第60話 夜の空へ
【Side:アリア】
ゆっくりと階段を降りて行くワタシに、ムサシさんは一瞬驚いた様な表情を見せてから、カタンと手に持っていたグラスをカウンターに置いた。
「よう。どうした、こんな時間に」
階段を降り切ったワタシは、穏やかな表情でそう聞いてくるムサシさんの元まで行き、隣の椅子へ腰を下ろした。
「少し寒くて、毛布を取りに自室まで戻っていたんです」
「あぁ、成程」
ワタシが手に持っていた
「確かコトハの部屋で寝てたんだっけか?」
「はい。本当は、そのまま戻るつもりでしたけど……食堂に人の気配がしたので、降りて来てみました」
「そうか……悪い、余計な気を遣わせちまったな」
頬を人差し指で軽く掻きながらそう口にしたムサシさんに、ワタシはふっと笑って見せた。
「気にしないで下さい、ワタシが勝手に様子を見に来ただけですので。ムサシさんは、何故こんな時間に?」
「あー……ちょっと眠れなくてな。少し、飲んでたんだ」
その回答を、ワタシは少し意外に思った。ムサシさんと共に生活を始めて大分経つが、今までこうして夜中に一人酒をしている姿など、見た事が無かったからだ。
「それは、珍しいですね」
「まぁ、な」
ふっとワタシから視線を外したムサシさんは、カウンターに置いたグラスへと視線を落とす。
その隣に置いてあった酒瓶へと、ワタシはちらりと目を向けた。随分と、強い酒を飲んでいたらしい。
「……何か、思う事でも?」
ワタシがそう聞くと、ムサシさんは口元を緩めて小さく首を横に振る。
「いんや、偶々そういう気分になっただけだよ」
そう言って、ムサシさんはグラスを手に持ちグイと呷る。一息で中身を空にすると、すっと椅子を引いてワタシへと顔を向けた。
「どれ、したらば二階に行くか。このままじゃアリアの体が冷えちまう。俺も、自分の部屋に戻って寝るからさ」
椅子から腰を上げ、ムサシさんはワタシへと手を伸ばす。
だが、ワタシはその手を取らなかった。何故かと言えば、今のムサシさんが
そしてそれは、このまま仕舞い込ませてはいけない物なのだと直感で理解した。となれば……。
「……? アリア、どうした?」
「ムサシさん」
怪訝な顔をするムサシさんを真っ直ぐに見詰め、ワタシは立ち上がる。
「以前、ワタシがムサシさんにしたお願い……覚えていますか?」
「お願い? っつーと……」
答えが引き出される前に、ワタシはムサシさんの口に人差し指を当てる。互いの視線と体温が交錯した時、ワタシは口を開いた。
「――夜空の散歩。今、連れて行って頂けませんか?」
◇◆
月が真上を少し過ぎた夜の空を、ワタシを抱えたムサシさんが音も無く疾駆する。眼下には、まだぽつぽつとした明かりを灯した家々が、小さく映っていた。
「アリア、寒くないか?」
「はい、平気です」
顔は前に向けたまま、ムサシさんがちらりとこちらに視線を向ける。ワタシは体を包んだ
ワタシの突然の頼み。初めは面食らった様子だったが、直ぐにムサシさんはワタシを外へと連れ出した。
念入りにワタシを
「相変わらず、
「お褒めに預かり恐悦至極」
少し芝居がかった言い方に、ワタシは思わず小さく笑ってしまう。それに釣られたのか、ムサシさんも口元を緩めてニッと笑った。
「っと、見えて来たな」
そう言ったムサシさんの視線の先。月明りが照らす宵闇の中に、目指す場所が見えて来た。
そこは、≪ミーティン≫でも一際高い丘の上にある展望広場だった。草や花々に覆われた中心には、この街が出来た時から生えていたと言われる巨大樹が、悠然と佇んでいる。
ワタシが≪月の兎亭≫から離れる前に、ここへ連れて行って欲しいと頼んでいたのだ。
夜風が葉を揺らす音が優しく辺りを満たす中へ、ムサシさんはふわりと降り立つ。その巨躯からは想像も出来ない柔らかく繊細な着地により、ワタシの体へは殆ど衝撃が伝わってこなかった。
「うっし。ほれ、着いたぞ」
「ありがとう御座います」
体を支えて貰いながら、ワタシはゆっくりとムサシさんの腕の中から降りる。頬を撫でるひんやりとした空気で、少し高鳴っていた鼓動が落ち着きを取り戻した。
「寒くないか?」
「少しだけ。でも、大丈夫です」
「そうか。しかし、随分といきなりだったな。いや、俺は構わないんだけども」
「……どうしても、今日の内にお話をしたかったので」
そう言って、ワタシはムサシさんの手を取って巨大樹の根本へと向かう。ムサシさんは、黙ってワタシに手を引かれた。
「座りましょうか」
「そうだな……よっと」
「え――きゃっ!」
ムサシさんは、ワタシの腰へ後ろから腕を回すと、グイと自分の元へと引き寄せた。
そのまま、どっかりと幹に背中を預けて腰を下ろす。ワタシの体は、すっぽりと腕の中に納まり、ムサシさんの両足の間に座り込む事となった。
「これなら、
「そう……ですね。はい、とても温かいです」
後頭部にピタリとくっついた胸板から伝わるムサシさんの力強い心臓の鼓動に耳を傾けながら、ワタシはきゅっと
シチュエーションも相まって、かなりロマンチックな環境に身を置いていると思う。しかし、今回はデートが目的ではなかった。
「……ムサシさん。どうしてワタシが突然、あの時の約束を果たして欲しいと言ったのか、分かりますか?」
「さぁて、な。生憎と、皆目見当もつかない」
そう口にするムサシさんだが、ワタシはその言葉の中に隠れていた
「嘘ばっかり」
「…………やっぱ、分かるか?」
「勿論です。愛する人の機微を感じ取れない程、ワタシ
「さいですか……降参だよ、アリア」
少しおどけた口調で、ムサシさんは一つ息を吐く。くすぐる様な感覚に少し身じろぎしながらも、ワタシは本題に入った。
「ムサシさん。ラトリアさんの事で、何か悩んでいる事がありますよね?」
「まぁ、うん。悩むっつーか、なんつーか……」
随分と、歯切れが悪い返事だ。いつものムサシさんなら、ハッキリと言い切りそうなものだが、今はその切れ味が見る影も無い。
つまり、それだけ
「……全部、受け止めます」
「――!」
「どんな悩みでも、必ず受け止めてみせます。ですから……話して、頂けませんか?」
首を傾けて、背後に居るムサシさんを見る。ワタシの視線と、ムサシさんの視線が交錯した。
ムサシさん自身、己の内にある物の正体に気付けていない。だったら、一緒に探せばいいのだ。こうして外に出たのは、ムサシさんが心の内を晒しても、夜が全てを覆い隠してくれると考えたから。
「ふぅー……」
「っ!」
突然、ぐらりとムサシさんが前に倒れる。そのままワタシの顔のすぐ横に頭を埋めて、大きく息を吐いた。
耳元で聞こえる、吐息と共に漏れた低い声。思わず、びくりという震えと共に心臓が跳ね上がったが、何とかそれを表に出さずに抑え込んだ。
「……ラトリアはさ、まだ右も左も分からねぇ小っちぇえ内に親を亡くした訳じゃんか」
顔を上げる事無く、ムサシさんはそう吐露する。同時に、ワタシの体を包み込む腕に僅かに力が入った。
☆★
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