第105話 敗北

旅程【2日目】夜

領都近郊の森

  フォルム――



 雨雲に月を隠された暗闇の森を、フォルムは真昼に進むがごとく駆け抜けていた。

 雨に濡れる腐葉土に足を取られることもなく、巧みに樹林の合間を縫う様に、実は足取りが覚束ないと見抜ける者はいまい。 

 だが確かにフォルムの身は不調を訴え、気付けば大樹の幹に片手をついていた。

 一時的に雨を凌げはするものの、切り裂かれた外套から浸み入る雨の冷たさが、乱れぬはずの冷脈を狂わせてゆく。

 忌々しげに降りしきる雨を見つめるフォルム。

 その脳裏に過ぎるのは、この不愉快な事態を招いた戦いのこと。


(あのまま留まっていれば、殺られたのは、さてどちらであったか……)


 そう、悲観でも憤慨でもなく。

 ただ、これまでのように結末の知れた戦い・・・・・・・・でなか・・・った・・ことが、フォルムの空虚な胸内をざわめかせる。

 それを“人”ならば“昂揚”と表すであろうか。


(“魔境士族”……実に興味深い者達だ) 


 肉体を蝕む水精の愛撫に不快さを感じながら、久しぶりの興味深い対象にフォルムが思いを馳せていたところで。

 その視線が、とあるガサ藪の一画に向けられる。


「――こちらで雨を凌いだらどうかな? 夜雨は身体に毒と聞く」


 フォルムの『幽視キルリアン・アイズ』が捉えるは長身痩躯の人の影。

 絶対強者の『蒼月鬼』からすれば、記憶に残すべき人類種など多くはない。だが、どこか親しみさえ感じさせる言葉には、人影の正体を承知している節があった。

 当然ながら人影からの返事はない。

 しかし人影の歪さ・・・・・に気づき、フォルムがゆるりと首のみを背後へ巡らせば、視界の隅に見覚えのある男が映り込む。

 たった今、前方奥にいたはずなのに。


「厄介な男だ」


 悠然と背を向けたまま、フォルムは淡々と困惑を口にする。


「例え『魔術』であっても、私の眼・・・あざむけるはずもないのだが」

「それでも一歩及ばず――本当に厄介なのは、あんたの方さ」


 男が言っているのは、あと一歩で雨のカーテンを抜ける己の位置。必殺の間合いに入る直前で、フォルムに気取られたことを差していた。

 果たして真に讃辞を受けるべきは、見事に魔人の逆を突いた男か、あるいは殺傷圏間際で食い止めたフォルムの方であったのか。

 それよりも、フォルムの関心を引いたのは別のこと。


「ここで出遭うということは、君も“魔境士族”のひとりということか。いや、呪法戦士の一族――それが“魔境士族”の正体かな?」


 冷めた口調でありながら、その言葉は興奮を表していた。だが、フォルムの期待はあっさりと裏切られる。


「ああ、それなら勘違いだ」

「勘違い?」

「そうだ。俺はあんたの求める者じゃない。だからこんな小細工もする」


 さりげなく男が何かを放り投げ、フォルムの足下に落ちた途端、発せられた淡い光がゆるやかに闇を払いのけた。

 それは月明かりのペンダント。

 ただ月明かり程度の明るさでは目くらましにもならず、フォルムには何の痛痒も与えはしない。


「何の真似だ?」

「なに、確かめたくてな。なるほど、夜雨は身体に悪そうだ」


 男が注視するのはフードの陰にちらつくフォルムの蒼白な横顔。そうと気付いたフォルムはさりげなく寄りかかっていた大樹の幹から手を離す。


「……これは地の色だ」

「よせよ」


 顔色のことじゃないと男は告げる。


「足取りも誤魔化せていなければ、雨宿りする柄でもないだろう。……どうやら、うちのもんにたっぷり可愛がられたらしいな」

「ひどい冗談だ。『呪法戦士』の一族ならばいざ知らず、ただの人間相手に後れを取る私ではない」


 わずかに語調を荒げてみせるのはフォルムの演技に他ならない。


「それでも私が弱って見えるなら、好きに仕掛けてみるといい。お仲間と同じ痛みを、味わうことになる」


 強がっているように思わせるのは、雨を凌げる大樹の下へ男を引き込むための詐術的な罠。無論、そんな手に乗るほど男は甘くない。


「よせと云った」


 静かなる男の眼差しを、フォルムは“観察”と経験則で捉えた。

 フォルムの語り、視線、動作、いまだ背を向けたままの立ち姿に至るまで、男が逃さず丹念に精査していると感じ取る。

 事実、男の口ぶりには慎重さが滲み出る。


「あんたがやり合ったのは『抜刀隊』の猛者達だ。その帰結はどうあれ、ここまで逃れてきたあんたの力を、みくびるつもりはない」

「ではどうする? このまま見合っていてもはじまるまい。……あるいは、“互いに退く”というのも思案のひとつだが」


 フォルムが挑発的に提案すれば、「このまま・・・・やり合う」と男は三つ目の案を自ら提示する。


「ヘタに近づくと物騒だ。あんたには清めた武具・・・・・で削っていくのが一番だ」

「ほう。少しは学んできたというわけか」


 眼を細めるフォルムに「それなりには」と男が応じる。


「正真正銘の化け物らしいな。だが、いくら不死身に近い化け物でも、本当の不死身でなければ攻略できる」

「さすがに“魔境”の住人と云うべきか。ただ、それでも不足と言わせてもらおう。頼みの陽射しは期待できず、心臓に杭を打つのも至難の業なれば」

「だが“水”はある」


 男の言葉が鋭利な刃となりて、フォルムの喉元に突きつけられる。


「潤す水。育む水。命に寄り添う尊き水が、あんたにとっては“猛毒”になる。どうだ? 切り裂かれた肉は治せても、濡れた肌がもたらす責め苦までは取り払えまい。今も立っているだけで辛いはず」

