いつかどこかで見た世界

 部活帰りの少年が土手道を歩いていた。

 その道は一応舗装されてはいるものの、軽トラック一台がなんとか通れる程度の狭い一本道で、左右は草の生えた斜面になっている。

 既に日は沈んでおり、街灯もないため辺りは薄暗い。

 後方から車が走ってきた。

 静かな田舎の夜だ。少年はエンジン音で車が近付いてきていることに気付き、道の端に寄ると、後ろを振り返ることなく歩き続けた。舗装されていない部分を歩いていれば、車が人ひとりを追い越す程度の幅は十分にあったからだ。

 この時、少年はもっと車に注意を払うべきだった。相手も自分と同じく正常な判断を下せる状態にあるという思い込みを疑うべきだった。そうすれば、車が明らかに普通ではない蛇行運転を繰り返していることに気付けたかも知れない。

 少年を追い越す直前、車はまるで意思を持った獣のように、少年のいる方向へとタイヤの向きを変えた。

 時速数十キロで突き進む鉄の塊が少年の体を軽々と跳ね飛ばし、道路に転がった彼を更に踏みつけて、止まることなく去っていく――




 ――私は、少年を後ろから抱えたまま空を飛んでいた。

 高い体温と、制汗剤のような爽やかな香りを間近に感じて気恥ずかしくなる。

 ある程度の高さまで上がってから手を離し、彼と向かい合った。


「なんじゃこりゃぁ……」


 彼は自分が今どういう状況にいるのか分からない様子だった。

 まあ、いきなり後ろから持ち上げられて空高く飛び上がったのだ。状況を理解できるはずもない。


「あんたは……誰だ……? というかこれ、飛んでるんか……?」

「えーと……私は通りすがりの魔法少女です。あなたが車に轢かれそうになっていたので助けました」


 私はそう言いながら、下の道路を指差した。

 そこには少年の代わりに車に轢かれたスポーツバッグが無残な姿で転がっていた。


「俺、さっきの車に轢かれて死んじまったんか……?」

「いえ、死んでませんが」

「じゃあこれは夢か何かか……? 今際いまわきわに見るほど魔法少女モノが好きだったのか俺……」

「夢じゃないと思いますよ。少なくともあなたにとっては」

「……やけにリアルな感じはするけど……これ、マジなのか? あんた、マジもんの魔法少女?」

「マジです」

「うわー本物かよ! こんなことってあるんか!? ちょっと写真……あ、スマホはバッグの中だった……ってあー! ありゃ絶対に壊れてるわ!」

「多分壊れてないはずですけど」

「えっ……それも魔法で分かるのか?」

「そんなところです。それより、せっかくなので少し空の上をお散歩しませんか?」

「お、おう……ちょっと落ちそうで怖いんだが」

「ふふっ、大丈夫ですよ」


 私たちは更に高く飛び上がった。

 明かりの少ない田舎の夜空には星が怖いほどびっしりと広がっていて、眼下に灯る小さな家々の光よりもずっと強く輝いている。


「おおぉ……すげえ……いま完全に飛んでるわ俺」

「あのー、いつもこんなに遅くまで部活をやっているんですか?」

「いや……来週練習試合があるからって、主将が張り切っててなあ」

「なるほど、それでこんな時間に」

「うん。いや、まあ今日は練習終わった後で部室でダベってたからな……ついついこんな遅くなっちまったんだけど」

「ダメじゃないですか、早く帰らなきゃ。……それとも、家に帰りたくない理由でもあるんですか?」

「いいや? んなことはない。まあ付き合いっちゅーか……流れでな。俺もそういうのは嫌いじゃないし」

「あー……まあ野球はチームワークが大事ですからね」

「うん? 俺、野球部だって言ったっけ?」

「……魔法少女なので。そのくらいは分かります」

「マジか。すげえな」


 小さな村を横切り、山を越えて隣町の辺りまで来ると、さすがに地上の明かりが増えてきた。

 夜の空の上から地上を見下ろす時、車のヘッドライトが小さく動いているのを見るたびに、小人の世界に迷い込んだような気持ちになる。

 今、彼も私と同じように、あの明かりの一つ一つに自分と同じような人生があることを想像して、途方も無い思いを抱いたりしているのだろうか。


「……あんた、俺と同じくらいの歳に見えるけど、いつもこんな風に人助けとかしてるんか?」

「うーん……そうですね、そういう存在でありたいとは思っています」

「偉いなあ。それに比べて俺は……こうして空を飛んでいると、自分がちっぽけな存在に思えてきちまう」

「そんなことないですよ。あなたはとても優しくて、強くて、輝いていて……人を惹き付ける力を持っている。あなたは周りの声に惑わされずに、分け隔てなく他人と接することができる稀有けうな存在です」

