甘い一日(Side:横須賀)

 数を数えながら歯を磨く。いちにさんしご。頭の中を繰り返すリズムでひとつずつ。しゃかしゃかとした音は内側と外側で、煩いようで静か。十まで数えたらその次へ。決めたルールはほとんど考えずとも動いていく。

 はちきゅうじゅう。電子音が響いた。聞こえた音にびくりと体が強ばる。別に恐怖や怯えという理由はどこにもないどころか好ましい音なのだけれども、反射、みたいなものだ。部屋の中に音があまり無いせいか、突然響く音は体に電気を流すみたいな強制力がある。

 音の原因は通知音で、見ていないけれど多分グループメッセージの方だろう。あまり俺はやりとりする人がいないし、今日は約束があるから多分そう。なにか予定の変更があったのだろうか。わからないけれど急ぎの場合電話を使う人たちだ。それでもいつものリズムを崩し数えるペースを上げて歯磨きを急いで終わらせる。

 口をすすいで手を洗って、机の上に置きっぱなしだった携帯端末を手に取る。慌てて拭いたから少し手がしっとりしているので服の裾を一度握ってからスリープを解除。見ると通知が複数あったので少し焦る心地でグループを開いた。

『おはようございます。

今日の予定の確認をかねてご挨拶と連絡です!』

 山田さんの用件を見るより先に通知の一番古い物を確認すると、メッセージひとつで挨拶が送られていた。次いで時刻や集合場所、店の名前について並べたメッセージがひとつ分で送られている。急ぎの用件で無かったことに安堵の息を吐いて、文字を追う。

 三浦さんらしい、と言えばいいのだろうか。丁寧な言葉に感嘆符が明るい声を思い出させる文章は、それでいてなんとなく山田さんと似ているようにも思えた。

 二人の特徴と言うべきなのかそれともマナーなのかまではわからないけれども、まず一回目のメッセージで挨拶とすることが並ぶ。続けてもう一つのメッセージで用件が箇条書きで記されて、そのあとによろしくお願いします、とメッセージが分けられる。会話、用件、会話と区切られる表現は見返すときにわかりやすいので自分も使うが、ついつい色々言葉を重ねてしまうのでこんな見やすさはない。二人とも伝える人、という印象で、共通点を見つけるとなんでか少しだけ気持ちがふわりとする。嬉しい、のかもしれないが、なんで嬉しいかはわからないので、ふわり、くらいが丁度いいかもしれない。

 といってもふわふわしている訳にはいかない。手帳を開いて、メモした場所と時間に違いがないか確認する。そうしながら三浦さんの言葉のあとにある山田さんの『了解』の二文字に、なんとなく笑った。

 山田さんがスマートフォンを持つようになってからやりとりを交わすようになったこのグループメッセージは、手書きの文字とは別だけれども、でも平時の会話とはまた別の特徴が出る。たった二文字が山田さんらしくて、それでいて俺とのやりとりとは少し違うのも面白い、と思う。たとえば山田さんは、会話だったら必ず場所と時間を復唱する。文字で残る場合は、たまに言葉を変えて復唱するけれど絶対じゃない。普段直接会うからめったにしない俺とだけのやりとりの時は、わかったと送った後に気をつけろ、とか、あとで、という言葉が入るけれど、三浦さんとのグループチャットではさっきの了解、みたいなだいぶ短い言葉が主軸。三浦さんは俺のみや山田さんと俺のグループでも変わらなくて、よくスタンプという画像をいっぱい使う。それからさっきみたいに約束があるときは、時間と場所をグループメッセージを終える頃に復唱し直したりする。

 メモと変わりないことを確認したので、挨拶を入力。復唱するだけだから続けて場所と時間も打ち込んでしまう。よろしくお願いしますで文章を締める。一つのメッセージに入れ込むので切り替わりごとに改行。認識の齟齬が無いかの確認みたいなものなのだけれど、先の例を考えるとそれだけでも書き方が違うのは面白い、と思う。文字はそういうのが見やすくて、多分、好きだ。

