第291話:心の在り処

 その顔は間違いなく、辺境伯のものだった。

 頬がこけて、怒気と覇気を発し続けていたような勢いはもうそこにない。でも間違いなく、辺境伯の顔だ。

 強いて言えば、あの額冠がない。


 どうしてボクは、彼の顔について二度も間違いないと言うのか。それは顔以外の全てが、先日までの辺境伯ではなかったからだ。

 いやそれではまだ、事態を正確に表してはいないか。


 人の見てくれをどうこうと言うなんて失礼千万と分かって、それでもこう言うしかない。

 辺境伯の全身は、もはや生きた人間のそれではなかった。

 どう見ても生きた人間の顔だけが、どう見ても人工の人形に宿っている。


 それは気味が悪いとか不思議だとか、或いは団長なんかは面白いと感じるのかもしれない。

 きっとボクだけでなく、見ている全員の感情を一度にいくつも騒がせる。ざわざわと胸の奥に落ち着かない何かを感じさせる。


 たぶん。恐らくその体は、戦場で見たあの人形なのだろう。ゆったりとしたローブを着ていてなお、肩や肘なんかの関節に人の体にはない盛り上がりがある。

 衣服に隠れていない首や踝には、人の体にはあり得ない継ぎ目がある。


 まず聞くべきは──いや聞かないべきなのか。判断すべきは、このことだろう。


「それが今のあなたの体かにゃ」

「そうだ」


 枯れた木を擦るような声。目の前にあるのが辺境伯の顔でなかったら、人の声とも思えなかったかもしれない。


「冠はどうしたのにゃ」

「あれに俺の意識のほとんどが詰まっていたのだからな。そのままにされるはずがないだろう」


 聞きにくいことを、団長はずばずばと聞いていく。それが意外であり、面白かったのだろう。辺境伯は苦笑交じりに笑う。

 笑ってでさえ、疲れのような陰が見えるのが気になった。


「ほとんどというか、本体みたいな物じゃなかったのにゃ?」

「どちらがどうとも言えんな。知識や技はあっちだったし、魂とでも言うのか──意識の根底はこっちにある」

「ということは、もうないのかにゃ」


 辺境伯は「だった」と言った。手元になくとも存在しているのなら、そうは言わないだろう。


「ああ。今ごろは炉の中だろうさ」


 それは辺境伯に取っても、何らか意味の深いことなのだろう。この人のため息を、初めて見た気がする。


「そんなことを聞きに来たのではないだろう」


 まだ聞けば、何でも教えてくれそうではあった。諦めとはまた違うのだと思うけれど、前にはあった張り詰めたものがない。


「そうだにゃ。あたしの好奇心で聞いただけにゃ。聞きたがりですまんにゃ」


 団長の手がボクの背に伸びて、自分より前に押し出す。さああとは自分でやれと、文字通りに背中を押した。


 団長の聞いたことは好奇心であるには違いないけれど、聞かなければならなかった。

 それを聞かずに。

 辺境伯の今が、どうなっているかを聞かずに。

 何の覚悟もなく話せばそれは、全てがこちらの思い込みと押し付けだけになってしまう。


 いやもちろん辺境伯に取ってはどうでも良いことなのだろうから、押し付けでなくは出来ない。

 でもそうなのだと思いもせずに言えば、それは絵空事であって、あまりにも軽い。


「お前にこの質問をするのは、何度目だったか──何の用だ」

「たぶん、五回目です」


 本気で答えるな、冗談だ。ということだろう。馬鹿にした笑いが、その顔に浮かぶ。

 まさかボクと話すのに緊張などしないだろうけれど、それで幾分の柔らかさが得られた気もする。


「リマデス辺境伯──ではないのでしたね」

「何とでも呼べ。リマっちでもな」


 ちらと団長に向く目が、何を意味しているのか。今度は冗談ぽく見せて、視線にその雰囲気はない。


「では……リマデス卿」


 多少の間をもらって考えて、出てきたのはその呼び方だった。士爵という以外に、何の身分も役もない騎士に対する尊称だ。


「意外とお前も、過ぎた嫌味を言う。俺はもう、どこにも仕えていない。自分の治める土地もない」


 細められた目が、ボクの真意を窺っている。少ない接点であっても、ボクがここで言い争いを始めるとは思っていないだろう。

 でもそんな嫌がらせから何を切り出すのか、予想がつかない。と。


「いいえ。ボクなんかが何を分かっているでもありませんが、あなたはずっと騎士ですよ。でなければ、今その姿になっていない」

「うん?」


 リマデス卿の眉根が寄って、いよいよ何を言っているんだと疑問が顔にも表れた。


 ボクが思っていることを言えば、それはまた馬鹿にしたものに戻るのかもしれない。いやもっと酷くて、何を幼いことをと笑い飛ばされるのかもしれない。

 でもボクは、思ったままを言いたかった。

 ずっと一人で暗い道を歩いてきたこの人に、ごまかしたようなことを言いたくなかった。


「最初に何を志して剣を戴いたのか、それは知りません。でも十年前からずっと、あなたは奥さんの名誉を守ろうとしているんでしょう?」

「──は?」


 短く疑念を発したあと、その口は閉じられなかった。

 しばらくそのままでいて、次第に視線が床へと落ちる。口からも緩く息が流れ落ちて、目が閉じられるのと一緒に唇も結ばれた。


「……ああ。俺はユヴァのために剣を捧げた。ユヴァの騎士だ」


 目を開けないまま、卿は言った。これはあくまで独り言だ。自分自身で、再確認しているだけだと言わんばかりに。


「そうだ。そうだったんだな……」

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