秘密(2012/01作)
新米の猫を夢の中で見たのは、その夜が初めてだった。僕は目が覚めると布団から這い出し、床に静止した冬のミカンに色鉛筆を突き刺した。色は青だった。しかし色は何色でもよかったし、ミカンじゃなくてリンゴでもよかった。でも僕は青い色鉛筆しか持っていないし、リンゴは昨日腹を空かせた子どもにあげた。ぼろぼろの服を着た憐れな子どもだった。
「ねえ、あたし知ってるよ」
僕は、お城の外周を何も考えずに後ろ歩きしている最中だったし、他人に何かを知られるような人間ではなかったので、たぶんその子どもは別の誰かと勘違いをしているのだろうと思った。
「ねえ、あたし知ってるんだけど」
「いい加減、僕にまとわりつくのはよせ。僕はお城の秘密なんて知らないし、君の秘密が僕の秘密であるわけがない。なぜなら僕は秘密など持っていないし、僕は青鉛筆を一本持っているだけの人間なのさ」
子どもは薄汚れた小さな手で僕の手をギュっと握った。しもやけで赤く腫れた冷たい手だった。
「あのお城は、もう七百年も前に作られた映画のセットなんでしょ。それくらい誰でも知っているわ」
君は子どものくせに、映画ってものが何なのか知っているのか?
「つまり映画は映画、リンゴはリンゴなんでしょ」
君は大人を馬鹿にしているのか?
するとそこへ「今日は良い天気ですねえ」と僕たちの会話を横切りながら、カビのはえた煮干しみたいな老人が話しかける。「今日みたいな日に死ねたらいいなって、いつも考えているのですがね――じつはその『今日』みたいな日など、いったいいつやって来るのやら――私にはまるで見当がつかないのですよ」
だからいつの間にか『今日』が、『明日』になっていたりするんですよね。
「ようするにあんたたち大人のやってることってさ、この世界をただ丸投げしてるだけでしょ」
僕は頭に被っていたシルクハットを脱ぐと、その中から『リンゴはリンゴ』を取りだした。
「まあいいわ。あたしは誰よりもお腹が空いているのだから、そのリンゴはあたしのものよ」
生意気な子どもは僕の手からリンゴを奪い取ると、サヨナラも言わず去って行った。
「お前はまず、青鉛筆の意味をよく考えるべきだな」と無責任なカラスが僕に言った。
これでは堂々巡りになってしまう。
僕がやるべきことはまず、新米の猫を土に埋め、お墓を作ることだった。
名前はまだなかった。
(ミカン、リンゴ、青鉛筆)
猫は、昨日死んだのである。
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