 端末を手にしているのか、既読はすぐついた。それからまた通知。楽しみにしています、の一言と熊の画像は三浦さんらしい。三浦さんの部屋に言ったときに山田さんが言っていた熊と兎と犬のマークの意味は多分あっていたのだろう。三浦さんから送られる画像にはそれらが多い。微笑ましい、という単語が浮かんで、暖かい気持ちになる。

 多分これが会話の区切りだ。端末を机の上においたまま支度を続ける。休みに人と出かけるということは奇妙で、不可思議で、どうすればいいのかわからない。でもさほど困る気持ちはなかった。多分これは、楽しみ、だと思う。

(ケーキ屋さん)

 物語の遠い場所。きらきらして、人が嬉しそうに入る場所。馴染まない世界に行くことはあっさりと決まって、それは少し落ち着かないけれど。でも、多分だからこそ楽しみで。

 心から不思議だと思う。端末も、気持ちも、声も。それでもきっと当たり前で、お礼という形に自分がいる違和感はさほどなくて。ちょっとずるくて贅沢な気持ちは新鮮だった。


 * * *


 会った時に三浦さんが言ったのは、「休日ですよ今日」だった。言われたのは俺じゃなくて山田さん。山田さんはいつもと同じ白いシャツに黒いジャケット、ズボン、赤いネクタイ、サングラスという格好。「仕事でもないのにスーツですか」って言った三浦さんの格好は白いセーターに暗い色の灰色がかった緑のズボン、紺色のコート。革靴だけれど山田さんと違ってかっちりしていないやつで、カジュアル、というものだと思う。あまり服装には詳しくないので違うかも知れないけれど、靴のつま先部分が少しデザインが違って、革でも生地がしなっている感じだから多分そうかな、と思った。

 山田さんは三浦さんの言葉にいつもの顔で「文句があるなら二人で行け」と言い、「それじゃあお礼にならないでしょう」と三浦さんが返して、その話題はおしまいになった。

 多分、お墓参りの時と違って『山田太郎』の休日だからだと思う。山田さんはその方が便利だと言って逸見五月を選ばなかった。俺は山田さんは山田さんで、逸見五月であるとかないとかは正直あまりに気にならないのでそうかと思ったけれど、休日は山田太郎でない方がいいのかな、と三浦さんの言葉で考える。考えるけれど決めるのは俺じゃなくて山田さんで、どんな格好でも変わらないからそれでいいや、と思って終えてしまう。三浦さんもそれ以上気にしないからそれでいいかなあと思うのだ。

 山田さんは必要になったら逸見五月という形も選ぶだろう。山田さんと逸見五月さんは名前と形が違うだけで、その人は全部同じ山田さんだ。だから一緒にケーキ屋さんに行ける、それだけで俺は十分に思えた。


 二人のやりとりは楽しくて(といっても三浦さんがたくさん話しかけるので会話の割合は違うし、三浦さんは俺にもいっぱい話しかけてくれるからふたりだけでもないのだけれど)、ケーキ屋さんまではあっという間だった。お店についたら他の人に迷惑にならないように、あまり話はしなかったけれど。きらきら、きらきらとしたお店の中は本の中のようで、そこに俺が入ることは非常に奇妙にも思えた。

 店の中を観察する自分に気づいたのは少ししてで、なんだかそれがくすぐったい。元々俺は、世界を眺めるのが好きではあった。俺の届かないもの。ありえないもの。知らないこと。そういうものはすぐそこにあって、でも話しかけたり触れるようなことは決してできないもので。だからいつも見るのは人だった。人を見るのは好きだ。そこに物語があって、想いがあって、自分の知り得ない優しい世界に触れられる気がして。眺めるきらきらを中心に世界を観察していた。だからいつも、視線は人だった。

 いわゆる職業病なのだろうか。今の仕事になっていろんな場所を観察することが増えた。人を見なくてもそこに物語はある。だからやっぱりそういうものを見るのは好きで――でも、今はもっと違う気がする。

