2 戸越街4
門をくぐると、広い敷地の奥に大きな母屋といくつかの小屋が見えた。
母屋までは綺麗に掃き清められた石畳が続く。辺りを見渡せば立派な松の木や竹など様々な樹木が植えられている。
道の途中には池のような跡もあったが、すっかり干上がっていた。
「昔はこういう池に魚を飼っていたと聞いてわしも真似して作らせてみたんだが、水を流し続けていたら水道代がえらく高くついてのう、そもそも放すような魚もおらんかったし、今ではただの邪魔な溝になってしもうた」
「この近くに川はないんですか?」
「ない。というか川自体がないのよ。水は壁の外にあるダムからずーっと地下を通ってきて、この街の浄水場に送られるようになっとる」
この街は川すらも壁で断絶しているということらしい。徹底している。
「川がないと、なんだか木が枯れてしまいそうな気が……」
「まあ雨も降るしのう、たまに水を撒いたりもしていたかな……その辺は宝威に任せとるからよう知らん」
「完全に根付いた木には水やりは不要なんですよ、坊っちゃん。まあ夏の暑さがひどい日なんかにゃ、水をかけることもありますがね」
興味のないことは分からんとばかりに陽気に笑うおじいさんを、さり気なく宝威さんがフォローする。意外とこのおじいさんは大雑把な性格なのかもしれない。魚を飼うあてもないのに池を作ったり、水道代のことを考えずに水を流しまくったりしているし……。
それでもどこか憎めないような雰囲気を感じさせるのは、おじいさんが長い人生で培ってきた人徳というものなのだろう。
母屋の中に入ると薄暗く、心なしか空気がひんやりとしていた。板張りの廊下にはホコリ一つない。
通された客間は戸が開け放たれており、外から心地よい風と光が入り込んでいた。
今日は五月の中旬、晴れの行楽日和だ。外に植えられた様々な観葉植物の中にはいくつか花を咲かせているものもあり、思わずため息をついてしまうほど穏やかで美しい。
畳敷きの和室の中央には大きな一枚板のテーブル、そしてそれを囲むように重厚なソファが配置されている。慣れない正座をしなくて済むのは嬉しい。
勧められるままにソファに腰掛けると、手際よくお茶が用意された。
このお茶の葉はどこで栽培されているのか……などと、普段なら気にしなかったであろうことを考えてしまう。
「それで、坊っちゃんのいた日本ってのはどんなところだったんですかい?」
ここに来る間に六狼さんからある程度の話を聞いていた宝威さんが、興味津々といった様子で尋ねてきた。
パラレルワールド+タイムスリップという、私でさえ未だに信じ切れていないような事実を、そんな簡単に信じてしまっていいのだろうか……。それだけおじいさんへの信頼が厚いということなのだろうけど。
何を話せばいいのか迷ったが、インターネットやスマートフォンのこと(私には両方とも縁がないものだったが)、それにニュースで聞きかじったようなことをぽつぽつと話した。
中学生の自分が把握している世界などたかが知れている。それでも三人は真剣な面持ちで話を聞いてくれていた。
「こいつぁ……想像以上ですねえ……。そうか、害獣さえいなけりゃ、とっくに今以上に発展していたんだなあ……」
宝威さんが感慨深そうにため息をつく。
「あの、すみません。害獣って何ですか?」
それは私にとって聞き逃せない単語だった。
普通害獣といったら、農作物を食い荒らすイノシシや鹿などを指す言葉だったはずだ。しかし、文脈から察するに、宝威さんが言っているのはきっと何か別のものなのだろう。
「あれ、兄貴ィ? その辺説明してないんですかい」
「おう……忘れてた」
「兄貴はそういうとこあるんだよなァ」
「宝威よ。せっかくだからお前さんが教えてやんな。そういうの得意だろ」
おじいさんが言うと、それまで
「親父殿の頼みとあっちゃ仕方ねェ。それじゃちょいと説明させて頂きやすぜ」
宝威さんはお茶を一口飲むと、スッと背筋を伸ばした。ただそれだけの動作で場の空気が引き締まる。
「今からおよそ百年前、大きな厄災がありやした。その日、何の前触れもなく、この国の至る所に、人間を殺すためだけの獣が現れたんです。家の中、電車の中、牢屋の中にまで現れたってェ話ですから、恐らく人間のいる場所ならどこにでも現れたんでしょう。人間ってのは力を合わせて脅威に立ち向かう生き物ですが、そんなふうに一斉に出てこられちゃ力を合わせる暇もなかった。たった一日でこの国のほとんどの人間は死にました」
人間を殺すためだけの獣というのが、さっき宝威さんが言っていた害獣のことだというのはすぐに分かった。
しかし思っていたよりも話の展開が唐突で面食らってしまう。密室の中にすら現れる獣なんて、まず自然のものではないだろう。現実的な線で考えればどこかの国が開発した生物兵器か……いや、それにしたってかなり苦しい。
しかし、なぜだかその話を自然に受け入れてしまっている自分がいた。
人々を襲う巨大な獣の姿が目に浮かぶようですらある。
物語のように美しい終末の姿ではない。しかし徹底している。人間を必ず殺すという執念のようなものがある。
「しかしそこに救世主が現れた。
魔法。
ああ、この話の流れで魔法という言葉が出てきてしまったら、もう疑うことも茶化すこともできない。
