第36話 汝は義務を果たした、安らかに眠れ

「正面玄関が奪い返されました!!」

「決死隊は全滅か……これで突入したリヒテルの生存は絶望的じゃな」


 連合軍の本陣にて、司令官代行であるエルンスト老が疲れたように独り言ちた。連合軍は既に手詰まりとなっていた。活路を切り開くはずのリヒテル率いる決死隊は全滅。加えて、先ほどから側面攻撃を防ぐべく出陣したブリギッテ竜司祭長からは増援の要請が矢継早に届いている。戦況は大分不利なようだ。だが遅れる予備兵力などない。

 残る連合軍兵士は寄せ集めの難民あがり。戦線を維持するのに精一杯であった。幸いにも正面の敵は砦から出ずに防戦に徹している。恐らく、こちらが脆すぎるので罠か何かと疑っているのだろう。もしも正面のスヴァルト部隊が積極的に攻勢に出てきたのならば本陣はもう落ちている。


「撤退するしかあるまい」

「な、エルンスト老、リヒテル様を見捨てるというのですか!!」


 慌てふためく軍師衆を見やり、エルンストはその疲労を濃くした。初めから無理だったのだ、強大なスヴァルトに立ち向かうのは。侠客と呼ばれるファーヴニルも結局は盗賊、弱い者には勝てても、自分より強い者には蹂躙されるしかない。


「リヒテルは死んだ。このままでは全滅する。残された手段は被害を抑えつつ撤退し、リューネブルク市に籠城するしかあるまい」


 それは緩慢な自殺と変わりがなかった。ハノーヴァー砦を守り抜き、勢いに勝るスヴァルト軍は簡単にリューネブルクを陥落させるだろう。そもそも兵力差が違い過ぎる。それを防ぐには、バルムンクの面々は戦闘前に首を吊るしかない。それが民衆に一番迷惑をかけない方法であった。


「全て責任はわしが持つ。撤退しよう、もう何も出来はしないのだ」


 その悲壮な覚悟に軍師衆は何も言えなくなってしまった。先ほど、待ちに待ったヒルデスハイム司教区のファーヴニル組織の援軍が到着した。その内情を知る者はエルンストの絶望もまた知っていた。


「……お心を察します」

「……勝手なことを言うな。わしだからこそ聞き流すが、それは自慰でしかない。わしの絶望はお主では察することは出来ぬよ。子を失った苦しみなど、誰にも分かりはせんのだ」

「……」


 エルンストが号令を下しそうとした刹那、その時は訪れた。


*****


ハノーヴァー砦東館、官兵宿舎―――


「潰れなさい!!」


 シャルロッテがヴァンに杖を向ける。ハノーヴァー砦の地盤に眠る死人達を呼び起こし、建物を倒壊させようとしているのだ。

 怖気を招く、不気味な揺れが起きたその瞬間、宿舎の大黒柱が陥没し、ゆっくりと建物が倒壊していく。


「え、なんで……どうしてこんなに範囲が広いのよ。このままじゃ、私やグスタフ様も巻き込まれるじゃないの!!」

「……」


 ヴァンは目を閉じ、呪文を唱えている。落盤が彼を襲うが意に関した様子はない。いつのまにか、ヴァンを守るようにアンゼルムが後ろに待機していた。だが、いかに屍兵と化し、高い筋力や再生力を手に入れようが彼一人で建物の崩落から守れるわけではない。あくまで気休めだった。


「見つけたぞ。お前と、死者たちを結ぶラインを……」

「なんですって……」

「そうか、こんな細い糸だったのか。自分以外の死術士に会ったことはあるが、ここまで実力がある者はいなかった。そうか、こういう風に操るのか」

「何を、何を言っているのよ!!」


 シャルロッテは直感的にこのままヴァンを放置しておくのは危険だと判断した。死術という観点で自分は負けている。自らを天才と呼ぶ彼女ではあったが、言うほどに自分を過大評価してはなかった。死術で打倒できないのならば別な手段で殺すだけ。


「死ね……!!」


 シャルロッテは腰のダガーを引き抜き、ヴァンに迫る。当然のごとく、アンゼルムが迎撃に出るが……


「決闘は一対一だぜ……」


 グスタフの投げた長剣がアンゼルムの腹に刺さる。のみならず、その勢いは彼の体勢を崩し、床に這いつくばせた。まるでバリスタの直撃でも受けたような衝撃である。

 邪魔されることがなかったシャルロッテはそのままヴァンに肉薄した。ヴァンは避けられない。否、避けない。ダガーは深々と脇腹に突き刺さる。致命傷となる胸を狙わなかったのは、ヴァンが着ている死術士特有の黒服の下に皮鎧を着込んでいる可能性を考えたからであった。しかし、兎にも角にも内臓まで届く傷は重傷であることに変わりはない。決闘はシャルロッテの勝ちであった。だが、勝利者である彼女こそが怯えていた。


