名前を呼んで

 戸越街はかつて北西に向けて拡張されていった歴史があるため、街の南側は昔からほとんど変わっていない。私たちが向かっているのもそんな一角だった。

 南へと飛ぶにつれて建物がまばらになっていく。そのまま進んでいくと、雑木林が広がる場所が見えた。

 地上に降り、林の中を歩いていく。

 そこは草木に囲まれるようにして歩道が整備されており、ちょっとした散歩用のコースとして使えるようになっていた。

 少し歩いただけで人の気配がないことが分かる。どうやら私たちの他には誰もいないらしい。

 午後の日差しが木々の葉を透過して降り注いでくる。

 風の音や鳥の鳴き声が、かえって静寂を強調しているかのようだ。

 ここは壁の外に広がる密林のような、剥き出しの自然とは明らかに異なる場所なのだと実感する。

 こうして人工的に整えられた自然にこそ、人間は安らぎを覚えるのかも知れない。


「静かでいいところですね。ここがお勧めの場所ですか?」

「ここの雰囲気もすごく好きっすけど、目的地はこの先っすね」

「この先?」


 そのまま歩いていくと、大きな分かれ道が見えた。空手様は迷わずその一方を進んでいく。

 すると、不意に林が途切れて青空が広がった。

 眩しさに思わず目を細める。

 眼前に広がっていたのは、網目のように張り巡らされた真っ白な道と、そこに無数に並ぶ黒々とした石たちだった。


「お墓……」

「ええ。災厄の日から今日までの皆が眠る場所っす。これから先もきっと、ずっと」


 先ほどまで聞こえていた鳥や虫の鳴き声が驚くほど遠くに感じられた。

 まるで時間が止まっているかのような静寂がここにはあった。


 空手様に導かれるようにして、白く細い道をゆっくりと歩いていく。

 やがて彼女は足を止め、一つの墓石にそっと手を触れた。

 その時に見えた彼女の横顔をどう表せばいいだろう。

 いつくしみ、諦念ていねん、悲しみ、郷愁きょうしゅう、そういった感情がい交ぜになったような、一言ではとても言い表せないほど深い感情が伝わってきた。


「これは自分の家族のお墓っす。と言っても、この下には何も埋まってはいないっすけど」

「……」


 私は何も言えなかった。

 言えるはずもない。

 災厄が起きたあの日、どこかの道場帰りと思しき兄妹が害獣に襲われているのを見つけた私は、結局その片割れしか助けられなかったのだ。

 兄は文字通りその身をていして妹を守っていた。彼の傷はとても深く、もう私の力では手の施しようがなかった。

 私にできることと言ったら、彼の妹の手を引きながら阿鼻叫喚の街を駆け回り、同じように目についた者を助けていくことだけだった。

 どうにか安全を確保できた地下空間に助けた人々を詰め込みながら、ただひたすらに害獣を倒していく。

 そんな状況が少しだけ落ち着いた頃、地下に様子を見に戻ると、空手着の少女は泣き腫らした目を私に向けて言ったのだ。「お父さんとお母さんがいない」と。

 私は彼女に「わかった、探してくる」と言った。言うまでもなくそれは無責任な約束だった。彼女の両親がどこにいて、どんな顔をしているのかさえ私は知らなかったのだから。

 それでも私にできることは一つだった。とにかく助けられそうな人々を助ける。ただそれだけだった。

 しかし、時間の経過とともに、私は自分の手の短さを思い知っていった。

 この両手が人々を救える範囲は狭すぎる。どれだけ害獣を圧倒する力があろうとも、いくつもの命がぽろぽろと指の隙間からこぼれ落ちていく。

 自分一人の力では限界があると悟った。

 やがて私は雪美さんに魔法使いの力を与えられた時のことを思い出し、それを再現するために適性のある人たちを探す作業に取り掛かった。

 そしてその頃にはもう、空手着を着た少女との約束などすっかり忘れてしまっていた。

 空手着の少女が魔法使いになってからも、私と彼女が言葉を交わす機会はそれほど多くはなかった。彼女はいつも何か言いたげな顔をしていたけれど、当時の私にはそれを気に留めるだけの余裕さえなかったのだ。


 今こうして私を墓地に連れてきたということは、彼女はずっとあの日の約束について思う所があった、ということなのだろう。

 結局、彼女が両親と――それがどのような形であれ――再会することは叶わなかったのだ。そして私はそれについて、彼女に一言でさえ謝罪の言葉を口にすることはなかった。

 彼女にとっては長い年月が過ぎた今、今更のように頭を下げたとして、彼女は私をゆるしてくれるだろうか。

 ……きっと赦してはくれないだろう。

 私は皆を救いたいなどとうそぶきながら、たった一人の少女の気持ちさえないがしろにしていたのだ。

 これから彼女にどんな言葉を浴びせられるのかと思うと、緊張で手が震えてくる。心臓の鼓動が早くなっていく。


 しかし彼女は、苦笑を浮かべながら言った。


「……別に、ショウさんを責めるつもりはないっすよ?」


 その言葉に私は自分の心が見透かされたような気がして、途端に恥ずかしさがこみ上げてきた。


「そりゃ昔は、ほんの少しだけ……そんなことを考えた時期もあったっすけど……でも、今なら分かるっす。あなたがどれだけ大変なことを成し遂げてくれたのか。そのために、どれだけ自分を犠牲にしていたのか。命を救われたことに感謝することはあっても、救われなかった命をあなたのせいにするのは筋違いっすからね」

