永沼家

 スーパーでジャガイモとタマネギを買い、買い物袋を片手に、騒がしい国道をできるだけ意識しないように自宅へ歩く。それでも、ハイビームのまま市街地を走る車なんかがいると苛立つことこの上ない。そんな馬鹿に運転免許が与えられてしまうようなこの国の規制も緩さも悪いのだろう。

 いわゆる新興住宅街の国道から一本入ったところに僕の家はある。土地の広さで言えば周りの家々の二倍ある。実感したことはないが、一応、うちの家庭は上流階級には食い込んでいるのだ。ひとえに、ドイツへ単身赴任している父の努力の賜物だろう。

 家に帰ると鍵が開いていた。中に入り、靴を確認することには、帰っているのは姉のようだ。父が単身赴任しており、この家には僕と母と姉の三人で暮らしている。母はピアノ教室をやっており、いつも帰ってくるのは八時以降だ。

 姉はどうにもいい加減な人だ。玄関に脱いである靴は片方は逆さまに、片方は横になって玄関の左右に散らばっている。決まって僕が直す羽目になるのだ。まるで世の中の怠慢やなんやを体現したかのような人物だ。

 そんな姉は所謂私立のFラン大学の経済学部に通っている。そしてほぼ毎日バイトを入れていて、帰宅時間は毎日バラバラだ。ちなみに、うちには金はあるが基本的には小遣いはほぼないので、個人的に金が必要な場合には自分で稼ぐしかないのだ。

 そして、例によって姉が料理などするはずもなく、僕が姉と遅く帰ってくる母の分の夕食を作らなければならない。料理など、決められた通りに具材を入れ、炒め煮ればいいのに、なぜできないのかが分からない。

 家に帰ってきてまず、米を研ぎ、炊飯器をセットする。三人分より少し多い程度。

 次に冷蔵庫から具材を取り出し、買ってきたものも併せてそれぞれ包丁で切り、刻み、鍋に投入していく。もちろん肉の取り扱いは最後だ。あとは少し炒めてからポットで沸かしたお湯を入れ、ルーを投入し煮込むだけだ。

 その他の品は冷凍の餃子やたこ焼きでいいだろう。冷蔵庫にレタスやナスがあるから、ざく切りにして粉末ドレッシングをかけてチョップドサラダ風にすればいい。

「お、アキラ、今日はシチュー?」

 おおかた晩ご飯のメニューが出来上がってきたところで、姉が自分の部屋から下りてきて、そのままテレビを点けた。テレビがワーワーと煩い声を上げ始める。僕の名前は斉彬だが、母と姉は僕のことをアキラと呼ぶ。だったら最初からアキラという名前にすればよかったと思うのだが。

 姉は茶色に染めた長いボサボサの髪の毛を無造作に後ろで束ね、バイト先で使ったのであろう白シャツを第三ボタンまで開け、下は紫色のショートパンツを着ている。あまり僕もファッションに興味があるわけではないが、姉にはもう少しお洒落に気を配ってもらいたいものだ。

 そして、姉も僕と同様目があまりよい方でなく、赤い眼鏡をかけている。小学生のときに母が同じように僕の眼鏡を赤にしようとして必死で抵抗した。遺伝なのか何かは分からないが、一家4人全員が目が悪く、基本的にコンタクトレンズを使わない方針なので、全員が眼鏡ユーザーだ。

「ああ。すぐにできる」

「あーもー、匂いかいでたら私お腹すいちゃったー。あとどんくらいかかるー?」

 姉は年上という自覚が恐らく一切ない。ほぼ全ての家事を僕に任せっきりである。料理然り、掃除然り、洗濯然り。洗濯に至っては、こともあろうに母と姉の下着までも僕が洗わなくてはならない。

 そもそもFラン大学に通っている時点で、姉の頭のレベルはお察しなのだが、姉を見ていると偏見だと分かってはいても、Fラン大学の学生は家事もできないのか……と思ってしまう。もちろん、口には出していない。体面的には家事をよく手伝ってくれるよくできた弟だ。