「……おいおい、すごいな。べた褒めじゃ。それも魔法で分かるんか?」

「いいえ。これはあなたと接して私が感じたことです」

「そうか……そう言って貰えるのは嬉しいなあ」


 それから私たちはぐるりと町を一周して、元の道へと戻ってきた。


「おお、すげえ。マジでスマホ壊れてなかった」

「名残惜しいですけど、これでお別れですね……」

「あの、写真撮っちゃまずいか? やっぱ魔法少女的には、会ったことも秘密にしないとダメみたいなやつあるんかな……?」

「……いえ、いいですよ。でも、今日のことを話しても、多分誰にも信じて貰えないと思いますけど」

「そりゃそうだよなあ。魔法少女に助けられて空を飛んだなんて言ったら、絶対にからかわれちまうだろうし」

「そうですね、胸に秘めておいたほうが無難かも」

「それに……まだこれが夢なんじゃないかとも思ってる。覚めるのが少し怖い」

「……それなら、写真は二人で撮りましょう」


 私は思い切って、彼の顔に自分の顔を寄せた。

 なんとなく照れ隠しでVサインなどしてしまう。

 彼は少し戸惑った様子だったけれど、慌ててスマートフォンを構えて、画面の中に二人の顔を収めた。

 顔が熱かった。魔法少女じゃなかったら、汗と心臓の鼓動がバレバレだっただろうなと思った。


「……どうですか?」

「バッチリ写っとる。魔法少女も写真に写るんだなあ」

「ふふ、吸血鬼じゃないんですから」

「それもそうか……っと、ああ、いかん。俺はアホだな。肝心なことを忘れてた」

「なんですか?」

「今日は、助けてくれてありがとう。空まで飛べて、最高に楽しかった。俺は今日のことを一生忘れんと思う」

「……どういたしまして」


 魔法少女は涙を流さないけれど、この不意打ちはずるいと思った。

 私は、この人のこういう所が、本当に好きだったのだ。


「……もし良かったら……また会うこととか、できんかな? その、あんたが魔法少女やってない時でもいいんだが……」

「それは……」


 それは、私にとって最大の試練だったのかも知れない。

 失って二度と取り戻せないと諦めていたはずのものが目の前にある。

 決して戻ることができなかったあの日に戻り、全てをやり直すことができる……。


 でも、ここで私が首を縦に振ったら、私が今日までつむいできた物語は、全て無意味だったことになってしまう。

 全ては過去のために存在していた訳じゃない。全てを捨て去って過去に戻るという選択肢を、今の私はもう、選べない。


「ごめんなさい。きっともう二度と会うことはありません」

「……そうか」


 私はふわりと空に飛び上がった。


「どうか、交通事故には気をつけて下さい。夜の道を歩く時は特に」

「ああ。気をつける」

「お姉さんを大切にして下さい。あなたの言葉ならきっと届くはずです」

「お、おう……姉ちゃんのことも分かるんだな」

「それと……時々、私のことも思い出してくれたら嬉しいです」

「……うん。絶対に忘れんよ」

「それじゃあ……さようなら」

「さようなら。……ありがとう」


 私は未練を断ち切るように彼に背を向けると、空の彼方へと飛び立った。


 ◆


「……良かったの?」

「いいんです。最初からそのつもりだったので。というか雪美さんこそ、助ける役をやらなくて良かったんですか?」

「私が助けたらおかしなことになるでしょ……」

「雪美さんなら姿を変えるとか、いくらでもやり方があったじゃないですか」

「いいの。この世界にはこの世界の私がいるんだから。……こうしてもう一度、遠くから見れただけで十分だよ」

「そうですか……」

「それで、私はこの世界で何をすればいいの?」

「ええと……できる範囲で困ってる人を助けたり、事故や事件を未然に防いだり、世界のバランスが崩れそうになったらそれを支えたり……簡単に言えば、ちょっとした神様みたいな存在になってくれればと」

