第100話 愚かもの共

リューネブルク市港・スヴァルト貴族連合水軍・旗船クトゥーゾフ(旧名アンナローゼ)・甲板―――


「ちっ、俺もついていない……本来ならば市街に突入してアールヴ共の首を撥ねていたと言うのによ」


 ヘルムート橋でバルムンクと貴族連合軍が激戦を繰り広げている最中、貴族連合軍の率いる船団はリューネブルク港を制圧し、そこに本陣を敷いていた。

 強行軍のために物資を自前で用意できなかった貴族連合軍にとって、この港から法王軍本陣に繋がるエルベ河の水運は唯一ともいうべき補給線であり、いわば命綱だ。


「レオニードの豚野郎が、ライプツィヒでの功績を鼻にかけて偉そうに……家柄を考えろ、家柄を、しかも十年前は俺の影で震えながら槍を振り回していた臆病者の分際で!!」


 しかし、武人を尊び、戦場で果てることを至上の喜びとするスヴァルト貴族にとって、補給線の確保という職務は重要だが、心情的には懲罰以外の何物でもない。

 ましてや水軍の伝統の無いスヴァルト貴族は、船団も自前で用意できず、実はその大半を法王軍から借用しているのだ。

 アールヴ人が多くを占める法王軍、つまりは蔑むべき奴隷階級に少なくない貸しを作ったと考えれば不愉快以外の何物でもない。

 やる気など出るはずがなかった。


「物資ノ積み降ろしガ終ワリマシタ」

「遅い、何をノロノロとやっていたんだ、雑用だけが取り柄のお前らが、それもまともにできないとは生きている価値がないぞ、恥を知れ、恥を知れ!!」

「モ、申シ訳アリマセン……」


 自分が外れくじを引いたという認識が苛立ちを生み、必要以上の叱責となってアールヴ人の船員、もとい神官兵に対する虐待に繋がっていた。

 そしてそれは次第に暴力へと変化するのもあるいは自然な事だったのかもしれない。


「おい、もう一度謝れ」

「ハ、ハイ?」

「言い方が気に食わない、もう一度謝れって言うんだ!!」

「ハ、申シ訳アリマセ……」


 スヴァルト貴族の額に青筋が浮かぶ。

 件の神官兵はスヴァルト人がしゃべるルーシ語が不得手であった。

 スヴァルト支配も十年を数えたと言っても、被支配階級となったアールヴ人の中でルーシ語を習得できない人間は意外に多い。

 彼もその一人だった。


「申し訳ありませんでしただろ、豚が!! 貴様、人間の言葉も話せないのか、貴様は人間以下の動物だ、膝間づけ!!」

「も、モウしわけ……」

「ダラダラするな!!」


 スヴァルト人にとって、アールヴ人の言語は軟弱でダラダラとしゃべっているように聞こえるため、よりいっそう苛立ちが募るのだ。

 ちなみに騎士階級にあるセルゲイは、直接アールヴ人と接する機会が多いために、アールヴ人の言葉には堪能であり、特に上記の不満は抱かない。

 貴族だからこそ許せないのだ。

 スヴァルト人は階級が上がる程、選民主義が強い、彼らの主君であったスヴァルトの王、ウラジミール公エドゥアルドにならってアールヴ人に譲歩はしない。

 アールヴ語を覚えるのは奴隷階級に譲歩することと考える。


「家畜の分際で……」


 スヴァルト貴族の暴力は野蛮でかつ陰惨だった。

 指や目、感覚が鋭い場所を執拗に痛めつける。

 そして神官兵が暴力に耐え兼ね、その心が折れつつあった時、意外な所から助け船が来る。


「伯爵様、洋上に敵船団を発見!!」


 敵襲来訪の報告である。 

 バルムンクの切り札たるヨーゼフ大司教率いる水軍がこのリューネブルク市に戻ってきたのだ。

 彼の軍は法国軍の索敵を逃れるため、半日程離れた郊外へと一時退避したいた。

 ただ法国軍とて馬鹿ではない、リューネブルク市周辺に哨戒のための騎兵を放っており、彼らに気付かれるずに市に戻ることは不可能である。

 その警戒網についに水軍が捕まった。


「敵の数は……」


 突然の敵襲にもスヴァルト貴族は狼狽えた様子も見せず、鷹揚とした態度を崩さない。

 むしろ、狼狽したのは専門家であるはずのアールヴ人の神官兵の方であった。


「数は目視でこちらの四分の一もいません。ですがこちらは物資を降ろしたばかり、戦闘準備にはまだ時間がかかります」

「この無能者が……十分で終わらせろ!!」

「は、そんな無茶な!!」


