マージナルマン篇 ―序説―
Stage-06 寄る辺なき者ども
第59話 遍照金剛
雪が降っている。深々と、いつまでも……
キャンプに人影はなく、灯りもまた殆ど灯されてはおらず、深い闇に包まれていた。沈み込んでいる――と言った方が相応しい……そう思える光景だ。だが“そこ”だけは照明が灯されていた。周囲がほぼ真っ暗だったせいか、煌々と輝いているように見えた。そこは簡易的なテントだったが、それでも周囲のバラックに比べると随分とマシなものだった。
〈防疫検査所〉と記された看板がある、出入口のところにあった。
「あそこか、“彼”が運び込まれたところは」
いつの間にか、その“男”が傍らに立っていた。髭面のむさ苦しさの塊みたいな顔の男だ。俺は彼の名を口にする。
「
「俺は死にかけているんだな」
口元に笑みを浮かべた。だが別に嬉しかったわけじゃない。
「そう、
黒戈も笑みを浮かべるが、やはり彼も嬉しがっているようではなかった。どこか寂しげにも見えた。
「ここは〈境界〉だ」
それ以上は何も言わず、彼はテント――〈防疫検査所〉に目を向ける。黒目が滲んでいて、散ってしまっている目を――――
「防疫とはな、“扱い”が解かってしまって笑う気にもならんな」
俺達は〈防疫検査所〉の中に入って行った。
「これは記憶の通りか? お前は呼び出されたんだよな?」
「いや、少し違うな」
テントの中は殺風景この上ないものだった。調度品のようなものは一切ない。ただテントの奥の方にベッドが1つだけ置かれている。広いスペースだが、その1つだけがポツンと置かれていたのだ。
「ここはキャンプで死んだ奴らが運び込まれるところだ。俺の記憶では、ひしめき合うように多くのベッドが置かれていて、全てに死体が寝かされていた。連日死者出ていたせいだ。半端なかったよ、ロクでもない環境だったからだな。中には――ベッドが足りなかったのか――床上に直接寝かされていた奴もいた。寝かされたというより、無造作に捨て置かれたって感じだったな」
だが“今”、目の前にあるのは1つのベッドだけ、その上に1人の人物が寝かされている。それ以外のものは本当に何も無い。掻き消されたって感じがする。
「一番印象的な記憶だけを強調して抽出しているって感じだな」
「クックック……どうもお前は分析して思考する癖がついているみたいだな。
クックック――と黒戈は笑うが、やはり彼は楽しんでいるようには見えない。
「お前がこの男と一緒に暮らしていたガキだな?」
いつのまにか2人の男がベッドの向こうに立っていた、そのうちの1人が話しかけてきている。白衣を着ている。
「何だこいつらは?」
「検死官だ。キャンプでの死者の司法解剖を担当していたんだ」
黒戈はテントの中を見回す。
「ここで? 検死と言うのなら、手術室みたいなところでやるんじゃないか?」
「検死作業はそら、奥に別のスペースがあるだろう? そこでやるんだ」
ベッドの向こうにしっかりとした造りのドアが見られた。そこが司法解剖室だ。
「フム、そこでの作業が終わってここに運ばれる――と。ここは死体安置所なんだな」
それを〈防疫検査所〉と呼ぶのか――扱いが理解できて、やっぱり笑えんぜ――と言いつつ黒戈は笑っていた、全然楽しげではなかったが。
「直接の死因は硬膜下出血、頭部に強い衝撃を受けて脳内の血管が破れて脳を圧迫したためだ。だが栄養失調状態だったらしく、かなり衰弱していたようで、それも影響しているな。健康なら救命できたのかもしれん」
そう言った検死官の1人は手に持っていたバインダーをベッドに横たえられている男に投げた、投げ捨てたって言うべきか。バインダーは彼の胸の上を跳ねて、俺たちの足元に落ちた。
「何だぁ? 随分と投げやりな態度だな、やる気ねぇのが大爆発って感じじゃねぇか」
黒戈の声は怒気に満ちている。
「よぉ、
俺は無言で頷いた。黒戈は小さく舌打ちをしたが、何も言わなかった。
そういうものだ。難民なんて人間じゃないと見られていたし、検死なんてやる必要もないとこいつらは考えていたのだ。上からの命令で嫌々やらされているのであり、その感情が駄々洩れ、隠そうともしなかったのだ。
