1 先輩1

 あなたに出会えたから私は人間のままでいられた。

 絵に描いたような不幸のどん底をさまよう私に、たった一人手を差し伸べてくれたあなたの姿を、今でも思い出す。

 先輩、私を救ってくれたあなたは、家族よりも、神様よりも大切な人でした。




 物心つくよりもずっと前から、私は心の中に違和感を抱えていたように思う。

 かわいい服、ぬいぐるみ、色とりどりのクレヨン……そういったものに思いを馳せてばかりで、男の子の友達が好むゲームなどにはあまり興味が湧かなかった。

 自分は何かがずれているという感覚がどこかにあった。

 しかし結局、それを深く追求するタイミングは訪れなかった。

 次々降りかかる不幸から身を守るのに精一杯で、それどころではなかったのだ。


 ある日、父が会社帰りに車にはねられて亡くなった。轢き逃げだった。

 しばらくすると父の残した財産を狙う自称親戚一同が毎晩のように訪れるようになった。

 通夜つやにも顔を出さなかった彼らは線香を上げる手間も惜しんで、都会で女手一つでは大変だろうから、この家を手放して田舎にでも引っ越してはどうか、などと母に持ちかけていたようだ。

 亡者のごとき彼らとの戦いに疲れ切った母は、やがて心を壊して病院に閉じ込められた。

 母は負けたのだ。私一人を残して。

 それから私は形ばかりのおじおばの家に引き取られ、名も知らぬような田舎の小学校へ放り込まれた。

 その田舎の家には自分の部屋も居場所も無く、毎晩遅くまで酒を飲んでいるおじが寝室に引っ込んでから、ようやく居間に置かれた布団を広げて眠れるという有様だった。おじもおばも私をいないものとして扱い、最低限の食事と必要なもの以外は何一つ与えてはくれなかった。

 学校はもっとひどかった。狭く閉鎖的な輪にとって、よそ者は気味の悪い異物であったらしい。常にナヨナヨとしている私の態度も彼らのかんさわったのだろう、縄張りを侵す邪魔者を排除すべく子供たちが張り切るのも無理からぬことだった。

 女の子のいじめに比べれば、男の子のそれは陰湿さが無いだけいくらかマシという話を聞いたことがあるが、残念ながらそれは嘘だ。大人の前では肩を組んでさも仲が良いように見せながら、休み時間のたびに理由もなく殴る蹴る。椅子に画鋲を貼り付けられ、机に糊を入れられ、服を脱がされ、水をかけられる。

 教師も、私を引き取った人間たちも、近所の人々も、それに気付いていながら何も言わなかった。

 理由もなく虐げられる日々が三年間続いた。

 永き雌伏しふくの時を経て中学へ上がる段となり、ようやくこの地獄もマシになるかと一息ついたのも束の間、所詮しょせん田舎の学校にそんな甘い話などはなかった。小学校からのいじめっ子スタメンは揃ってベンチ入り、他の地域からも新たなメンバーを加えて心機一転かっとばして行こうといったあんばいだ。

 肉体のめざましい成長に伴い強化されていく拳骨げんこつに、これはいよいよ病院に引きこもった方が話が早いのではないかと考え始めた頃、私は先輩と出会った。


 先輩は野球部の二年生だった。野球の実力もさることながら、類稀なるカリスマを発揮して一年生の時点でレギュラーの座を勝ち取り、全学年から一目置かれていたという。

 その頃の私は、変わらぬ忍耐の日々に涙しながらも、おじとおばが家を空ける際に食事代として置いていくわずかばかりの小銭で本を買い、それを唯一の慰めとしてどうにかこうにか切れそうな糸を繋いでいた。


 学校の昼休みは私にとっては休みなどではなく、鬼から逃げ惑う時間の始まりに過ぎない。なので私はいつも、めったに人が来ない裏庭の片隅に姿を隠すことにしていた。

 ある日の昼休み、裏庭で隠れるようにして本を読んでいると、後ろからじっと私を見ている人がいることに気付いた。私は大変に動揺し、何がなんだか分からないまま平謝りに謝った。それが私と先輩との出会いだった。

 先輩は慌てる私を意に介さず落ち着いた口調で、その本は『新道多喜江』ではないか、と指摘した。

 聞いてみると、先輩は『新道多喜江』の大のファンであり、見知った表紙の本を抱えて歩いている私を見かけて思わず追ってきたのだという。

 先輩の知り合いには同じ趣味の人間は一人もおらず、その胸に秘めた熱い想いを誰にも語れず悶々としていたらしい。


「おまえも好きなのか」


 前置きも何もなく、先輩はそう言った。


「ええ、はい、僕にとってはこの本が唯一の救いなんです」


 しどろもどろに答える私に向かって先輩は二度、三度、深く頷くと、黙って右手を差し出した。

 私も黙ってその手を握り返した。熱い手のひらだった。

 そこに言葉は必要なかった。



 ちなみに新道多喜江は主に女の子同士の恋や友情を書く小説家である。

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