、ウルガ焦れていた。しかも別の帝国兵を殺そうとしても絶妙なタイミングで邪魔をしてくる。それも必ず死角から。

 邪魔臭いにも程がある。

 ウルガはひとまず攻撃を止めて、周囲を警戒。まずは周囲をうろちょろしているケルトをやると決めた。

 そうすると今度は、なかなか手を出して来ない。追いかけようとしても、人や魔人を上手く利用してウルガの目に映らないように立ち回っているせいで、姿をすぐに見失ってしまう。

「姑息な奴め。貴様が戦士なら、正々堂々と真正面からかかって来い!」

 ウルガは吠えた。すると、

「違うな」

 と、何処からとも無く声が聞こえて来る。

「なに?」

「俺たちは狩人だ!」

 背後からケルトがウルガに襲いかかる。しかし振り返ろうとするウルガを狙い、真正面からカースの槍が突き出て来た。

 前後を挟んだ同時攻撃。だが獣さながらの勘で、ウルガは横に飛んで回避する。あわよくば同士討ちになればとウルガは期待したが、襲いかかって来た二人は事前に示し合わせたのか上手く擦れ違う。

 そうしてケルトはそのまま人垣の中に紛れ込んだが、カースはその場に踏み止まってウルガと対峙した。

「どうやら貴様はあのうろちょろしている奴と違って気骨があるようだな」

 楽し気にウルガは言った。だがカースは愉快そうに笑みを浮かべる。

「それはどうかな。さっきも言ったが俺たちは狩人だ」

「どういうことだ?」

「お前は俺たちの獲物って事さ」

 と、カースは槍を繰り出す。迎え撃とうとするウルガは、しかし咄嗟に殺気を感じて腕で頭部を庇った。瞬間、矢が突き刺さった。

 驚愕で目を開くウルガに対し、カースは槍を止めようとしない。ウルガは横に飛んで避ける。けれどそこにケルトが飛び込んで斬りつけて来た。獣の魔人は身を捻って躱そうとするが躱しきれない。ケルトの刃がウルガの横っ腹を浅く斬った。

 三人による見事な連帯攻撃である。

 しかし矢は一体何処から飛んで来たのか。ウルガは周囲を観察する。居た。護衛の兵を伴ったルグストが右手に見えた。しかもかなりの距離がある上に、魔人兵と帝国兵がひしめき合って射線を通しにくい位置からだった。

 あそこから当てたと言うのか。ウルガは射手の技量に舌を巻く。

「大抵の獲物なら、今ので狩れたんだけどな」

 カースは悔しそうに言った。事実、この連帯攻撃で仕留められなかったのは初めての事である。

 ウルガも同じ感想を抱く。自分以外に同じ攻撃が来ても、防ぐ事が出来るのは恐らく五人といないだろう。

「ふん。この程度の攻撃、俺たちには通じん」

 だが、うそぶいた。人間達には恐れてもらった方がこの先の戦いでも有利になる。そう踏んだからだ。

 カースは、へっ、と笑う。ウルガの脇腹から血が流れている事に気が付いているからである。

「しかし良く分かった。貴様ら三人で俺を倒そうというのだな」

「そういうことさ」

 カースは愉快そうな笑みを絶やさない。


 ルグストは忌々しく顔を歪めた。

 申し分無いタイミングで頭部を狙った矢が、腕で防がれたからだ。

「獣が……」

 憎々しく呟きながら、過去を思い出す。かつて村を襲った魔人が、姉を殺した時の事を。

 あの時、姉は、幼いルグストを逃がすために一人時間を稼ごうと弓を取った。おかげでルグストは森の中に逃げる事が出来たけれど、その代わり戻って来た時に見つけたのは、一見しただけでは誰とは分からないほど原型を失っていた姉の姿だった。だが残された手に握られた弓が姉の物だったから、それでようやく死体の正体を知る事が出来たのである。ルグストが愛用している弓は、その時姉が使用していた物だ。  

 溢れ出しそうな憎しみを、この矢に乗せて放ち、魔人を殺す。姉の、無念を晴らすために。そのために今まで腕を磨いて来た。寝る間も惜しんで矢を射って来た。暗がりの中でも、障害物ばかりの地形でも、強風の中や雨が降りしきる中でも、確実に当てられるように。