難民になるということは、こういうことだ。戸籍も何もかも失ってしまった
「お前はこいつと一緒に暮らしていたんだな? 息子か? それともまとわりついて配給を掠め取っていた無関係の寄生虫とかか?」
もう1人の男が話しかけてきている。俺は何も応えなかった。
「フン、まぁいい。ともかく――だ。お前、これの始末はできるか?」
手を振ってベッドの上の男を指す。俺はその顔に目を向けた。そこには痩せ衰えて異様に頬がこけた“老人”の顔があった。
「
男はそれ以上は何にも言わず、目を俺に向けた。どうも“彼”は自分を証明する身分証を持っていたようだが、俺はこの時まで知らなかった。そして彼の名を初めて知ったのもこの時だった。
「ちっ、このガキ、何にも知らなかったみたいだな。一緒に暮らしていたなら名前くらい知っててもよかろうによ!」
“身分”に関しては何も言わなかった。バインダーに挟まっている書類に記されているのかと思い、拾って確認しようしたが、できなかった。
男の1人がベッドを周り俺の足元に落ちたままのバインダーを拾ってそのまま出入口へ歩いて行ってしまったからだ。もう1人も同じだ。だがそいつは足を止めて振り向き――――
「その死体な、お前が処分できんのなら、保健局の廃棄物処理班が始末することになる。分子レベルにまで分解されて“再利用”されるが、それでいいのか?」
せせら笑いを浮かべ、そのまま歩き去った。俺の返事など聞こうともしなかった。
「いやいや、なかなかの厭らしさだな。あいつら軍の下っ端だろう? でも難民相手だと思いっきり
黒戈の罵りは激しく、憎悪や嫌悪が溢れている。だがこの黒戈は俺の記憶の中のもの、つまり俺自身の心の表れなのだ。
俺は改めて“老人”を見る。
玖劾零機――か……
やつれた顔はどす黒く、あちこちが腫れあがっていた。かなり激しく殴られたのだろう。
またか……また例の布教みたいなことをしていて暴行を受けたんだな……
そして遂に殺されてしまった。だから一緒に暮らしていた俺に連絡が届いたのだ。
アンタは同じことを繰り返していたよな。峡谷の時も、キャンプに放り込まれてからも……それ以前からそうだったのか? いったい何があったんだ? 何がアンタをこんな風にしたんだ?
思考を繰り返した、何度も何度も、果てしなく、この時は考えていた。それを思い出した。
すると、どういうわけか視界が回り始めた。グルグルと渦を巻くように、“老人”を中心として吸い込まれるように――ねじ込まれるように――――
それを見た瞬間、俺の脳裏には様々なイメージが流れ込んできた。文字通り一瞬だった。
「くっ――」
一気に流れ込んで来たそれは洪水――というよりも津波のようだった。それは俺の意識を呑み込み、どこかへと押しやっていく。
「黒戈――」
彼の姿が消えて行く。まるで消しゴムで擦られていくかのように次第に薄れ、消滅していった――――
気づくと、何もないところにいる自分を発見した。まるで宇宙空間のような虚空だ。いや、宇宙なら星が見えるはずだが、“ここ”には何も無い。暗黒ですらない。何と言ったらいいのか、視覚的イメージが何1つない“どこか”としか言えなかった。ともかくも、俺はその領域を漂っていた。
――“外”だよ
唐突にその“声”が聞こえてきた。それは直接頭に響いてくるように聞こえていた。
――そうか、君も
“声”は聞き覚えのあるものだった。俺はその名を口に――いや思考する。
――ボリス・ベルジェンニコフ
――そうだよ、玖劾零機くん
彼の声は六ヶ所村再処理工場地下で聞いたよりも、幼く聞こえていた。これが本当のボリス・ベルジェンニコフの声なのだろうか? 俺は目を向ける――目なんてものがあるのか不明だが、何とか視覚野に捉えようとした。だが彼の姿は全く捉えられなかった
――無駄だよ、今の僕らは純然たる精神体だからね。姿と呼べるものはない。まぁイメージを強くすれば投影できるかもしれないけど、そんな必要はあるのかな?
