第40話:綺麗な月

 夕食後に湯を浴びさせてもらって、中庭に出た。昼間は暑いくらいだった空気が、今はひんやりとしている。

 これならすぐ火照りも冷めそうだ。


 月が高く昇っていて、直視すると眩しいくらいだった。それでも目を細めて眺めていたい、美しい月だった。


「何をしているの?」


 振り返るまでもない。フラウの声だ。


「月がすごく綺麗なんです」

「月?」


 フラウも湯場からの帰りなのだろう。つま先に引っ掛けるだけの、木製の履物を鳴らしてこちらへ来た。


「本当だわ。月なんて久しぶりに見るわね」

「久しぶり?」


 月は毎日昇っている。そりゃあ曇っていれば見えないけれど、久しぶりという言い方がそういうレベルではなかった。


「月を見ようなんて――月があることさえ、忘れていたわ」

「――忙しいんですね、きっと」


 ボクの座っている草を編んで作られたベンチの横に、フラウが腰掛けた。

 緩く沈む座面と、洗い立ての髪や肌の匂いが、フラウを華奢な女性だと如実に教えてくれる。


 それから少しの間、黙って空を見上げていた。でも段々と不安になってくる。


 こんなに黙っていて、フラウはつまらなくないかな。


 話題を探しているうちに、「女は自分のことを聞いてほしい」と団長が言っていたのを思い出した。

 とはいえ、何でもかんでもずけずけと聞いて良いわけでもないだろう。無難な題材は何かと考えて、聞いてみた。


「ボクはカテワルトで生まれ育ったんですが、フラウはどこで?」

「――私の生まれたところ?」


 ほんの一瞬だった。彼方を見つめていたフラウの目が凍った。それはすぐさま解凍されて、優しくボクを見る視線に変わった。


「え、ええ。無理に聞きたいわけじゃないですけど」

「構わないけど、知っているかしら。レリクタ。小さな村よ」


 村という言葉が、フラウから出るとは思っていなかった。ボクの勝手なイメージで、都会の人と考えていたからだろう。


「ごめんなさい、知らないです。どの辺りですか?」

「遠くて目印になるものがないのだけれど、北東の端のほうね」


 国土の北東付近。今までに用事がなかったから、地図でどんなことが描いてあったか覚えていない。森の多い山間地帯だったとは思う。


「へえ。きっと綺麗なところなんでしょうね」

「どうだったかしら。小さい時にしか居なかったから、ほとんど覚えていないわ。何もない、ド田舎だったことだけは覚えてるけど」


 やはり聞いてはいけなかったのかな……。


 フラウの言葉におかしなところはなかったけれど、半ば確信してそう思った。だからといって聞いたことを謝ったりすれば、既に掘ってしまった墓穴を深める行為だとも分かっていた。


「そうなんですね。ボクも小さいころのこと、あんまり覚えてないんです。頭が悪いせいかな。あ、フラウは頭のいい子どもだったんでしょうけど」

「まあ酷い。でも気付いたから許してあげるわ」


 くすくす笑いながらフラウは言う。口では非難しているけれど、冗談だと分かるわよねと言っている。


「さて、もう部屋に戻るわ。明日は慰問団に合流するし。悪いけれど、あなたは観光でもしていてね」

「分かりました。喜んでもらえるといいですね」

「そうね。そうだといいわね」


 フラウはもう一度、空を見上げて月光を全身に浴びた。


「じゃあおやすみなさい。ありがとう、月が綺麗だと教えてくれて」

「おやすみなさい」


 カラカラと、乾いた木の音が遠ざかっていく。

 フラウが去っていくことを、香りが薄らいでいくことを、惜しむ気持ちを何と呼べばいいのか、ボクには分からない。


 履物の鳴らす音が全く聞こえなくなるのを待っていたかのように、どこかでキトンが鳴いた。

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