家族

 そろそろ街をぐるりと一周する頃だ。

 やはり人を探しながらだと時間がかかってしまう。


「ごめんなさい。わたし、あまり役に立ってない……」


 私の隣ですみれちゃんが申し訳なさそうに呟いた。

 街を眼下に見渡せるほどの高度を飛んでいても、その小さな声は風の音にも負けずにはっきりと聞こえてくる。


「気にしないで。付き合わせちゃってるのはこっちなんだから」


 私が言うと、彼女の表情がほんの少し緩んだようだった。

 間もなく二周目に入る。先ほど探索した範囲のぶんだけ内側に入り、ぐるりと街の壁をなぞるようにして飛ぶ。そろそろ時間だけど、もう少しだけ。


 ……なぜ私たちはこんなことをしているのか。

 その理由は一時間ほど前にさかのぼる。


 ◆


 放課後、私たちはいつもの三人で百貨店の屋上でダラダラした後、いつも通りに別れて帰路に着いた。

 午後五時を過ぎても空はまだまだ明るく、私は少し早めに夕食の準備を始めようか、それとも別のことをしようかと思案していた。人間、面倒なことは後回しにしてしまうもので、なんとなく読みかけの本に手を伸ばしかけたのだけれど……そこで不意に電話のベルが鳴った。

