第71話 お前は私が選んだ人間だ
ブライテンフェルト大草原―――
十二月八日、前日までの薄い霧が晴れた曇り空の日。バルムンク連合軍、一万三千とグラオヴァルト法国軍、四万二千が対峙した。
このような大規模な合戦は十年前、スヴァルトの反乱以降である。
バルムンク側はここで負ければ本拠地リューネブルク市までは要害と言えるものはなく、敗戦がそのまま滅亡につながる。
そしてそれはスヴァルトの貴族支配に対する、アールヴ人の反乱が終焉を迎えることでもあった。
対するグラオヴァルト法国軍、名前こそ国軍を意味しているものの、総司令官は侵略者たるウラジミール公、元首たる法王シュタイナーが三軍の一、格下扱いの法王軍のそれも、副官扱いとあってはその欺瞞が伺われる。
故に誰もそれが正規軍だとは信じてはいなかった。事実上のスヴァルト軍である。
だがスヴァルト軍もまた窮していた。グレゴールの策により各地の農民反乱が一時治まったが、それは不満をなくしたのではなく、ただ目先の希望に縋りつき、一時的に民衆が引き下がったに過ぎない。
むしろ、引き下がった故に表だって鎮圧できず、むしろ反乱を起こしかねない人間が、疑わなければならない人間の数が増えた分、負担は大きい。さすがに被征服者たる、全アールヴ人を抹殺にはできない。
グレゴールが信じてはいなかった、バルムンクが勝利するという奇跡が起これば各地で虐げられていたアールヴ人が蜂起し、スヴァルト支配に大きなヒビが入る。
人口比でアールヴ人の五分の一でしかないスヴァルトにとってそれは終わりの見えない内戦の始まりである。そのような事態、何としても避けねばならない。
実の所、両陣営が共に必死であった。
*****
バルムンク陣営―――
開けた大草原に甲高い鐘の音が鳴り響く。
「ウラジミール公の軍が現れました!!」
赤字に黒十字、スヴァルトの始祖にして神、不死王シグムンドの旗がはためく。たなびく旗は打ち寄せる波のよう、掲げる槍の数があまりにも多く、まるで森が動いているような錯覚を連合軍兵士に与えた。
「いよいよじゃな、リヒテル……まさか法王シュタイナーが従軍してくるとはのう、予想よりも一万人以上も兵数が多い」
「殺す相手が増えただけですよ、エルンスト老……」
不安な声をなんとか隠そうとするエルンスト老に対し、総統リヒテルが余裕を保ちつつ、軽口を叩く。
無論、絶対の自信がある訳ではない。だが一万の兵士、そして複数の教区にいる十万の住民、苛酷な支配に苦しむ数百万人のアールヴ人の命運がその肩にかかっているのだ。
どれほどの苦しみを、重圧を受けてもその王者の姿を崩してはならない。
弱音を吐けば皆が不安がる。自分達の希望を信じられなくなる。数百万の人間の人生が狂ってしまうのだ。
このような責任を科せられた者は他にいない。法王ですら元首とは言え、単なる官僚の長という見方もできる。
比べられる者は一人だけ、スヴァルトの王、ウラジミール公だけだ。そして今、目の前に対峙する敵がそのウラジミール公だ。
数百年に及ぶグラオヴァルト法国の歴史の中で、貴族制度がなく、国王がいない同国において初めて行われる国王同士の決戦。
アールヴ人にとってスヴァルト人はケダモノに等しい侵略者であり、スヴァルト人にとってアールヴ人は奴隷という人間以下の存在だ。
共に相手を人間扱いしておらず、故に礼儀も寛大さもない。
この戦い、どちらかがこの地上から消滅するまで続く。生きてブライテンフェルトを出られるのはどちらのか一方の王なのだ。
「この距離、進軍隊形、敵兵の練度を考えれば衝突は三十分後だな」
「恐らく、事前の合図はないじゃろうな。神官同士、貴族同士の決闘ではない。奇襲をかけられた方が、対処できなかった方が悪い」
「そう言うことです……」
リヒテルはエルンスト老との会話を断ち切った。右手を上げて静寂を命令し、周囲の兵士も見渡す。彼らは皆、自らの王の言葉を今か今かと待ち望んでいる。
「この戦い、諸君らの未来、家族の未来、まだ見ぬ子孫の未来がかかっている。自らの自由は自らの手でつかみ取れ。剣を取れ、槍を構えろ。無理に勝つつもりはない、ただ耐えるだけで良い。その後のことは私が全て責任を持つ」
