追憶の部屋

「お邪魔しまーす……」


 小声で呟きながら、玄関の引き戸をカラカラと開ける。

 あの頃と同じく鍵はかかっていない。

 家の中は薄暗く、線香のような香りがほのかに漂っている。時が止まってしまったかのように静かだ。

 雪美さんはまっすぐに階段を上っていった。

 私たちも靴を脱いで後に続く。

 これから最後の戦いが始まるような雰囲気ではないな、と思った。


 狭くて急な傾斜の階段を上り切れば、すぐ目の前が先輩の部屋だ。

 雪美さんの部屋はさらに奥の突き当りにあるはずだったが、彼女は階段を上った所で立ち止まっていた。

 ここまで来れば、魔力を感知できる者なら誰にでも分かる。災厄の魔法使いの強大な魔力が漏れているのは、先輩の部屋の中からだということに。

 雪美さんはドアノブに手をかけると、さすがに緊張したような面持ちで一つ深呼吸をした。

 ドアノブが回り、ゆっくりと扉が押し開けられていく。

 私は無意識のうちに拳を握り締めていた。

 もう二度と来ることはないと思っていた先輩の部屋に、こうして再び訪れていることが嘘みたいだった。

 扉の先にどんな光景が待ち受けているのか、知るのが怖かった。

 椅子の上に胡座あぐらをかいて漫画を読んでいる先輩がふと顔を上げて、「おう、どうした」と笑いかけてくる……あるいは冷たくなった先輩がベッドの上に横たわっていて、無表情の雪美さんがそれを隣でじっと見下ろしている……そんな妄想がリフレインする。