 もしかしたら、そんなチャンスは来ないかもしれなかった。けれど構わなかった。それだけが彼の生きる糧だった。

 何年かが経って、少年と少女の二人組の魔人が訪れた。上手く偽装していたせいで、当初は魔人だと気付かなかった。だが彼らは自ら墓穴を掘って、その正体を晒す。当然ルグストは真っ先に矢を放った。矢は確かに少年を捉えていたが、少女が庇って肺の位置で受ける。そこまでは別に良い。だが彼女の魔法は超絶の回復魔法。すぐに回復してしまった。おかげで魔人を殺す事が出来なかった。

 そうして今、再びまたとない機会が訪れたのである。

 ルグストは矢を番え、構えた。憎しみを込めて狙いを付ける。姉が死ぬ前に見せた悲愴な決意に満ちた笑みが脳裏にちらつく。ぎりり、と歯嚙みした。殺す、と強く念じる。

 ウルガまで続くほんの僅かな隙間を見出すと、ルグストは矢を解き放った。針に糸を通すように、矢は猛烈な速度で帝国兵と魔人兵の間をすり抜ける。

 間違いなくウルガの頭部へ命中する。その確信がルグストにはあった。

 しかしウルガは直前になって唐突に頭を逸らす。矢はウルガの眼前を通り過ぎて、その先にいた帝国兵の鎧に当たった。

 馬鹿な。もう少しで味方を殺す事になった事を棚に上げてルグストは憤る。なぜ、当たらない。

 自らが放つ尋常でない殺気を、ウルガが鋭敏な感覚で察知して矢を避けている事に、ルグストは気付いていない。


 ケルトは走り回りながら、カースとウルガの戦いを観察している。

 槍の長いリーチを上手く生かして、カースはウルガを寄せ付けない。いかに恐ろしく速いウルガであっても、出足を封じられれば速度を出せないのだ。

 そうしてウルガが槍をへし折ろうとすると、ケルトがすかさず飛び出した。そうなればウルガはケルトに対応しなければならなくなる。

 さらに駄目押しとばかりに、ルグストが絶妙なタイミングで矢を放った。だがウルガはのけぞって回避する。

 あまりに強い。一対一では確実に負ける。そうケルトは感じた。だが今の所、三人がかりでなら戦えている。相手にはかすり傷程度しか負わせられていないが、今はそれで良い。本命は別にいる。

 思い出すのは隣の家に住んでいた少女。天真爛漫で、いつもケルトの後ろをちょこちょことついてくるような子だった。

 しかしあの日、女の子とケルトは、村から近い森で遊んでいた。そこにあの魔人が現れたのである。

 目が合った瞬間、魔人は魔法の泡をふわふわと飛ばした。嫌な予感がした。女の子とは少し距離があったけれど、ケルトは大声で逃げろと叫びながら走った。彼女はきょとんとした顔でケルトを見返した。ケルトは必死になって手を伸ばす。だけど、手は後一歩の所で届かない。そのまま泡が少女のちっぽけな身体の中に入る。そして、呆気なく彼女は破裂した。

 辺り一面に飛び散る赤い血に赤い肉片。ケルトはそれらをまともに浴びた。魔人は次にケルトを標的にする。けれど異変に気付いた大人達がすぐに助けに来てくれて、そのおかげでケルトは助かることが出来たのである。

 もっと足が速ければ、少女の事を助けられたかもしれない。だからケルトはそれから死に物狂いで速く走る訓練をした。そうして、いつしかケルトは村一番の俊足になっていたのだ。

 魔人に対する恨みは無論ある。いなくなれば良いとさえ思う。だがそれ以上に、ケルトはあの時、間に合わなかった自分が許せなかった。

 今度こそ。そう意気込みながらケルトは走る。


 見極めろ。ウルガの視線。身体の動作。そして殺気。それらから次の動作を読め。

 ウルガが右手の爪を上から振りかぶる。カースは槍の柄でウルガの右腕を横から叩いて逸らす。しかしウルガの攻撃は止まらない。左を振るい、時には蹴りが襲って来る。凄まじき猛攻だった。

