六十七 カナルヤ・レイ
一歩進めば進むほど、森は人を拒むように、より険しくより深くなっていくようだった。
木々は長い年月を感じさせるほど太く、そこから伸びた枝葉は複雑に絡み合って日の光を遮っている。様々な植物が高く伸び上がり、おかげで先を見通せない。中には鋭く尖った葉もある始末で、少し掠めただけで傷を負いそうである。濃密な緑の臭いは、ここが人が住む場所ではないと言葉無く告げていた。
「本当に、このような場所に住んでいるのですか?」
長袖のシャツを着、長ズボンを履き、帽子を被り、美しい金の髪を後ろで括ったメメルカ・ノスト・アスセラスは、額に汗を滲ませながら疑問の声を思わず吐いた。
「はい」と、答えたのはローブで全身を包んでいるレゾッテだ。「お師匠様は生粋の人嫌いでして、人の気配のない場所を選んで行くうちにこのような場所にまで辿り着いてしまったのです」
「なんともはや、あの英雄の一人がこのような場所に住んでいようとは想像もしていませんでしたね」
最後尾にいる真っ黒い鎧を着込んだキルベルは、背中に荷物を背負い込んで、周囲を警戒しながらそう漏らした。
三人は帝都から一日半弱の距離にある森に来ていた。かつて大陸に侵入した魔人を討ち取った英雄の一人、カナルヤ・レイを戦争に参加させるためである。
なぜ王女であるメメルカ自身がこのような場所に来ているのだろうか。それは同じく英雄の一人である父のオルメルに直訴した結果であった。答えは簡潔である。「どうしても奴を参加させたくば、お前が行き説得しろ。グルンガルは連れて行くな」
嫌そうな父の顔を見る事が出来たのは見物だったものの、いざこうして来てみれば、もはや後悔しか無かった。だがそのような気持ちを一切表情に出さずに優雅な笑みを浮かべているのは、さすがとしか言いようが無い。
「そういえばレゾッテ様はカナルヤ様の弟子でしたね。どのような方なのですか?」
キルベルは何気なくそう尋ねた。
「……お師匠様は、変な方でしたわ。当時戦争孤児だった私を拾って貰えたのは大変感謝しているのですが、やれ料理を作れ、掃除をしろ、と口酸っぱく命令し、不味かったり掃除が不十分だとこっぴどく怒られてしまいました。奴隷か何かのつもりだったのかもしれません。ですが、魔法を教えてもらえたり、美味しいお菓子を用意してもらえたり、とても良くしてもらえてもいたので、良く分からないのですが。一度間違えてお母さんと呼んだ時は、うるさい、私をお母さんと呼ぶな、と怒られてしまいました」
レゾッテは当時の事を思い出しているのだろう。遠い目をして語る姿は、とても懐かしそうである。
キルベルは彼女が戦争孤児だった事を今初めて知った。けれど彼も似たような境遇であったために、何も感じる事はなかった。
「そんなある日、もうお前に構ってやるのにも飽きた。出て行け、と当面のお金と幾つかの宝石だけを渡されて、家から追い出されてしまいました。今思えば、私に外の世界を知れ、とか、そういう事だったのかと思いますが……その時はあまりのショックに、泣きじゃくりながら森を抜けて、気が付いたら帝都に辿り着いていました」
「そういう経緯があったのですね」
メメルカは納得した、と言う風に頷いた。
「はい。メメルカ様とお会いできたのは、そのすぐ後でございました」
「懐かしいですね。今でも可愛いけれど、あの頃のあなたもとっても可愛かったのよ。ウブで、何も知らなくて、とても教えがいがありましたわ」
「はい。私もとても感謝しています」レゾッテは顔を赤く染め上げて、続ける。「それで、その……」
「ええ、分かっていますとも。帝都に無事に帰る事ができれば、楽しみましょう」
うふ、とメメルカは笑った。
「はい! お願いします!」
心底嬉しそうに笑うレゾッテを見ながら、キルベルはやれやれと呆れ果てたのだった。
「この辺りのはずなのですが……」
レゾッテは木々の隙間から顔を出して辺りを見回した。けれどそこには、記憶にあった建物が何処にも見当たらない。
「……どうやら移動したようですね」