そうなのだ。つまりこの世界には本当に魔法が存在するのだ。
だとすれば、害獣も魔法によって生み出されたものと考えれば納得がいく。
「……さて、大体こんなところです」
「えっ、終わりですか?」
「はい。細かい部分は省略してますがね」
「ということは、その害獣っていうのは今も……」
「ええ。今も壁の外にゃ、わんさといますよ。奴ら何も食わなくても死なないらしいですからね、普通の生き物じゃないんでしょう」
それで、この街が壁に囲まれている理由につながるのか。
過去に起きたという厄災は昔話などではなく、現在進行系のものだった。
この世界は、予想していた方向とは全く異なる絶望の、その果てにあったのだ。
外敵から身を守るための壁に囲まれた街。……そういえばそんな設定の漫画を先輩から借りたことがあったなと思い出す。
今もまるで漫画を読んでいるかのように現実感がない。
「でもまあ、今も魔法使い様たちのおかげで街はどんどん発展してきてますからねぇ。まだまだここからです」
「魔法使い……様って、今も生きているんですか?」
「ええ、もちろん。この街にも一人常駐してますよ。
「そうですか……」
この街にも、ということは、他にも同じように壁に囲まれた街があり、それぞれの街に魔法使い様が住んでいるということだ。
一度は全滅しかけた人間がここまで持ち直すためには、どれほどの労力を注がなければならなかったのだろうか。しかも外には人間の命を脅かす害獣が存在し続けているのだ。
これはもう、それこそ魔法でも使わなければ、どうしようもなかったはずだ。
原因はどうあれ、かつて魔法使い様が人々を救い、今も助け続けているのは間違いないことなのだろう。
人を殺す害獣と、百年を生きる魔法使い。
それは突拍子もないお話のはずなのに、不思議と違和感なく心に馴染んでいくようだった。
「こちらの状況は大体分かったかね」
のんびりとお茶を
「ショウくん、一つ聞いておかなきゃならんことがあったんだがね、君は元いた所に帰るあてはあるのかな?」
「あてはありませんし、仮にその方法がわかったとしても、帰るつもりもありません」
気付くと私は特に考える間もなくそう言っていた。
この世界にどうやって来たのかも分からない以上、帰るあてがないのは確かだ。
だが、もしも帰れるとして、私は再びあの世界に戻りたいと思うだろうか?
自問してみたところで、やはり答えは同じだった。先輩のいなくなったあの世界に戻る意味などない。私に苦しみばかりを与えてきた人々に未練はない。
「ふむ……そうか。それなら、この東京国でどうやって生きる?」
「どうやって……」
「ああいや、意地悪を言うつもりはなかったんじゃ。単刀直入に言うとな、わしの養子にならんか、という誘いよ。まっとうな戸籍も用意できる」
その突然の提案に驚いていると、六狼さんがおじいさんに「親父」と小さく声をかけた。
「反対か? 六狼」
「いえ、こればかりは……親父の決定ならば文句はありません。しかしショウさんの意思も大事かと思いまして」
「それはそうともな」
おじいさんが優しい眼差しをこちらに向ける。
「ショウくん、もう気付いていると思うが、わしらは少し前まで、あまり世間様に顔向けできないような商売で食いつないでいた。今ではもうそういったシノギからは足を洗っとるが、長年付いて回った悪評や噂のたぐいはなかなか消えん。君がわしの養子になれば、そういった目を向けられることもあるだろう。君がもっと平穏な人生を望むなら、この街の孤児院を紹介することもできる。わしはそれでも良いと思っとる。どうか君自身で決めてほしい」
おじいさんの告白に対して驚きはなかった。むしろ、今はそういう仕事をしていない、ということに驚いたくらいだ。
「その前に僕からもひとつ、言っておかなければならないことがあります」
「聞こう」
「僕は見ての通り体は男ですが、……心は女です。体のほうが間違っている、と言って分かって貰えるでしょうか……」
私がそれを口にしようと考えたのは、おじいさんの真摯な思いに応えなければならないと思ったからだった。
ここはもう、苦しみに閉じ込められていたあの世界ではない。
ならば今度こそ、自分に嘘をつかずに生きてみたい。
先輩に教えてもらった生き方を、最初から。
だから私は、この人たちに自分のことを話さなければならないと思ったのだ。
「……わしもそれなりに長く生きてきたからの、君と同じような境遇の者を何人か見てきたよ。皆、一様に過酷な人生を送っておったが……君には良き出会いがあったのかもしれんな。君の胸に抱かれた決意の灯りは、とても美しい色を放っておる」
偽りを見抜くおじいさんの眼が私をそんな風に評してくれたことに、思わず胸を打たれた。
「こんな僕ですが、それでも良ければ、喜んで養子のお話、受けさせて頂きます」
詰まりそうになる言葉を、なんとか絞り出すことができた。
「君はこの絶望に囲まれた世界からは決して生まれ得ぬ、新しい風じゃ。希望を託すなどと
こうして私はおじいさんの――武敷元蔵の養子、武敷ショウとなった。
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