「……」
「全軍、戦闘体勢に入れ、輝かしい未来の始まりだ!!」
*****
グラオヴァルト法国軍陣営・左翼・法王軍―――
「グスタフ郷、いえ竜司教、全ての兵士が配置につきました」
「よし、ご苦労……後はウラジミール公の合図次第だな」
総統リヒテルの幼馴染にして、かつての親友、そして今は最悪の裏切り者と化した男がいる。
ウラジミール公の養子扱いの、グスタフ・ベルナルド・リューリクである。
彼は左翼を担当する神官軍の司令官を務め、かつての友を虚空に見出していた。
「まさか、背水の陣とは恐れ入る。兵士を死ぬ気にさせる策だろうが、所詮はリヒテル、それがお前の限界だ」
グスタフはバルムンク連合軍を嘲笑っていた。彼らはエルベ河を背にして、横列に陣を敷いていたのだ。
迫るグラオヴァルト法国軍の大軍勢に怯え、身を合わせて縮こまっているようにも見える。
ただ、騎兵突撃対策のためか、申し訳程度の塹壕を掘っているのが工夫と言えばそうだが、むしろなけなしの知恵を払っている窮状を連想させ、哀れさが先に立つ。
「これは一時間で勝敗が決まるでしょう。今までの心配が杞憂になって安心しました」
「そう、聞いたところによるとバルムンクを倒すには三倍の兵力が必要だ、と怯えた騎士がいるそうですが、私は初めから分かっていましたよ」
グスタフに追従するのは彼の配下である騎士セルゲイと、死術士シャルロッテである。
セルゲイは自らが摂政として統治する、ムラヴィヨフ伯爵家の私兵団を神官軍の傘下に入れるという屈辱を甘受してまでこの会戦に望み、死術士シャルロッテはグスタフの奴隷であり、危険な影の魔道を修めて従軍した。
彼女が操る影の魔物グートルーネは十の兵士と五分の戦いができる程の化け物だったが、その使い手の育成と量産は許可されず、完成したのは一つ限りだ。
それが不満らしく、その鬱憤解消のために戦闘に向かないのを承知でカムチャダール(この場合はドレス)を着て戦場に臨む。グスタフの護衛役だ。
そしてこの場にいる四人目の人間、法王シュタイナーがグスタフに声をかける。
「だが、油断はしない方が良い」
「無論です、法王猊下……手は抜きません」
「本当か……」
「戦いは必死になった方が負けます。冷静に戦況を見れなくなりますからね、冷静に兵士を必死にさせるのが私の仕事です」
法王シュタイナーの杞憂は無駄であった。
グスタフの嘲りは演技なのだ。グスタフはリヒテル程ではないが、その肩に他者の生命を預かっている。油断は初めからない。
奇しくも、リヒテルが指揮する兵士の数とグスタフが指揮する兵士の数は同数であった。
三倍の兵力差を持つグラオヴァルト法国軍の三分の一、それをグスタフは目の前の神官軍の長、法王シュタイナーより奪い取った。
「風が気持ちいい……今、ウラジミール公が指揮棒に手をかけましたよ」
「何……なぜ、分かる」
「法王猊下、貴方に指揮権はないが、この法王軍の象徴だ。どっしりと構えて椅子にお座りください。兵士が安心して戦えるように……」
「……」
「私達が狩りをするのを見ていてください。貴方は主人……もっとも」
グスタフが今度は本心から法王シュタイナーを嘲笑した。この十年、その本心を見抜かれながらも表向きは慇懃な態度をとってきたグスタフ。
だが今回はそれがない。全てを決める決戦を前にはやる気持ちがその仮面を剥ぎ取っていた。戦いに全てをぶつける。
余計な配慮を割く暇などない。
「もっとも、食卓に獲物が並ばないかもしれませんがね」
「……」
その瞬間、大地を揺るがすような銅鑼の合奏が辺りに鳴り響く。
ウラジミール公が戦闘開始を告げたのだ。三軍の一、法王軍の陣が眠りから覚めた獣のようににわかに騒がしくなる。
(始めるぞ貴様ら、その命、俺のために燃やし尽くせ。リヒテルの肩に乗っているのは数百万人の命、対して俺の背にあるのは死んだ女一人きり。だがそれでも負ける気がしない)
一瞬前までの静寂、それが数万の兵士が生み出す地震によって破られる。
「突撃せよ!!」
十二月八日、昼前、運命のブライテンフェルト会戦が始まった。
