生贄の儀式(2)


 あの時、ただハルはもう一度、もう少しだけ一凛と一緒にいたいと、そう思った。


 伊吹がやってくるのは分かっていた。


 あの日伊吹は言った。


 一凛のために警察に通報すると。


 捕まるところを一凛に見せなくないなら、自分からこのアパートを出て行けと。


 伊吹がハルに与えた時間は十分なものだった。


 アパートを出てうまく行けば遠くまで行けるかもしれない。


 天が助けてくれれば逃げ切ることもできるかもしれない。


 そのいちるの望みのために伊吹はハルに猶予を与えたように思えた。


 それでもハルは自分の命よりも、哀れに警察に捉えられる姿を一凛に晒しても、もう一度一凛の顔が見たかった。


 「ただいまハル」


 そう微笑む一凛をもう一度だけ抱きしめたいと思った。


 でもその願いは叶うことはなかった。


 その日に限っていつもの時間になっても一凛は帰って来なかった。


 階下でいくつもの重い足音を聞いた時ハルは目を閉じ静かに全てを受け入れた。



「元気にしていたか」


 一凛が手を差し入れハルに触れるとハルは両腕を伸ばし鉄格子越しに一凛を抱きしめた。


「鉄格子が頬に当たって冷たい」


 一凛はハルの胸の中で呟いた。


 しばらく動かずじっとそうしていた。


 出会った頃のことやアパートで過ごした日々のことを話した。


 これから長い間離れ離れになる恋人同士のような会話だった。


 楽しかった想い出だけを口にした。


 その数はあまりも少なかった。


 話すことがなくなるとまた同じ想い出を繰り返し話した。


 同じ内容の話を同じように話した。


 そうするとまるで時間が戻ったかのような錯覚に陥る。


 ずっとこのままこうしているために繰り返し繰り返し話した。


 殆どしゃべっているのは一凛だった。


 ハルは黙ってそれを聞いた。


 一凛の声はだんだんと小さくなっていき、楽しかった想い出話にすすり泣く声が混じってもハルは一凛を抱きしめたまま黙ってそれを聞いていた。

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