 泣き言を挙げる神官兵にスヴァルト貴族が激怒する。

 貴族は物資の積み込みにどのくらいの時間がかかるか知らない、知らないが故に横暴に振舞えるのだ。


「終わらせなければ貴様らの船長、あのでくの坊を折檻する。主君の無様な姿が見たくなければ死ぬ気でやれ!!」

「……」


 苛立ちまぎれに暴力をちらつかせ、だがスヴァルト貴族は上機嫌だった。

 先ほどの不満を忘れ、まるで水を得た魚のように奮い立つ、この時を待っていたのだ。 

 戦場こそ、戦士である己にふさわしい場所。

 得意とする陸戦でないのが残念と言えば残念だが、髀肉之嘆をかこっているのに比べれば、大分マシである。

 自分があくまで客分であり、船団の本来の司令官が法王軍の竜司祭長であることなど、彼にとっては些末なことだった。


「お忘れなく……この船団の司令官は貴方ではない」


 さすがに貴族の態度が過ぎたのか、震える声で神官兵がその横暴に抗議する。 

 だが、無駄であった。


「不満か……ならば抗議は口ではなく、剣で言え」

「……それは」

「できないか、この臆病者め。しょせんは奴隷に過ぎないアールヴ人だからな……お前らなど、俺一人で片づけられる」


 腰の剣をちらつかせる貴族に、神官兵ははっきりと萎縮した。

 兵士は貴族と言う身分を恐れたわけではない、もっと原始的な理由からだ。

 蛮族あがりのスヴァルト人、特に貴族には優秀な戦士が多い、実際にこの傲慢なスヴァルト貴族も、模擬選ではそれがアールヴ人の神官兵相手であれば敵無しであった。

 この旗船クトゥーゾフの兵士の比率はアールヴ人神官兵二に対しスヴァルト貴族私兵団が一、しかしひとたび敵対すれば数で劣るスヴァルト側が圧勝するのが大方の予想である。

 反抗など、及びもつかないのだ。


「ご命令、承りました」

「それでいい……立場を弁えろ」


 せせら笑うスヴァルト貴族……命令を享受せねばならなかった神官兵、目から血と涙が流す神官兵、共に心を殺した仮面のような無表情で持ち場に帰っていく。

 この十年、見慣れた光景であった。


「くくく……貴族の誇りを見せてやろう」


 弱者の葛藤など歯牙にもかけぬ貴族が戦闘の開始を宣言した。


*****


リューネブルク港・南の洋上・バルムンク水軍・旗船クリームヒルト・甲板―――


「大司教、リューネブルク港より敵船団が現れました……上陸を急いでください!!」

「大丈夫よ、アロイス……敵の動きは鈍いわ」


 貴族連合軍の船団が動き始めた頃、その鈍重な動きとは比べ物にならない程優美な操舵で、リューネブルク港近郊の海岸にバルムンクの船団が接岸していく。

 リューネブルク市周辺の海岸は港を除いて岩壁が多く、上陸できる所が少ない、このポイントは数少ない例外なのだ。

 無論、貴族連合軍の船団が先に上陸する可能性があったが、それを防ぐべくヨーゼフ大司教は数々の罠を件の海岸周辺に仕掛けていた。

 河から突き出る木製の柱は上陸しようとして罠にひっかかって座礁、沈没した貴族連合軍の船団だった。


「敵船団を運営しているのはアールヴ人の神官兵、スヴァルト貴族の私兵はあくまで戦闘要員に過ぎないわ、そして……神官兵をまとめる船長はマグデブルク大学時代の私の生徒、そのよしみで手を抜いてくれるはずだから」

「なるほど、神官が得意とする裏工作か、やるねぇ、大司教の婆さん」


 ヨーゼフ大司教、かつて首都、神官育成の中心、マグデブルク大学で学長を務めていた彼女はスヴァルトが支配する世の中に合ってもその人脈は健在だった。

 むしろ、スヴァルトの弾圧が激しければ激しいほど、かつての恩師である彼女に対する信望が強まっていく。

 貴族連合軍の船団はその足元がぐらついていた。


「三割程、上陸が完了しました」

「法王軍本陣は目の前だ……グスタフ公の首を取れ、それでこの戦いはこちらの勝利だ」


 敵船団を目の前で横断しての上陸作戦、さらに上陸後、市の城壁を伝うように進撃すれば法王軍の本陣にたどり着く。

 軍が三分割されていたブライテンフェルト会戦の時と違い、補給などの後方支援を握っている法王軍は他のファーヴニル軍や貴族連合軍を事実上、傘下に置いているも同然なのだ。