「……まさか」

「死術士の杖は、苗木であり、親である。そして屍兵の核となる種は子である。子は親に従うもの。では親が二人であれば……種はより強い親に従う」

「初めからおかしいと思っていたわ。死術士は杖がなければ死術を使えない。苗木である杖がなければ種に命令することはできないのよ。なのに、あなたは杖が無くても死術が使える」

「杖が無ければ死術が使えないのは正しいことではない。正確には苗木が無ければ使えないのだ。私の苗はここにある」


 呪文の完成は旋風を巻き起こす。内側からはじけ飛んだヴァンの黒服の下には素肌と、ボロ雑巾のようになった皮鎧。そして苗木があった。胸の下。右のわき腹の上あたりに醜い痣がある。それは放射線状に胸や足に広がり、まるでヒビのように見える。苗木から伸びた根である。


「埋め込んだの、ミストルティンの苗木を……体に!! 正気なの、どんな副作用が起こるのかも分からないのよ」

「既に味覚がマヒしている。だが、それだけだ。それだけで済んだ。何の問題もない」

「それは今まで死術を積極的に行使しなかったからよ。死術を使えば使うほど、体が壊れていくのよ、狂っている。狂っているわ。あなたはいずれ、ただの樹木となる。動くことも、もしかすると考えることもできない、ただ生きるだけの樹木となる。それをどうして!!」

「簡単だ……他にすることがなかったからだ。他に能がなかったからだ」


 ヴァンは終の言葉を紡ぐ。それは砦内部に散らばった種、死した決死隊に埋め込まれた種に命令する。その命令はシャルロッテが構築したラインを乗っ取り、地盤の屍達を使役するだろう。

 シャルロッテはヴァンと戦った時点で勝機はなかった。人間を止めた者に人間如きが勝てるはずがなかったのだ。


「Offene、Hexe Kessel(さあ、開け、魔女の大釜)!!」


*****


ハノーヴァー砦中央、礼拝堂―――


「な、なんだ地震か……」

「まさか、早すぎるぞ、グスタフ!!」


 礼拝堂に激震が走る。それは次第に大きさを増して彼らを翻弄していく。まるで大地を揺るがす巨人の行進のようだ。敵味方を巻き込んだ非情なる城壁崩し。その再現である。

 決死隊に緊張が走る。彼らの先達たるファーヴニルの部隊を壊滅させたその蛮行に対する心理的備えなど出来ている訳がなく、その顔色は蒼一色となる。


「……これを使ったということは、どうやら我ら連合軍が優勢ということだな」

「ちっ、グスタフめ、またヘマをしやがったな。リューネブルクからの敗走といい、左目を失った経緯といい……いや、お互い様か、オレも人の事は言えないか」


 ボリスのグスタフへの悪態は中途で終わり、その顔はひどく冷静になった。それは自らの敗北を悟ったからである。敗北を前に自裁を選んだミハエル伯とは違って、彼はそこまで狭量ではない。


「今のオレではお前には勝てない。それは認めよう。だから仕切り直させてもらう。今度はもっとマシになってくるからよ」

「急にしおらしくなったとしても、もう遅い。私がお前を見逃すとでも……」

「……見逃すさ、何せお前は〈大した偽善者〉だからな」

「私をそう呼ぶのは、あの男だけ……なっ!!」


 珍しくリヒテルの顔に動揺が走る。彼はボリスと対峙しながらも常に後方や側面にも気を使い、奇襲を警戒していた。例えボウガンなどの遠距離武器、あるいは憎悪や敵意を隠したボリスのような暗殺者だとしても、おいそれと彼に一撃を与えることはできない。だが、〈自分だけを守った〉その姿勢がこの時は仇となった。


「手こずらせやがって……アールヴの盗賊が!!」


 先ほどまでの決死隊とスヴァルト騎士による膠着状態は脆くも崩れ去っていた。地震に動揺したのはあくまで決死隊のみ。ボリスの側近たる親衛騎士団は城壁崩しの仕組みを知っており、何よりも彼らの目の前には主君たるボリスがいるのだ。ボリスが死ねば全てが終わると信じる彼らは、同時に自分達の上に瓦礫が落ちないとも盲信していた。