 本棚を眺めることはあった。それよりももっと近い。俺がここにいる。なんだか当たり前が奇妙で、この場所を覚えたい、と思ったのかも知れない。メモをするのは休日だし躊躇って、でも、俺は今日ここにきたのだ。三浦さんの好意と山田さんの判断で。

 きっと俺は、ここに来たかった。

「三名様の三浦様」

「はぁい」

 よく通る女性の声に肩を揺らすと、三浦さんのやわらかい返事が一緒に聞こえた。見過ぎていた、かもしれない。相変わらず俺はひとつのことにしか集中できない。でもそれじゃあいけないことはなくて、そうじゃなきゃいけない、ということもないんだ、と最近じんわりとわかってきた。この人たちは声をかけてくれて、仕事じゃなくても見るしかできない俺をそのまま流してくれるから。置いて行かれることはなくて、ついていっちゃいけないこともない。

 俺のそういうところを指摘しないことに、興味がないわけではなくて受け入れてもらっているように感じるのは、少し贅沢すぎる勝手かも知れないけれど。

「ショーケースにあるものが本日のケーキです。メニューは写真でも確認できますが、お席で選ばれますか? それとも先にショーケースで確認してケーキを注文されますか?」

「あー、えっと」

「ショーケースでお願いします」

 三浦さんの悩む声に、山田さんのはっきりとした言葉が重なった。

「わかりました、こちらです」

 女性の言葉で視線を動かす。きらきらに視界が少しぼやけそうになる。少し強めに目を閉じて、すぐ開ける。

 ショーケース。この場所からも見られるけれど、目の前に立てるとなると胸がぎゅっとする。少し苦しい。でも、嫌なんじゃない。緊張して、怖くて、胸からおなかになにかが引っ張られる。酸素が少し薄い。それでも、これは、嫌じゃないんだ。

 していけないことじゃないんだ。山田さんは当たり前に、ショーケースを選んだ。

 なんだか変な感じがする瞼に何度も瞬きを繰り返す。案内されたショーケースは当たり前にそのままきらきらしていて、ライトも白さも眩しい。どうしよう。どうするかなんて決めてあって、なのについ言葉が浮かぶ。

 どうしよう。いいのかな。

「いろいろありますね、なににします?」

 三浦さんが大きく口角を持ち上げて笑いながら尋ねる。いいんですよ、なんて、言われてないのに勝手に聞こえてしまいそうで、でも多分、聞いたらきっと笑ってそういう人だとも思う。

 知り合ってそんなに時間は経っていないけれど、三浦さんは好意を、思考を丁寧に並べてくれる人だ。

「こっちが通常メニューで、こっちがイベントのです」

「えっと」

 それでも名前を言うのに躊躇いがあって先にでたのはそんな音で、けれど三浦さんは笑って頷いた。

「決まらなかったら見ておいて、席で悩んでも大丈夫ですからね」

 三浦さんの声はいつも優しいし、楽しそうだ。そのままイベント用のケーキの棚を見る横顔も相変わらずで、いいな、と思う。三浦さんの表情は、見てるとほかほかする。

 隣からみたイベントの棚もきらきらだけれど、でも、俺はこっち、だ。

「三月ウサギのタルトをひとつ」

 じっと目的のケーキをみていたら、三浦さんの声が聞こえた。煩くないけど耳にすっと入る声で、そのまま溶けてしまうみたいな穏やかな声はするりと店員さんに拾われる。俺も言わなきゃいけない。でも、まだ見てしまう。

「オレンジチョコレートをひとつ」

 山田さんが、とん、と声を落とす。耳に馴染む穏やかさは、仕事の時のわざと作ったものよりも少し余白がある。無防備、っていうとなんだか言葉がよくない気がする、けど、優しい音。秋くんに向けた優しさいっぱいの声ではないけれど、人を攻撃しないし、命令とも違う、なにか意味があるというよりも投げるだけの音は投げるけれども静かで、とがっていない。

