七十一 会戦

 強風が草原の上を駆けた。

 津村実花の短い髪を乱暴に乱す。けれど彼女は狼狽えることなく真っ直ぐ前方を見続けている。

 今、正に会戦が始まろうとしていた。

 総勢数十万の帝国軍は、大きく五つの部隊に別れている。真ん中の最も前に位置しているのは前陣。その前陣を右翼と左翼が挟んでいる。中央には最も分厚い本陣。その後ろに横一列に並ぶ後陣が背後を守っている。些かの乱れも無い見事な陣形であった。

 本陣には総大将の帝王オルメル・ノスト・アスセラス三世がいる。帝王自ら参戦しているだけあって、帝国兵達の士気は今まで以上に膨れ上がっている。

 対峙するマ国軍は、十万に満たない。しかも陣形の知識がないのか、ただ適当に並んでいるだけだった。端から見れば、帝国軍が圧倒的に有利である。しかしマ国軍は、一見圧倒的に有利な帝国軍を、幾度も破って来た実績があった。

 決して油断できる相手ではないことは明白である。


 グリアノス達は前陣の中にいた。どういうわけかケイザル・トラガに気に入られて、彼の指揮する部隊に組み込まれたのである。

 訓練する時間は余りなかったため、同じ時期に訓練をした元志願兵達の多くが、後陣に配置された事を思うと、グリアノス達は高い評価を得たと言える。

「……ようやく、魔人共に目に物を言わせられるな」

 ルグストは舌舐めずりをして言った。

「ああ」

 と、ケルトが賛同する。

 たった一人の魔人に襲撃された過去を持つグリ村は、いつか魔人達に思い知らせたいという想いが強い。ケルトもその一人だが、特にルグストはその傾向が強く、殺意をみなぎらせている。

 ただグリアノスとカースはそうではなかった。魔人への怒りはある。だがそれはグリ村を襲った魔人に対するものだ。そうしてその魔人は、オルメル達三人の英雄の手によって殺されている。

 二人はただ村の仲間や家族のために戦うのだ。

 抱く感情はそれぞれ。四人は開戦の合図を待ち続けている。

 

 実花達遊撃部隊は、グルンガル・ドルガ率いる騎士団とともに、本陣の前方にいた。

「いよいよだな」

 ゴーガは楽しそうに頬を緩ませる。

「あなたは本当に楽しそうですね。私は今すぐにでも逃げ出したいですよ」

 キルベルは呆れながら言った。

「お前がか? 笑えない冗談はよせよ。いつも楽しそうに策を練っているじゃないか」

「状況を分かっているんですか? どこにどんな魔人がいるのか分からないんですよ。それこそズンガみたいな奴が出てくるかもしれないのに」

「最高じゃないか」

「……あなたって人は」

 二人のやり取りを、カナルヤ・レイは楽しそうに眺めて、傍らに立っているレゾッテに尋ねる。

「この二人、いつもこうなのか?」

「まあ、いつもの事なのは間違いないですね、お師匠様」

 実花はそうした彼らの様子を横目でちらりと見ると、すぐに視線を前方に向け直した。

 いよいよここまで来た。この戦場にマ王が出陣しているのかまだ分からない。だが、ここで戦える事は、実花にとってまたとない好機だ。

 実花は自分たち遊撃部隊の目標を思い返す、

 倒すべきは飛行する魔人達。特に実花が相手をしなければならないのは、虫じみた容貌の魔人だ。この魔人が飛ぶと、後ろから音が聞こえてくるという。実花の予想が確かなら、この魔人は音速を超えているに違いない。恐らくは、メルセルウスト最速の存在。マッハの速度で行なう体当たりの威力は想像を絶する。あのグルンガルですら、勝てるかどうか分からないと言うほどの強力な魔人である。

 しかし、実花が最も相性のいい魔人だとも言っていた。グルンガルが言う事だ。間違いないだろう。

 実花の頬を冷や汗が伝う。

 今日、また、魔人を殺さなければならない事実を思い出す。それも一人や二人では済まないに決まっている。これは戦争なんだから、沢山殺さなければならない。

 実花は英雄なのだから。英雄は沢山殺すことでなれるものなのだから。

 実花の手が震え出す。

 殺すのが怖い。命の奪い合いが恐ろしい。

 でも、これは、お兄ちゃんに再び会うために必要な事。何十回も、何百回も、繰り返し繰り返し言い聞かせて来た事だ。

 その度に思う。言葉は空虚だ。手の震えを止める事が出来ないぐらいには。


 マ軍の最も後方にマ王ツァルケェルはいる。

 彼の傍らに立っているセールナは、戦場のぴりぴりとした空気を肌で感じていた。

 もうすぐ始まるんだ。セールナは、期待と不安が入り交じった複雑な感情を胸に抱く。マ王の悲願が達成するか、マ国の崩壊か。その分かれ目に立っているのだと思う。

 どちらにしろ、セールナが最も優先する事は一つだけだった。それはツァルケェルを守る事。そのためならば、この命と引き換えにしても構わなかった。

「……この戦場に、ツムラミカはいると思うか?」

 不意に、ツァルケェルはそう尋ねて来た。いつもの仮面を被っているおかげで表情が読めないが、ズンガの敵討ちをしたいと思っているのだろう。思えばズンガとの付き合いも長かった。