 この部屋の電話が鳴ることはあまりない。たまに元一からかかってくることもあるけれど、ほとんどの場合はおじいさんや宝威さんからだ。

 時間的におじいさんから夕食のお誘いだろうかと考えながら受話器を取ると、意外な声が聞こえてきた。


「あっショウ? どうしよう、アタシ、あの、あのね」

「りりの? どうしたの?」

「今帰ったんだけど……帰ってきたらね、お母さんが……どこにもいないの。ねえ、どうしよう」


 りりのの声は、今まで聞いたことがないほど狼狽ろうばいしていた。

 彼女の母親は確か、大森が壊滅した日に夫と息子を目の前で害獣に殺害されたせいで、それ以来何年もあらゆる気力を一切失ったような状態にあると聞いていた。

 りりのが手助けすれば最低限の生活は送れるものの、それ以外の自発的行動はほとんどなく、一日中壁や床を見つめて過ごしているという話だった。

 一応、この世界ではまだ私はその話を聞いていないはずだけど……恐らくそんなことにすら気が回らないほど、りりのは混乱しているのだろう。


「りりの、落ち着いて。帰った時に家の鍵は開いてたの?」

「うん。開いてた」

「家の中が荒らされているとか、現金がなくなってるとか、そういうことはない?」

「えっと……多分荒らされてはいないと思う……お金もある」

「お金は一切手がつけられてない? お母さんの財布とかなくなってない?」

「ちょっと待って……うん、何もなくなってない」

「靴は?」

「靴?」

「お母さんの靴」

「あっ、そういえば帰ってきた時靴入れが開いてて……待って……サンダルが一足なくなってるかも……」

「それなら、お母さんは自分で出ていった可能性が高いね。誘拐とかじゃなくて」

「えぇ……こんなこと今まで一度もなかったのに……なんで……?」

「理由は分からないけど、お母さんはそんなに遠くには行っていないと思う。というか、お金を持っていなければ戸越から出られないしね」


 壁に囲まれたこの街から出るには、地下鉄に乗るしかない。仮にお母さんが他の街へ行こうとしても、お金がなければそれは不可能だ。

 さらに、長年に渡って運動をほとんどしていなかった人間が、急に遠くまで歩いて行けるとは考えにくい。

 私はそんなことを説明して、どうにかりりのを落ち着かせた。


「とりあえず今から行くから、その間にりりのは警察に連絡しておいて。私が行くまで動かないでね」

「わかった……ごめんね、ありがと……」


 か細く震えるその声は、想定外の事態に完全に参ってしまっている声だった。彼女のこんな声はあまり聞きたくない。

 私はまず元一の部屋を訪れて事情を説明し、一緒に来てくれるよう頼んだ。こういう時の人手は多いに越したことはない。

 ついでにフーコにも声をかけようと思い立ち、電話をするために自室に戻ろうとしたところで、空の上からフーコ本人とすみれちゃんが降りてきたので面食らってしまった。


「おや、ショウさんに元一さん。これからお出かけっすか? 電話したらお話中だったんで直接来ちゃったんすけど」

「ああフーコ、ちょうど良かった……」

「急で申し訳ないんすけど、ちょっとシールを預かって貰えないっすか? 自分急用が入っちゃって……ああもう時間が! じゃあよろしくっすー!」


 事情を話す暇もなく、嵐のような勢いでフーコは飛び去って行ってしまった。


「……よろしくおねがいします」


 後に残された三つ編みの少女が、ぺこりと礼儀正しく頭を下げる。

 すみれちゃんの洗脳が解け、私たちに協力してくれることになった日から、彼女は常にフーコと共に行動することになっていた。

 監視のため……というほど大げさなものではないけれど、事情があったにせよ一時は戸越街に害獣を出現させるというテロのような行為をしていたのだ。和解したからと言って街の中で自由に遊ばせておく訳にはいかない。

 そして何より、彼女が再び雪美さんから何らかの干渉を受けないように保護するという意味合いが強かった。

 そのため、フーコがすみれちゃんを連れていけないような用事ができた場合は、私がその役を引き受けるということになっていたのだ。……まさかこんなタイミングでバトンを渡されることになるとは思わなかったけど。

 仕方ないので私はそのまま元一とすみれちゃんを連れてりりのの家に行き、それから分かれて捜索を開始することにした。

 私とすみれちゃんは機動力があるので街の外側から探し、元一には中心から探してもらう。おじいさんにも連絡しようかと思ったけど、さすがにそこまで事を大きくしてしまうとりりのに迷惑がかかるかも知れないので、それは最終手段にしようと決めた。


「りりのは家で待ってて」


 私がそう告げると、彼女は泣きそうな顔になった。


「こういう時何もせずに待ってるのはつらいと思うけど、お母さんが見つかった時、すぐに連絡が取れないと困るでしょ? これはりりのにしかできないことなんだよ」

「……わかった。待ってる」

「じゃあ元一、一時間毎にこの家に集合して情報を共有しよう」

「おう」


 こういう時、携帯電話があれば便利なんだろうけど……ないものは仕方がない。

 時間を決めて直接会って情報を交換して、それからまた動く。これを地道に繰り返すしかない。


 ◆


 ……そういった理由で、私たちはビュンビュンと戸越街の上空を飛び回っているのだった。

 一応りりのからお母さんの写真を借りてはいるけれど、証明写真用にそれが撮られたのはもう何年も前のことらしく、あまり信頼はできないかも知れない。

 それよりもりりのと血が繋がっているなら、わずかでも魔力を持っている可能性は高い。りりのに似た反応を探っていけば見つかる確率はぐっと高まる……はずだ。

 私が魔法で広範囲の魔力をスキャンし、すみれちゃんには目視で写真に似た女性を探してもらっているけど、今の所収穫はゼロだった。

 まあ、あまり遠くまでは歩けないだろうという予測からすれば、街の外周ではかすりもしないのは当然なのだけれど、万が一ここで見逃してしまうと後々大変なことになるので気は抜けない。


「むりに付き合わされてるなんて、おもってないです。……わたしは、魔法使い様のお手伝いをできるのがうれしい。魔法使い様のお役に立てるなら、わたしが生きてきたことにも意味がある気がするから」


 そんな大げさな……と思ってすみれちゃんの方を見ると、その幼い顔にはいつもの無表情ではなく、穏やかな微笑みが浮かんでいた。

 彼女が今日まで歩んできた長い人生を、私は知らない。彼女がどれほど傷つき悩んできたのか、断片的な話をつなぎ合わせて想像するしかない。

 それでもその過酷の果てに、今、彼女が浮かべているような笑みがあるのならば。そしてそれをもたらしたのが私だと言うのならば、私は自分自身を誇らしく思えるような気がした。