俺はボリスの意見に同意した。
――でも視覚イメージはやはり重要かな、いや、僕らの姿じゃなくて、“世界”を知るためにもね
――“世界”?
ボリスは
――見て、あれが宇宙――無限に連なる多元宇宙だよ
ボリスが示した先に“それ”は現れていた。
滴のような――或いは泡のようなものが多数見えた。淡く光るそれらは、何も無いかに思えたこの領域でもはっきりと姿を見せていた。それは数珠のように連なり、どこまでも果てしなく伸びていた。
――あれこそが本当の“無限”というものだ。宏大無辺、無辺際、無極など様々な言葉で表現された無量大数の彼方の有り様だ
“数珠”は連なるだけではなかった。時に解れ、離れ、泡が飛び散り消えて行く。かと思えば、どこかから忽然と新たな泡が姿を現し、“数珠”に繋がり、絡まりもする。1つに融合する泡もあれば、分かれていくものもある。よく見ると“数珠”は1つだけでなく幾つも――いや、これもまた無限に存在していた。
――無量大数構造たる多元宇宙は果てしなく生成流転を繰り返す。1つの泡、1つの数珠も僕たちから見れば無限も同様だけど、多元宇宙を束ねる極大構造もまた無限。どこまでま果てしなく伸びていく“光の道”なんだよ
俺は首を振る――いや、“首”なんてものは無くなっているのだが、その仕草を内包する意味の思考を行った。
――そんな壮大な話をされても分からん。それで……俺は死んだのか?
――違うよ。解るだろ? 君は量子感応の力によって君という実存が持つ意識・無意識の構造を維持したままこの領域に到達しているんだ。こここそ六ヶ所村再処理工場で僕が説明した“外”なんだよ
俺は“数珠”を見る。泡を連ねたそれは本当に確かにどこまでも伸びているように見え、更に同じような“数珠”が他にも見える。それらを一望しているこの領域――これが“外”なのか?
――これは普通の意味での時空間ではない。かなり不正確な表現になるが、超時空とでも呼ぶべきものか。やはり無辺、無窮――無量大数の彼方と呼ぶのが一番相応しいかな
そうなのか……聞いたことのない言葉や概念だったが、不思議と理解できた。
――この領域に到達しているからね。今の君はある種の“悟り”を開いたような状態にあるから全てを
――何だそれは?
笑いの波動が伝わってきた。
――まぁ何だな、世界内存在――つまり普通の人間レベルの存在から見れば確かに神のような状態なんだろうね
ボリスは泡に意識を集中した。するとその1つが拡大された。そこには数多の存在の姿が映し出された。中には見たこともない異形の生命や世界がある。
――何だ……
そう思考しそうになったが、俺は理解していた。もう神のような視点が把握できるようになっていたらしい。
――1つの宇宙の中にも無数の世界がある。宇宙にある生命は地球だけじゃない、他にも膨大な、それこそ無限と言いたくなるほどの生命が満ちている。それらがそれぞれの世界を彩り、
その更に先に“数珠”があり、連なっている。
――宇宙は影響し合っているのか
――そうだね、1つの宇宙の事象は他の宇宙のそれに影響する。大なり小なり、程度は様々だけどね
俺は意識を集中する。それは自分のいた世界に対してだった。すると眼前にそれが現れた。
――火と氷と嵐の世界……僕たちのいたところだね。無数の命が奪われた修羅の世界だけど、これも宇宙全体から見ればちっぽけなものなんだよ
そして多元宇宙を連ねる“数珠”から見れば何ほどの意味があるのだろうか?