そう呟くと、今度はがさがさと付近の木の幹を観察し始めた。メメルカとキルベルが訝しい視線を向ける中、何かを見つけたのか、「あった」と言う声が上がった。そこにはナイフのような鋭利な刃物で印が刻まれている。
「こちらです」
当人同士でしか分からない印を読み取ったレゾッテは、早速二人を案内する。
歩を進めるに連れて、滝の音が聞こえて来た。彼らが進んでいる方向と合致しているようで、歩くたびに音が大きくなって行く。
鬱屈した木々の隙間を抜けると、途端、視界が開けた。
太陽の光が目に飛び込んで、目が痛いぐらいに煌めいている。
目が光に慣れてくると、切り立った崖がそびえ立っていることに気付いた。そこから水が一直線に落水し、底がはっきりと見えるぐらいに澄んだ川となって流れて行く。川岸には丸く扁平な石で埋められて、その合間から短い緑の草が生い茂っていた。そこかしこに赤い花が咲き誇り、傍らには木で出来た粗雑な家が一軒だけぽつりと建っている。家には紋様が描かれているが、魔物除けのためだろう。
魔法で加工された石造りの帝都に慣れた面々にとって、眼前に広がる光景はとても神秘的だった。
レゾッテは、この森で長い間過ごして来ただけあって、慣れた様子で家に向かって歩き出す。とは言えその心中は、さすがに少しばかり緊張している。何しろ師匠と会うのは、追い出された日以来だ。それも、二度と来るな、という言葉もおまけについていた。レゾッテを外の世界に出すための、カナルヤなりの気遣いなのだろうと察してはいる。だがあの師匠のことだ。本気の言葉である可能性をレゾッテは否めない。
そうしてレゾッテは、扉を二度、こんこんと軽く叩いた。
しかし中で動く気配はない。
「私です! お師匠様! レゾッテです!」
そう呼びかけた瞬間、レゾッテは殺気を感じた。
間髪入れずに扉がひとりでに開く。驚きの声が後ろから聞こえた。
「危ない! 離れて!」
大声を上げた瞬間、扉一杯の大きさの炎が中から吹き出した。
慌てて横へ逃げ出したレゾッテを、どういう理屈か、炎が追いかけて来る。
レゾッテは逃げるのは無理だと判断した。足を止め、両手を前にかざして強い風を発生させて炎を押しとどめる。
だが、それも時間の問題だ。炎は強風に負けずに、じりじりとレゾッテに近寄ってくる。
「もう来るなと言っただろう! レゾッテ!」
中から怒鳴り声が聞こえて来た。それとほぼ同時に、カナルヤが姿を見せる。
明るい紫色の髪は太股に届くほど長く、細面の顔は、メメルカに負けず劣らず美しい。豊満な胸とくびれた腰に大きなお尻が、見事なほど調和を保っている。それなりの年齢に達しているはずなのに、その美貌はそこらにいる若い女性が逃げ出すほどだろう。
百人に聞けば百人が美人と答えるほどの女性であるが、久方ぶりに表れた弟子に対して、間違いなく本気の殺意に満ちた瞳を何の臆面も無く向けていた。
あまりの急展開の出来事に、キルベルは、むちゃくちゃだ、と内心で愕然とする。だが放っておけばレゾッテが殺されてしまう。もはや実力行使しかないか、と明らかに格上の存在に対して覚悟を決めた矢先だった。
「お止めください! カナルヤ様!」
メメルカが焦った様子で声を張り上げたのである。彼女が焦っている姿を露にするのは珍しい。カナルヤは、それほどまでに鬼気迫っていたのだ。
とうのカナルヤは、魔法の手を止めずに顔だけをメメルカに向ける。すると思案しているかのように、首を傾げた。
「私です!」攻め時だと感じたのか、メメルカはさらに声を張り上げる。「帝王オルメルの娘、メメルカです! 急な来訪申し訳ありません! しかし火急の用があり、レゾッテ様にご案内を頼んだ次第なのです! 彼女に非はありません!」
「あのオルメルの娘か!」
それでようやくカナルヤは魔法を止めた。炎が消え去ると、レゾッテはあからさまに安堵した顔で自身も魔法を停止させる。生きた心地がしなかったのだろう。顔中から汗が吹き出ていて、呼吸も荒くなっていた。
「それならそうと早く言えば良いのに。この馬鹿弟子が」
吐き捨てるようにカナルヤは言った。
「そ、それはお師匠様のせいで、説明する余裕が全くなかったからで……」