「ありがとう、すみれちゃん。……でも、『魔法使い様』はちょっと恥ずかしいから……ショウでいいよ」


 私がそう言うと、彼女はびっくりしたような表情で私を見返してきた。

 それから難しい顔で何事か考え込むようにしていたけれど、そのうち「おそれ多い……」という小さな呟きが聞こえてきて、私は思わず苦笑いしてしまった。


「それではお言葉にあまえて……ショウお兄ちゃん」

「おっとぉ……」


 熟考の末に予想外のオプションが付いてしまった。

 そういえば彼女にはまだ私自身の性別についての話をしていなかったな……と思いながら複雑な表情をしていると、それを見たすみれちゃんが「あっ」というような顔をした。


「そうだ……今は変身してるから……ショウお姉ちゃん?」


 素早く修正してくれて嬉しいけれど、そうじゃない。微妙にずれている。

 私がすみれちゃんに「お兄ちゃん」とか「お姉ちゃん」とか呼ばせているということになったら、きっとフーコから白い目で見られるんだろうな……。


「これもちがう……じゃあ、ショウさま」

「うーん……まあ、それでいいや」


 最初の呼び方からあまり変わっていないような気もしたけれど、まあお兄ちゃん(お姉ちゃん)よりはマシだろうということで妥協してしまった。

 ……いや、世間一般からすれば小学生の女の子に様付けで呼ばれている方がヤバいのだろうか……? わからない……どうもその辺りの感覚が完全に麻痺してしまっているようだ……。

 余計な思考のせいで集中力が切れそうになってきた頃、ちょうど最初に決めた一時間が経過するところだったため、私たちは一旦りりのの家に戻ることにした。


 ◆


 りりのの家に戻ると、元一は既に帰って来ているようだった。

 いや、元一だけではない。玄関にはたくさんの靴が並んでいる。


「ただーいまー……じゃない、お邪魔しまーすかな……?」


 なんとなく小声で呟きながら居間の扉を開けると、りりのと元一、そしてなぜか宝威さんがいた。

 あれ? と思っていると、ちょうど奥の寝室から大柄な女性が出て来るところだった。ボリュームのあるポニーテールの赤髪、強調された胸元、肉付きが良いのに引き締まった太腿……私もお世話になったことがある、病院の院長先生だった。


「先生! どうでしたか……?」


 りりのが先生に駆け寄るのを見つつ、私は元一の側に移動する。


「元一、ひょっとしてもう見つかったの?」

「ああ。探し始めてすぐに駅で……ショウにも連絡できればよかったんだけど。今、奥で寝てる」


 どうやらりりののお母さんはとっくに保護されていたらしい。

 結果的に私とすみれちゃんの捜索は空振りだったことになるが、そんなことよりもとにかく見つかって良かったという気持ちの方が大きかった。


「体に異常はないよ。ありゃ疲れて寝てるだけだね。恐らく久しぶりに体を動かしたせいだろう」

「そうですか……よかった……」


 詳しく話を聞いてみると、りりののお母さんは駅の改札前でじっと誰かを待つように立ち尽くしていたのだという。

 お昼過ぎからずっと同じ場所に立っている彼女を妙に思った駅員さんが一度声をかけたが、「主人を待っているんです」と言われて何か事情があるのだろうと思い、放っておいたらしい。

 元一が彼女を保護して家に連れて帰ると、ほどなく糸が切れた人形のように倒れてしまった。どうしたものか判断に迷った元一がとりあえずおじいさんの家に電話をかけたところ、宝威さんが先生を連れてきてくれたのだという。


「あ……ショウ、ごめんね。ごめん……」

「いいよいいよ。それより無事に見つかって良かった」


 りりのは私たちが戻ってきたことにたった今気付いたらしく、目に涙を溜めたまま何度も謝ってきた。

 そしてふと、私の隣に立つすみれちゃんを見て、何度かためらうような素振りを見せてから口を開いた。


「シールの魔法使い……様。ねえ、アンタの魔法でさ、お母さんの記憶を消せないかな……? 辛いこととか悲しいこととか、全部なかったことにしたらさ……元のお母さんに戻ってくれないかなあ……?」


 すがり付くようなその声は悲痛にまみれていた。

 これまで何年もずっと抑えつけてきた苦悩があふれ出したかのように、彼女の両目からは止めどなく涙がこぼれ落ちる。


「お母さんね、帰ってきてからも『お父さんを迎えにいかなきゃ』って言ってまた出ていこうとしてたの。お父さんはもう死んだんだよって何度も言ったのに、全然聞いてくれなくて。『今日は雨が降ってるから』って……せっかく久しぶりに声を聞けたのに、なんかおかしくなっちゃったみたいで……アタシもうどうすればいいかわかんなくて……」


 私の脳裏に、母が心を壊してしまった時のことが生々しく蘇ってきた。

 姿形は同じなのに、まるで中身だけが入れ替わったかのような強烈な違和感。

 ……いや、完全に別物になってしまったならまだ良かったのかも知れない。けれど、言葉や所作の端々に以前の面影が色濃く残っているぶん、よりいっそう得体の知れないものを見ているような恐怖があったのを覚えている。

