第25話 夜の海

 新月の夜、空には厚く垂れこめた雲が拡がっているが、暗い夜の空ではその姿を見ることは叶わなかった。何もかもが暗くて黒く、雲の姿も捉えにくい。そんな世界だ。その中をやはり漆黒のVTOL機が飛行している。機体のカラーリングのせいもあり、つい見逃してしまいそうになる。その姿は、余程注意しなければ捉えられるものではなかった。

 ウィンダムは窓外に目を向けた。その下の闇の中にあるはずのものが、しかし全く捉えられないことに気づいた。


「まぁ〈ひびき〉も黒いからな、見えるわけがない。それどころか、この下は海のはずだが、それも殆ど見えないな」


 VTOL機は海上上空を飛行しているのだが、月明かりもなく他の光源も全くないので海面を見ることもできなかったのだ。もちろん機体の管制モニターは海面を捉えている。レーダー照射を繰り返し、高度を始めとした空間上の位置は常に把握している。当然、海面の位置も十分に。それでも、肉眼ではまるで見えないので、ウィンダムはふと思うのだ。

 

「何だか自分だけ異次元にでも迷い込んだみたいだな」


 何も見えず、他の刺激もあまりない中にずっといると感覚がおかしくなる。つい、異次元などという妄想も浮かぶのだ。海洋恐怖症というほどでもないが、些か不安感を呼び起こすのだ。

 ポン、という注意喚起音が響き、ウィンダムは目を窓外からコクピットルームの飛行管制モニターに移した。制御AIからの報告だ。


 〈〈ひびき〉からのアクセス許可が下りました。直ちに着艦用トラクタービームとの接続を開始して下さい〉


 同時にタッチ用のホログラムが彼の眼前に出現した。中に海上自衛軍・第1水上打撃群の紋章エンブレムが現れている。ウィンダムは無言で頷き、承認をすべくその紋章エンブレムに人差し指を伸ばし、タッチした。すると紋章エンブレムの色が変化、青色へと移り(それまでは黄緑色だった)、AIのアナウンスが始まった。


〈アクセス回線、接続開始。これより当連絡機は〈ひびき〉・ランディングプレートへの着艦シーケンスに移行します〉


 機体が左側に大きく傾いた。だがウィンダムはさほど身体にかかるGを感じなかった。着席しているシートがGの変化に対応、形状を彼の身体に合わせて変えて保護、負荷を軽減したからだ。


「あ、あれか。しかしささやかな光だな」


 星のような光源が幾つか見え、5角形を形作っている輪郭が見えた。艦載機着艦用のランディングプレートの位置を知らせているのだ。光源と言えるものはそれだけで、あとはない。暗黒の中で5角形の光点の列が浮かんでいるように見え、これはこれで異次元的だと思えた。


「あれは人間用の表示だからな。連絡機にとっちゃどうでもいいもんだしな」


 連絡機は――受け入れ側の〈ひびき〉もそうだが――AI管制によって制御されている(〈ひびき〉の主制御は接続制御者コネクター牧瀬マキセ二尉が行うが、これは作戦任務――特に戦闘時――を主体としている。他の日常的な対応は完全に自動化されている)。大半は電波帯から赤外帯での電磁輻射情報で観測を行い、認識・判断している。可視光帯での観測もあるが、あまり重きを置いていない。つまり、ランディングプレートのランプはAIにとっては基本無用のもの。これは人間のために用意されたもので、心理的な安心感を与えるためのものだ。終始暗黒の中ではどうしても情緒不安定になってしまうからだ。


「――つっても、あの光点の列ではな。あんまり安心感を与えるとは思えんな……」


 ――などと呟くがそれも直ぐに終わる。連絡機が着艦したからだ。

 近くに塔のようなものが見えてきた、直ぐ側にある。ランディングプレートの光点からの反射があるのか、微かに姿を浮かび上がらせていたのだ。これは〈ひびき〉の艦橋部分になる。



 まるで金庫室の扉のような重厚な扉を開け、ウィンダムが入ってきた。〈ひびき〉のSMC(CIC=戦闘指揮所を発展させて主機操縦室や群司令部指揮所機能も包括したもの)ルームである。


「うーむ、久々に見ると、ここはこれで異次元宇宙みたいなところだな。2日しか経ってないがな」


 大小さまざまのサイズのホログラムスクリーンが展開しており、内部の情報表示が盛んに変化している。それら光の明滅は星々の瞬きにも似ていて、宇宙空間的な印象を与えるとも言える。