「貴様らも死ぬんだぞ、なんで逃げないんだよ!!」

「罰はお前らにしか落ちないさ、家畜が……」

「人間様に楯突くなよ、アールヴが」


 リヒテルの目の前で、彼のカトラスを受け取った少年兵がハルバードで叩きのめされた。カトラスは無残に割れ、のみならずその胸に刃が刺さる。口から血を吐く少年兵と目線があった。た・す・け・て。その言葉と共に目を閉じる。


「おっと、今度は助けに行かせないぜ」


 焦燥に駆られたリヒテルの隙を突き、ボリスが首筋に左側から槍を突きつける。ほとんど密着するような近距離はそれが回避不可能であることを意味している。下手な動きをすれば首を落とされる。カトラスで払うのでは遅すぎる。そしてリヒテルの肩は負傷しており、常のスピードは出せない。チェックメイトであった。

 実の所、ボリスは脅しだけでそんなことをしたわけではない。できることならば、ここでリヒテルを仕留めてしまいたいのだ。己の矜持からすれば再戦したいところだが、矜持ばかりで行動するわけには行かない。彼は貴族であった。臣下の運命を握る貴族なのだ。


「オレも堕ちたもんだ、こんな手を使うとは……だがお前は危険すぎる。聞きたいことも償わせたい罪もあるが、悪いがここで死んでくれ」

「どけ……」

「何……?」

「そこをどけと言っている!!」


 ボリスの槍先がリヒテルの首筋にめり込んだ。吹き出す血、噛み殺された苦悶の声、指先一つずれれば頸動脈が寸断されていた。いや、まだ遅くはない、敵は愚行に出た。間髪いれずにボリスは槍に力を入れ、リヒテルの首を切断しようとする。だが、その一瞬、ボリスの心臓が早鐘を鳴らす。凶報ばかりを伝える勘が逃げろと命令する。刹那の判断でボリスは顔をそらして構えを解いた。寸前、鋭利な刃がその場所を通過する。


「真空波だ、と……」


 遥か頭上の天井が砕け、大理石の欠片が降り注ぐ。リヒテルが振るったカトラスが起こした風の刃が天井を破壊したのだ。そう予想した。ボリスにはそれしかできなかったのだ。リヒテルがカトラスを振りかぶり、何をしようとしているかが分かっても、何の邪魔もできなかった。


「逃げろ!!」

「ボ、ボリス様?」


 今、まさに少年兵にトドメを刺そうとした騎士は己の背が低くなっていることに愕然とした。そして次には背景が上下逆になっていることに戸惑った。目の前に立つ屈強な肉体が自分の下半身であることに気付いた時、彼の魂はヴァルハラに旅立っていたのだ。


「な、なんという……あんな遠くから」

「お前らが勝てる相手ではない。退け、退くんだ。もう戦闘は終わりだ!!」


 ボリスの絶叫に近い命令に、律儀に反応した騎士らが主君の前に集結する。それをリヒテルは止めなかった。彼にはもう余裕がなかった。無理な動きをした腕の筋肉は破断し、内出血により、まるで竈で焼いたようにどす黒く染まる。当分、剣は握れないだろう。

 彼の目はわずかに呼吸する少年兵にのみ向けられていた。間にあったのだ、まだ助かる。


「行け、ボリス……今回は見逃してやる」

「……」


 この場に及んで余計なことを口走るほどボリスは愚かではない。捨て台詞一つ残すことなく、茫然とする部下をまとめて、礼拝堂から逃走していった。戦闘は終わったのだ。


「す……すいません、俺達、足を引っ張ってばかりで……」

「そうだ、今のままではお前は足手まといだ。だから帰ったら私が鍛え直してやる。私の扱きはきついぞ」

「へ……どんなことでも耐えて見せますよ。そしたら俺は隊長になって、スヴァルトを殺しまくります。あいつら、俺らをかち、くって……」

「もうしゃべるな。すぐに医者を呼んでやる。それでお前は助かる……」


 この時、リヒテルは完全に油断していた。怪我のせいか、あるいは少年兵に気を取られていたからか、どちらにしても、らしくない隙であった。だから背後から黒服を着たスヴァルトが近寄ってきても、そのスヴァルトが剣を 振り上げても反応が遅れた。既に躱せない至近距離。そして剣は真っ直ぐに降ろされる……


