黒い雨(2014/11作)

 ななめに、倒れるか倒れないかぐらいななめに立っている人を見てしまった。私は沈んでいく夕日に、ただサヨナラを言っていただけなのに。

「やあ神様」とななめの人は私に言った。「あるいは人間かもしれないが、もしお前が人間なら、うっかり詩を書くこともあるだろうね」

 ななめの人の隣には、誰も座らない椅子が一つ置いてある。

「君にはいろいろと事情がありそうだな」と私は言葉を返すと、夕日に背を向けた。

「きっと誰にだって事情くらいあるさ」とななめの人は私の背中に言った。「でもみんな事情なんてない振りをして生きている。大抵は恥ずかしいことだからね」


 私は家に帰ってテレビを点けた。どういう話題なのか知らないが、番組の司会者もまたテレビ画面の中で「恥ずかしい」と言っていた。妻は台所で夕飯の支度をしながら「東京には空がない」と詩を暗誦している。

「どの空も同じで、ほんとうの空なんてないとしたら、私はいったい誰なのか」

 そして彼女の子どもはプラスチックのおもちゃを抱きしめながら、窓の前に立って暗い空を見上げていた。「UFOでも見えるのかい」と私がたずねると、子どもは一瞬振り返ったあと、黒い雨が降っていると答えた。


 しばらく経ったある日、私は、ななめの人が電車の中でななめに立っているのを見かけた。周りの乗客は気に留めていないようだったので、私も気にしないフリをしながら吊革を握っていた。やはりななめの人の隣には椅子が一つ置いてあり、誰も座ろうとはしなかったが、よく見ると椅子の背もたれには「アウシュビッツ以降、詩を書くことは野蛮である」と小さく書いてあった。

 私は目的の駅で降りると、改札を抜けて人ごみに紛れた。そしてこの世の中に野蛮でないことがあるだろうかと、心の中で反駁した。スクランブル交差点は人であふれかえり、そこら中にヒュンヒュンと銃声が飛び交っている。きっと戦争が始まっているに違いないのだが、ニュースでは全く話題にならないし、人々が銃弾に倒れても、歩みを止める者は誰もいなかった。

 交差点の中央には、さっきの誰も座らない椅子が置かれている。

 私は人ごみを掻き分け、椅子に腰掛けながら空を眺めた。何もない青い空を10秒も眺めていると、ここがどこか分からなくなった。するとふいに誰かが傘を差し出して私の視界を遮った。

「ほら、雨が降っているじゃないか」とその人は言った。「この世にも、野蛮でないことは一つぐらいあるさ。早く家に帰りな」

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