『何が異次元宇宙ですか、いつもいるところじゃありませんか?』


 ウィンダムの眼前に新たなホログラムスクリーンが出現、その中に10代半ばの外見の少女の顔が映し出された。


『お帰りなさい、一佐』


 ウィンダムは頷き、応える。


「ウム、俺の不在中、何もなかったな、牧瀬二尉?」

『はい、何もなさ過ぎて大変でした』


 ウィンダムは左眉を上げて、「おや?」という顔をした。


「大変? 楽だったんだろ?」


 牧瀬は笑みを浮かべて首を振った。


『あまり何もないと、気が緩みそうになるのですよ。うるさい“お父様”がいないもんだから、余計にね。引き締めるのが大変でした』


 ウィンダムは苦笑いを浮かべる。


「そういうことはあんまり正直に言うもんじゃない。ここは軍なんだからな。部隊によっては、その手の発言だけで懲罰を下すような士官もいるんだぜ? 俺みたいな優しいジェントルマンはそうそういないんだ。気をつけろよ」


 牧瀬も苦笑いを浮かべた。


「ところでな、牧瀬二尉」


 ウィンダムは話題を変えた。


『何でしょうか、一佐?』

「お前、ずっと接続制御室に籠っていたのか?」


 スクリーンの中の牧瀬はキョトンとした顔をした。


『何を今さら? いつものことでしょう。接続制御者コネクターの私が制御室に籠るのは当然でしょう』


 ウィンダムは溜息を漏らす。それを見た牧瀬は少し不機嫌そうな顔になった。


『何です? 文句でもあるのですか?』

「別にそうじゃないよ。ただな、戦闘態勢にあるわけでもないのにお前は四六時中制御室に籠っているだろ? 酷い時は食事中や睡眠中でもだ。さすがに身体に悪くないか? 今だって準態勢ではあるが、戦闘態勢そのものではないぞ」

『一佐、危険は常にありますよ。〈北〉は無論、米帝との対立も表面化しましたし、いつ脅威が迫るか分かりませんよ? 常時即応できるようにするのは当然です』

「そうは言うが、身体の疲労は見逃せんぞ。今バイタルを見てみたが、疲労物質の蓄積が確かに見られる。いざ本番の時のパフォーマンスに影響が出たら本末転倒、休息も任務だということを忘れるなよ」


 牧瀬はどことなく泣きそうな顔になった。


『そんな言い方をしなくても……』

「お前が一生懸命やっていることは分かる。まぁ第1水上打撃群の接続制御者コネクターはお前しかいないしな、どうしても負荷はかかるな。交代要員を用意できていない軍部の問題ではあるな」


 だからこそ、休息はとってほしい――ウィンダムは言い添えた。


「たまには外の空気を吸うのもいいもんだ。今からでもいいぞ、甲板にでも出ないか?」


 はぁ……と応える牧瀬。間髪を入れず、といった感じでウィンダムは畳みかけた。


「よし、行くぞ。今すぐ前方甲板に来い、これは命令だ!」


 言うや、ウィンダムは回れ右。ダッシュしてSMEから出て行ってしまった。


『ああっ、ちょっ――』


 後に残された牧瀬はひたすら困惑していた。



「遅いぞ、ハルカ


 振り向きもせずにウィンダムは話しかけた、目は海面に向けられている。彼の背後の艦橋基部の扉から小柄な少女が出るところだった。少女は息を切らしていた。慌てて走って来たためなのだろう。尚、〈ハルカ〉というのは牧瀬二尉のファーストネームになる。


「緊急時用のワイヤレス回線に切り替えていたのですよ。僅かですがハッキングの可能性が出てきますし、セキュリティ態勢を整える必要があったんです。各種対応ソフトを起動、連携させていたので時間がかかったんですよ」


 陸地から遠く離れた海上にある第1水上打撃群だが、戦術データリンクを始めとして幾種類もの電脳ネットワークとのリンクは常時継続されている。不正アクセス、ハッキング等の危険性は常にあると考えるのは当然であり、防備を整えるのだ。牧瀬は通常打撃群のネットには有線で接続しており、その抗ハッキング態勢はかなり堅牢だ。甲板に出るとなると有線接続が不可能、ワイヤレスとなる。そのワイヤレス回線となるとやや脆弱性が出る。通信波自体を読まれ、そこからの侵入を許す可能性が出るのだ。諸外国――今は特にアメリカ帝国――の監視下にあると言える水上打撃群にとっては危険性が増す。管制AIだけでも十分に対応できるだろうが、牧瀬は作戦開始が近いこの時点での無線ワイヤレス接続には不安を感じていた。よってこの対応を取ったのだ。