 敵軍の頭は一つ、故にその頭を潰せば全てが終わる。


「上陸は半数程、完了……大司教様もお急ぎください!!」

「アロイス……だから先ほど言ったでしょう、敵は手を抜いてくれる、かつての生徒ですからね」


 なぜか緊張に顔を強張らせる副官に対し、窘めるようにヨーゼフ大司教が言い放つ。

 だが今回に限って言えば、むしろヨーゼフ大司教が現実を正しく把握していなかったのだ。

 アロイスのそれに同調するように傭兵隊長マリーシアの鋭い声が辺りに木霊する。


「敵船団が横列隊形に移行した、後十分で火矢が飛んでくる!!」

「うわぁ……早過ぎる、急いで皆、予備の矢なんかは後で送ってあがるから、早くしないと本陣に連絡が言って体制を整えられてしまう、そうなったら奇襲は不可能だよ」


 貴族連合軍の船団の動きも水際立った動きだった。

 その動きはまさしくたゆまぬ訓練を続けた練達のもの、その技能はヨーゼフ大司教の予想を遥かに超えていた。


「おかしいわね、確かに手を抜いてくれるって手紙に書いてあったのに……」


 やや怯むように歴戦の女司教がうめく。

 戦闘前にかつての生徒が告げた裏切りの確約、しかし本当に裏切られたのはスヴァルト貴族ではなく自分達ではないのか。

 マグデブルク大学で結ばれた恩師と生徒の絆、それがやや黒ずんでいるのが見える。もしや、綺麗な看板の裏は汚く腐食していたのか。


「学長、違います……あれでも手を抜いているのですよ」

「ブリギッテ……どういうことなのよ」


 すわ、裏切りか……そんな絶望がヨーゼフ大司教の心に過る中、同じくかつての生徒であったブリギッテがフォローする。


「スヴァルト貴族が乗船しているのですよ、あからさまに手を抜けば、この戦いが終わった後に軍法会議にかけられます。下手をすれば利敵行為の咎で処刑、そうすればあいつの家族は裏切り者の親族として路頭に迷う」

「……」


 静かに話すブリギッテの目はやや眠そうに見えたものの、強い意志に満ちていた。


「私達はこの戦いに勝てばそれでいいですが、あちらには今後の生活があります。無理は言わないでおきましょう」


 ブリギッテがあいつ……かつての同級生を想って言う。

 自軍の事しか考えていなかったヨーゼフ大司教は、どこか恥じるように俯きそうになるが、そこは彼らの恩師であった矜持がある。

 平常の姿を保った。


「そうね、それならば仕方がないわ」

「一本取られたな、婆さん」

「貴様、傭兵……大司教に何という口の利き方」

「喧嘩してないで早く上陸を終わらせようよ、このままだと上陸が終わる前に敵船団が突っ込んでくるよ」


 猜疑に包まれつつあったヨーゼフ大司教が冷静さを取り戻す。    

 だがならばこそ、迫りくる脅威が明確な姿で襲い掛かってくる。

 ヨーゼフ大司教は計算した……戦闘要員の兵士が全て上陸し、物資を降ろし、法国軍本陣に奇襲をかけるのに必要な時間、しかしいくら計算しても七割に達する前に追いつかれる結果しか導き出せない。