 ぐらぐらと体が揺れている。

 心臓が早鐘を打ち、その振動が全身を震わせているようだった。

 キィ、と小さな音を立てて扉が大きく開く。

 部屋の中から淡い光が漏れた。

 ふわりと、爽やかな制汗剤のような懐かしい香りが鼻をくすぐった瞬間、私の頭の中に鮮烈な記憶が洪水のように押し寄せてきた。

 先輩の部屋で交わした会話の一つ一つ。豪快な笑い声。窓から入る夕方の光。時計の長針がカチリと動く音……。

 本当に時間をさかのぼったのではないかと錯覚するほど鮮やかな感覚が胸を貫き、私は反射的に涙を抑えようと片手で顔を覆った。

 唇をきつく引き締める。

 惑わされるな。あの日には二度と戻れないのだ。


 恐る恐る目を開けると、雑然とした部屋の様子が見えてきた。

 机や床の上には無数の本が散乱し、タンスからは衣類が引きずり出され、押入れからは毛布などが無秩序にはみ出ている。

 それらに囲まれるようにして、ベッドに背を預けて床にぺたりと座り込んでいる人物がいた。

 彼女は、部屋に入ってきた私たちを見ようともしなかった。

 うつむいた顔に長い髪が垂れ下がっているため、表情をうかがうことはできない。それでも頭が小刻みに動いているので、眠っている訳ではないらしいということは分かる。

 耳を澄ますと、どうやらかすかな声でずっと何かを呟き続けているようだった。


「……ひどい」


 雪美さんは部屋を見回しつつ、小さく吐き捨てた。

 彼女にとっては特に思い入れが深いはずの部屋が、こんな……泥棒にでも入られたかのように荒らされているのは、とても我慢ならないのだろう。

 雪美さんは本や衣類を踏まないように気をつけながら、床に座り込んだまま動かない"災厄の魔法使い"の元へ近付き、身を屈めてその顔を覗き込んだ。

 ややあって立ち上がると、彼女はこちらを振り返って言った。


「壊れてる」


 簡潔にして衝撃的な一言だった。

 私も同じように彼女の近くまで行ってみたが、ぶつぶつと呟き続けているその微かな言葉は、どれ一つとして意味をなさないものだった。


「これは……どういう……?」

「私にも分からないけど、これに何か書かれてるかも」


 そう言うと雪美さんは、"災厄の魔法使い"が膝の上に乗せていた本を取り上げた。

 その本の表紙は真っ白で、タイトルも何も書かれていない。


「それは?」

「さあ……一応、太陽の部屋にあった本は全部覚えてるけど、この本だけは見覚えがないの」


 そう言いながらパラパラとページをめくっていた雪美さんの表情が次第に険しくなり、それから彼女は無言でその本を私に手渡してきた。

 私は恐る恐る本を開いた。

 数ページの白紙の後に、手書きの文字が目に飛び込んできた。

 これは……どうやら日記のようなものらしい。


 ◆


 ――――――


 また意識が飛んでいた。

 部屋の中がめちゃくちゃに荒らされている。

 前にも一度、同じようなことがあった。まさかまた起こるなんて思わなかったから、忘れかけていたのに。

 残念だけど一過性のものじゃないらしい。

 とにかく何か異常が起きていることは確かだ。

 ないとは思うけど、記憶喪失なんかになったら困るから、念のため記録をつけることにする。

 この部屋以外に荒らされた形跡はなし。

 窓が割れたり、物が壊れたりはしていない。

 ここに私以外の誰かが来るなんてことはまずありえないから、まあ、私がやったのは間違いないだろう。問題は、私がそれを全く覚えていないということだ。

 幸い、彼の体に傷はついていない。

 彼を避けるように物が散らばっているところを見ると、どうやら無意識の状態でも分別ふんべつはあるようだ。

 念のために彼を別の場所に移した方がいいだろうか?

 いや、やめよう。

 私はここから離れたくない。


 ――――――


 できればもう二度とこの本は開きたくなかった。

 三度目だ。

 状況は前回と同じ。記憶が飛んで、部屋が荒らされている。

 あれから何年経ったんだっけ。時間の感覚が麻痺してて分からない。

 ぐちゃぐちゃになったこの部屋を見ると悲しくなる。

 それをやったのが自分だと思うと、なおさら。

 地上にはまだたくさんの人間の命がひしめいている。

 ここからだと大まかなことしか分からないけど、もう一人の私は一体何をやっているのだろう。

 早く。

 早く人間を滅ぼして。

 そうでないと私は


 とにかくまずは原因を推察しよう。

 獣への魔力供給と彼の封印を、同時に長期間に渡って続けていることが、何らかの歪みを生んだのかも知れない。

 不要な供給はカットして、獣を再配置しよう。

 これで少しは余裕ができるはず。


 静かだ。

 ここは夜が来ないからずっと何も変わらない。

 夜は嫌だ。

 家の回りの風景も少し再現してみようか。

 まあ、外に出るつもりなんてないんだけど。


 ――――――


 もうどうすればいいの?

 私の体なのに、どうして私の思い通りになってくれないの?

 わからない。何もわからない。

 あれから十年くらい経ったのかな。それとも百年くらい?