「システムは量子暗号で保護されているだろ? 通信傍受されても解読は不可能だと思うがな」

「まぁそうです。ただ殆ど有り得ない可能性ですが、解読キーを盗まれればアウトなんですよ。だから一応、第1水上打撃群独自でローカルの防壁を築いておくべきだと思いまして。特に無線通信対応の防壁を何重にも仕込んでおきました」


 ウィンダムは感心した顔になった。


「ほぉう、この短時間で自前でファイアウォールを構築したのか。大したものだ」

「別に大したものではありませんよ。管制AIの支援の上ですし、難しくはありません」


 そうなのか――ウィンダムには理解できなかった。

 牧瀬は彼の傍らまで来た。彼女の頭はウィンダムの胸にも届いていない。2メートルに迫る巨躯の彼と比べると、まるで巨人と小人のようにも見える。傍から見ると注目を浴びるに違いないが、現在この水上打撃群にいるのは彼ら2人だけ、誰も注目していないだろう。

 暫く2人は無言で海面を眺めていた、だが――――


「静かですね。今は凪なので波の音も殆ど聞こえませんね。真っ暗だし、何も見えません。こんなのちっとも気晴らしになりませんよ。これならシステムに接続して艦艇のセンサーを通した方が余程見えるし、私にとってはその方が気楽ですが……」


 牧瀬は溜息をつきつつ言った、呆れた感じが現れている。新月の夜、光源など何もない。海面はすぐそこにあるはずだが暗闇しか見えず、波音すら殆どない状態であり、彼女は不満を感じているのだ。

 そんな彼女を見てウィンダムは首を振った。


「何です、それ?」


 ふぅっ――と息を吐き、ウィンダムは言葉を繰り出した。


「空気感とかさ、肌身で感じるもの――それはセンサーなどを通した観測とは違う厚みのある体験になるのだぞ? どうもお前は電脳ネットに偏りがちだな」

「そんなの仕方がないでしょう。子供のころからずっとこうだったんだし」

「それでは世界認識の多様性を奪うと思うがな」

「現実を見ろとでも? でも現実って五感を通して神経線維を経由して脳内に投影された情報でしょう? それは認識主体、つまり自分の意識――主観と言ってもいいでしょう――を反映したもので、他者と完全に一致するものではありませんでしょう。それがいわゆる“現実”、“真実”とは違いますって」

「フム、ネットを通したものであろうと、自分の五感だけだろうと、結局は己自身の自我エゴが紡ぐもの――というわけか。〈世界内存在〉――なんて言った哲学者が大昔にいたな、それを思い出したよ」


 牧瀬は唇を尖らせた。


「バカにしてません?」

「いや、そんなことはないよ。お前の主張は現実ってものを考えさせるいい刺激になったよ」


 そうですか――牧瀬はしかし、少し晴れやかな顔をしていた。色々と不満を口にしたが、必ずしも気分が悪いわけではないようだ。


「まぁ確かに外の空気を吸うというのはいいことかもしれませんね」


 伸びをしつつ、言葉を続けた。


「匂いとか、触感とか……この方面は電脳ネットではおざなりになりがちですからね。全感ダイヴでも排除される傾向がありますし」


 ウィンダムは頷く。


「そうだ、場合によっては感じたくない感触も味わうこともある。それが現実というものだ。そんな嫌なものも含めて体験することにより、人生は豊かになるというもの。現実はそれを知らせてくれる」

「豊かですか……この戦争の世界の体験が、ですか?」


 ウィンダムの目が暗く沈んだ。


「そうだな、ロクでもない話ではあるな……」


 そのまま会話は途切れた。その心は、世界の真実の前に沈んでいく――――


 この世界は、今の世界は、未曾有の災厄に呑まれている。スーパーホットプルームと氷河期により破壊された地球環境は人類を追い詰め、互いに相食むかのような争いの世界を生み出した。一致団結して危機に対処することなく、全てが己の利益のみを優先せんと他者を追い落とそうとする獣の世界だ。誰もが誰もを追い詰め、追い落とそうとしているそれは、或いは獣というより悪魔とでも言うべきものかもしれない。皆が皆、他者より優位に立とうとし、抑圧する側に立とうとし、決して他者を労わらないそれは悪魔そのものとしか思えない。本物の獣は、仲間を思いやるものだ、悪魔とは違う。だが今の人類は同胞にすらに牙を剥くことがある。それは無慈悲極まる略奪の世界を現出させた。かつてないほどの弱肉強食の世界は、何よりも人類自身の手で生み出されたのだ。

 これが人間ヒトなのか、人間ヒトとはかくも残酷なものなのか? やはり人間ヒトこそが悪魔なのか?