「え、と」

 店員さんの所作を見ていたら目があった。微笑まれて声が漏れる。決まってる、決めてある。いいのかな、なんて何度も浮かんで、でも、いけないなんてことはなくて。鞄の紐を握る。布地は簡単にひしゃげてしまうけれども、この圧は少しの安心があった。

「しょーと、けーきを」

「え」

 ようやく音になった言葉に、三浦さんの声が聞こえた。いけなかっただろうか。でも、三浦さんはそういう、だめ、って言うひとじゃないとおもう。でも、ならなんで。

 俺にはやっぱり、似合わないのだろうか。だめかな、でも。

「えっと、お金とか気にしないで、好きなの選んでいいんですよ?」

 ひどく穏やかな声で三浦さんが首を傾げた。疑問というより俺の猫背にあわせるような所作は優しい。やっぱりだめって理由じゃなかったことに安心する。

 俺が選んだショートケーキは値段も外見もシンプルで、イベントだしって思ったのかも知れない。合わせた方がいいだろうか。ケーキをもう一度見る。はじめてケーキ屋さんで食べるケーキ、だ。三浦さんはだめ、って言わない、から。

「しょーとけーきが、いい、です」

 なんとか決意を形にする。大丈夫なのに責め立てるような、似合わないと言う声に謝罪も続けてしまった。三浦さんの希望に添えずごめんなさい。三浦さんはそういうふうに受け取ってくれただろうか。そういう意味も、ある。似合わない。違う、それはない。だから、今日は、俺は。

「ええ、と」

「飲みモンはここで決めるのか」

 三浦さんの声が、山田さんの声で止まる。さっきよりも少し落とした声色の呟きは頭の中によく通った。飲み物、という言葉を咀嚼する。ケーキしか考えていなかったから、決めてなかった。

「こちらでおきまりでしたらこちらで。お時間かかるようでしたらお飲物はお席で決めても大丈夫ですよ」

「じゃあ席でお願いします」

 三浦さんの声はとぎれたままだったけれど、同じように飲み物の話題だったのかも知れない。山田さんの言葉でそのままとんとん話が進んで、席に案内された。

 店員さんはやさしくて、歩くのも自然だ。遅い、わけじゃないけど。山田さんが普通に歩くペースと同じ。追い抜かないように席について、座ると少しほっとした。けーき、はもう決めた、から。言った、んだ。

「飲み物どうします?」

 さて、という感じで三浦さんが尋ねる。俺は多分、コーヒーかオレンジジュースくらいしか飲み物はわからない。ここの紅茶がおすすめと言う三浦さんは楽しそうだ。ケーキと一緒に呑むものだと、コーヒー、オレンジジュース、紅茶、は確かによく見るかも知れない。俺は紅茶はわからないから、やっぱりその二つからだろうか。三浦さんの話し方から、三浦さんは多分紅茶を飲むんだろう。

「嫌いでなかったらどうです?」

 三浦さんの指先がメニューを示す。四角くきれいに切られた爪の向く先は、紅茶の名前。三浦さんを見ると優しい顔。メニューを見直すと、やっぱり紅茶の名前。

 コーヒーもたくさん名前があるけれど、ブレンドが一番上だから選びやすくてわかりやすい。そういう俺には随分と、多すぎる。レギュラー、みたいなものがないとどれがどれやら。聞いたことある名前を選べばいいのかも知れないが、ケーキに合うのは全部の紅茶なのだろうか。

 コーヒーよりもなんだか種類がたくさんに思える。コーヒーはエスプレッソとか煎れ方で、豆から選ぶってのは無い訳じゃないけどしなくていいものが多くて。俺が飲むお茶はそもそも緑茶くらいで、気にはならないわけじゃないけれど難しい。