 何かがおかしい。

 あまり考えないようにしてたけど、ひょっとして私が意識を失っている時間って、私が思っているよりずっと長いのかも。

 こわい。

 早くしてよ。


 ――――――


 どうしよう。

 たいようがうごかない。目をさまさないよ。


 ――――――


 たいようがいなくなった


 ――――――


 ██████████

     █████   ████████


 ――――――


 ◆


 文章が書かれたページはわずかなものだった。

 読み終えたその本を雪美さんに返してからも、私は背中にまとわりつくような何とも言えない薄気味の悪さをぬぐい去れずにいた。

 恐らく"災厄の魔法使い"は、定期的に今のような状態におちいっていたのだ。

 異常な精神状態と正気に戻ることを何度も繰り返して、そして最後は――


「最後はきみのことを太陽と勘違いして、目を覚まさせるために封印を解いちゃったんだろうね」


 雪美さんはため息を吐いて、ベッドの上を見た。

 よく見ればそこには確かに、誰かが横たわっていたかのようなへこみがあった。

 そこで眠っていたのはもちろん先輩などではなく……封印された状態の私だったのだろう。


「どうしてこんな、定期的に正気を失うような状態になってしまったんでしょう」

「……寂しかったのかも」


 雪美さんは少し恥ずかしそうに言った。


「私も同じなんだ。私も幻想の世界にね、ここと全く同じように実家を再現したの。そこはとても穏やかで、何一つ変化のない、寂しい場所なんだ」

「でもそれは……雪美さんが自分で望んで、そういう風に作ったんですよね?」

「そうだよ。でもいつしか、私はそこに一人でいることに耐えられなくなった。太陽を失った悲しみと向き合い続けることに、耐えられなくなった……。あの頃はもう、私には他の魔法使いや、空手が一緒にいてくれたから……でも、こっちの私は、ずっと一人で向き合い続けたんだろうね。そうすること以外に何もできなかったから。そうして、心がどんどん壊れていった……」


 雪美さんの瞳に、微かに同情の色が浮かんでいた。


「私、自分が分身わけみであることがずっと許せなかった。でも、もしかしたら……」


 それきり雪美さんは口を閉ざしてしまったけれど、彼女が言いたいことは十分に伝わってきた。

 これまでずっと許容できずにいた自らの境遇が、本当は恵まれたものだったという可能性……いや、目の前で壊れた機械のように支離滅裂な言葉を呟き続ける彼女を見れば、どちらがより幸福だったかなんて、考えるまでもない。