*****
中央・バルムンク直轄軍対リューリク公家軍―――中央戦線―――
「総統、騎兵突撃です、槍衾の号令を!!」
戦闘の先陣を切ったのはウラジミール公が直接指揮を取るリューリク公家軍であった。彼の軍一万五千の実に半数が強大なる騎兵。
彼らはスヴァルトの精鋭であり、公に絶対の忠誠を誓う死を恐れない狂信者だ。
十年前、十万の法王軍を撃破したその勇姿が再現されようとしていた。
「慌てるな、塹壕に伏せて隠してあった盾を構えろ。矢の嵐が来るぞ」
突撃してきたのは、長弓を構えた軽騎兵であった。幼いころから修練を積み、人馬一体となった達人達、手綱を使わずとも馬を操り、馬上の不自由を物ともせず両の手で弓矢を操る。
「来るぞ、盾の奥に隠れろ!!」
聞こえたのは一つの音。だが同時に千の矢が陣に降り注ぐ。まさしく嵐、あるいは雷雨のように連合軍兵士を打ち据える。
彼らは震えながらそれに耐え続ける。少しでも顔を出せば射殺される。その恐怖が反撃の気力を奪っていった。だが、その恐怖の元は命までは奪えない。
ぴったりと寄せ合う長方形の大楯。隙間なく並べられたその列はまさに壁。スヴァルト軽騎兵が放つ矢の嵐から兵士達を完璧に守り抜いていた。
「残念だが、その戦法はリューネブルク港、ゴルドゥノーフ騎士団の時に見せてもらった。今度は矢で死ぬ者はいない……矢の斉射後、三秒後に反撃せよ、塹壕下のクロス・ボウ兵は一斉射撃。地上の兵士は槍衾を構えろ……槍騎兵の突撃が来る……いや、待て!!」
リヒテルが寸前で反撃の合図を取りやめた。矢の嵐に混じって何か陶器の塊のようなものが飛んでくる。
それは着弾後、周囲の兵士と盾を焼き尽くした。
「ムスペルの炎か……やはり使ってきたか、しかしこの量とは」
「投石器を確認、数は二十……打ち込んできます」
ムスペルの炎は元々、法王軍がスヴァルトに対抗するために使用した焼夷兵器だ。多種多様な薬物や鉱物を使用して作られるそれは水では消えない炎を生み出し、特に海戦や攻城戦で用いられ、大きな効果を発揮した。
バルムンクもハノーヴァー砦攻防戦では使用したのだが、それをウラジミール公は大量に動員したのだ。
遊牧民出身のウラジミール公は蛮族の貴族だが、軍事的には進歩的であるらしい。新しい武器を使うことにためらいはない。
「こちらもムスペルの炎を打ちましょう。このままではやられるばかりです」
「……分かった、やれ。ただし狙いは地面だ、敵に当てようとはしなくていい。出来るだけ広範囲に散らばるように」
「はっ!!」
リヒテルが命令を下す間にも、ムスペルの炎は打ち込まれている。だが命中率は恐らく三割を切っているだろう。
騎兵に頼るスヴァルトは投石器のような兵器、それも複雑な計算を用いる兵器を苦手としている。
投げる角度、風向き、それによって変化する着弾地点。それらの計算は神官兵が得意とするものであり、どうやら十年ではスヴァルトの技能がそこまで追いつかなかったようだ。
無駄玉が多い。そしてそれは不発以外の影響を戦場に与えていた。
「放て!!」
返礼にバルムンク側もムスペルの炎をリューリク公家軍に打ち込む。しかし打ち込まれた軽騎兵の動きは水際立ったものだった。騎兵の機動力を駆使して軽騎兵は即座に撤収していく。
元よりバルムンクのムスペルの炎は、スヴァルトのそれとは違って数も少なく、威力も落ちる。直撃した者は皆無で、かすって落馬した者も十騎もいないだろう。ただ地面を広く燃やしただけだ。
だが、続く槍騎兵の攻撃がどうも鈍い。
リューリク公家の軍は防御力に優れるものの、重い鎧のせいで俊敏さと機動力、そして経戦能力に劣る重装騎兵を嫌う。
主力は皮鎧を着た槍騎兵だ。軽騎兵の弓で敵陣を混乱させた後、槍騎兵がトドメを刺すのが必勝の戦法。
それは相手が体勢を立て直さない内に攻撃しなければならないために俊敏さが要求される。しかしそれの動きが鈍いのだ。
「……?」
「ムスペルの炎が生み出す火と煙に馬が怯んでいるのだ。スヴァルト兵は死を恐れないが、馬は正直だ。どうしたって二の足を踏む」
それはリューネブルク市大広場での戦いの経験を生かしたものだった。あの時は煙で兵士の動きを隠したが、今度は煙で馬を弱らせた。