「あはは、簡単に言ってくれるねえ」

「……あなたが自分の心の中の罪と向き合って、いつかそれに折り合いをつけられる日が来ればと思って……」

「それでこの世界、か。きみも残酷なことをするね」

「そうでないと、罰にならないでしょう?」

「確かに。……まあ、太陽がまた事故に遭わないように見守るくらいはしよう」

「ええ、よろしくお願いします」

「せっかくだから、きみもこの世界を見て回ったら?」

「そうですね……どうもこの世界だと、私はこっちには来ていないみたいですし……ちょっと気になりますね」

「気が済むまでいたらいいよ。さて、私はどうするかな……」


 ◆


 記憶を頼りに街灯の下を歩いていく。

 さすがに東京の住宅街で魔法少女の衣装は目立つと思い、私はあらかじめ用意しておいた私服に着替えていた。

 しかし、すれ違う人たちはそもそもこちらを見ていなかったり、スマートフォンをいじっていたりと、ほとんどが他人に無関心な様子だった。

 もしかしたら、あのヒラヒラした衣装のまま歩き回っていても特に問題はなかったのかも知れない。


 時折、通り過ぎる家の中からテレビの音や笑い声が漏れ聞こえてくる。穏やかな孤独感と同時に、どこか懐かしさを感じる。

 何度目かの角を曲がると、とうとう目当てのマンションを見つけた。

 しかし、ずらりと並ぶ窓のどれが自分の家だったかまでは分からない。

 私はその場に立ち止まって、ぼんやりと窓に灯る明かりを見上げていた。

 この世界では、父が事故に遭わなかったのだろうか。それとも、やはり事故は起きたけれど、私はあの田舎とは別のどこかへ行ってしまったのだろうか。

 インターフォンを鳴らしてみる気はなかった。

 そもそもこの世界は極めてよく似ているというだけで、かつて私がいた世界とは何の関係もない。

 この世界の私のことは気になったけれど、どうしても確かめたいというほど強い思いはなかったし、無関係な世界に無闇に干渉するべきではないと思っていた。例外的に先輩を助けたのは雪美さんがこの世界に留まってくれるための最低条件だったからで、決して個人的な感情のためではない。ないのだ。


 街灯の下で自分自身に言い訳をしていると、不意に一つの窓がカラリと開いた。

 窓から顔を出した少年と目が合った瞬間、私は慌ててその場から立ち去った。

 見間違えるはずもない。あれは中学生の私だった。

 こんなタイミングの良い……いや、悪いことがあるだろうか? 近似の存在同士、呼び合う何かがあったのだろうか。

 どこをどう歩いたのか自分でもよく分からないうちに、私は公園に来ていた。

 子供が登って遊ぶ遊具が一つと、他にはベンチくらいしかない。街の隙間にポツンと取り残されているような小さな公園だった。

 私はベンチに腰を下ろして息を整えた。

 遠くから様子をうかがえればそれでいいと思っていたのに、まさかバッチリ姿を見られてしまうなんて。完全に予想外だ。

 街灯から降り注ぐ、やけに寂しさを感じさせるLEDの白い光を見ているうちに、私は一体何をやっているんだろうという気持ちになってきた。


「あの、すみません」


 不意に声をかけられて、私は飛び上がるほど驚いてしまった。

 他人の接近を感知できないなんてことは、私に限ってはあるはずがないのだ。

 しかし、声の主の姿を見てその理由が分かった。

 私に声をかけてきたのは、この世界の私だった。


「さっき家の窓からあなたを見かけたんですけど……なんていうか……追いかけなきゃって思って……自分でも不思議なんですけど……ああすみません! 別に怪しい者じゃないんです! ただ……なんだろう、こんなこと初めてで……」


 しどろもどろになりながら話す彼を見ているうちに、私の心は落ち着きを取り戻していった。

 今の私は単なる通りすがりの魔法少女で、彼はこの世界のどこにでもいる一人の人間で。ここは過去の世界ではないのだから、私が彼と何を話そうと、特別なことなど何も起こりはしないのだ。


「とりあえず、座ったら?」

「あ、はい。失礼します……」


 彼が私の隣に座ると、静かな沈黙が訪れた。

 時折車が近くの道路を通り過ぎていく音が聞こえる。


「はぁ……本当に、何をしてるんだろう……」

「何か、悩み事でもあるの?」

「えっ?」

「こうして会ったのも何かの縁だし、良かったら話を聞くよ」


 私がそう言うと、彼はしばらく迷っていたようだったけれど、やがて意を決したように顔を上げた。


「……初対面の人にこんな話をするのもアレなんですけど、実は僕……心と体の性別が合ってないみたいなんです。本当は女の子として生まれるはずだったのにって、昔から漠然と思っていたんですけど、最近は特に強くそう思うようになってきて……」

「それで、学校で辛い目に遭ったりしてる?」

「いえ。小学校の時にそれでちょっといじめられたから、中学では最初から、なるべく普通の男の子みたいに振る舞うようにしてるんです」

「それは……大変じゃない?」

「まあ、そのおかげで平穏に過ごせているからいいんですけど、やっぱりどうしてもクラスの人たちと……なんていうか、上っ面だけの付き合いしかできなくて。踏み込めないっていうか、自分で線を引いちゃってる感じで。男の子と仲良くすることも、女の子と友達になることもできなくて」