――意味はあるよ。今の僕らがそうだ。ちっぽけな世界の中の更にちっぽけな命だけど、宇宙を越え、多元の構造の“外”にまで至って睥睨する視点を獲得できるんだ
――やはり神のようなものだな
――そう、知性はここまで到達できる。量子感応という精神の力を発動する意識・無意識構造体は宇宙をも越えられるんだ、でも――――
ボリスの言葉は途切れた。そこには苦渋のようなものが表れている。
――でも、ただ観ているだけ……
俺は言葉を繋いだ。彼の言いたいことが解ったからだ。いや、識る前に識っていたんだな……
――こんな神のような視点を持っていても、これをあの世界に持っていくことはできない。ただ観るだけで、何の役にも立てられない
そう、ただ観る、それだけだった。何と無力なのか――神のような状態にあっても、苦悩という精神状態に苛まれる。
――だがボリス・ベルジェンニコフ、アンタは不完全ながらも記憶の一部をあの世界に持ってきていたではないか?
ボリスは憶えている、と言っていた。
――一部というより、ほんの僅かな残滓だよ。僕は殆ど役立てることはできなかった
俺は違うという思考を送った。ボリスは未来を予知し、俺たちを救うべく行動していた。それは本当に危うい、あやふやとも言えた行動だったが、意味はあった。
――まがりなりにも、姉は助けられただろう
玖劾は自分の世界に意識を集中する。そこには確かにヴラン・ベルジェンニコフの存在が感じられた。
――良かったじゃないか……
穏やかな気持ちに包まれた。こんな気持ちは生まれて初めてではないかと思った。こういうのもいい、このままここで漂っているのも悪くはないか……そう思いかけたが――――
強い力が感じられた。それは目前の“世界”から来るものだと分かった。
――何だ、引っ張られる?
傍らのボリスの気配が薄れていくのが感じられた。
――やはり君は死んではいないようだ。間もなく君の精神はあの世界に戻される。そしてこの領域のことは殆ど忘れるだろう
彼の気配が急速に遠ざかる。薄れる――とはこういうことなのか。
――アンタは戻らないのか?
――そう……だよ……だって完全に
ボリスの言葉は途切れ途切れになっている。遠ざかる影響か。これで、このままになるのか?
――待てっ、どうしても聞きたいことがある! アンタの
遍く世界を等しく照らし出せ――――
――も……う解っ……ているのだ……う?
――俺はアンタに聞かされる以前にもどこかで聞いたことがあるのだ。だがそれが分からない。全てが分かるはずの領域にいるのなら、何故分からないのだ? 記憶が何故甦らないのだ?
10歳以前の記憶がこの領域にいても解からないのだ。そしてこの言葉をどこで聞いたのか?
――それ……
それ以上は聞こえなかった。
何故? 強烈な疑問が襲った。
これは何を意味する? 俺には本当に
分からない、分からない――神の如き視点を持っていても分からないとは?
だが
これは何なのだろうか? 何か重大な意味があるような気がする。
それを俺は突き止めるべきだ――強く意識した。
遍く世界を等しく照らし出せ――――
ボリスが言ったこの言葉、これは初めて聞いたものではない。俺の意識の中に刻まれていたものであり、
ここには何かがある。俺を
“数珠”は踊るように揺れ動き、一瞬たりとも止まることはない。まるで脈動しているようにも見えた。無量大数の彼方なる構造が伸びていく――――
“老人”は無言で横たわるのみ、決して生き返り、再び動き出すことはない。これが死、絶対なる終末。誰もが等しく訪れる地平――――
「じゃあな」
黒戈はそれだけ言い、歩き出した。その先に虚無の穴が見える。大勢の人々がそこに向かって歩いている。その中に“老人”――玖劾零機の姿もあった。彼らは全て穴の中へと消えて行った。そして――――
ただ、静寂のみが残された。それだけだ。何も無く、俺1人だけが残された。
俺は穴に背を向け歩き出す。その先に“世界”がある、火と氷と嵐の世界が――――
俺はまだあの“世界”に留まらねばならないようだ……
“悟り”の境地は急速に失われ、消えていく。神の如き視点はもう無い。それでも俺は強く意識した、少しでも忘れまい――と。
遍く世界を等しく照らし出せ――――
俺はこの言葉をあの“世界”で聞いたことがある。消えた記憶の中にそれはある。峡谷以前の人生があったはずだ――――
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