*****


「殿下、大丈夫ですか?」

「ほんのかすり傷だ」


 礼拝堂から逃走したボリスと二人の騎士らは後方へと移動していた。死術を用いた地震、トール・ハンマーをグスタフが使った以上、砦は陥落寸前であろうとの考えからだが、どうにも状況がおかしい。

 死した兵士の姿がなく、それどころか戦闘の跡すらない。礼拝堂という隔離された空間にいたため、ヴァンが砦の地盤に配置された触媒の支配権を奪い、トール・ハンマーを起こしたことを知らなかった。そしてそれを知らせる兵士はもう誰もいなかった。


「よお、ボリス……生きていたのか、良かった、良かった」

「グスタフ……?」


 砦の中央にある礼拝堂から真っ直ぐ南、武器などの物資を置いた貯蔵庫付近にてボリスはグスタフと再会した。彼は埃にまみれ、あちこち血だらけだったが、五体満足であった。


「いや、大変だったぜ。バルムンクの死術士に触媒の支配権を奪い取られて、トール・ハンマーを起こされてしまったぜ。シャルロッテが抵抗したから砦全体まで崩壊がいかなかったが、正面玄関に固まっていたお前の部下は壊滅。生き残りがいてもまあ、正面にいるバルムンクに殺されるだろうな」

「……」

「すまない、謝ってすむはずがないが、謝らせてくれ。全て俺の責任だ」


 情けない顔で謝るグスタフにボリスは苦々しい顔を見せる。それは敗北からではない、確かにこの敗北は許しがたい。司令官として、ここまでの惨敗では責任は免れないだろう。だがそれ以上に彼を苛立たせる自体が起きつつあった。


「グスタフ!!」

「なんだ……我が友よ」

「お前が今、切り殺した男はオレの家臣だ。なぜ、そんなことをする。貴様、まさか……」

「俺が裏切ったとでも……ボリス。おいおい、俺達の間に初めから友情なんてなかった。裏切るって表現は良くないぜ」


 謝罪を口にしながら、情けない顔で謝りながら、グスタフは剣を倒れている兵士の首にねじ込んでいた。彼はもう己の真意を隠す気がなかった。もう、腹の探り合いをする時は終わっていたのだ。

 ボリスが槍を構える。一人の騎士はハルバードを、もう一人の騎士はメイスをグスタフに突き付け、彼の死角に回る。ちょうど、三人でグスタフを包囲する形だ。


「俺が死ねば、俺以外の誰かが王太子となる。だが、お前を買収した首都の高位貴族では後継者には役不足だぞ。ヌクヌクと温室で過ごしている奴らではウラジミールの王冠の重みには耐えられない」

「人の事を言えた義理か、ボリス。リヒテル程度に勝てない温室育ちの貴族が……」

「その言葉、そっくり返させて貰う。あの蒼き姫、テレーゼ如きに手こずる貴様ではオレと、親衛騎士団には勝てない」


 グスタフがスヴァルト兵の死体を放り投げる。その兵士は伝令役であった。前線と後方の補給部隊を繋ぐ糸。彼が死ねばその二つは隔絶される。ここで行われることが誰にも知られることがなくなるのだ。


「ウッラー、ヴァール。かつての友よ……せめてこのオレの手で!!」


 投げられた死体を俊敏に躱すと、ボリスはグスタフに突進する。それにほとんど同時に騎士二人が続いた。完璧に限りなく近しい三方からの同時攻撃、それがグスタフを襲う。


*****


そして剣は真っ直ぐに降ろされる。少年兵にと……


「汝は義務を果たした……安らかに眠れ」

「がっ、ががが!!」

「ヴァン!!」


 なぜスヴァルトだと思ったのか、剣を振り降ろして少年兵を殺したのはヴァンであった。リヒテルは何が起こったのか分からなかった。なぜ、味方を殺すのか。だが彼の長年培った武人としての経験がその混乱をあざ笑う。殺した理由など簡単すぎるではないか。


「傷が背中まで貫通しています。もう助かりません。この上は介錯して苦痛が長引かせないようにするのが適当かと……」

「そんな命令を私は下してはいない!!」

「では、私の独断です。以後気をつけます。アンゼルム……礼拝堂入り口の警備を、生きている者は皆、敵兵だ。殺しなさい」

「あ、あああああ!!」

「アンゼルムまで……」


 死術に関して、ある程度の知識があったリヒテルはヴァンが行った処置にも見当がついた。死者を屍兵に変えるのではなく、生者を不死兵に変える邪法。処置を受ける者が承諾しなければならない故にその行使は困難を極めていたはずだが、よもやアンゼルムが承諾するとは、もしかするとヴァンが言葉巧みに騙したのかもしれない。