 別人のような母を見ているのがただただ恐ろしくて、気持ち悪くて、悲しかった。

 あの時の感覚を今りりのが味わっているのだと思うと、やるせない気持ちでいっぱいになる。


「……できるよ」


 いつもと変わらぬ抑揚よくようとぼしい声で、すみれちゃんが言った。

 できる。記憶を消すことができるということだ。

 それを聞いたりりのの瞳に、暗い希望が灯ったように見えた。


「ただ、今すぐには無理。練習をしないと」

「練習……?」

「実際に記憶をいじる経験が必要。まだ人間ではやったことないから。五人か六人くらいやればかんぺきにできるようになると思う」


 淡々と語られる、どこか不穏な空気を感じさせるその言葉に、りりのは喉をつまらせたかのように押し黙ってしまった。


「わたしの魔法は、いきものには使えない。死体が必要になる。死んでから時間がたつと記憶は壊れてしまうから、できるだけ新鮮な死体じゃないといけない」


 死んだばかりの人間の身体を、五つか六つ。それがあればお母さんの記憶を消せる。……要約すればそういうことを言っているのだろう。

 だが……そんなことは普通に考えれば不可能だ。

 病院に行って、今際いまわきわにいる人の家族にお願いをする? 亡くなった後の話とは言え、縁のある人の記憶をいじり回されると聞いて心情的に許せる人がどれだけいるだろうか。

 では凶悪な犯罪者なら? しかしそもそも東京国には、死刑制度がない。

 激減してしまった人類を存続させることこそが目下の課題なのだから、どれだけ大きな罪を犯した人間も、万が一の時のためにリソースとして確保しておく必要があるのだ。

 死ぬまで地下で働き続けるという罰を科せられていたとしても、その命を、魔法使いだからといって無闇に奪う権利などあるはずもない。

 仮にそれら以外の抜け道的な手段が存在したとしても――そして何もかもが上手くいったとして――その後、りりのの気持ちはどうなるだろう?

 自分のせいで誰かを死なせてしまったという罪悪感や、命を自分の都合のために利用してしまったという自己嫌悪を一生背負うことになるのではないだろうか? お母さんの姿を見るたびにそんな気持ちを何度も味わうことになるとしたら、それは一生続く拷問のようなものだ。

 すみれちゃんがそれに気付いていないとは思えない。だとすれば、彼女は……。


「……わたしは、わたしのせいで心や体に傷を負ってしまった人たちのためなら、なんだってする。もしもあなたがそれでもいいとうなずいてくれるなら、覚悟を決めてわたしに任せてくれるなら、きっとうまくやってみせる」

「それって……人を殺すってこと……?」

「あなただって一度は考えたことがあるはず。死んだほうが世の中のためになるような人間は、いつの時代にもかならず存在する。自分の快楽のために自分のこどもを殺す親。私利私欲のために弱者をだまして、はずかしめて、尊厳をふみにじる人間。見当違いの正義を振りかざして無辜むこの命を手にかけるおろか者。どの街にも地下街がある。そこに住むような人たちの中にはそういう……」

「バッカじゃないの! アンタ、自分で何言ってるか分かってんの!?」

「わかってる」

「分かってない! どうして誰かを救おうとするアンタが、たくさんの人を死なせてしまったって土下座までするようなアンタが、そんな簡単に人を殺すなんて言えるんだよ!」

「りりの、人間の社会には目をそむけたくなるようなことがたくさんある。わたしはこんな見た目だけど、あなたよりずっとたくさんの人間を見てきた」

「知ってるよ、そんなこと! でも魔法使いならさあ! 魔法使いなら、綺麗事を貫いてよ! せめてアタシたちに希望を見せてよ……!」

「……あなたがそう願うなら、わたしはその通りにする。そのかわりお母さんの記憶を消すことはできなくなるけど……それでもいい?」

「いいよもう……自分たちが幸せになるために誰かを犠牲にするなんてできるわけないじゃん……」


 恐らくすみれちゃんは、りりのがその答えに行き着くことを知っていた。だからこそ自分の魔法がどんなものなのかを説明し、きちんと納得して諦めてもらおうとしたのだろう。

 ……しかしその一方で、もしもりりのが首を縦に振っていたならば、すみれちゃんは本気でその願いを叶えていたに違いない。


 私は彼女たちのやり取りを見ながら、頭の片隅で消えない疑問について考えていた。


「どうしてこんなことになっちゃったんだろう……」


 不意に呟かれたりりのの言葉が、今まさに私が考えていることを言い当てる。

 今回のお母さんの失踪は、どうして起こったのか?

