第21話 パニック! あの子はどこに?

 第15階層のトラップ床に引っかかった花乃華は、どこに飛ばされたのか。あまりに突然の事態で、手がかりは何一つない。花乃華を探知できるような都合のいい魔法の持ち合わせもない。

 離れた場所にいる人の気持ちは、言葉で伝えられなければ分からない。

 感情を源とするひいなの魔法は、遠くにいる誰かには力を及ぼせない。


 ひいなにできることは、ただ、必死に探し回るだけ。

 荒い息を吐きながら、ひいなはダンジョンを駆ける。


 壁の中から飛び出した顔が、ひいなをあざ笑う。

 ひいなは、その顔を黒こげにしてやった。


 天井から、コウモリ型のクリーチャーが襲ってくる。

 ひいなの魔法が、その羽をひとつ残らず貫いた。


 床に穴が開いて、落下しそうになる。

 ひいなは魔法の糸を伸ばして、壁にぶら下がって脱出した。


 右に、左に、時には後ろに。

 もうどっちを向いているのか分からないくらいに、何も分からなくなるくらいに、駆けめぐって。


 結局、最初にいた、ゲートの前に戻ってきていた。


「花乃華ちゃん……」


 膝から力が抜けて、座り込んだ。うつむくと、髪の先から汗がしたたり落ちる。奇妙なくらいに涼しく、目に見えない気温調整が施されているらしきダンジョンで、ひいなは、いつになく大粒の汗を流していた。

 床に、汗の滴がしたたり落ちて、灰色のタイルを黒く濡らした。

 目に入った汗を拭いながら、自分を笑う。


「バッカみたい」


 どうせ振り出しに戻るのなら、走り出したりしなきゃよかった。

 焦りに背中を押されて、あてもないのに走って、何の成果も得られない。

 これなら、何もしない方が、まだ汗をかかずにすんだ。

 冷たい水が飲みたい。お茶でもいい。コーヒーでも、お酒でもいい。のどを潤してくれるものなら何でもいい。特別なものなんて、たいして求めていない。

 全国どこにでもあるコンビニで売っているスイーツみたいに、かんたんに手に入るものさえあれば、満足だった。お金だってそんなに欲しいと思わなかったし、遠くに行きたいとも思わなかった。

 冒険なんてとっくに飽きていたから。


 そんな気持ちで、この10年、生きてきたし、そのつもりでいた。


 なのに、今、ひいなはひどく心を揺さぶられている。


 分かりきってる。花乃華のせいだ。

 花乃華に誘われて、久しぶりに魔法少女になって、魔法を使ったり、戦ったり、協力したりする喜び、楽しさを取り戻した。

 花乃華ととりとめない話をして、大人ぶっては花乃華にたしなめられ、子供みたいにはしゃいでは花乃華にあきれられ、そんな合間に、ちょっとは大人らしく花乃華を助けたり。


 花乃華に出会って、ひいなの気持ちは輝き始めていた。


 ひとりでいるときのひいなの心は、あの、殺風景な部屋のままだ。

 かつては、それを、寂しいとも思わなかった。

 だけど、今では、その部屋でひとり眠るたびに、泣きそうになる。


 花乃華のせいだ。


「花乃華ちゃん」


 花乃華のせいで、こんなに楽しくて、こんなに、苦しい。


 髪から、ぽたり、としたたり落ちる汗。

 否。

 汗とは別の、どろりとして黒い、溶けたコンクリートにも似た液体が、床に落ちる。

 じゅう、と、煙を吐く。


 ひいなの体中から、黒い液体が溶け出す。皮膚からにじみ出し、魔法少女の衣装をすり抜け、液体がひいなの周囲一帯に流れ出て、どろどろとした水溜まりを形作る。その水溜まりからは、悪臭と黒い煙が立ち上っている。


 ダンジョンの床石が、液体によってえぐり取られていく。雨水が地面を抉って川を形成する、遠大な過程を早回しにしたように、床に溝が生じ、そこから液体は壁の方へと流れていく。


 ハッピィ・ラッキィ・トルネードでも突破できなかった、第15階層の構造。

 それが、みるみるうちに、溶かされていく。


 熔解魔法、グルーム・ドゥームズ・ソリューション。


<キィィィィィィィ!>


 床から、壁から、構造に同化したクリーチャーどもの歌、あるいは悲鳴が響く。同時に、ダンジョンの壁が、床が、天井が、無秩序に変形し、震動し、七転八倒する。堅固なダンジョンが、まるで、竜巻に遭遇した古いログハウスのように崩壊しつつあった。