「自分の悩みを打ち明けられる相手もいない」

「そうです。これから先、一生こんな風に演技していくしかないのかなって思ったら、心がどんどん重くなって……うまく生きていける自信がない、みたいな感じで」


 その気持ちは分かり過ぎるほど良く分かった。

 彼は、私が田舎の小学校と中学校で受けた苛烈ないじめのようなものは上手く回避しているものの、代わりに私にとっての先輩のような存在と出会えずにいるらしい。

 肉体というあまりにも絶対的な檻に閉じ込められて、決して出口に辿り着けない絶望感をたった一人で抱えている。その重さは他人には計り知れないものだ。

 ちらりと彼の腕を見ると、複数の赤い線が微かに見えた。

 深い傷跡きずあとではないが、自分の体への違和感や嫌悪感から、日常的に軽い自傷行為に走っているのかも知れない。


「この話をするのは私が初めて?」

「はい。初めて話しました」

「ずっと誰かに話したかった?」

「……はい」

「私もねえ、同じだったから。分かるよ」

「同じ?」

「実は私も男の子の体で生まれてきたの。でもある時、ある人に思い切ってそれを伝えたら、心が少し楽になった。きみも少しは楽になってくれてると嬉しいんだけど」

「いや……ていうか、ええー? どう見ても女の人にしか見えないんですけど。顔も声も……。本当に僕と同じなんですか……?」

「私は魔法使いだからね。他の魔法使いから女の子の体を貰ったんだ」

「魔法使い?」

「あ、嘘だと思ってる? マジマジ。ほら、この美しい髪と瞳を見てごらんよ」

「それ、カラーコンタクトでしょう? 髪もウィッグじゃ……」

「まあ信じるも信じないも自由だけど。それより今はきみの話に戻ろう。私が思うに、きみは悩みを相談できる相手を見つけた方がいいと思う。私以外でね」

「それができないから悩んでるんですけど……」

「おっとそうだった。一番いいのはご両親に相談することだけど……あ、えーと……お父さんとお母さんはどちらも健在?」

「ええ、まあ。でも親に話すのはちょっと」


 やはり、この世界では父は事故に遭っていないらしい。

 私の両親はどんな性格をしていただろうかと記憶を探ってみる。子供が悩みを打ち明けたらきちんと理解しようと努めてくれるような、そんな人間だっただろうか?

 しかし、記憶の中にいる彼らはもう随分とかすんでしまっていて、今の私にはよく分からなかった。


「ご両親とはあまり話さないの?」

「あー……自然とそうなったっていうか……クラスの人たちと同じで、僕が自分から距離を取っちゃって。それに、もし打ち明けて、信じて貰えなかったら……。全部、否定されたら……多分もう、僕には居場所がなくなっちゃうから」

「確かに、その賭けに出るのは勇気がいるね……。それならさ、保健室の先生に話してみるのはどう?」

「保健室……?」

「担任でもない、クラスメイトや家族とも関係ない、それでいて相談を受けてくれそうなポジションって、保健室の先生じゃない? 勝手なイメージだけど、生徒の相談を無下にしたり、他の誰かに言いふらしたりするような人は保健の先生にはなれない気がする。もしダメでも、もう保健室には行かなきゃいいだけだし。どうかな?」

「なるほど……」


 彼はあごに手を当てて、考えをまとめるように押し黙ってしまった。

 再び辺りに沈黙が訪れた。

 桜の木の葉が風で揺れている。

 誰かの足音が聞こえてきたので見てみると、犬の散歩をしているおじさんが、公園の街灯の下を通り過ぎていくところだった。

 足の短い犬はおじさんの顔をしきりに見上げながら、ちょこちょこと歩いていく。

 私は何となく手持ち無沙汰で、犬のおしりに向けて軽く魔力を送ってみたりしたけれど、彼らはこちらに気付く様子もなく行ってしまった。


「……今度、保健室に行ってみます」

「うん、行ってみなよ。新しい居場所ができるかも知れないし」

「そうですね……」


 しかし、結論を出したはずの彼の表情は晴れないままだった。


「でも……結局の所、この悩みを根本的に解決することはできないじゃないですか。どれだけ誤魔化して生きても、現実は変わらない」

「それはまあ、そうかもね。でも、私は魔法の力で女の子の体を手に入れたけど、この世界には魔法みたいな技術がたくさんあるじゃない?」

「手術とか、そういう話ですか? それはもちろん考えましたけど、子供じゃ無理だし、どうしても親に話さなきゃならなくなるし……」

「子供のうちは確かに難しいね。でも、大人になれば親の許可はいらなくなるよ」

「そんな先の話……僕は今、つらいのに……」

「そこでさっきの話に戻る。今は誰かに相談して……あ、今思いついたけど、ネットで同じような人の集まりを探すのとかもいいかも。とにかくそうやって……言い方は悪いけど、どうにか誤魔化しながら生きてさ。それで大人になったらお金を貯めて、本当の自分の姿を手に入れるの。こう考えると、なんだか未来に希望が待っているような気がしてこない?」