 前の世界では今回のような事案は起きていなかったはずだ。りりのが私に隠していたとも考えにくい。

 だとすれば、この世界でのみ起きた何かが原因となっている可能性が高い。そしてその最も大きな要因は、私自身がこの世界に来たということに他ならないだろう。

 私が記憶を取り戻したことで起きたこと……雪美さんと正面切って戦うことになったり、元一を家族の呪縛から解放したり、すみれちゃんの洗脳を解いたり……こうして思い返せば相当大掛かりに、この世界が辿るはずだった道筋を改変してしまっている。直接りりののお母さんとつながる部分はないように見えるけど、一つの変化がドミノを倒すようにして予想外の結果をもたらしたということだろうか……。


「ねえ、りりの。私が眷属になった日のことは覚えてる? りりのに助けてもらったよね」

「え……うん、覚えてるけど」

「その日より前と後で、お母さんに対して何か変わったことはしてない? 例えば食事を変えたとか、枕を新しくしたとか……」

「特にないと思うけど……なんで今そんなこと聞くの?」

「実は前の世界ではこんなことは起こらなかったんだ。だから原因があるとすれば、私が来たせいかなって思ったんだけど」

「ショウのせいなんて……あっ」

「何か思い出した?」

「うん……でもあんまり関係ないかもだけど……」

「なんでもいいよ、教えて」

「あのね、アタシ……元一くんがその……自由になったじゃない? それが嬉しくて、最近は楽しい気持ちの日が多くて……ご飯の時とかね、お母さんに話しかけるようになったの。学校であったこととか、友達……ショウと元一くんのこととか……」

「それまではあんまり話しかけたりしなかったの?」

「あんまり……っていうか全然。声をかけてたのなんて、本当に最初の頃だけ。全く反応がないのに話し続けるのってかなりしんどいんだ。だから自然と黙るようになって……でも最近はなんか、誰かに話したいって気持ちになっちゃって……自分でも浮かれてたんだと思う」


 元一が家の呪縛から解放されたことで、一緒に害獣駆除をしたり、以前より気兼ねなく接することができるようになった。りりのはそれが本当に嬉しかったんだろう。

 そのあふれ出る気持ちをお母さんに伝えたことがきっかけで今回のことが起きたとするなら……。


「りりのはお母さんが帰ってきた時、少し話せたんだよね? お母さんはりりののこと、ちゃんと分かってた?」

「うん……久しぶりに私のこと呼んでくれた。でも話すのはお父さんのことばっかりだったけど……」

「……これは私の勝手な想像なんだけどさ、ひょっとしてお母さんは、良くなってるんじゃないのかな?」

「え……」

「もう何年もずっと反応がなかったんだよね? 話しかけても答えないし、必要な時以外は自分から動くこともなかった。それが、今回は自分の意志で家の外に出て、りりのと少しでも話すことができた。行動や言動はおかしな部分も多いけど……でもこれって、見方によっては症状が改善してるって言えないかな?」


 りりのが嬉しかったことや楽しかったことをお母さんに話したせいで悪いことが起きたなんて、そんな風には思いたくない――そんな私の身勝手な感情が大いに入っているけれど。それでも今回のことは前進なのだと考えたい。お母さんの凍りついていた心がほんの少し溶け出したから、予想外のことが起きただけなのだと。


「あながち間違いじゃないかも知れないね」


 と、それまで遠巻きに私たちを見ていた先生が言った。


「私はそっちの方面にはあまり詳しくないから話半分くらいの気持ちで聞いて欲しいんだがね……今回の行動は痴呆の症状に似ている部分があるけど、痴呆が出るには奥さんは若すぎる。私は単に記憶が混乱していただけじゃないかと思うね。そもそも、奥さんの症状は、大森の事件で強いショックを受けて感情が麻痺しちまったってものだ。私が子供の頃は似たような人たちが結構いてね。中にはずっと治らなかった人もいるが、多くの場合は長くとも一年もすればある程度元通りになっていったもんさ。だから奥さんが何年も同じ状態だったってのも、その間に少しずつ状態が改善していたとも考えられる。自分の心の中で少しずつ記憶に折り合いをつけてね。そうしてここ数日、娘のあんたが積極的に話しかけるようになって、それが刺激になって封じ込められていた記憶の一部が突然浮かび上がってきた……のかも知れないね」