 カースは尋常ではない集中力で、躱し、捌く。反撃を試みる暇さえ無い。一瞬でも気が緩めば死に直結する。綱渡りのような防戦。

 ケルトが群衆の中から飛び出して横に薙ぐ。さすがはケルト。完璧な不意打ち。だがウルガはそれをあっさりと躱してしまう。

 ルグストが矢を放つ。正確無比に頭部を捉えているはずの矢を、けれどウルガはしゃがんで回避する。

 カースはその機を逃さずに槍で突いた。だがウルガはしゃがんだまま横に飛んで避けた。さらに続いてカースに向けて突進してくる。

 全身で怖気を感じ取り、肌が粟立った。槍は接近されると弱い。それがウルガであればなおの事致命的だ。なりふり構わずに前方へと飛び込んで、地面の上を転がりながら距離を取る。

 ウルガが地面を蹴って方向変換する音をカースの耳が捉えた。再びカースを狙って突撃してくるのだと、背中を向けたまま直感する。

 槍の柄頭で地面を押して、身体を持ち上げた。模擬戦でも見せた軽業で、捻りながら後方へ飛ぶ。眼下をウルガが通過するのが見えてほっと胸を撫で下ろす。

 着地する。ウルガはすでに振り返って構えていた。

「ほう」ウルガは感心したような声を出す。「大した技だ。だが避けてばかりでは俺には勝てんぞ」

「へ。その内お前を殺す一撃を放ってやるよ。だからもう少しだけ待っていろ」

「それは楽しみだ」

 にやあ、とウルガは笑った。体重が前に寄っている。突っ込んでくる気だ。その前にカースは前に出て鼻先を掠めるように槍を横に振るった。ウルガは動けずに止まる。もしもこのまま来てくれれば、槍がウルガの頭部を切り裂いていたに違いない。

「今のがか? 甘いな」

 と、ウルガは鼻を鳴らした。

 カースは口角を吊り上げる。

「……まさか。むしろ今ので死んだら興ざめだったぜ」

「よく言う」

 実際、カースはあわよくば殺すつもりであったが、しかしウルガに通じない事は分かり切っていた。むしろ本当の目的は、ウルガに攻撃をさせないためだったのである。

 ここはやはり守りに徹するしか無い、とカースは思い直す。

 下手にこちらから仕掛ければ、野性的な勘と反射神経で反撃を喰らう。それは先程身をもって実証済みだ。

 ぎりぎりの状況下で誰か一人でも死ねば、仲間達もまたすぐに殺されてしまうのは間違いない。

 だから、絶対に誰も殺されるわけにはいかないのだ。

 ちりちりと焼け付くような緊張感の下、ウルガが仕掛けてきた。ぎりぎりの所でかわしながら、カースは不意に家族の事を思い出す。

 父は当然として、母も村では珍しい女の狩人だった。二人とも槍の使い手で、上位を争うほどの実力を誇っていた。特に二人で組んだときの連携は凄まじく、村の誰も敵わないと聞いた。両親の他には兄がいて、二人の槍の達人に教えられた彼は、同世代であれば敵なしだった。

 しかし、あの日、魔人に襲われた。

 危機を告げる半鐘を聞いた瞬間、カースに逃げろと指示をした父と母と兄は、槍を手に飛び出した。しかしカースは言いつけを守らなかった。両親と兄の戦いを間近で見たい一心で、こっそりと後を追ったのだ。

 戦いはあまりに呆気なく終わる。魔人の魔法である泡を懸命に避ける三人は、結局、あっさりと捉えられてしまい、破裂した。あんなに強かった親が、兄が、こうも簡単に殺されてしまう。恐ろしさ、悲しみ、怒り。様々な感情がカースの内を巡った。気付けば、カースは逃げ出していた。無理だ、あんなのにかないっこない。涙が溢れ、身体が馬鹿みたいに震えた。森の中で縮こまって、時が経つのを待った。

 そうして助かったカースは、その後、三人の英雄によって魔人が討ち取られた事を知った。あんなに強かった家族を殺した魔人を、別の三人が殺す。それはカースにとって衝撃的だった。不思議と魔人に恨みは抱かなかったが、強くなろうとその時決めた。家族の仇を取ってくれた三人のように、強くなって別の誰かを守れるようになりたかった。