 ひいなの周囲の床が、すり鉢状に凹んでいく。放っておけば、このまま崩落するかもしれなかった。

 みしっ、と、床が割れる。


 そこへ。


「ひいなっ!?」


 花乃華の声がした。

 うつむいていたひいなは、顔を上げる。

 あたりに満ちていた黒い液体の異臭が、ふっ、と晴れた。


 グルーム・ドゥームズ・ソリューションによって、溶かされ、崩れ、ヒビ割れていたダンジョンの壁。

 その、せいぜい10センチほどのヒビの向こうから、花乃華の視線がのぞいていた。


「何してるの、ひいな! それ、やばいんじゃない!?」

「え、あ」


 ひいなは、慌てふためいて全身をがしがしと手のひらでこする。摩擦で痛いだけだった。魔法によって生じた黒い液体は、彼女の手ではふき取ることも引きはがすこともできない。

 みしみし、と、ひいなの周囲一帯から、石積みがずれて軋む音がする。

 制御できないものが、ひいなの周りを滅ぼしていく。


「ああ、もう、ちょっと目を離したらすぐこれだ!」


 ぱっ、と、エメラルド色の光が、ひいなの眼前に射し込む。

 花乃華が発した魔力の輝きが、壁のヒビ割れを通じて、ひいなの前に到達したのだ。

 そして、花乃華の吐息の音。


「ジュニパー・インナースマッシュ!」


 ずん、と、ダンジョンが揺れる。壁のヒビ割れが一気に縦横に延びる。


 そして、崩落。

 ぼろぼろになった石造りの壁は、大小の無数の破片と化して転がった。


 花乃華は「よいしょ」と顔をしかめつつ、崩れた壁の破片を乗り越え、ひいなのそばに歩み寄ってきた。足下の重い液体を避けるように、つま先立ちだ。


「これ、ひいなの魔法?」


 ブーツの先にまとわりついた黒い液体を、花乃華はいぶかしそうに見つめる。花乃華が足を上下させると、糸を引いた。

 彼女はちょこちょこと足を前後に振る。液体は、一向に取れない。


「消せないの?」

「……ごめん」


 ひいなの魔法は、感情から生じ、感情を操る。グルーム・ドゥームズ・ソリューションは、彼女の憂鬱から生まれた魔法だ。

 いちど芽生えたこの感情は、たとえ花乃華がそばにいてくれても、うまくぬぐい去れない。


 花乃華は、ブーツの先端にしつこく粘つく液体をしばらく睨んでいたけれど、やがてひいなの方に向き直った。びくり、と、ひいなは胸中に震えを感じた。心が無意識に、警戒する。


「すごいね、ひいなの魔法」


 花乃華の声は、ひいなのそんな縮こまった心を、包み込むみたいに聞こえた。


「え?」

「ひいなの魔法が壁にヒビ入れてくれたから、うまく内側に魔力を通せた。どうしていいか分からなかったから、助かったよ」


 いつもと同じように、あまり抑揚も熱量もない花乃華の声音は、むしろそれゆえに優しい。

 ひいなの口が、自然と開く。


「ずっと、そこにいたの?」

「迷ったときは、動かないのが得策。はぐれるからね。まあ、こんなに元の地点のすぐそばとは思わなかったけど。暗いし、周りは分からなかったし」


 でも、と。


「ずっと声は出してた。ひいなに聞こえるかな、って思って」

「……聞こえなかったよ」

「無駄でも、叫んでみるものだよ。気持ちだけでも変わるから」


 そう言って。

 憂鬱の沼を越えて、花乃華は、しゃがみ込んでいたひいなの背中に歩み寄った。

 涼しげで軽やかな気配を漂わせた花乃華は、ほんのすこし、息を吐いて。


「もう!」


 びしぃっ、と、ひいなの頭のてっぺんを思いっきりチョップした。


「痛ぁっ!」

「心配かけさせないでよ、ひいなの馬鹿!」


 そして花乃華は、ぎゅうっ、と、後ろからひいなを抱きしめた。

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