第266話:非情の策

「なるほど、獣油か」

「それでメイさんがいい匂いだと――」


 獣油と一口に言ったところで、その言葉の通りに獣から採れる油なのだから獣の数だけ存在する。どの獣から採取すればどういう性質なのか、そこまでは知らない。でも目にしているように強い炎を発する物や、肉を炙ったような匂いの物もあったはずだ。


「でもどうして、あっちの兵士たちは平気なんでしょう」

「あの外套であろうな」


 大きなフードの付いた、膝から上の全身を覆えるだけの大きな外套。確かに彼らの全員が被っていた。何やら特殊な作り方をすることで、とても燃えにくくした布地というのも存在することは知っている。

 でもそんな珍しい物を、あんなにたくさんの兵士が持てるほどに集められるものなのか?


「いや、製法はそれほど難しくはない。耐久性が乏しいために、用途が限定されてしまうだけだ。これをやりたくて、自分らで手配したのだろうよ」


 首都の邸宅も火災に耐えられるよう考えていただけあって、ワシツ将軍はそういった物にも造詣があるらしい。

 激しい炎による熱気に、顔をしかめながらも教えてくれた。


 しかし、うまくしてやられたものだ。

 イラドやその背後から妙な動きで出てきた兵士たちは、全て囮だった。いや彼らも確かに獣油を撒いていたようだけれど、本命は別に居た。


 ユーニア子爵の隊や騎士団は移動してしまったので、ボクたちの周囲に味方――と呼んでいいのか分からないけれども、ともかく王軍は居ない。

 そんな中でボクなどは、トンちゃんに向かう列に完全に注目してしまっていて、かなりの大回りをしてボクたちを包囲していた別動隊が居たことに全く気付かなかった。


 そうなればその隊は、ボクたちを包み込むように獣油を入れた袋を地面に投げればいい。

 しかし不思議なのは、その獣油をボクたちに直接ぶつければ良かっただろうにということだ。当たらないまでも、足元に撒かれれば現状よりも格段に効果は高い。

 というか今は、熱くて多少の火傷をするという以上の被害はないのだ。


「足止めが目的と、本人が言っていたからね。まずはこの炎の牢を作りたかったんだろう。仕留める手段は――ああ、あれのようだね」


 メルエム男爵の視線を辿ると、短弓を構える一隊に行き着いた。

 炎によって身を寄せ合うようにしているこちらとしては、避けようがない。出来れば遠慮願いたい光景だ。


 その十人ほどの隊長らしき人物が、「狙いを定め!」と号令をかける。こちらの事情は考慮してくれないらしい。

 炎の盛る音も越えて聞こえる声が、そのまま「放て!」と言った。


 ワシツ将軍とメルエム男爵。それにその部下たちは、少なからず目を細めたり身を固くしたりという動作を見せる。

 でもそれは無用の心配だ。

 十本やそこらの矢なんて、百人近い団員の誰かが必ず止める。


 その一本を握った団長が足を屈めたりということもせず、軽やかに地面を離れた。

 高く炎の壁を越えてその足が再び地面に着いたのは、弓隊の隊長の目の前。


「返すにゃ」


 と、矢を隊長の胸に突き立てて短剣を抜き、いきなりそんな近くに現れたとも気付いていない弓兵を全員倒してしまった。

 そう。これくらいの炎ならば、ミーティアキトノには通用しない。ほとんどの団員は軽々と、ボクも何とか包囲の外に出られるだろう。


「次だ!」


 団員はよくても、将軍や男爵たちは逃げられない。だから何かに使おうと思ったのだろう、団長は弓隊の着ている外套を剥ぎ取ろうとしていた。

 しかしそこにイラドの指示に従って、何かが投げ込まれる。それが何なのか見極める暇などもちろんなく、団長は跳んで避けた。


 若干の粘つきを感じさせる音をさせて、それは弾けて散った。

 たぶん獣油だろうなと考えているうちにもそれは引火して、炎の範囲を大幅に増やす。

 団長が避ける先を狙って。それにボクたちへの包囲を厚くするように、それは次々に投げられる。


 瞬く間にという言葉が、これほどしっくりくる場面もそうはないだろう。

 地面に飛散した獣油が自ら炎を呼んでいるかのように、熱の森はその裾野を広げていく。

 しかしその為に、もう動くことのない弓隊の遺体はもちろん、ボクたちに近いほうに居た兵士たちのいくらかも炎に巻かれてしまっていた。


 燃えない外套を着ていても、あれだけの勢いの火に包まれてしまっては……。

 心配した通りにその兵士たちは、バタバタと倒れていった。炎の中では呼吸できないし、それでも無理に息を吸えば、いくら何でも熱気で喉を焼いてしまう。


 遺体に構わず火をかけるだけでなく、無傷の味方まで巻き込むとは、何を考えているんだ。

 これでボクがもう少しまともな性格であったら、むごいことをするなとでも言っていただろう。


「思ったよりも、もっと身軽だったなあ!」


 だあっはっは! と。何がそんなに愉快なのか、イラドは笑う。


「おら、休んでるんじゃねぇ! 弓がなかったら、石でも投げろ!」


 今度は急に怒気を示して、部下を蹴りつけている。無茶苦茶だ。


「キトルを一人殺せば、刑を一年減らしてやるからなぁ! 精々頑張れやぁ!」


 ……そういうことか。

 他の部隊の兵とは違う、ギールの野性味に溢れたのとも違う、ぎらついた目がボクたちを依然として取り囲んでいる。

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