 それから努力して、努力して、努力して、今やカースは村一番の槍の使い手だ。だが目の前のウルガは、今のカースでも決して勝てないほど強い。三人掛かりでも勝てるとは思えない。

 けれど、四人ならどうか。

 あいつは今頃、近くにいるはずだ。

 狩りに関して言えば、グリ村の中で誰もあいつと並び立てる者はいない。

 カースはウルガの猛攻を凌ぎ続けた。グリアノスならば、生じた好機を決して逃さない。

 だから今は耐え続けるのだ。カースは歯を食いしばって槍を振るった。


 グリアノスは、帝国兵と魔人兵が争う中に紛れて、息を潜んでいる。その存在感は限りなく希薄で、誰もが気付いているのに、誰も気に留めないという奇怪な状況が生まれていた。

 彼の狩猟技術の粋は、擬態である。いかに森の中に溶け込み、獲物に気付かれないようにするか。それをただひたすらに追求して来た。今や彼が本気を出して隠れれば、どれだけ気配に敏感な獣であろうとも気付く事が出来ない。だがそれは森の中に限っての話だ。人間と魔人が密集しているこの戦場で同じように出来るわけが無い、はずだった。

 しかしグリアノスは、人と魔人の集団の中に溶け込んでいる。それはお互いが戦いに集中しているせいでもあろう。生き物としての存在感を薄れさせることで、徹底的に無害な者として相手に認識させるに至ったのだ。

 それはある種の魔法が発動しているというわけではない。魔法とは、大気中に漂っている魔素を体内にある魔力器官に取り込んで、魔力と呼ばれる特殊なエネルギー体へと変換し、様々な現象を引き起こす事を言う。だがグリアノスが行なっているこれは、魔力を使用しているわけではないのである。

 長年の経験と努力によって培われた技術は、魔法の如き現象を引き起こしてしまったのだ。

 密やかに移動と停滞を繰り返しながら、グリアノスはウルガを観察する。

 真っ向から戦う事は命を捨てる事と同然なほどの実力差。カースでさえ防御に徹していなければすぐに倒されるだろう。グリアノスであれば、瞬く間に殺されてしまうに違いない。

 その癖、確実に殺せる瞬間が訪れない。いくらケルトやルグストが不意を打っても、防がれてしまうのがその証拠だ。存在に気付かれていないグリアノスでも、攻撃のために動けばすぐに気付かれてしまうだろう。

 それでも、グリアノスは矢を番えた。

 脳裏によぎるツーメルとツーグの顔。

 グリアノスは口元を緩めた。

 ツーメルとグリアノスは幼なじみである。とは言え、グリ村は小さな村だ。同世代全員が幼なじみと言える。けれど幼い頃の二人は、あまり話した事が無かった。グリアノスはそもそも同じ年頃の女の子と話す事自体が無かった。だが、ある時そんな二人の関係に変化が起きたのである。

 それは魔人が村を襲った事が原因であった。父親は戦いに急ぎ、母親はグリアノスを連れて避難場所である森の広場に向かった。グリアノスは小さいながら、尋常ではない事態が起きている事を感じ取っていた。父の事を心配しながらも、母は再三に渡ってグリアノスの事を安心させようと声を掛け続けた。それは自身に言い聞かせているようでもあった。

 森の広場に着くと、女性が泣き喚いて騒がしかった。母が事情を聞くと、避難している最中に女性は娘とはぐれてしまったそうである。

 母の決断は速かった。自分が探しに行くとその女性に言い聞かせ、グリアノスにも大人しくしているように言った。そうして母は周囲の制止も聞かずに駆け出したのである。武器も何も持たずに。

 初めこそグリアノスは大人しく待っていた。けれど母たちはなかなか戻って来ない。グリアノスは父からよく言われていた事を思い出す。男は女を守るものだと。グリアノスは広場からこっそりと抜け出した。