「敵の動きは鈍い。態勢を整える時間は十分にあるはずだ。反撃せよ、塹壕下のクロス・ボウ兵は一斉射撃。地上の兵士は槍衾を構えろ」
先ほどの命令が今度は制止されることなく兵士に届けられた。総統リヒテルの命である。その配下に迎え入れられた誇りを胸に彼らは死力を尽くし、実力以上の力を発揮する。
「構え……放て!!」
槍騎兵の突撃は十秒ほど間に合わなかった。先頭の槍騎兵がクロス・ボウの一斉射撃を受けて斃れる。
続く後続は先頭を盾にする形でクロス・ボウを掻い潜り塹壕を飛び越えたが、今度は槍衾の餌食になった。
しかし全身に槍を受けた騎兵はその槍が刺さったまま、自らの物量を武器にバルムンクの陣に墜ちる。
人馬の巨大な体積が同じ分だけの穴を槍方陣に空けた。
「……騎兵、突っ込んできます!!」
リューリク公家の槍騎兵は前進し続ける。半分以上が射殺され、槍衾の餌食になったが、それでも前進しなければならなかった。
止まれば、後続の味方騎兵に突き殺されてしまうからだ。
「第十二、十五小隊、小隊長が戦死。第十一、第二十三小隊壊滅、連絡が取れません!!」
「一撃で、百人以上が戦死だと……」
スヴァルトの狂信、そして相対した自軍のあまりの損害に戦慄するリヒテルの軍師衆、しかしリヒテルだけが平静を保っていた。
「ツェツィーリエに伝令、影術士部隊を出せ、四百全てだ……」
「ですが、総統……それは我が軍のもう一つの切り札、こんな初戦で出しては」
「今、出さなくてはいつ出すと言うのだ。このままでは中央は壊滅だ。それとマリーシア隊に作業を急がせろ」
「後、一時間……」
「三十分で済ませろと伝えろ。それ以上は待てない」
断固たる態度でリヒテルは命令する。その裂帛の気合いに軍師衆が蒼ざめる。そこに怒号が飛んだ。
「狼狽えるな!! お前らは私が選んだ人間だ、他の兵士が憧れて、仰ぎ見る立場の人間だ。分かっていたはずだ、苦しい戦いになるということが……仮面を被れ、己が怯懦を兵士に見せるな、お前らの醜態が全兵士の人生を決めてしまうのだぞ!!」
「はっ、申し訳……」
「謝るな、手と頭を動かせ!!」
リヒテルの怒号は軍師衆の恐慌を完全に抑え込んだ。仮にこれをバルムンクが破ってきた、ミハエル伯、ボリス候が見ていたならば嫉妬心と己の行いに対する羞恥心を抑えこむのに難儀したことだろう。
これだけの統率力、追いつめられた時に彼らは発揮できなかった。そして思う。自らが対峙した時にリヒテルはこれほどの能力を有していただろうかと……。
ヴァン、テレーゼ、ブリギッテ、成長したのは彼らだけではない。リヒテルもまた以前の自分とは隔絶していた。
その成果をウラジミール公直属の兵士は身を持って知ることとなる。
「他の戦線は……」
「今、右翼、左翼共に連絡を取っているところです」
「ライプツィヒ市はどうだ」
「はっ、ライプツィヒ市? 敵軍右翼、貴族連合軍の背後ですか……」
「そうだ」
「分かりません。街に火をつけるということですが、火が上がっていない所から恐らく、その前に鎮圧されたことでしょう」
「そうか、では彼らは死んだか……」
ライプツィヒ市に妹分のテレーゼが向かっていたことをリヒテルは他に秘密にしていた。失敗した時、テレーゼ戦死の報が全軍の士気低下につながることを懸念したのだ。
(……妹が、息子同然のヴァンが死んでも動揺はしないか、とことんまで堕ちたな私は、だがそれで正しい。身内だとしても特別扱いはできない、一兵士の死など、戦局に大きな影響は与えない)
リヒテルの沈黙に不信がった軍師衆が何か言いたげな顔をする。それをリヒテルは強引にねじ伏せた。
「なんでもない、予想が当たっただけだ、それよりも前線の維持に努めろ。三十分間は凌ぐのだ。それ以降は作戦通りに行う」
「はっ!!」
絶叫に近い返答に苦笑しつつリヒテルが戦場に向き直る。
中央の戦線はバルムンク不利ながら、それでもまだ勝敗を決める天秤は傾いてはいなかった。
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