「……まだ、分かりません。部下にはツムラミカを見つけたらすぐに知らせるように伝えてありますので、マ王様はどっしりと構えておいてください」

 答えたのはガーガベルトだ。さすがの手回しの良さである。

「そうか。頼む」

 ツァルケェルはそう言うと、右腕を前に突き出す。

 ぴり、とした緊張感が、マ王の周囲にいた魔人兵の間に走った。

「今こそ我らが宿願を果たす時! 全軍前進!」







 ネルカの頭上に広がっている空は、不安になるほど青かった。

 白い雲は苦しんでいるかのように青の中で散り散りに散らばり、太陽が恐怖を与えようと輝いている。

 ネルカは一人、深閑な貴族街の中を歩いていた。青いツインテールをなびかせて、いつものメイド服ではなく、セーラー服を着ている。

 ネルカは実花の出陣に合わせて休暇を貰った。だが実花はいつ帰って来れるか分からない身。ほどほどのところで何かしらの仕事をしなくてはならなくなるだろう。

 とは言え、まとまった休みを貰えたのは、メメルカ・ノスト・アスセラスに仕えてから初めての事だった。

 休みなのでメイド服を着る必要は無い。しかし私服を持っていなかったから、ネルカはセーラー服を着ているのだ。実花のために作るついでに、自分の分も作っておいたのである。作ってみた当初は、まさか本当に着る機会があるとは思わなかったのだけれど。

 髪型がツインテールのままなのは、休みの時でもこの髪型でいなければいけないと厳命されているからだった。唯一他の髪型が許されているのは、就寝時とお風呂に入る時ぐらいである。

 歩き進めて行くと、貴族街と商業区のちょうど境目に、大聖堂ミカルトがあった。敷地内に入ると、一般向けの礼拝堂へと向かう。

 さすがは帝国内で最も神聖な場所の一つとされるミカルトの礼拝堂である。百人以上入れそうなほど広い。整然と並ぶ長椅子で、多くの人が祈りを捧げている。

 ネルカも空いている場所を見つけると、その中の一人になった。

 手を組んで、目を瞑り、実花の無事を祈る。

 実花が戦場に赴くと決まった時、ネルカも一緒に行くと頼んだ。けれど優しい実花は、迷ったような顔を見せて、危ないから来ないで、と言った。諦めきれないネルカは、次にメメルカに直接頼んだ。今思えば、良くそのような大それた事が出来たと思う。それだけ必死だったのだろう。けれどメメルカからも許可は貰える事が出来なかった。そればかりか、今まで実花に尽くして来た事を褒められて、長い休暇を与えられてしまう始末である。

 実花のために何かをしたい。でも今はこうして祈るしか他になかった。だからネルカは、毎日教会に通っている。

 たっぷりと祈って、さあこれからどうしようかと立ち上がった瞬間、隣にいたシスターと目が合った。

「あ」と、シスターが言う。「あなたは、ツムラミカ様と一緒にいらしたメイド様?」

 ネルカは記憶の中を探る。メメルカに連れられた実花の付き添いで、大聖堂に来た事があるのを思い出した。ネルカは良く覚えていないのだが、どうやらその時にいたシスターの一人らしい。

「……えと、そうですけど」

「すみません。長い時間、とても真剣な顔でお祈りしていらっしゃったので、気になってしまいまして。もしよろしければ、お話をお聞かせてもらえませんか?」

 ネルカは考える素振りを見せて、結局受諾した。

 それからシスターはネルカを外に連れ出した。連れて行った場所は木が一本立っているだけの人気の無い中庭だ。気持ちの良いそよ風が吹いていて、梢が囁いている。

「申し遅れました。私、シニャと申します」

「……私はネルカです」

「ネルカさん、ですね。その服、ツムラミカ様が着ていらした服と同じで、とても可愛らしいです」

「ありがとうございます。この服は、私が作ったんですよ」

「それは凄いですね!」

「いえ、大した事では」

「それで、なぜあんなに思い詰めた顔でお祈りをされていたんですか?」

 ネルカは悩んだ。真実を話すべきかどうかを。けれどシニャは、本当に心配そうな瞳でネルカを見つめてくる。

「これからする話は、どうか他言無用にして頂けないでしょうか?」

「もちろんです。私どもは、メルセル様とウスト様に誓い、相談事を絶対に他人に漏らしません。ですから、ご安心ください」

「……ツムラミカ様の無事をお祈りしておりました。彼女は、本当は普通の優しい女の子なんです。それも、魔人を殺した事に思い悩むほど。本当は戦争何てしたくないはずなんです。ですが、彼女は、彼女の目的のために、そうせざる得なかったのです」