「そう……ですか……」


 正直なところ、私はホッとしていた。

 彼女が私を責めないと言ってくれたことに、安堵してしまった。

 そしてそんな自分を恥ずかしく思った。こんな俗な人間が人々を救う魔法使いだなんて、悪い冗談のようだと思った。


「……でも僕は未だに答えが出せなくて……今でも時々思うんです。もっとうまいやり方があったんじゃないかって。あの時、空手様のお兄さんを助けることだって、もしかしたら」

「ショウさん」


 ハッとして空手様の方を見ると、彼女は険しい顔をしていた。

 しまった、と思った。彼女がこんな顔をするのは珍しい。

 私はまた、間違えてしまったのだろうか。

 お兄さんのことなど軽々しく口にするべきではなかった。私はなんて軽率なのだろう。


「ずっと言いたかったんすけど……その……なんで『空手様』なんすか」


 しかし、彼女の口から出たのは予想外の言葉だった。

 虚を突かれた私の頭は一瞬で真っ白になってしまう。


「もう記憶は全部戻ってるんすよね? なのにどうしてその呼び方のままなんすか」

「えっと……それは」

「それは?」


 なんだろう、すごくグイグイ来る。ちょっと怖い。


「いや、確かに記憶は戻ったんですけど、雪美さんに記憶を消された後の……この世界で目覚めてからの時間は僕にとって特別というか……空手様は僕の願いを叶えてくれた魔法使いで、僕は眷属だから……」

「幻想のことはずっと名前で呼んでるっすよね。シールのことも」

「いや、だからね……?」


 ダメだ、どうやら理屈ではないらしい。

 彼女は明らかに不機嫌なのだけれど、でもそれはどこか深刻な雰囲気とは違っていて……なんというか、子供っぽい強引さのようなものを感じる。


「えーと、つまり名前で呼んで欲しいってことですか?」

「……自分があなたと一緒にここに来たいと思っていたのは、自分をふるい立たせるためっす。ここに来ると家族のことを思い出して、励まされる気がするからっす」


 ……なんだか会話が噛み合っていない気がする。

 私の頭には疑問符が浮かぶばかりだ。


「ええっと……?」

「ああもう、つまり! あなたの言う通りっすよ! 名前で呼んでほしかったんすよ! そんなことを言うためにわざわざこんな所まで来たんすよ!」


 突然逆ギレ気味に叫ぶ彼女に、私は思わず圧倒されてしまう。

 初めて目にする彼女のそんな姿はとても新鮮で、それでいてどこか懐かしいような感覚を覚えた。


「あと敬語もやめて欲しいっす。なんかよそよそしい感じがして悲しくなるので」

「それは……ごめん」

「謝罪は結構っす。それより……」


 名前を呼んでほしい。

 それは彼女がこれまでずっと抱えてきた切実な願いだったということに、ようやく気付いた。

 私が彼女のことを『空手様』と呼ぶ度に、彼女はどれだけの胸の痛みに耐えてきたのだろう。そしてそれを私に悟らせまいと明るく振る舞うために、どれだけの努力が必要だったのだろう。

 後悔と、申し訳無さが、胸に広がっていく。


 ……いや、そうではないだろう。私がすべきことは謝罪ではない。

 彼女はついに自分の気持ちを、心の底にあった願いを、赤裸々に打ち明けてくれたのだ。

 ならば、その思いに応えることこそが、私にできる唯一のことではないだろうか。


「それじゃあ、えーと……風湖ちゃん」

「ちゃんは余計っす。もう子供じゃないんすから」


 私は思い出す。

 あの頃、混乱の最中さなかで交わした短いやり取りの中で、私が彼女のことをどう呼んでいたのかを。


「わかった。……フーコ」

「……よく聞こえなかったっす」

「フーコ」

「……はい」


 不意に空手様……いや、フーコは、体当たりするようにして私の胸に顔を埋めてきた。

 その体は思っていたよりもずっと小さくて……私に姉妹はいないけれど、もしも妹がいたらこんな感じなのかなと思った。


「ずっと……この日を待ってたっす」


 私の胸に顔を埋めたままの、フーコのくぐもった声が振動と共に伝わってくる。


「あの日、あなたが私の手を握ってくれたこと。私は記憶を封印された後も、ずっとそれだけは覚えていた。空っぽになったこの手の中に、あなたのぬくもりをいつでも感じることができた」


 胸が熱い。

 彼女の想い、強い感情が、その体温を通じて直接私の中に流れ込んでくるようだ。


「おかえりなさい、魔法使い様。私は、ずっとあなただけを待っていた」


 私はその言葉に応えるように、小さな背中にそっと手を添える。

 こんなにも小さな体で、百年もの間、彼女は戦い続けてきたのだ。


「もう、なにも言わずにいなくならないで欲しい……」


 こんな私を待ち続けてくれていた人がいる。その事実に、胸がいっぱいになる。

 今、私の中に溢れてくるのは、きっと感謝の気持ちだ。

 この国の人々を守り続けてくれて、私のことを忘れないでいてくれて、ありがとう。

 その思いを伝えるため、私はほんの少しだけ、彼女を抱きしめる手に力を込めた。

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