「それじゃあ……お母さんは治るんですか……?」

「言っただろう、私は専門じゃないからなんとも言えないよ。ただまあどちらにせよ、一度ちゃんとした病院で診てもらった方がいいだろうね」

「そう……ですね」


 明確なことはまだ何も分からない。先生も可能性の一つを示しただけだ。

 でも、りりのの表情は先ほどよりもずっと和らいでいた。

 今回の件は決して悪いことではなく、もしかしたら、これからお母さんの状態はもっと良くなっていくのかも知れない――その希望が、少しでも彼女の心を前向きにしてくれたらと思う。


 これ以上私たちがいてもできることは何もないので、今日の所はとりあえず解散することになった。

 お母さんが目を覚ました時にどんな状態か確かめるため、先生だけはりりのの家に残るらしい。


「今日私を呼んだのはジジイのところの若いのだからね、料金は全部ジジイに払わせるからあんたは気にしないでおきな。ただ悪いけど今日は泊まりになるかも知れないからね、飯と布団くらいは出してもらうよ」


 そう言いながら変身を解いた先生を見て、りりのは少し驚いた表情をした後、穏やかに笑った。


「なんだい」

「いえ、ちょっとびっくりしたっていうか……なんだかおばあちゃんのことを思い出しちゃって」

「年寄り扱いするんじゃないよ。私はまだまだ現役だよ」

「ごめんなさい。でも……懐かしい。今夜は泊まっていくんですよね。家族が増えたみたいでちょっと嬉しいです」

「家族、ねえ……」


 案外、りりのと先生は相性がいいのかも知れないと思いつつ、私たちも辞去する。

 いつの間にか外は日が落ちていて、どんどんと空の色が変わりつつあった。

 涼しい風を感じながら変身を解くと、さり気なくすみれちゃんが服の端を掴んでくる。どうやら彼女的にはこちらの姿の方が気を許せるらしい。


「宝威さん、今日はすみません……ありがとうございました」


 一足先に外へ出ていた宝威さんに、元一が頭を下げていた。

 そう言えば宝威さんは先生を呼んできてくれただけでなく、警察への連絡など面倒なことを全部やってくれていたらしい。後で私もお礼を言わなければ。


「いやァ、今日は親父殿がお客人と話してて暇だったもんで、ちょうど良かったですよ。それより手前は元一坊っちゃんから頼りにされたことが嬉しくてねェ。ついつい張り切っちまった」

「そうですか……俺はなるべく迷惑をかけないようにと思ってたんですが……結局頼ってしまって」

「迷惑なんてことァありません、どんどん頼って下さい。手前たちは家族みたいなモンです。家族ってのは血じゃねェんです、環境ですよ」

「環境……」

「自分の周りにあって、影響を及ぼし合うもの。ただそれだけのモンです。しかし、ただそれだけのことが大切なんです。それは決して一方向じゃねェ、相互に働きかけるものです。だから元一さんもどんどん手前に働きかけて下さい。それがどんなことであれ、全く動きがねェ状態よりずっと大きな価値を持つんです」

「……難しいですね」

「簡単なことですよ。こうして会話をしてくれりゃ、それでいい」


 いつものようにニッと目を細めて笑うと、宝威さんはひらひらと片手を振りながら歩いていってしまった。


「いい人だな……」


 去っていく白いスーツの背中を見つめながら、元一が呟く。


「いい人なんだよねえ」

「俺もあんな大人になれるかな」

「本人に言ったら、『それはやめておいた方がいいですぜ』って言いそうだけど」

「確かに」


 そうして私たちは小さく笑いあった。

 私たちが大人になる日なんて想像もつかないけれど、きっといつかその日はやってくるのだろう。



 と、その時、急速に迫る魔力を感知した。この感じは……フーコだ。

 予想通り、ほどなくして空手着の少女が目の前にストンと着地した。


「ショウさん、それとシール。ちょっと緊急で話があるっす。幻想の居場所が分かったっすよ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る