第153話:抱擁

 洞窟の中は涼しかった。しかし点けている灯りのせいで、段々と暑くなっている。

 淡々と作業を進めるオクティアさんの額にも、汗が滲み始めた。


「お優しいですねえ」

「いえ、他に出来ることもないので」


 手の甲で拭うのでは間に合わないようだったので、ボクが手拭いを当てた。そこまでするのもどうかとは思ったけれど、中途半端では意味がないので、首すじのほうまで拭いてあげた。


「あとはこれを加えるだけですよう」


 複雑な手順を踏んだ調合作業も、いよいよ終わりのようだ。乳鉢に入れられた粉末が、見る間に溶けていく。


 欲しかった物はない、と聞いた時には、目の前が真っ暗になる思いだった。

 でもそれは調合済みの物がないというだけで、フラウの持ち物の中から作ることは可能だった。

 ただ基本の薬剤から作ることになって時間がかかるので、その断りとして言ったらしい。


 どうせボクをからかうために、わざとあんな言い方をしたんだろうけど。


 団長を代表として、どうしてボクの周りに居る人はボクをからかうのだろうか。そんなに面白いリアクションは、していないと思うのだけれど。


 しょりしょりと微かな音を立てていた乳鉢の音が、なめらかに滑るだけの音に変わった。オクティアさんはそれでもしばらく、手を止めなかった。


「ふう。これでいいはずですよう」

「これを――?」

「飲ませるのがいいでしょうねえ。口移ししますかあ?」

「くっ、口移し!?」


 オクティアさんは笑顔の種類を多く持っていても、それ以外の表情に乏しい。というかボクは、まだ見たことがない。

 その彼女に、悪戯っぽさが見えたのは発見だった。

 視界の端に団長のにやにやとした顔が見えるから、そのせいかもしれないが。


「いやっ、ええと。そうするしかないならしますけど、水に溶かしたら駄目なんです?」

「大丈夫ですよう」


 良かった。口移しなんてキスと同じだ。こんなみんなの見ている前で、出来るものか。


「アビたん、いいのかにゃ? 薬を飲ませるためなら、文句は言われないにゃ」

「いいんです――じゃなくて、しませんしません!」


 団長は放っておいて、乳鉢に水を加えて飲みやすくすると、漏斗を使ってフラウの口に流し込んだ。

 上体を抱えて、首の後ろを持ち上げる。これで薬がお腹に入っていくはずだ。


「どれくらいで効くんです?」

「そうですねえ。完全に中和するには数日かかると思いますけどお、今の状態から抜けるだけなら、一時間くらいだと思いますよう」

「そうですか。そんなに早く……」


 オクティアさんはどこからか、短いロープを取り出した。するとそれにランタンの火を移し、地面へ放り投げる。時間を計るための火縄だ。


 火縄に独特の臭いのする煙がゆらと立ち昇って、洞窟の入り口に流れていく。オクティアさんの作業のために火の気を増やした時、息が出来なくなるのではと心配したが、この洞窟にその心配はないようだ。




 ――やがて。

 火縄の最初の瘤が燃え落ちると、小さく声がした。


「あ……あふ……」


 蹲って、フラウと火縄を交互に見ていたボクは、すぐにフラウの傍へとにじり寄った。


「フラウ? 分かる? ボクだよ」

「あ――う――」


 横になったままのフラウの顔の前に、ボクも顔を覗かせて声をかけた。

 ボクを見ているようで見ていない、焦点の合っていないらしい視線が、やがてまっすぐにボクの目と向き合った。


「――あ、あ!」

「え? ちょっ――」


 おとなしくなっていたはずのフラウの両手がわさわさと動いて、ボクの頭と首を抱えた。お互いが頬ずりをするように、ボクの顔とフラウの顔がぴったりとくっつく。


「フ、フラウ!?」

「あ、あふぃ――アビ、アビス!」


 舌をもつれさせながら、フラウはボクの名を呼んだ。その一度だけでなく、二回、三回と、何度も。

 無理に離れることは出来そうだけれど、そんな力づくをするのも憚られる。どうしたものか困っていると、フラウはますますボクの全身を抱きしめてきた。


 ボクの顔はきっと真っ赤になっている。これまでの人生でなかったほどに。

 そんなボクの視界には、近くまで来て膝を突いているメルエム男爵とペルセブルさん。遠巻きに見ている団長とメイさん、コニーさんの顔がある。


 男爵はすごく満足そうに、うんうんと頷いている。ペルセブルさんは、何だかぼろぼろと泣いている。感激屋だったのか、この人。

 メイさんはまだ何やら食べていて、団長とコニーさんはいつもの通り、にやにや笑ってこちらを見ている。


「アビス――私、私は――!」


 フラウはきっと、ボク以外の何も目に入っていない。

 そうでなくとも心をどうにかされていたのだから、不安とか恐怖とか、溢れる思いがたくさんあるのかもしれない。

 それをうまく言葉に出来ないようだったので、ボクは努めて優しい声で囁いた。


「フラウ。大丈夫だから。もう君に何もさせないから。落ち着いて、まず水でも飲もう?」


 ぽうっとした表情になったフラウは、五歳かそこらの少女のような、あどけない笑顔で頷いた。

 やっとフラウの腕から解放されたボクは「じゃあ起こすよ」と、水を飲ませるために彼女の上体を起こしてあげた。


「ありがとうアビス。それでここはどこ……」


 ここでやっと、フラウの意識ははっきりしたらしい。

 周囲を見回した彼女の目に、団長たちやメルエム男爵。それに数人の港湾隊の隊員たちの姿が映っただろう。


 フラウはまた言葉を失った。

 おかげでボクは、今度は背中に張り付いて隠れてしまった彼女に動けなくされてしまった。

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