 背後から射殺されるのを覚悟で全員が上陸するのを待つか、それとも半数程完了した今の段階で奇襲作戦を敢行するか。

 どちらも否だ。背後から逆に奇襲をかけられるのも御免だが、少ない兵力で奇襲をかけるのも下策。

 ただでさえ法王軍一万に対し、こちらは二千、五分の一の兵力しか持たぬ状況で兵を割り、さらに戦力差を開く真似など出来ようはずがない。

 いかに背後を取ったところで、数が少なすぎては戦局を逆転させるなど不可能だ。


「……」


 そして残された策は一つだけ。

 名将と呼ばれた彼女はその策を思いついてしまう、だがそれを口にするのは憚れた。

 口をゆがめ、目をしかめ、何かに耐えるように声を上げる。

 しかし、その命令はかつての教え子に届くほどの声量がなかった。

 その届かなかった命令を、代わりに傭兵隊長マリーシアが拾い上げる


「ブリギッテの嬢ちゃん……大司教猊下は殿を命令したがっているようさね」

「えっ、それって敵船団を引き付けろってこと、百隻ぐらい見えるんだけど」

「……」


 他の兵士の上陸が終わるまで、敵船団の攻撃を引きつける殿の大役。

  法国軍本陣奇襲のために兵力を割けないため、殿を務めるブリギッテには数える程しか兵士が残されない。 

 狼の群れの前に一人で立てと言うのだ。

 それは死ねと言っているのも同じ。

 だがそんな理不尽きわまる命令に対し、ブリギッテ竜司祭長は力強く頷いた。


「ご命令承りました、学長……」

「いいの……私は、貴方の先生は貴方に死ねって言っているのよ」

「私はこのリューネブルク市の守備隊です、この街を守るために死ぬつもりで戦います」


 誇らしげなブリギッテ、そこにはかつての堕落した腐敗神官の姿はない。

 彼女もまた兵士なのだ、同じ市に住む住民を守る兵士。

 そしてその姿に耐え切れず、今度こそヨーゼフ大司教が顔を合わすことが出来ずに下へ下げる。

 その目尻は涙が滲んでいた、若者を犠牲にしなければならない老人、しかしその姿に苦笑してブリギッテの友人であるマリーシアが呆れたように続けた。


「騙されるなよ、婆さん……こいつに玉砕の美学はない、おい嬢ちゃん、もし仮に殺されそうになったらどうする」

「白旗を上げて降伏する」

「はっ……?」


 先ほどの頷きよりもさらに力強く、そして自信満々にブリギッテが応える。

 涙を流した老司教は石膏像のように固まった。


「いや、だって……死ぬつもりですから、つもり」

「私達は死ぬつもりで奇襲作戦を敢行するのですけど……?」

「学長、顔が怖いです、いやだって私はいつもの十倍以上は頑張ります、多分……それで許してください」


 冷めた、あるいは烈火のような怒りを目に宿らせ、自身を弄んだ弟子を睨むヨーゼフ大司教、はっきりと分かる形でブリギッテは怯えた。


「さあ、行きましょうか学長、じゃなくて大司教……ブリギッテ竜司祭長が殿を務めている間にあたしらはグスタフとかいうでくの坊の首を狩りましょう」

「マリーシア……」

「大司教、相手はスヴァルトですよ。竜司祭長はそれでも引き受けてくださるんです」

「……!!」


 マリーシアが言いたかったのは、スヴァルト貴族が降伏を認めなかった場合。

 別に珍しい事ではない、相手は元蛮族、しかもアールヴ人を家畜と呼んではばからないスヴァルト貴族だ。

 その可能性をスヴァルトの支配下で生きてきたブリギッテが知らないはずがない。

 分かってていて降伏すると言っているのだ、そしてそれが彼女の精一杯でもあった。


「この戦いが終わったら、酒でも酌み交わそう、それまで生きていろよ」

「そういう台詞はだいたいこれから死ぬ人間が言うんじゃ……」


 最後までダラダラした印象が抜けない竜司祭長、親友に対しマリーシアが別れを告げる。

 目前には紅い旗、スヴァルトに蹂躙されたアールヴのかつては蒼き旗、法王軍本陣の証。

 エルベ河を埋め尽くすような大船団……まるで殿を務めるブリギッテらを飲み込まんとする神話の怪物のようだ。


 「敵船団甲板に弓兵を多数確認、もう間もなく抗戦となります!!」


 そして遙か先、市の前にはスヴァルトを象徴する真紅の旗、彼らの祖、不死王を意味する黒十字が見える。

 ウラジミール公グスタフがおわす法国軍本陣だ。


「……!!」


 ヨーゼフ大司教、傭兵隊長マリーシアは背後を振り向くことなく疾駆する、彼女らに付き従うのはバルムンクの精鋭部隊、二千。

 彼らは侵略者にして簒奪者、裏切り者でもある宿敵グスタフの首元に食らいつく一匹の狼なのだ。