「言い訳するな! 全く。その様子だと魔法の腕はあまり上達していないようだな」
キルベルには、ふふん、と笑う彼女の姿が、失望しているというよりも、嬉しそうに見えた。
「お師匠様が規格外過ぎるんですよ……」
「ふん、まあいい」カナルヤはメメルカの方へ振り返って言う。「お姫様。ここで立ち話をするのも何だ。中に入ると良い」
それから彼女は颯爽と身を翻して、家の中に入って行く。
「それでは失礼致します」
メメルカはカナルヤの態度を全く気にする様子もなく、後に続く。
何となく取り残されたキルベルとレゾッテ。
「その、大変ですね」
と、キルベルはぽつりと呟いた。
「……ええ、本当に」
そう返したレゾッテは、どっと疲れていた。もちろん心労で。
家の中は簡素だった。部屋は一室だけ。
壁際にはベッドと、かまど、それから棚が設置されている。それから二人分ぐらいの大きさしかない机が中央に置かれていた。
広くはない。住めるのはせいぜい二人程度だろう。そんな空間に四人の人が入れば、なかなかに狭苦しい。
この中で最も部外者なのはキルベルだ。彼はただ王女の護衛としてついてきただけだった。
「少し手狭ですね。私は外で待っています」
だから率先して家から出た。
カナルヤはキルベルが出て行くのを見届けると、たった一つしか無い椅子に腰掛ける。
「悪いが椅子は一つしか無くてね。私が座らせてもらうよ」
普通ならば、王女殿下に椅子を勧めるはずだ。なのにその態度は、自分の方が地位が高いと言わんばかりである。
「構いません」と、メメルカは気にする素振りを見せないばかりか、涼し気に微笑んだ。「私はあなた様にお願いをしに参りました。むしろ私は立っているべきでしょう」
「ほう。お願いとな」
「はい。今現在我が帝国は、ドグラガ大陸で新しく出来た国、マ国と戦争を行なっています」
「マ国……? 魔人が国を作ったって言うのかい」
「その通りです。それも、帝国が攻めているのではなく、マ国に攻められているのです」
「魔人が帝国を? 逆なら分かるが。オルメルはドグラガ大陸を攻める準備をしていたはずだろう?」
「はい。ですが、帝国に攻めて来れるはずが無い、と言う思い込みを利用されて奇襲を受けました。勢いはものすごく、内部深くまで進攻されましたが、今はグルンガル様のおかげで港町ギガルまで押しとどめる事に成功致しました」
「それで今はギガルを攻めている最中ってわけか。あいつの腕なら、追い返すのも時間の問題だろう。私の手はいらないはずだ」
「それが、違うのです。グルンガル様の隊は、新手の奇襲によって思わぬ損害を出し、今は帝都に戻っているのです」
「なに?」
「相手の魔人は、何でも空を飛んでいたとか」
「空を飛ぶ魔人? いや、有り得るな。魔人ならいてもおかしくない。それで、グルンガルは無事なのかい?」
「はい。幸いながら軽傷で済んでいます。次は恐らく総力戦になるだろう、と言うのが大方の予想です。その戦いに、カナルヤ様にも参加して欲しいのです」
「オルメルは何と言っている?」
「カナルヤ様に協力して欲しいのなら、お前が説得しろ、と。その、言いにくいのですが、父はあなたと会うのを嫌がっているように感じられました」
「ほう」カナルヤは愉快そうに笑みを浮かべる。「その情景が目に浮かぶようだ。分かった。良いだろう。嫌がらせのために参加するのも悪くない」
「ありがとうございます」
一連のやり取りを、キルベルは家の外で聞いていた。扉は開けたままだったから、話を聞く事が出来たのだ。
帝王オルメルと、帝国最強の剣士グルンガル・ドルガ、それから最高峰の魔法学者であるカナルヤ。この三人の英雄が幼なじみであったことは、知る人ぞ知る事実だ。だからこそ、カナルヤは帝王やその娘に対して不遜な態度を取るのだろう。最も彼女の性格の問題が理由の大半を占めているが。
「今日はここで泊まると良い」
家の中からは、そうした提案がカナルヤの口から出た。メメルカは礼を述べながらあっさりと承諾した。
だが四人がこの家の中で寝るのはきついだろう。机を片付けるとしても、三人でギリギリに違いない。