「……口が上手いですね。歳は僕とあまり変わらないように見えるのに、なんだか大人みたいだ」

「私はもう、大人にはなれないけどね」


 恐らく私の体は――男女どちらの体も――普通の人間と同じように成長したり衰えたりはしないのだろう。

 良くも悪くも、当たり前に与えられる普通の人生というやつを辿ることは、私にはもうできそうにない。

 ……いや、そういえばこの体も成長させられるって先生が言ってたような……やろうと思えばできるのかな? 今度試してみようかな……?


「魔法使いだから、ですか?」

「その通り」

「ふふ、変な人だなあ……でも、今は耐えて、未来を待つっていうのは……悪くない気がしますね」

「願いが叶うまでは、ひとまずはそれを目標にしてもいいんじゃないかな。お金を稼ぐにためは、今からたくさん勉強しないとね」

「勉強かあ……なんか一周回って現実に戻ってきた感じ」


 そう言って嫌そうな顔をして見せる彼は、さっきよりもずっとすっきりしたように見えた。


「そうだ、スマホって持ってる?」

「今は家にありますけど……」

「そっか。じゃあこれでいいや」


 私は着替えを入れておいたバッグを固有空間から引っ張り出して、ノートとペンを取り出した。

 ノートのページを一枚破り、短くメモ書きをして、彼に差し出す。


「えっ、それ今どこから取り出したんですか……?」

「魔法だよ、魔法。それよりほら、受け取って」

「これは……どこかの住所ですか? ずいぶん遠いけど……」

「もしもきみがこれから先の人生で絶望の底に沈んで、本当にどうしようもなくなって、あーもうダメ死ぬしかないって思ったら、そこに行ってみて。私よりずっとすごい魔法使いに……会える……かも知れない……向こうが気付いてくれれば多分……」

「なんでどんどん声が小さくなっていくんですか?」

「気にしないで。きっと大丈夫、うん」

「大丈夫な気がしない……」

「とにかくさ、これできみは切り札を手に入れたんだよ。どんな困難に遭っても、駄目だった時はそこまで逃げればいい。そう考えれば結構色んなことを頑張れる気がするんだよね。まあ、お守りみたいなものだと思って」

「この住所がお守りですか。それは……なんか、現実感があっていいですね」

「でしょ? 今夜は冴えてるなあ、私」

「あの……また相談に乗って貰えませんか? 不思議なんですけど、初めて会った気がしないというか、初対面の人とこんなに自然体で話せたのは初めてなんです」

「おぅ、デジャヴ……うーん……残念だけど、あまり長居はできないんだよね。自分の世界に帰らなきゃいけないから。私にできるのは、ここまで」

「あ、別の世界から来たっていう設定なんですね」

「そうなのよ。……これから先、色々あると思うけど……つらい時はそのお守りのことを思い出してね」

「……はい。ありがとうございました」


 ◆


 それほど長く話し込んでいたつもりはなかったけれど、気付けばじわじわと夜明けの時間が迫ってきていた。

 そろそろ帰らなければならない。

 でもその前に、私はふと思い立って、商店街を歩いてみることにした。


 ひんやりとした静謐せいひつに包まれた時間に出歩いている人はほとんどいない。

 建物の隙間から出てきた猫が、こちらに気付くと足早に歩き去っていった。

 記憶の中には残っていないけれど、私もかつて家族でこの商店街を訪れたことがあったのだろうか。

 本来であれば、私はこの世界にいてはいけない存在だ。

 でも、この静かな眠りの時間だけは、こうして歩き回ることを許してくれているような気がした。


 ふと、シャッターが降りている魚屋の脇の扉から、誰かが出てくるのを視界の端に捉えた。

 私は何故かその人影が気になってしまい、そちらに意識を向けた。それとほぼ同時に、その人物が振り返った。

 私は思わず、あっ、と声を上げてしまった。

 それは、絶対にここにいるはずのない、見知った顔だった。

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