「紅茶、飲んだことなく、て」

 文字を一個ずつ追いかけてもわからない。基本的に自分だけでは食べる物と飲む物に頓着せず同じ物ばかりになる自覚はあるので、こういう機会でないと飲むことはないとは思うのだがどこから手をつければいいか。コーヒーもケーキとよく並ぶしそれでいい気もするのだ。ただ、ショートケーキと同じで紅茶も、遠い世界で。

「好き嫌いは多い方です?」

 優しく三浦さんが尋ねてくれる。なんだか優しすぎて自分にはもったいないくらいだけれど、三浦さんはそういう人だ。優しい声を頭の中でなぞりながら、文字を追う。

「特にないです。……いっぱい文字がありますね」

 好き嫌いの前の段階、だと思う。名前以外にも文章があるので追いかける。文字を読む時間を貰えればわかるかもしれない。でも、読むだけで終えてしまうような気もする。

 文章はやわらかい。優しい声が聞こえるような言葉選びだ。フォントは細めの丸ゴシックで、でも丸すぎて読みづらいってことはない。そういう文字の形に合うような、優しく一個ずつ語る文字。

「紅茶って色々あるんですけど、はじめてのひとでもわかりやすいようにって。簡単な案内ですね」

 なんとなく、納得した。きっと書いた人が丁寧に選んでいるんだと思う。俺みたいなわからない人間でも、一個ずつ追いかけると声が優しくて、読むことは難しくない。ただ俺は比べることが出来ないので、どれに似ている、とか、どういうのが好きなら、という言葉にうまく想像できないのがいけないんだろう。難しい。

 視界でメニューが揺れた。山田さんが三浦さんに差し出したのだ、とわかってようやく三浦さんがメニューを見られてなかったことに気づく。席に二つ分だったみたいで、後悔に首筋がざわつく。俺が、決められないから。そんな。

「すみません、えっと、俺、コーヒーにします。えっと、メニュー、」

「紅茶にしないんですか?」

 慌てているのがそのまま声にでる俺と違って、三浦さんは相変わらず穏やかで、すこし瞼を持ち上げて不思議そうに尋ねる表情はひょうきんだ。優しい、と思うけれど。でも多分、俺は。

「わからない、ので」

 見ていても結局、俺は俺がどういうのが好きで、どういう味なのか、それにどう感じるのかがわからなかった。ケーキに合う、というのもあるけれど、どれがどう違うのかわからない。多分、俺の内側が空っぽで足りなくて、それなら文字の優しさを追いかけたところでなにも決められないだろう。

 わかる人が見た方がいい、と思う。

「おいやでなければなにか試してみます? フルーティーなのとか、甘くておすすめですけど。香草苦手とか、そういうところからでもいいですよ。甘いのと渋いの、どっちが好きです?」

「えっと」

 三浦さんの言葉にやっぱりそれがなにか、自分にどうなのかわからなくて焦る。どうしよう。当たり前に、どれでもよかった。けれど選ぶ、となると、それは足りない。

 選んでみたい、とは、思うけれど。

「そういや横須賀さん普段なに飲みます? コーヒー?」

「お茶を」

 それは答えられる。でも当たり前かもしれない、と思っていると、三浦さんが笑いながら頷いた。

「ああ、麦茶とかですかね?」

「えっと、緑茶、です」

 お茶、というと緑茶しか出てこないのだけれど、麦茶と言われて少し不思議に思えた。麦茶を飲むことはほとんどなかった。お茶、と一言でも人によって違うのだ、というのは、当たり前なのに不可思議だ。言葉はそういうところがあると知っているけれど、なんだかこんな近くで感じると、少し面白い、気がする。

「アッサムティーとかは、渋みが好きな人に丁度いいと思いますよ。王道です。他にもあるけど、珍しいのとどっちが好きです?」

「ええと」

 どっち、を選ぶ基準がわからない。王道も珍しいのも、すごいな、と思う。でも、どれがいいかと言われると、

「アッサムなら生クリームに合うな」

 あっさりとした言葉は山田さんのものだった。アッサムなら生クリーム。ショートケーキは生クリーム、だ。少しだけなんだか文字がよく見えるようになる。山田さんが三浦さんに渡したメニューをもう一度手にしてページを開いた。