「シチューはもうほぼできているから、あとはご飯が炊けるとを待つだけだな」

「うー、もうちょっと早くならんの?それー」

 姉はテーブルにグデーっと両腕を前に伸ばして顔をテーブルにつける。テーブルに顔をつけると細菌が顔の周りについて口に入りやすくなるだけでなく元々自分が持っている菌をテーブルに撒くことになるのに……。もちろん、それは口には出さない。僕は家の中では極力無口であるよう努めている。

 昔は姉が馬鹿なだけかと思っていたのだが、世間的には姉は普通なのだということが分かってきた。社会全体が馬鹿になっていて、それに伴って姉が馬鹿になっているだけなのだ。だから姉だけを責めてどうこうなる話ではない。

「……ねえアキラー」

「今度はどうした」

「なんかいいことあった?」

 思いがけない言葉に姉の方を見ると、姉はテーブルに肘をついたまま僕の方を上目遣いで見つめていた。ずっと目を合わせているのはなんだか嫌で、すぐに料理に目を戻した。

「何も」

「えー?そうなのー?なんか今日のアキラ、すごい嬉しそうなのに」

 何が嬉しいもんか。苛立つことはあれど、嬉しいことなんか何もない。いつも通り学校で馬鹿を無視して、下校中に馬鹿を無視して……。いやしかし、そうだ、今日は大きな変化があった。それも今までに経験したことのないような……。

「なーんか、心当たりあるって顔してない?」

「……」

 否定も肯定もしなかった。姉は少しそういうことには敏感な面がある。あまり表に出さないようにしているつもりだが、もし自殺しようとしていることがバレたら、姉は全力で止めようとしてくるだろう。

 返答に困っていると、炊飯器が蒸らしが終わりを告げる音楽を流した。僕は姉から半ば逃げるように、ご飯とシチュー、その他を盛り付けた。

「いっただっきまーす」

 姉は僕がまだ座っていないのに、さっさとご飯を食べ始めてしまった。そりゃあ姉からしてみれば、さっきの質問はそこまで深い意味はなかったに違いない。こんなことで何故焦っているんだ僕は。

 ――少し落ち着こう。姉を背にし、軽く深呼吸をしてから姉の向かいの席に座った。姉はバラエティ番組を見てケラケラと笑っている。そう、気にする必要なんてないんだ。僕が気にしなければ、きっと姉が気付くこともない。

「ねー、なんかアキラ、入学式の前の新入生みたいな顔してるよ?だいじょーぶ?」

 ……ダメだ。意識しないように心掛けようとすると逆に意識してしまう。これでは状況は悪化する一方じゃないか。自分でも顔が強張っているのが分かる。心理学についても知識はあるが、しかしそれが実際の行動として役に立つか、というのは別問題だ。

「ねえ」

 また姉が口を開く。今度は何を言うつもりだ。もしかして、今のやりとりだけで自殺を見抜いたんじゃなかろうな。顔だけでなく身体全体が固まる。

「お風呂、どっち先入る?」

 姉はなんでもない顔でそう言った。そりゃそうだろう。なんでもない内容なのだから。

「そ、そんなのどっちでもいいだろ」

「そ?じゃー私先入るね」

 姉はそう言うとまたテレビに目を向けた。姉はただいつものように僕と会話しているだけ。僕がただ勝手に緊張して、勝手に怯えているだけだ。

 ――僕はこんなにも臆病者だったのか。高校生にもなって初めて気付いた。この世には知識でどうにもならないことがあるのは分かっている。その、理解の範疇を越えたとき、僕は何者に対しても無力だということを痛感して愕然とした。

「アキラー、ご飯冷めちゃうよー。……どうしたの?顔青いよ?」

 姉が顔を覗きこんでくる。自殺するまではそのことを誰にも悟られてはいけない。僕の一番の敵は目の前の姉であることを強く認識した。もう、僕は彼女を馬鹿者扱いすることはできなかった。

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