「そうでしたか。英雄とは私達とかけ離れた普通ではない存在。そんな風に私は思っておりました。ですが、どうやら本当は違っていたようですね」

「はい。彼女は、ただただ目的のために戦っています。ですが、彼女が戦えば戦うほど、どんどん元の優しい彼女から変わって行くように私には思えてなりません。私はそれが見ていて苦しいんです」

「お止めにはならないんですか?」

「それができれば、とうの昔にしております。ですが、それができない事情があるのです」

「事情、ですか。もしよろしければ、その事情をお話し願い無いでしょうか?」

「それは出来ません。もしも私が話してしまえば、命の問題に関わってしまうでしょう。私はもちろんのこと、シニャ様にとってもです」

「それは……軽率でした」

「いえ、仕方が無いです。そういうわけですから、私には祈りを捧げる他にないんです。それに私は、そもそも止める資格もないんです」

「と、言うと?」

「……私にも、もちろん家族がいます。もう何年も会ってはいませんが、それでも大切な家族です。私は、ツムラミカ様に、私の家族を守るためにも戦って欲しいと、そう願ってしまったのです。私もまた、彼女に対する足枷になってしまっているんです。それが、とても心苦しい」

「大切な家族のためとなれば、みな、必死になるものです。ネルカ様のその想いもきっと、ツムラミカ様にはご理解なさっている事でしょう。どうか自分で自分を追い込まないでください。ネルカ様がするべきことは、ツムラミカ様に暖かく接してあげる事なのですから」

「ありがとうございます。肝に銘じます」

「はい」

 と優しく微笑んだシニャは、それから悩む素振りを見せた。どうしたのだろうか。ネルカは訝し気な視線を送る。

「……それで、その、私の方からお聞きしたい事があるのですが」

 それからようやく決心がついたのか、シニャは尋ねた。

「私に答えられることであれば、何なりと申して下さい」

「ありがとうございます。ただ私からも同じお願いがありまして、これから話す内容は誰にも言わないで欲しいんです。……ネルカ様にも危険が及ぶかもしれませんから。ちなみに、ツムラミカ様と関係がある話かもしれません」

 危険、とは何だろうか。一瞬ネルカはたじろぐ。だが実花に関する事ならば、何が何でも聞いた方が良いに違いない。

「……もちろんです」ネルカは神妙に頷く。「私も、メルセル様とウスト様に誓います」

「ありがとうございます」シニャは軽く頭を下げてから、それから口を開く。「私は昔、ツムラミカ様と同じ色の髪と目をした女性に会った事があるんです。その子の事を、何か知っていらしたら教えて欲しいんです。名前は、ユリエと言います。彼女は、男の子と一緒にいました」

「……ユリエ?」

 聞き覚えのある名前だった。ネルカは記憶から呼び覚ます。

「その名前は、ベネトで聞いた事があります」

「本当ですか?」

「はい。今はもう町から離れているようなのですが、食堂で働いていたそうです。ですが、残念ながらツムラミカ様もその子のことは良く知らないんです。ただ……男の子と一緒にいたと言うのは初耳です。男の子の方の名前は何と言いますか?」

「……ミノル、と言います」

「ミノル!?」

 ネルカは驚愕で目を大きく開いた。口元に手を当てて、わなわなと震えている。

 思わぬ反応に、シニャは驚く。それから周囲を見回した。秘密とされたことをネルカに話した事がばれてしまえば、ただでは済まないからだ。しかし同時に、ネルカの尋常ではない様子にただ事ではないものを感じた。

「……その方も、黒い髪や黒い目をしておりませんでしたか?」

 震えるまま、ネルカは尋ねた。

「いえ……フードを目深に被っておりまして、そこまでは分かりませんでした」

「……実は」と、ネルカは重々しく口を開く。「ツムラミカ様の目的と言うのは、行方不明になったお兄様を探すことなのです」

「……え」

 何かを察したのか、不安そうにシニャの眉がハの字になった。声も震えている。

 嫌な予感がする。けれど、ここで引くわけにはいかない。ネルカは言う。

「……名前は、ツムラミノル。もしくは、ミノルと申します」

「そ、それは……本当なのですか?」

 じり、とシニャは半歩後退った。

「確かです。ツムラミカ様は、確かにそうおっしゃっておりました」

 シニャは、何か深く考えている様子だ。

 何か、重要な何かを、彼女は知っている。それを察したネルカは、ただ待った。シニャが答えを言うのを。

「先程、誓って頂きましたが……」シニャは、小声で念を押す。「決して誰にも、言わないで下さいね」

「はい」

 ネルカはごくりと喉を鳴らす。今この場に実花がいないことを、残念に思うべきか、ほっと安堵するべきか。

 シニャはもう一度辺りを念入りに見回して、誰もいないことを確認した。

 そして、言う。

「ユリエ……それからミノル……。この二人は、魔人なのです」

 ネルカは、絶句した。

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