「俺はアールグレイ。柑橘系だし無難だろ。」

 アールグレイは柑橘系。山田さんの声を追って、文字をなぞり直す。確かにそう書いてある。山田さんはオレンジ、だったっけ。

「ま、コーヒーだって甘味には合う。好きに選べばいい」

 ぽん、と投げるような渡すような音は興味がないと言うようで、けれどもそっけないじゃなく、どっちでもいいと言うように聞こえた。好きに。選ぶのは苦手だけれど、ショートケーキと紅茶は随分と遠い世界で。

「……アッサムティー、のみたい、です」

 なんとか言葉を選んで息をつく。どうにもこういうことは慣れなくてくすぐったい。

「俺はダージリンにしますね。なんか軽食でも食べます?」

 三浦さんの言葉で、けいしょく、と音をなぞる。山田さんに聞いたのかな、と思って見たら顎を少し持ち上げた。その所作で、俺もだ、と気づく。

 さっきから同じことで変わらないんだけれど、なんだか本当、当たり前みたいに俺も聞かれるのが自然であたたかい。

「俺は、いいです」

「俺もいらねぇな」

 自分にとってはケーキが大きくてあまり考えられずに言うと、山田さんが続けて答えた。山田さんはお昼をゆっくり食べるし、あまり量はないからなんとなく自然に思えた。

 へにゃ、と三浦さんがすごく幸せそうに笑う。

「それじゃあ注文しちゃいますね。今度はご飯も食べに行きましょうか」

 今度。山田さんに言ったのかと思ったら山田さんは目をそらした。俺、だけじゃないと思う。三浦さんは特に返事を気にしないみたいで、色々おいしいとこ知ってるんですよぉとのんびりした声で言う。あったかい。

 三浦さんが注文してくれて、そのときストレートとかミルクとかの話もして。俺はストレートで試すことになった。どきどきする。少しそわそわもしているかもしれない。

「ほんとかわいいねー」

 ふと後ろから聞こえたのは女の人の声。ちょうど席に座ったみたいで、入り口でしかみれていなかった内装を改めて見渡す。不思議の国のアリスをモチーフにしている、と言っていた。鏡もあるし、鏡の国のアリスもかも知れない。ただ俺はあまり内容を知らないのでタイトルからの連想でしかないけれど。

「今ちょうどイベントで普段よりファンシーですけど、落ち着いてておすすめなんですよー」

 内装を目で追いかけていたら、楽しそうに三浦さんが声を出した。ふぁんしー。

「だから、人形、とか、色がたくさんなんですね」

 空想、とか想像以外に、装飾が凝っていることをいうんだっけか。そう思ってなんだか不思議な世界を言葉にする。

 三浦さんはずっと楽しそうだから、この場所が好きなのだろう。俺もすごいなあって思うから、三浦さんに伝わるといいな、と思って選んだ言葉はなんだか説明には足りない気がして、けれどうまくいえない。

「アリスモチーフですからね。妹ちゃんがご機嫌でした」

 それでも三浦さんは拾ってくれたみたいで、うんうんと頷いて幸せと甘さを一緒にしたみたいな笑顔を見せてくれた。この場所が好き、以上に、多分後半の妹ちゃん、のことなんだと思う。

「お待たせいたしました。ダージリンのお客様」

「あ、はい。俺です。有難うございます」

 三浦さんが手を上げて答える。三月ウサギのタルト、と言って置かれたお菓子にはウサギのクッキーが乗っている。タルト、も不思議な存在だ。味が想像できないけど、外側がクッキーと似ているからクッキーが乗っているのだろうか。