 世界の悲惨は、未だ終わることなく、果てしなく続くだろう――暗澹たる想いが2人を包んでいた。



「――現実ですか。だからですか、市ヶ谷に出かけたのは?」


 おもむろに語られた牧瀬の言葉により、2人の思考は終わりを告げた。


「何だ、いきなり?」

「いえ、ブリーフィングだけが目的なら〈ひびき〉SMCからでもできましたし、直接タカマノハラ東京に出かける必要はないでしょう?」


 当然、〈ひびき〉のSMCにも自衛軍の軍事ネットに対する接続回線はある。ヴァーチャルミッションスペースへのアクセスは可能で水上打撃群にいたままでも参加できたのだ。


「その通りだが、全体のブリーフィング以外にも個々の打ち合わせも必要だと思ったんだよ。特に降下任務に当たる第4小隊の者たちとはな」


 その時、牧瀬が妙に嬉しそうになった。


「何だ、それ?」


 ニヒッと笑う牧瀬。


「会いたかったんでしょ? かつての“同級生”に」


 何やら揶揄するような感じだ。ウィンダムは少しムッとした。


「うーむ、大人をからかうとは、ハルカちゃんも成長したってトコか? 何やらピーなことでも想像したってトコか?」


 伏字交じりの言い方に牧瀬は一気に赤面してしまった。意趣返しのつもりだったのだ。


「何ですか、それ? 一佐、セクハラで訴えますよ!」


 牧瀬は腕を振り上げてウィンダムの胸を叩いた。


「ハハッ、怒るな、怒るな。すまんな、こっちも大人げなかったな」


 むぅ――頬を膨らませる牧瀬、これだけ見ると子供そのものだ。取り敢えず、それ以上は怒ることはなかった。


「そう言えば、一佐――」


 気を取り直して話し始める牧瀬。それに対して「何だ? またからかうつもりか?」などと言うウィンダムだったが、牧瀬は「違いますよっ!」と叫んだ。それから深呼吸して気を落ち着かせて、再び話し始めた。


「真面目な疑問ですが、ベルジェンニコフ三佐って一佐と防大の同期になるのですね?」

「そうだが? 今さら何故そんなことを聞くんだ?」


 学歴・経歴は公開されているし、牧瀬ならとうの昔に検索済みだろう? ここで聞く意味をウィンダムは問うた。


「いや、だってあの人、どう見ても20歳くらいにしか見えませんが、一佐と同期だというのなら年齢だってそんなに変わりませんでしょ? 実際履歴では現在の年齢は43だと出ていますし……」

「フッ、女性の年齢を探るのは現代でもエチケット違反だぞ? お前だって嫌だろ」

「いや、そうですけど……あまりにも若い外見なので、つい……単なるアンチエイジングの成果とは思えないのですよ。あれって総理と同じなんですかね? その辺は公開情報になかったので」

アカツキ総理か。あの人の場合はテロメアを再生させる細胞賦活効果を起こす極微機械ナノマシンの投与の結果だというがな。あれはかなり高価なもので、タカマノハラの天上人と言えども容易に使えるものではないのだよ」

「じゃあ何なんです? 食生活など生活習慣の改善とか運動とかだけで達成できるものなのですか? ちょっと信じられないんですけど……」


 ウィンダムは静かな笑みを浮かべた。ただ、その中に妙に寂しげな色が表れていることに牧瀬は気づいた。


「あの、一佐?」


 ウィンダムは首を振るだけで応えようとはしなかった。だが――――


「彼女はロシアからの難民でね、30年くらい前の第2次赤色革命を逃れて皇国に亡命している」

「あの、それが――?」


 何の関係もないような話を始めたので、牧瀬は混乱していた。ベルジェンニコフが亡命してきたロシア難民の子弟だという情報は経歴に載っていたので知っていた。いったい何故ここで語るのか、意味が分からなかったのだ。


「関連する情報は全て明かされていない。これ以上は言えないが、いずれお前にも伝えられる時が来るかもしれない」


 牧瀬の困惑は深まる。


「彼女はね、新潟以前にも色々あったのだよ」


 それ以上はウィンダムは何も言わなかった。そのまま黙って夜の海を眺めるだけだった。何も見えない闇の中に、何かを見出そうとでもするかのように。牧瀬も倣うように闇に目を向けるのだった。


 夜は深まる。間もなく日付は変わり、戦端が開かる。だがこの時はまだ、静かな時が流れていた――――

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