 雪美さんはゆっくりと床に膝をついて、"災厄の魔法使い"の髪に触れた。

 手入れをされていないボサボサの髪を、何とも言えない表情で、そっと撫でた。


 不意に、バサッという音がした。

 雪美さんが手に持っていた白い本が、床に落ちたのだ。

 そう気付いたときにはもう、髪を撫でていた雪美さんの姿は消えていた。

 私の目の前には、床に座り込む"災厄の魔法使い"だけがいた。


 それまでこちらに遠慮して気配を押し殺していたフーコが、背後で臨戦態勢を取るのが分かった。

 絶え間なく続いていた"災厄の魔法使い"の独り言が止まり、スローモーションのように頭が持ち上げられた。

 彼女が軽く頭を振ると一瞬で髪がきれいに整えられ、ヨレヨレの部屋着もいつの間にか見慣れた白衣のスタイルに変わっていた。

 魔法だ、と思った。

 ただ願うだけで、それを現実にしてしまう。本物の魔法だ。


「あなたは……どっちですか?」


 私の問い掛けに、彼女は眼鏡の奥でふっと微笑んでみせた。


「……勘違いしてた。私は、最初から私だったんだ」


 彼女は、よっと声を上げて立ち上がると、気持ちよさそうに伸びをした。


「どっちを取り込むとか、支配するとか……そういうことじゃなかったんだ。私はただ元に戻っただけ。こんな単純なこと、どうして分からなかったんだろう」


 分身として百年を生きてきた彼女は、その願いを叶えることができたのだろうか。

 目の前にいる彼女は雪美さんなのか、それとも災厄の魔法使いなのか。

 どちらとも判断のつかない私たちは、警戒を解けずにいた。


「……大丈夫。私はもう、人類を滅ぼそうなんて思ってないよ」


 言いながら彼女は、チラリとフーコに視線を向けた。


「空手……どうする?」

「……なにがっすか?」

「この私はもう、さっきまでの分身じゃない。正真正銘、百年前にあなたの家族の命を奪った……あなたの仇そのものだよ」

「……」

「あなたが私を殺すというなら、私はそれでもいいと思ってる」

「何を言い出すかと思えば……」


 フーコは呆れたように言って、臨戦態勢を解いてしまった。


「……いいの?」

「あんたと知り合いでも何でもなかったら、きっとそうしていたでしょうね。でも、自分にとってあんたはもう、マブダチなんすよ」

「大切な人を殺された恨みや悲しみは、そんな簡単には消えないでしょう?」

「まあ、確かにそうっすね。この悲しみはいつまでも消えないかも知れない」


 射抜くような瞳で。

 フーコはまっすぐに雪美さんを見た。


「でもね、自分はその痛みを紛らわすために憎しみにすがり付いて生きるようなことは、もうやめたんすよ」


 雪美さんの顔に驚きが広がった。


「あんたはどうなんすか、幻想」


 フーコはじっと、力強い瞳で雪美さんを見つめていた。

 雪美さんは気圧けおされたように一瞬だけ目をらしてから……もう一度その視線を受け止めるように、フーコの顔を見た。


「私は……時間とともに人間への憎しみが薄れていくことが、太陽への冒涜ぼうとくになるような気がして、ずっと怖かった。ショウくんから憎しみの感情を奪ったのも、多分そんな恐怖が心の底にあったからだと思う。ここで太陽の死をいたみ続けていた私は……その恐怖に押し潰されてしまったんだと思う。言葉を交わす相手も、気を紛らわす出来事も、何も……ここには何もなくて」

「今も、憎しみが薄れていくことが怖いっすか?」

「……正直に言えば、少しね。でも、私は地上で、もしかしたら人間のままの人生で得られるはずだった他者との関わりを……幸運にも取り戻すことができて、それできっと、大丈夫になっちゃったんだ。そのことを、太陽に対して申し訳なく思う気持ちがない訳じゃないけど……でも、それを恥じて、全て見ないふりをして、何もかもをめちゃくちゃにしようっていう気持ちは、もうなくなったみたい」


 ふと見ると、雪美さんの頬に一筋の涙が伝っていた。

 本人はそれに気付いてさえいない様子だったけれど、それを見た瞬間、私は霧が晴れたように納得してしまった。

 先輩が亡くなった日からずっと、彼女は涙を流すタイミングを失っていたのだ。

 長い時間と多くの出来事を経て、ようやく流せた涙が……本人さえ気付かないほどささやかな、たった一粒の涙だったなんて。

 その光景は、強く私の胸を締め付けるようだった。


「人っていうのは、ずるいんすよ」


 慰めるような優しい声でフーコが言った。


「時間が経つほど思い出は美化されていくし、悲しみは麻痺していくし、憎しみは漂白されていく……そうやって何もかもを白く覆ってくれる時の流れを、ずる賢く利用して生きていこうとする」


 軽く言葉を区切ってから、フーコは笑った。

 夜明けの太陽のように眩しい笑顔だった。


「でも、だからいいんすよ。薄まっても、変化しても、消えてなくなる訳じゃない。ただ少し歩きやすいように工夫していけるってだけで。人間のそういうしたたかさが、自分は嫌いじゃないんすよ」


 フーコの言葉を聞いていた雪美さんも、つられたように笑顔になっていた。


「……私、今ね、あなたと出会えてよかったって……すごく思ってる」

「自分はずっとそう思ってたっすよ」

「そういう調子のいいところも、好きだよ」

「……そりゃどーもっす」


 二人は軽く笑い合って、それから、どちらからともなく握手を交わした。

 災厄の魔法使いと一つになった雪美さんの心の中には、未だに人間に対する憎しみが残っているはずだけれど、もう彼女はそれに縋る必要はない。

 熾火おきびのように静かに燃え続けるその感情は、いつしか再び大きな炎を上げることもあるかも知れない。けれど、その時雪美さんは必ず今日のことを……フーコのことを思い出すはずだ。

 先ほど彼女が見せたあの、太陽のように輝く笑顔を。



「それじゃ……帰ろうか」


 雪美さんが言うと、不意に足元が揺れた。

 かなり大きな揺れにもかかわらず、部屋の中は静かなままだった。


「雪美さん、これは……」

「害獣を生成する魔法を消去したんだけど……この害獣はものすごく大きく育っちゃったから、ちょっと消滅するのに時間がかかってるみたいだね」

「消滅……ってことは……」

「行きよりは早く帰れるよ」


 私は思わず苦笑してしまった。

 感動的な一幕があったばかりなのに、これからいきなり前人未到の高度からのスカイダイビングが始まるようだ。

 情緒も何もあったものじゃないけれど、まあ、その方が私たちらしいと言えばそうなのかも知れない。

 ゆっくりと消えていく追憶の部屋に別れを告げて、私たちは数分後に到達する地上へと足を踏み出した。

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