 刺し違うことを覚悟に乾坤一擲を狙う。


*****


法王軍(法国軍)本陣―――


 ヨーゼフ大司教らが決死の奇襲作戦を敢行しようとしていた頃、狙われた側の司令官ウラジミール公グスタフは、その危機から考えればひどくのんきな物であった。

 彼は結局、豪勢な昼食を三人前も平らげ、軽く運動をした後、傘下に入れた貴族連合軍やファーヴニル軍とは別の、直属とも言える法王軍にロクな命令を出さずに寛いでいた。

 今現在、生死を分つ戦場で健闘している傘下の両軍将兵がそれを見れば己の忠誠心を疑いかねない程の堕落ぶりだが、彼は特段気にしてはいない。

 自分は特別であり、他者とは違うと考えるグスタフにとってみれば他者との比較自体が無意味な物なのだ。

 彼がこの瞬間に気にかけていることは、先のブライテンフェルト会戦にて宿敵リヒテルに斬りおとされた右腕の代わりに付けた義手の不具合であり、戦局の事ではない。


「どうもこの新しい腕は調子が悪い。トリスタン、安物を掴まされた訳じゃないだろうな」

「そのようなことは……当代一流の細工職人と鍛冶師に作らせた特注品ですぞ、確かに時間はありませんでしたが、これ以上の作品はありません」

「これが最高かよ、こんなガラクタじゃあ、俺のデカ物が振り回せないぜ」


 グスタフが嘆く、彼は戦場に置いて好んで両手持ちの大剣を使っている。 利き腕を斬りおとされた以上、慣れていない左腕で扱わざるを得ないのは仕方がない。

 だが右の義手の不出来さは予想以上、あるいは予想以下の物であり、これでは大剣に添えることも出来ない。

 つまりはこのままでは片手で扱っているのと変わらないのだ。

 無論、それでも大抵の相手には後れを取る気はなかった、しかし相手がリヒテル程の強さになると、そのハンデが重くのしかかってくる。

 グスタフは宿敵であり、かつての幼馴染にして親友でもあったリヒテルが重傷を負ってアヘン中毒にまで堕ちたことを知らない。

 奇妙なことだが、倒すべきリヒテルの事を常に強大な相手であることを信じている、

 あるいは信じたいのだ。


「ちなみに……その当代一流の細工師だか鍛冶師は何人だ?」

「言っている意味が分かりかねます……閣下、いや陛下と呼ぶべきですか」

「皮肉はいい……まさか義手を作ったのは俺らと同じスヴァルト人か」


 手ごたえがほとんど感じられない右腕をプラプラさせてグスタフが詰問した。

 その抗議に、しかしトリスタン竜司教が胡乱げな顔をする。彼はグスタフの詰問の意味が理解できなかった。


「ええ、勿論、我らのような下賤なアールヴ人が閣下のような高貴な存在の手を作っては不敬に当たりますからな」

「出来損ないを献上する方が不敬だろうが、すぐに作り直させろ、今度はアールヴ人にな」

「よろしいので?」

「俺らスヴァルト人がこの国を支配して十年、鍛冶や細工と言うのは十年程度で極められる物なのか?」

「無理でしょうな、分かりました。そのように……ただ慣例的には」

「まだ言うか御老人……俺はもうすぐこの国の王となる、俺が法律だ、従えよ」


 スヴァルト人の頂点に立ったグスタフはだが、スヴァルト人が信じる、スヴァルト人は他の人種よりも全てにおいて優れていると言う選民思想とは無縁であった。

 スヴァルト人にはスヴァルト人の長所と短所が、アールヴ人にはアールヴ人なりの長所と短所がある。

 しかしそう言った思想は少数派だ、今やアールヴに対して穏健派の筆頭になった騎士セルゲイですら選民思想からは抜け出せていない。

 その合理性はスヴァルト人としては珍しい……否、前提からして間違っている。

 グスタフは純粋なスヴァルト人ではない、ヴァンやアマーリア、シャルロッテと同じく混血だ。

 ただ神の悪戯か、彼の内に眠る奴隷階級アールヴ人の血は、彼の身体的外観に作用しなかった。

 だから彼はヴァンらのように混血として弾圧されることなく、スヴァルト貴族として振舞えたのだ。


「そうだ、俺はもうすぐ頂点に君臨する……後はリヒテルを殺すだけ」


 そして彼の代わりにその混血としての咎を受けたのは彼が愛した女性と、その女性が産んだ子供だった。

 両者がスヴァルト人であるはずの、生まれたアールヴ人の子供。

 なぶり殺しにされ、磔となった女の死体を前に誓った復讐……忘れたことはなかった。


(リヒテル、お前に俺の苦しみは分かるまい……正義のため、父親を殺し、姉を殺し、育てた子供を死地へ送ったお前には……俺がお前を見限って十年前に裏切った理由を理解できないだろう)


