第206話:意地と矜持
鋭い刃が革の装甲を裂き、肉を切りつける音がした。
ユナン子爵の体はボクの視界の中を横飛びに消え、その手の剣が振りきられることはなかった。
「アビスくん、怪我はないですか」
「マイルズさん――居たんですね。大丈夫です」
子爵の横腹に舶刀を叩きつけたのは、別行動をしていたマイルズさんだった。その後ろに、あとの四人も続いて周囲を牽制する。
それにしても、何とぎりぎりで登場するものだ。
「もうちょっと早く加勢していただいても良かったんですよ?」
「いやまあ、それは。我々が加わったところで大した足しにはならないので、いざという時のために存在は知られていないほうが良いかと。おかげで窮地を救えたようですしね」
「まあ、はい――」
言いくるめられている感は強いけれど、事実そうなっているので何も言えない。
苦笑いをするボクと、何食わぬ顔で微笑むマイルズさんとのところに、ミリア隊長もやってきた。
青ざめた顔でまだお腹を手で押さえていて、体調は良くないらしい。
「うっぷ――小官のピンチにも出てこないような――部下たちです。厳しく――うえ――叱ってやってください」
「――そんなに喋って大丈夫です?」
彼女の顔色は良くないが、顔つきは充実している。
どちらかというと幼い顔つきに闘争心か何か、猛々しいものが宿って手負いのレダという雰囲気だ。
外見を甘く見て迂闊に近寄れば、その角で手痛いお仕置きをされるだろう。
「おや、
「そんな馬鹿な。そうしていたら、全員を張り倒すだけでは済まないですよ」
「そうでしょうとも」
この人たち、何だか怖いなあ……。
「兵長――」
「ん、ああ」
牽制していた兵士が、マイルズさんに声をかける。ボクも注意を向けると、ユナン子爵が立ち上がって、こちらを睨みつけていた。
傷口を手で押さえてはいるけれど、それほど重傷ではないらしい。
「貴様――背中から、子爵である私を切りつけたな。平民ではあっても軍属が、軍属であっても平民が!」
「ええ、確かに小官が切りつけました。何かまずかったでしょうか?」
最初に会った時と変わらない、のほほんとした顔。それは計算してそうしているのか、感情が全く表に出ない人なのか。
どちらであってもそれは、ユナン子爵の癇に障っている。
「戦場であろうと背中から切りつけることが愚劣な行為であるとは、誰でも知っているであろうが! 貴様はよりによって、貴族にそれを行ったのだ。名を名乗れ。あとでどうなるか楽しみにしているがいい」
「はあ。小官は港湾隊の兵長で、マイルズと申します」
「マイルズ……?」
子爵は一瞬、何かを考えたようだったけれど、次に口を開く前に先を越された。
「これは閣下。大変な失礼を小官の部下が働きましたようで、申し訳ございません」
まだ脂汗を流しながら、体を震わせてミリア隊長は言う。しかしその内容に対して、腕を組んで強がった姿勢は相応しくない。
「しかし閣下。我らの本業は、罪人を取り締まることにあります。罪を犯した者に、分け隔てせよとは教えておりません」
「貴様もまた言うに事欠いて、私を罪人呼ばわりかっ!」
大きく息を吸って、その息が続くだけを一気に喋っていた。そうしなければ、痛みで話などできないのだろう。
十人隊長としての矜持なのか、子供じみた意地っ張りなのか。
「そうまで人を虚仮にしようとは。あとあと、港湾隊に物申してくれる!」
どちらか知らないが、虚勢の張り合いではユナン子爵に勝ち目はない。二万の軍勢を目の前にして、脅しに足りないと言ってのけた彼女だ。
相手にするには悪すぎる。
「閣下! ああ閣下! 重ね重ね申し訳ございません! 物分かりの悪い小官に、唯一つ教えていただきたい! 閣下の仰る、あととはいつのことか! いつのあとであれば、閣下にそのような立場がお有りになるのか!」
目をくるくるさせながらもそこまでを言ったミリア隊長は、足元に嘔吐した。脂汗も止めどない。
無理をして……。
「我ら港湾隊。罪人を捕らえることこそ使命。それがどこのどなたであっても、変わりはございません」
「な……なっ!」
格好良すぎるだろう。
脚をぶるぶると震わせて、肩を貸そうとする部下の手を払いのけて、見事なまでの啖呵を切った。
いつの間にか手を止めて見ていたトンちゃんとメイさんも「おお」と唸って拍手を送る。
「まあまあ、ユナン子爵。若い者の遠吠えなどに、そう突っかかってやるものではない」
その声は、ボクの斜め後ろから聞こえた。
しまった! と振り返ろうにも、後ろから剣先が肩に当てられている。
声の主は、ルキスル子爵だ。脇に姿を見せて、顎で前を示す。
ボクは後ろから首に腕を回されて、一歩前に出るよう促された。逆らうわけにもいかず、フラウを気にしながらも従う。
フラウも別の兵士に同じようにされて、ボクの隣に並ばされた。腕も脚もだらんとしているのに、ずるずると引き摺られて。
その兵士を睨みつける自由さえ、奪われてしまった。
「さあ、どうするかね?」
希望は叶ったのだからすぐに刺し殺せばいいものを、鬱憤を晴らすこともしたいらしい。
つくづく、貴族というのは度し難い。
しかしそれにまんまと拘束されるボクも、同じくらいに度し難い。
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