第317話:彼女の感情

 フラウはカップを傾けて、静かにお茶を飲む。視線はどこということもなく、テーブルの向こう辺りの宙を見つめている。


 ボクが見ていることに気付いて、視線がこちらを向いた。慌てて目を逸らして、言うことも思いつかないのでお茶を飲む。

 さっき用意してもらったばかりなので、火傷をするほどではないけれど十分に温かい。


 普段アジトや街中で味わうよりも、かなり高級な茶葉のようだ。

 たぶんこれは、ここへ着いてすぐにオクティアさんに入れてもらったのと同じ物だ。でもその時には気付かなかった、濃い味と香りが溢れかえるほどにボクの喉を襲う。


「ごふっごふっ」

「大丈夫? 慌てて飲むから」


 すぐに返事が出来なかったので、手振りで大丈夫だと示す。フラウはやはりテーブルの上に用意されていた清潔な布で、ボクの口元を拭いてくれる。


「ああ、フラウだなって思ってさ」

「なあにそれ。さすがにもう、珍しくはないでしょう?」


 照れ隠しに少し笑った感じなので、ボクの言った意味合いは通じているのだろう。

 どういう意味なのか詳細に説明しろ、と言われたとしても上手く言えそうにないので助かった。


 それからまた、しばらく沈黙が続いた。

 言いたいことや聞きたいことはたくさんあるはずなのに、何一つとして頭に浮かんでこない。

 フラウはまたどこかを見つめていて、この時間をどう考えているのか読めないのが焦りを誘う。


「オクティアさんのこと、思い出したの?」

「──ええ。顔つきとか話し方とか、色々違っていたから分からなかったけど。リンデだと聞いたら、そうとしか見えなくなったわ」


 ボクでもフラウでもない人の話を最初に持ってくるなんて、日和見をしたものだ。でもただ黙っているよりは、ずっといいはずだ。

 それにこれは後付けだけれど、聞いていればフラウの過去に繋がる話もあるだろう。

 昔はどうだったのかとストレートに聞くよりも、そのほうがいいように思えた。


「リンデ──それが本当の名前なんだね」

「いいえ、愛称よ。彼女の本名は、オクトリンディア。私と同じで、姓はないはずだけれど」


 オクトリンディア。なるほど昔の愛称とは別の部分を取って、今の名前にしていたのか。それは確かに、どちらも嘘を吐いてはいない。

 どちらも嘘を吐いているようなものとも思えるけれど、それは言うまい。


「そうか……彼女はどこへ行ったんだろう。額冠だけを持って」


 あの額冠は知識なんかを蓄えているだけで、意識の根底は人形のほうにあるとリマデス卿は言っていた。

 それなら彼が亡くなった今となっては、単なる装飾品に過ぎない。

 そんな物をわざわざ盗み出して、彼女はどうしたかったんだろう。


「あのころのことは、よく覚えていないの。覚えていないというか、記憶しておくほどの何かがあったとは感じていなかったのね」


 ボクはまだ、オクティアさんの過去を問うてはいない。なのにこんなことを言い出したということは、言っているのとは逆に何かを思い出したのだろう。


「それでもリンデについて、一番最初に思い出したことがあるわ」

「どんなこと?」


 フラウは視線を自分の手元に落とした。開いたり閉じたりしている指の間に、何かあるかのようにそこを見た。


「レリクタを出る時、私はブラムさ──ブラムと一緒にエコリアに乗った。リンデも一緒だったわ。三人だった」

「うん」


 ボクはその光景を見た。そうかあれが彼女なのかと思い出そうとすると、さっきまで脳裏にあったはずの画が急にぼやけた。


「途中でリンデは降ろされて、また別の技を身に付けるように言われたわ。ブラムに指示されてすごく喜んでいたけれど、そのまま一緒に走り去る私には、何とも言えない怖い目をしていた」


 そんな話を聞けば、出てくる推論は一つだ。嫉妬。いわゆる、やきもち。

 これもボクには縁のない感情だったのだけれど、たぶんリマデス卿に抱いていた気持ちの一部はそれだったのだと思う。

 あの人にはありとあらゆる感情を持った気がするので、結局のところどういうものか実感がないけれども。


 オクティアさんは、リマデス卿を愛している。あの額冠は、形見ということだろうか。

 最後の時間を共に過ごしたかったのだろうに、ボクが邪魔をしてしまった。

 それくらいは分かった。


「あれがどういう感情なのかを知ったのは、それほど前のことではないわ。共感は出来なかったけれど、なるほどと思うくらいは出来るようになった。今日のこともね」

「うん──次に会うことがあれば、笑って話せるといいね」


 フラウの言う共感が出来なかったというのは、同意しかねたということではないのだろう。

 共感するにしろ、反感を持つにしろ、どこかに傾いた自分の感情を持っていなければ出来ない。


 フラウにはそれがなかった。その時そう出来なかったことを、今どうこうと言っても仕方がない。

 でも、今はどうなのだろう。

 例えばメイさんやトンちゃんは、感情がとても分かりやすい。本心はともかく、団長も感情を露わにすることの多い人だ。

 そこまで至っていないのは明白だけれど、今はどちらに近いのだろう。


 まあ彼女たちを平均値として扱うのも、問題があるかもしれない。


「ええ、笑って──ね」


 取って付けたように言った言葉を反復されると、気恥ずかしいものがある。

 更にそれをごまかすために、へらへらと笑っていたのでは冗談にもならない。


「ねえ、あなたのことを聞いてもいいかしら」

「ボクの? 構わないけど」


 フラウも話題を変えたかったのだろうと思った。

 けれどそう切り出したにも関わらず、彼女はどう聞いたものかと聞きあぐねるように言葉を選んでいる。

 実は聞くことがないのに、無理矢理に質問を探しているという様子でもない。


「大丈夫。ボク自身が分かっていなくて答えられないことはあるけど、聞かれて嫌なことはないから」


 そう促すと、フラウは覚悟を決めるように大きく息を吸って言った。

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