 村から森の広場までの道のりは、幾度となく行き来した行程だ。村の者なら誰だって目を瞑っても進む事が出来る。だからはぐれたと言う少女は村にいるはず。そこで何かが起きて来れなくなったに違いない。当然母もそう考えているだろう、とグリアノスは考えた。だから迷う事無く村へと駆けた。

 村の中は血の臭いで充満していた。もの言わぬ村人達が、凄惨な姿となって転がっている。グリアノスはそれらをなるべく見ないように務めながら、足音を立てずに移動した。

 恐ろしさはあった。今にも身体が震え出して、一歩も動けなくなりそうだった。だがグリアノスは、足を前へと突き動かした。

 ふと音が聞こえて来た気がした。グリアノスは足を止めて耳を澄ませる。それは母の声だった。聞き間違えるはずが無い。グリアノスは喜び勇んで駆け出した。

 民家の角を飛び出すと、グリアノスは母と両膝を地面に着けている少女の姿を見つけた。けれど母は、少女の前に庇うように立ち塞がっている。それもそのはずだった。母の前にいるのは、恐ろしい姿をした魔人であったからだ。

 グリアノスは思わず「母さん」と怯えた声を出した。母ははっと振り返る。そうしてようやくグリアノスの存在に気付いて驚きの顔を浮かべた。しかしすぐに視線を前に戻して、魔人を睨みつける。母は言った。「その子を連れて速く逃げなさい」

 グリアノスは少女を見た。彼女はツーメルであった。ツーメルは足を挫いて立ち上がれない様子であった。グリアノスは近寄って手を貸し、彼女を起き上がらせる。けれど動かずに母の背中を見た。迷った。母だけを置いて先に逃げてしまってもいいのか。一緒に逃げるべきではないのか。「速く!」轟く母の怒声。こんなに怖い声を聞くのは初めてだった。グリアノスはびくりと身体を震わせると、ツーメルを背負った。走った。

 何かが爆ぜる音が背後から聞こえた。グリアノスは後ろを振り返らなかった。代わりにツーメルが後ろを見た。彼女の目から涙が溢れる。「おばさんがぁっ!」

 グリアノスは振り返らない。振り返れば立ち止まってしまう。立ち止まれば次に母の元へと戻ってしまう。それが分かっていた。分かっていたから振り返る事が出来なかった。母にこの少女を助けるように言われたから。戻ってしまったら少女を助ける事が出来なくなってしまうから。

 ツーメルはぎゅっとグリアノスを抱きしめて泣き喚く。「ごめんなさいっ! 私のせいでっ! ごめんなさいっ!」頼むから謝らないでくれ、とグリアノスは思った。だけど言葉は出なかった。声を出せば泣いてしまうと思った。グリアノスはがむしゃらに走った。

 後ろから足音が聞こえる。魔人が追って来ているのだ。「魔人が!」ツーメルはまた後ろを見たらしくそう叫ぶ。このまま広場まで魔人を連れて行くわけにはいかない。グリアノスは広場と逆方向へと走り森に入った。大人達に子供だけで入るなと厳命され続けて来た森。だがなりふり構っている場合ではなかった。グリアノスは木々の隙間を潜り抜けて行く。魔人は執拗に追って来ているが、距離を縮めて来ない。きっと森の中を進むのに慣れていないのだろう。ツーメルは泣きじゃくる事はなくなっていたが、ぐすぐすと鼻をすすっている。グリアノスはすぐに広場に行かなかった事を詫びた。すると小さく首を振る気配。彼女は大丈夫だと答える。

 不意にツーメルが驚きの声を上げた。彼女は右横を見ている。グリアノスは視線に釣られて見ると、泡が一つ飛んで来た。魔人の魔法だった。嫌な予感がしたグリアノスは、たまらず泡とは逆側へ逃げた。しかし逃げた先にも泡が。そうしてその泡は、グリアノスの頭部へ近寄って来た。避けようとするグリアノス。だが無理にかわそうとすればツーメルに当たる。無理だ。避けられそうにない。絶望するグリアノスとツーメル。泡はグリアノスの頭部へ吸い込まれた。ツーメルの甲高い叫び声が響いた。