 アッサムティーと言われて、慌てて俺も小さく手を上げる。三浦さんと違って少し間があって申し訳なかったけれども、店員さんは笑顔で置いてくれた。

「ショートケーキです」

 テーブルの上に置かれた白は、ふわふわしてみえた。実際はふわふわしていないのかもしれないけれど、なんだかすごくやわらかそうだ。甘い砂糖の色。

 俺がイメージするショートケーキはホールケーキというやつで、それの切り分けた物が目の前にある。断面のスポンジは柔らかい黄色で、生クリームとイチゴが見える。中央には生クリームのクッションに大きなイチゴが座っている。

「しょーとけーきだ」

 言葉にしたらなんだか目がしぱしぱした。少しのどの奥が苦しい。いやなんじゃない。なんだか内側から水が昇るみたいな、変な感じ。吐き気でもない。もっとあったかい、不思議なもの。

 誕生日に子どもが食べるお菓子が、目の前にある。

「大丈夫です、有り難うございます」

 三浦さんの言葉で顔を上げて、すぐに頭を下げる。注文の確認を終えた店員さんはするりと戻っていった。視線を戻せば、目の前にケーキはある。

「いただきます」

 あまり大きくない声で三浦さんが言ったので、俺も慌てて小さな声で続けた。それから、山田さんも。

 いただきます、と言ったけれど、でも、なんだかもったいなくて手が動かない。

「食べないんです?」

 三浦さんの言葉に、少しだけ指が動く。でもそれ以上にならなくて、ショートケーキを見続けてしまう。見ているだけではいけないんだけれど、なんだかきれいなものを崩してしまうみたいで差し込む場所がわからない。

 聞かれたことに答えなければ、と思いながらも、食べます、というにはケーキとても完成されていて。

「どうやって、たべようかな、って」

「ああー、慣れないとそうなりますよね。端っこからがお薦めかな?」

 にこにこと三浦さんが教えてくれる。はしっこ。三角形のとがった先を見る。きれいなかたち。

「でもまあ、食べやすく食べれば良いんですよ。だいじょーぶですって」

 ぽん、と楽しそうに言った三浦さんは、俺もおっこっちゃってますしねえと笑っていた。落ちたといってもお皿の外ではないのだけれど、上手じゃなくても大丈夫というような三浦さんに頷く。フォーク、ケーキ。瞬きを繰り返しても消えてしまわない。

 端っこ、端っこ。三浦さんが教えてくれた場所にフォークを乗せる。力を入れると形がゆがんでしまうので難しい。切る。切ると言うよりなんだかすくうみたいになった端っこを、口に入れる。

 少なすぎたのか、最初はよくわからなかった。そっと上顎に押しつけるように舌を動かすと、甘味が口の中を湿らせる。溶ける。

 あんまり噛まなくてもそのまま飲めてしまった。は、と息を吐くとそれも甘い気がする。三浦さんと山田さんが俺を見ていた。甘い。

「あまい、です」

 感想を、と思ってでたのはそのままな言葉だ。三浦さんがやさしい目を半熟卵みたいにふにゃりと溶けさせる。

「甘いですねぇ。イチゴも一緒に食べると味が変わりますよー」

「え、あ、はい」

 三浦さんの言葉で今度は切り口を確認してイチゴの場所を目印に切り分ける。結構多くなった。さっきはさきっぽで、イチゴがなかったみたいだ。口にいれる。

 溶ける甘味と、スポンジの感触と、イチゴが歯に当たる感覚。さっきよりも多いから、噛みしめる。甘さに酸味が広がる。味が変わったみたいで、不思議だ。見ると三浦さんがまだにこにこ俺を見ていた。