「舎弟を失ったアンゼルムはその後悔から、屍兵、正確には生きているので不死兵となることを望みました。従来よりも身体能力が向上し、何より高い再生能力を手に入れたことで特に白兵戦では高い成績を出すでしょう。確かに指揮能力を失いましたが、それを補って余りあるバルムンクへの貢献を約束するものであり……」

「お前の望みはなんだ?」


 リヒテルが剥きだしの殺気をぶつける。それはボリスが怯み、胸への一撃を許したあの戦慄である。だが、ヴァンはその表情を変えない。彼はただ、リヒテルの次の言葉を促すだけであった。


「お前はバルムンクの正義を信じていない。当たり前だ、スヴァルトとの混血であるお前は、スヴァルトを打倒する我らの正義に賛同できないだろう。それは分かる。だがお前はそれ以外にも関心がないではないか。金や女、権力……そんなことを言いたいわけではない。お前はテレーゼの死にも無関心であったな。お前の望みはなんだ、愛した幼馴染すら切り捨てるお前の真意はどこにある」


 リヒテルの詰問にヴァンは初めて表情を変えた。それは嘲笑であった。まっさらな嘲り。目の前の人間の愚かさを罵り、関わりを持ちたくないような蔑みの視線。スヴァルトが家畜呼ばわりするアールヴを見るようなそんな笑いであった。


「私の望みは、バルムンクの影となることです」

「何……?」

「前に話してくれましたよね、悪党では民衆の支持を得られない。だからこそ、成さねばならない悪を私が行うのだと……」


 ヴァンは持っていた紙の束を放った。それは辺りに広がり、床に落ちて血で汚れる。朱く染まるそれらに関心を見せることなくヴァンは先を続けた。


「頭領、アーデルハイドが裏切りました。もう殺すしかありません」

「そうか……」

「驚かないのですね」

「いずれは排除するつもりだった。古ぼけてしまった頭領などいらない。もうバルムンクの長は私だ」


 リヒテルは泰然と姉殺しを宣言した。思えば彼の人生は身内の流血で彩られている。十を迎える前に頭だった父を殺し、十年前の敗戦以降は親代わりだった幹部を粛清して組織を刷新した。そして今回、妹分だったテレーゼを戦死させたのだ。残るは姉のみ。もしかすると、全てを殺した方が後腐れがなくていいかもしれない。


「ですが、血まみれの神輿は誰も担ぎたがらない。あなたは清廉であるべきだ。汚れ役は控えるべき」

「だがそれでは……」

「成さねばならない、影の役は私が引き継ぎます」

「それがお前の望みか」

「ええ、他に能がありませんから……」


 長い、長い沈黙が続く。それは数時間、あるいは数分であったかもしれない。だが彼らに停止は許されない。彼らはただ、前を向いて走り行くだけが許されていた。その先が断崖絶壁であろうとも……


「ならば、我が隣に立て……お前が受けるのは味方からの憎悪。そして無残な結末だ」

「願わくば、バルムンクが明けの明星となることを……私がいなくなった後も輝き続けることを……」


 その言葉はヴァンから漏れた。

 明けない夜はなく、止まない雨もない。

 しかし、バルムンクがもたらす日の光を、ヴァンが浴びることは決してない。



*****


 ゴルドゥノーフ家当主、父ムスチラスフの息子、ボリス、死去。享年二十五歳。義妹の仇を討つべく戦い、真実を知る者の手で斃された。


「お前はこの十年、何をしてきた? 結局、俺の足元にも及ばないじゃないか」


 勝利者たるグスタフは長剣を振るい、血を飛ばす。それだけで事足りた。彼は返り血を拭う必要さえなかったのだ。一太刀を浴びせるどころか、戦闘は十数秒もかからなかったのだ。それだけの力量差があった。それだけ背負う物が違っていたのだ。


「……では処置を行います」

「よし、頼むぞシャルロッテ」

「……」

「……今回の敗戦、責任の半分は俺にある。だからそう気負うな、お前の罪はこれで許す。俺が許すんだ……それでは不満か?」

「い、いえそんなことは……光栄です、キャハハ!!」


 空元気を出した従者にそれで良しとしたのか、グスタフが剣をしまう。これで今日の悪行は終わりである。


「ボリス、俺の目的を教えてやる。俺の目的は混沌……そして再生だ」

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