 しかし、泡は爆発しなかった。奇妙に思ったのか、魔人は首を傾げて足を止めた。

 もしかしたらそれは、奇跡と呼ばれるような現象だったのかもしれない。怒りの感情が魔力を増大させる効果があるのならば、絶望や恐怖と言った感情は魔力を弱くさせる特性があった。そうして泡は、侵入した相手の魔力を喰らい、膨張し、爆発すると言う魔法だった。つまり魔力が弱ければ弱いほど威力が低減するのである。さらに言えば、グリアノスは先天的に魔力が弱かった。子供であればなおさらである。様々な偶然が折り重なった結果魔力が足りなくなり、泡は人体を破裂させるほど膨張しなかったのであった。

 グリアノスとツーメルは何も起きなかった事に安堵を覚えた。魔人は魔人で、何故いつも通り人体を破壊できなかったのか分からず戸惑っている様子だった。それを見たグリアノスは、今だ、と藪の中へ身を投じた。鋭い枝が二人の身体を傷つける。肌が裂かれて血が出ても、グリアノスはもちろん、ツーメルも声を上げなかった。

 魔人は慌てて後を追うが、大人の大きな身体では藪の中を思うように進めない。すぐに見失ってしまったのだった。

 そうして、二人は魔人が追って来ていない事を確認すると、無事に広場へと戻ることが出来たのである。ツーメルの母親が涙を流しながら娘の事を抱きしめて、親子の再会を噛み締めた。けれどすぐに、探しに行ったグリアノスの母が戻って来ていない事を疑問に思う。事の顛末を泣きながら説明するツーメル。驚愕の顔を浮かべた彼女の母は、悲痛な面持ちでグリアノスに対して感謝と謝罪を述べた。ツーメルはグリアノスの事を抱きしめて、再び「ごめんなさい」を号泣しながら繰り返す。

 グリアノスは、目に涙を溜めながら首を横に振った。母が死んだのはツーメルのせいではない、と言うような事を言おうとして口を開く。だが、言葉が思うように出て来ない。かろうじて「……お……お」と言えただけ。「……どうしたの?」とツーメルの母が不安そうに聞く。しかしやはり、グリアノスは思うように言葉が出ない。「……もしかして、喋れなくなったの?」と、恐ろしいものを見るような顔で尋ねるツーメルの母。頷くグリアノス。愕然とするツーメルと母親。

 あの時グリアノスの頭部に侵入した泡は、確かに破裂しなかった。けれどグリアノスの小さな魔力で、僅かにではあるが泡は膨張していたのだ。そうしてその際に、脳における言語中枢に傷をつけてしまったのである。結果、彼は上手く言葉を言えなくなってしまったのだった。

 その後、グリアノスの父親の死亡が発覚したが、ツーメルの父親は運の良い事にちょうど狩りに出かけていたおかげで無事であった。ツーメルとその一家は、娘の命の恩人であり、そのために天涯孤独の身になってしまったグリアノスを一も二もなく引き取った。彼らの、特にツーメルの献身的な世話のおかげで、グリアノスはぶつ切りであるが喋れるようなる。ツーメルの父は、魔法の才能が無いグリアノスに狩りの方法を伝授した。

 だがさらなる悲劇が一家を襲う。帝国と周辺の国々同士で戦争が勃発したのである。駆り出されたツーメルの父が戦死し、後を追うように母は病に冒されて死んでしまう。そんな中、グリアノスとツーメルは互いを支え合い、想い合うようになったのだ。

 魔人とは何なのか。グリアノスにはよく分からない。村を襲撃した魔人には怒りが沸くし、憎しみが無いとは言えない。けれど次に訪れた二人組の魔人は善良だった。ツーメルが患った奇病を治療し、村を襲った魔物を倒してくれた恩人でもある。

 今現在戦争している魔人に対しては、グリアノスは怒りも憎しみも無い。村を戦火に巻き込ませたくなかった。戦争からツーメルやツーグを守りたかった。そのために戦争を少しでも早く終わらせたかった。ただそれだけの想いで、グリアノスはこの戦争に参加しただけだった。

 ともかくも、今は目の前にいる獣の魔人を殺す事だ。そうすればきっと、少しでも早く戦争が終わるだろう。

 グリアノスは、仲間を信じて待った。必殺の隙ができるのを。

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