第56話:拭きとるべきもの

「あっ!」


 上体を起こそうとして、脇腹が痛んだ。さっきの激痛と同じだ。


 落ち着いてから視線だけを動かしてみると、どこか屋外で寝かされているらしい。

 周囲は人で溢れていて、ボクと同じように寝かされている人を見守ったり、忙しくあっちへこっちへと動き回ったりと、それぞれだった。


「目が覚めましたの?」


 頭上から女性の声がした。何とか首を上げてみると、イルリさんの顔が見えた。


「あ――はい。ええと、ここは?」

「警備隊の訓練場だそうですわ。ごめんなさいね。中で寝かせてもらえれば良かったのだけれど、何でも広いお部屋の一つが荷物で埋まっているからすぐには使えないのですって」


 イルリさんは上品に「男の方ばかりだと、駄目ですわね」と笑った。馬鹿にしているのでなく、子どものいたずらを目にした母親のようだった。


 ボクの額には冷えた手拭いが載せられていて、どうもイルリさんが面倒をみていてくれたらしい。


「あれ、お子さんは――」

「そこで眠っていますわ」


 指さされた先を見ると、少し離れたところで赤ちゃんを抱っこしているセクサさんが居た。ゆっくりと揺れている様子は、手慣れているように見えた。

 それで気付いてもう一度見回してみると、見知った顔が他には居なかった。


「あの、他の人たちはどうしたんでしょう」

「母はコムたちを連れて、警戒に出ていますわ。怪我をして動けない人などが居たら、助けて差し上げないといけませんものね。それからアンが陣頭指揮を執って、先ほど言ったお部屋のお掃除に行っていますの」

「あの格好のままですか。そりゃあ気合が入りそうですね」


 ははと笑うと、また脇腹が痛んだ。顔をしかめると、イルリさんは心配そうに顔を覗き込んでくる。


「骨が何本も折れているそうですわ。無理をなさらないようにしませんと」

「ああ――そうなんですね」


 どうりでがちがちに布が巻かれているわけだ。自分で具合をみようと思って触ってみても、布のせいで全然分からなかった。


「顔は触っても大丈夫ですか?」

「え?」

「顔にもいくつか痣がございますの。汚れているので拭いて差し上げたいのですけど、痛みが酷いようならと遠慮しておりましたの」


 顔に痣なんて、いつ出来たんだろう。心当たりはなかったが、とりあえず手で触れてみてもそれほど痛みはない。


「大丈夫そうです。そんなに汚れてますか?」

「……ええ」


 イルリさんは答えにくそうに言って、額に載せられている手拭いを取った。


「汚れていますわ。泥や煤はもちろん」


 そこで言葉が切られて、水の入った桶で手拭いを洗う音だけが残った。

 丁寧に洗われた手拭いが頬に載せられて、イルリさんは優しく汚れを拭きとっていく。


「これも、これも。こんなに悲しかったのですね」


 手拭いの感触が、頬をつうっと撫でていく。こぼれた雫のあとを追うように。


「ボクは泣いていましたか」

「ええ。何度も男爵夫人の名を呼んで」


 そうか、ボクは悲しかったのか。フラウがさらわれて、自分がとことん無力だと知らしめられて。


「ボクはどうしっ――」


 胸の奥から込み上げられるもので、言葉を続けられなかった。そのボクの両目の上に、手拭いを折り返した新しい面をイルリさんは押し当てる。


「汚れたものは、拭けば良いのです。誤ったものは、次に正せば良いのです。大切なのは、どこを拭くのか、何を正すのか、きちんと見極めることなのです」


 押し当てられていた手拭いが取り去られて、イルリさんの口元へ運ばれた。


「というのは父の受け売りなのですけれど。負けたら次に勝てば良いと」


 ワシツ将軍の言葉を真似て、恥ずかしくなったらしい。手拭いで顔を隠してしまった。


「イルリさんは怖くないんですか? せっかくジューニから安全な首都まで来たのに、こんな中に赤ちゃんを置くことになってしまって」


 どうも見ているとイルリさんは、今まで感じていた印象と違っていた。ただ静かな女性ではないらしい。


「怖くないと言えば嘘になります。私などは、いつどうなっても自分がやるべきことを見失わぬようにと叩き込まれていますけれど、あの子はまだ幼いですからね」


 イルリさんがまた母の顔に戻って、ぐずり始めた赤ちゃんを優しい目で眺めた。


「けれども私が守らねば、あの子を誰が守るのかと。例え我が子に矢が降り注いだとして、身を挺して庇えるのは誰が居るのかと。もちろん我が家には頼れる母や使用人が居りますけれども、それだけは私の役目なのです。そう考えていれば、どこに居ようが同じだと思うようになりました」


 お母さん――か。そんなもの、本当に居るんだ。

 いよいよ赤ちゃんが本格的に泣き始めた。お腹が空いたんだろうか。


「セクサさん、当て布を替えたいので一緒に行っていただけますか」

「畏まりました」


 桶を抱えたイルリさんは「手拭いの水も替えて参りますね」と言い残して、セクサさんと共に水場へ行った。

 ボクの知らない人たちが慌ただしくしている中を一人、夜空を見上げた。


「役目かあ――」


 仲間になりたいと思って、団長たちを探して頼んだ。一人前になりたいと思って、みんなの真似をしたり、色々教えてもらったりした。

 それは全部ボクがやりたかったことであって、自分の役目というようなものではなかったと思う。


 役目って何だろう。


 その問いに答えてくれる人は居ない。声に出して言ったとしても、きっと誰も答えられない。


「どういう事態か!」


 訓練場の敷地に、怒声が響いた。金属鎧の音が賑やかに響いて、ボクの居る近くへとやってくる。


「誰ぞある! 説明せよ!」


 いかにも貴族然とした男が怒りをむき出しにして、建物の入り口に向かって吠えた。

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