寄り添う影(7)



 客が十人入るのがやっとの細長い店内に今晩客は一人だけだった。


 その客の前に一凛の作った八宝菜がずっと置かれている。


 餃子は作ったことはあったが、あとはほとんど作ったことのないチンジャオロースやホイコーローなど、慣れない中華料理を一凛はたった半日で覚えさせられた。


 主人は一凛は筋がいいといい加減に褒めたが、もし作り方を忘れたらこれを使うといい、と市販の素を指差した。


 箱の裏に書いてある材料を切って混ぜるだけだから簡単だと言い、結構イケルとつけ加えた。


 テレビコマーシャルでよく見かける大手食品会社のものだった。


 まかないはそれらの素から好きなものを選んで自分で作って食べることになっている。


 働き始めたその日キッチンの隅で麻婆豆腐を食べていると足元を大きなゴキブリが横切った。


 悲鳴をあげて立ち上がった拍子に持っていた皿を床にぶちまけてしまった。


 最近は丸々と太ったゴキブリを見ても動じなくなった。


 人はどんな状況にも慣れるものなのだなと思った。



 皿を洗い終わると腰を伸ばし何気に髪を整えようと手をやり、はたと気づく。


 そうだ、髪は短く切ったのだった。


 最近激しい雨が続いているせいか気温が低く、長い髪を洗うのは大変だったし、仕事をするのにも短いほうが都合が良かった。


 自分で髪を切る一凛をハルは哀しそうに見ていた。


 いつの間にか一人だけだった客が帰ってしまっていた。


 八宝菜はいじっただけで、二本のビールの中瓶と小皿のザーザイだけがきれいになくなっていた。


 もったいないと思いながら残った八宝菜をゴミ箱に捨て皿を洗う。


 ゴム手袋のどこかが破けているらしく、洗っているとじわりと指先が濡れてくる。


 いつの間にか野球中継が終わりュースになっている。


『人を襲い脱走したオスのゴリラは未だ見つかっておりません。動物園近隣の住民は不安を隠せませんが、警察の公表するところによるとゴリラはすでに遠くに逃走している可能性が強いとのことです』


 原稿を読みあげたキャスターが横に座っている女性キャスターに


『女性はとくに怖いですよねぇ、早く見つかって欲しいですよねぇ』


 と同意を求める。


一凛はきれいになった皿をずっと洗っていた。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る