 復讐相手は世界……弱い奴が悪い、弾圧された方が悪い、殺された女は、殺されるだけの理由があった。

 弱者だったという理由があった。

 だから、彼は……。


「所でグスタフ閣下……」

「なんだ……?」


 その懊悩を決して表に出さずにグスタフがいつもの嘲笑を顔に張り付けて振り向く。


「よくお気づきになられましたね」

「ああ、そのことか」


 主語を欠いた問いかけにしかし、グスタフは疑問の色を見せることなく答えた。

 彼にとって、なんら難しい事ではなかった。


「二回目だろう、奴らがあの手を使うのは……気付かない方がどうかしている」


 弱者が逆転する方法は、その者が弱ければ弱いほど、その手段が限られてくる。

 どうしようもなく弱体化したバルムンクが、大軍を率いるグスタフに打撃を与える方法はそう多くはない。

 そしてかつて弱者であったグスタフは弱者の思考が手に取るように分かっていた。


「少しもったなかったですな、あれで何万の将兵が腹を満たせることか」

「くれてやろうぜ、あのくらい……俺らにとっては所詮、はした金だ」


 ひどく残念がるトリスタン竜司教を笑うグスタフ、かの竜司教が本音を言っていないことを彼は知っていたのだ。

 トリスタンの口元は笑みを浮かべていた。

 それはかつての同僚の、無惨な最期を祝ぐ隠しきれない浅ましい笑みであった。


「見せて貰おうか……他人のために戦うと嘯く老婆の見せる醜態を」


*****


リューネブルク市東門前―――


「……なんで」


 刺し違える覚悟で法王軍本陣に奇襲をかけたヨーゼフ大司教の願いを神は聞き届けた、奇襲は成功した、この上なく綺麗な形で……ただし半分だけだが。


「……」


 うず高く積まれた物資は食糧、武器、防具に焼夷兵器、果ては組み立てる前段階の投石器まで見える。

 特に食糧は、数万の将兵が一週間もの間、空腹とは無縁となる程、膨大な量であり、つまりは法国軍の命綱であることは明白であった。

 しかしそこには、それを守る兵士がいない。

 法国軍本陣の威容……人間だけが消えていた。


「何で……なんで誰もいないのよ、一万の兵士がどこへ行ったと言うのよ!!」


 無人の陣地、正確には本陣跡の中心にて、ヨーゼフ大司教がヒステリーを起こしたように周囲に当たり散らす。

 膨大な物資……これを燃やせば法国軍は長期の戦闘が不可能となり、撤退しなければならない。

 ただこれだけの糧食を焼却するにはそれ相応の時間がかかる、いつ戻ってくるか分からない一万の兵士に怯えながらの作業では猶更だ。

 そして何よりも、その作業は直接戦闘には関係しない。


「ここまで綺麗に陣が残されていたんじゃあ、遠目では確認できないさね、嵌められたか、あのグスタフに」


 これがもし無責任な人間、あるいは目の前の事しか見えない人間ならば物資を燃やして満足したことだろう……自分は義務を果たした、できることはやった、しかしかつて万の軍勢を指揮していたこの老司教はそんな安い満足に浸ることはできなかった。

 焼却に浪費した時間、それは司教府で必死の防戦を続けるヴァンらバルムンク本隊に犠牲を強いる時間である。


「このまま物資を焼いて……」

「馬鹿なことを言わないで、私達はブリギッテを犠牲にしてここにいるのよ、戦闘と直接関係ない場所で功績稼ぎをしている暇はないの、彼女を無駄死にさせるつもり!!」

「も、申し訳ありません」


 ヨーゼフ大司教は司教府の皆が死闘を繰り広げている中、自分達が安全な場所で安穏としていることに耐えられなかった。

 彼女は信じられているのだ、窮地に陥ったバルムンクが逆転する最後の手段、それを完遂できると期待されているのだ。

 猜疑心が強く、人を信用できなかった、若き指導者リヒテルが心を入れ替えて寄せた信頼……皆の思いが、ヨーゼフ大司教をがんじがらめに縛っていた。


「手を、足を動かしなさい、私達の動きで全てが決まる!!」


 ヨーゼフ大司教は自分が皆の思いを裏切った事を知った。

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