「あまくて、すっぱい、です」

「おいしいです?」

 感想を言うと、三浦さんが嬉しそうに聞いてくれる。好きなお店だから嬉しいのか、甘い物が好きだから嬉しいのかわからないけれど、本当に嬉しそうで俺も嬉しくなる。

 なによりおいしいか聞いてくれる人がいるところで食べられるのは、あまりにも優しすぎて、恵まれている。

「おいしい、です」

 俺も、嬉しい、が声にでた気がする。三浦さんが嬉しそうというより楽しそうに笑って、ふへ、と俺もそれにつられる。山田さんも笑っている。うれしい。

 こんなにうれしい中で、そいつは。

「食べられるんですね」

 ほとんど忘れていた、小さい頃。物語の中の食べ物だと思ったはじめてのきっかけが浮かんで、そのまま言葉になった。書庫にいさせてくれるから、お婆ちゃんの家は俺にとって心地よかった。本は時間を忘れさせてくれる。なにも考えないでいい。そんな中で見つけた食べ物達は、不思議で。幼稚園、小学校。行った先で本の中のそれらが物語だけじゃないらしいと知って、でも、俺には物語と同じだった。ああいうものは不思議で想像できない、空想の食べ物に近くて。知りたい気持ちは現実のものというよりもっと外側。絶対に得られない、自分にはあり得ないもの。

 奇跡だ、と思う。けれども同時に、奇跡じゃないのだ。だって当たり前にここにあって、これは。

「そりゃ食いもんだからな。金さえありゃなんでも食えるさ」

 俺の思考を掴むみたいに、それでいてつぶすんじゃなくて当たり前をなげるように、山田さんが笑い捨てた。考えるだけ無意味だと言うような音は、粗雑ではあるけれども軽蔑ではない。もっと優しい。もっと、そっけない。

 今更すぎる実感を嘲うようで突き放さない音の意味はわからない。山田さんが俺のこれをどう見ているのかもわからない。けど。

「そうですね」

 昔なら、出来るわけがなかった。でも、今は出来ている。多分三浦さんや山田さんがいなくても、コンビニにだってケーキは売っていて。買っても咎める人などいなくて。

 そうなのだ。山田さんの言葉はいつも当たり前で、あまりに優しすぎて、今更で。

 俺は。

「おいしい、です」

「甘い物って幸せになれますしねえ。また今度誘っても良いです?」

 大丈夫。そう言うには話が飛びすぎる。だからかわりに噛みしめながら呟けば、三浦さんがするりと尋ねてきた。

 こんなに幸せなのに、次。本当に当たり前みたいに続いていく。これが当たり前でないと、俺は知っている。でも同時に、多分当たり前なのだとも思う。頷くと、三浦さんが喜びの声を出してくれる。

 へんてこな矛盾は、わかりやすく喜んで見せてくれる三浦さんで肯定されるようだった。ああ、甘い。

 いつか、いつか。叶子ちゃんも誘えるだろうか。勝手な印象だけれど、多分彼女も、もしかすると彼女の方が、あまりこういうものを知らないかもしれない。

 俺が嬉しかったからって、彼女がどうかはわからないけれど。多分、俺も彼女も、こういうものが欲しくて、だから。

「あ」

 思考していたせいか、ケーキが崩れる。ああ、綺麗だったのに。

「たおれちゃった」

「綺麗に食べるの難しいですよねえ。よくあります……」

 こぼれた自分の音は、耳で聞くとやけに幼かった。むずむずする音を気にした様子もなく、三浦さんが同意してくれる。想いを馳せるような調子だから、三浦さんもケーキが崩れたことがあるのだろうか。きれいに、は難しいのかも知れない。

「食えれば良いだろ」

 当然というような音で山田さんが言って、ケーキを口に運ぶ。山田さんは一口ずつ小さく切り離しながら食べていて、上手だ。表情はサングラスでわからないけれど、嫌いなものなら頼まない人だから、きっとおいしいのだと思う。

 口に運んだ紅茶は、教えてもらったとおり渋みがある。緑茶とは違うけれど、おいしい。

 は、と息を吐く。少しだけ震えるような手の腹は、むず痒いような暖かさでじんわりと滲んだ。

 甘い、甘い一日は、多分きっとこれきりではない。残すことが増えていく。話すことが増えていく。

 紅茶で暖まった息がしあわせという言葉を形作るようで、むずがゆさが口に上って、俺は笑った。


(2018/04/11)

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