そうして、たった一人の男であるキルベルが外に寝る事になるのは必然。
やれやれ、テントは用意してあるからいいんですけどね。キルベルは心の中で嘆息した。
「そういえば、あの坊やはどうしている?」
キルベルが作った夕飯を外で摂っている最中であった。カナルヤはそう質問した。レゾッテは首を傾げ聞き返す。
「坊や、ですか?」
「ゴゾルだ。あの坊やは今はどうしている?」
「研究所から出て行きました」と、メメルカが答える。「今は独自に研究を続けているようです」
「あいつは紛れもなく天才だった。だが、何か別の目的のために魔法を研究していた節がある」
「別の目的ですか?」
「ああ。帝国のため、あるいは純粋な魔法への好奇心のためとは違う何か別の、個人的な目的。あいつは何を考えているのか分からないが、あの目は危険だ。場合によってはこの国が、いや、この世界そのものに関わるものやもしれん」
「それは危険な事なのでしょうか?」
「何とも言えん。もしかしたら取るに足らぬことかもしれぬし、世界が滅びるほどの事かもしれん。メメルカ、あいつには注意するがいい」
「……分かりました」
朝焼けの光が目に眩しい時刻。
港町ギガルの波止場にて、ウルガ、ペル、ケープ、ルンカナ、それから幾人もの魔人が集っている。彼らの視線の先には、悠々とこちらへ向かってくる帆船が数隻あった。
あの船にはマ王が乗っているはずである。
ウルガ達は直立不動の姿勢のまま、一言も声を発する事も無く帆船を見続けていた。
やがて帆船が接岸すると、マ王ツァルケェルの姿が見えた。その後ろには、ガーガベルトにセールナ、メルもいる。
歓声が沸き起こった。どれもこれもマ王を讃え、無事に合流を果たした事を喜ぶ声だ。
ツァルケェルは片手を上げて歓声に応えながら、ゆっくりとした歩調で船から降り立った。
「お待ちしておりました、マ王様」
ウルガが恭しく一礼すると、背後に並ぶ魔人達は慌てて姿勢を正して同じように礼をした。こういった事に慣れていないせいか、どことなくぎこちない。
「……楽にしろ」
マ王が命じると、魔人達は「はっ」と威勢良く返事をして思い思いの楽な立ち方に変わった。いわゆる休めの格好でないのは、ここが地球でないからなのか、あるいは魔人にそういう習慣がないからなのか。
「みなの者長い間ご苦労だった」と、ツァルケェルは話し始める。「過酷な任務であったと思う。様々な困難に立ち向かうのは、屈強な魔人であっても容易いことではない。死者も多く出た事だろう。だが我々に悲しむ余裕は無い。我々には使命がある。死んだ者たちのため、これから生きる者たちのため、我々は帝国を倒さなければならない」
ツァルケェルは魔人達の顔を見回した。全員が真剣な表情で聞いてくれている。
「みなの者、これからも手伝ってくれるか?」
大きな声が上がった。口々に参加を表明している。少なくともこの場にいる者達は、ツァルケェルに賛同してくれるようだ。
「みなの者、ありがとう」
ツァルケェルは片手を上げて言った。
宴が開かれた。それは朝から晩まで続く盛大なものだった。
規模をもっと小さくしたらという意見もあるにはあったが、それは他ならぬツァルケェルが却下し、さらに出来るだけ盛大にしろと命じたのである。
そうして太陽が夕闇の中に溶け込んで行く頃合いに、ツァルケェルは、気にせずに宴を続けよとガーガベルトに命じた。それからこの町で最も大きな家、すなわち町長の家に向かう。それがマ王に宛てがわれた当面の住まいだった。
高価な絨毯、高価な壷、彫刻に絵画。それらに目を通しながらツァルケェルは寝室に向かった。
寝室には大きなベッドが置かれている。数人が寝ても十分なほど広いものだ。
ベッドの縁に腰掛ける。柔らかい感触だった。
「……ついに……戻って来たぞ……」
仮面を手で抑えながら呟いた。声は暗く、強い感情が込められている。
続いてぼそぼそと言う。
はっきりとした言葉になっていないそれは、誰かの名前のようであった。
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