「それは君の願望だよ」

「いいや、俺には分かる・・・・・・


 生者と異にする魔人を相手に、男は誤魔化されぬと豪語する。


「もはや手足に力は入らず、肉体も鉛のように重いはずだ。目をみはる人外の膂力も今やただの力自慢程度。それがさらに身を濡らせばどうなる?

 こちらも不意打ちできない以上、取るべき道はひとつきり。この距離を保ち、その羽織り物をもっと切り裂いて、あんたをその場から・・・・・動けなくする・・・・・・

「なるほど。あとはお仲間が来るまで待つ、というわけか」


 こうして男が長々と会話を続けるのも、仲間の追っ手が来るまでの時間稼ぎ。

 はじめからそのつもりだったのか、途中から作戦を切り替えたのか。

 したたかな男の狙いを察してなお、フォルムは唇を笑みの形にする。それはひとつの確信があるからだ。


「君はひとつ、勘違いをしている」

「何をだ?」

「私が“逃げてきた”と思っていることだ。そうじゃない。私は目的を果たしたから・・・・・・・・・、帰途しているにすぎない」


 むしろ、なぜそう考えないのかとフォルムは唇の笑みを深くする。


「指摘のとおり、肉体のダメージなど私にとっては無意味。逆に、この外套がボロボロになるまで戦り合った相手はどうかな? この私を相手にただで済むと思うのか……?」

「!」


 そこで無表情を保つ男の身中に走った動揺を、フォルムははっきりと掴み取る。


「そうとも。どれほど武器の扱いに優れていたとしても、所詮は人の域・・・。君のお仲間は、手練れの二人が深手を負い、さらにひとりは私の良き理解者とな・・・・・・・ってくれている・・・・・・・。今頃は大騒ぎで追跡どころじゃないということさ」

「……」


 嘘か真か?

 惑いを示すように黙り込んだ男へ、フォルムはさらに追い込むべく言葉を重ねる。


「疑うのも当然だが、まだ追っ手が来ない事実をよく考えるべきだ。余力があるなら、単独で動く私を放置するはずがない。だが追っ手は来ない――」


 ならば答えはひとつ。

 追っ手をかける余裕もないということ。

 男の画策していることは、無意味な暇つぶしにすぎないのだ。


「ここまで云えば、自分の置かれた状況も理解できるだろう。しっかり視野を広げてみることだ。君たちの部隊が戦力にならないということは、君たちの作戦が水泡に帰したということ。それはつまり、この戦域における戦いが、君た・・ちの敗北で終わった・・・・・・・・・ということだ」

「……勝手に決めるな」


 さすがに声を低める男にフォルムは宣言する。


「決めれるとも――それが“勝者”に与えられし特権だ」


 悠然と告げるフォルム。

 それが事実に裏打ちされていればこそ、言葉に滲み出る真実味が男に有無を言わさず黙らせる。

 そうなれば、あとはこの場に幕を下ろすだけ。


「終わりだ。この冗長すぎる駆け引きも、いや、互いにこうして争うこと自体が何の意味も――」

「意味はある」


 静かだがこれ以上なく明瞭に。

 男が鉈を振り下ろすようにフォルムの言葉を断ち切った。

 悪あがきをと呆れるフォルムに男は毅然と言い放つ。


「あんたもひとつ、勘違いをしている」


 つい先ほどと同じ低められた声なのに、そこには不思議と力強さが感じられた。


「この役目には“送迎団の成否”が懸かっているだけじゃない。我ら“諏訪の信用”も懸かっている。もっと云えば、我らの命運が――」


 命運とは、また。

 いや、それこそが彼らを“魔境”の外へ踏み出させた理由なのかもしれぬとフォルムは考える。だからこそ、「故に」と続ける男の声音に並々ならぬ決意の程が窺えるのだろうと。


「生半な痛手で我らが退くことはない。退かねば我らに“敗北”の二字はない」

「ひどい詭弁だ」

「そうか? あんたをこの場で倒し、皆で洞穴門に辿り着けば、文句はあるまい」


 男の不敵な発言に「私を倒すだと?」とフォルムは失笑する。


「あの夜、二度も私に背を向けた不甲斐なき者が、どの口で妄言を吐くのやら。断言しよう。君には何もできやしない」


 それはあまりに安い挑発だ。

 なのに見抜いているはずの男はしかし、自信満々に応じてみせる。


「いいや、できるとも」


 そう発した刹那、男はクナイも投げずにいきなり踏み込んできた。

 まさかの接近戦。

 無防備を晒すフォルムの背に、男はぎりぎりまで近づいて猛烈な蹴りをぶち込んでくる。それを難なく身を捻って躱したフォルムが、偃月刀を袖から覗かせた瞬間。



 ざざぁぁあぁあああああ――――!!



 頭上から、溜まりに溜まった大量の雨滴が大樹の枝葉より降り注いできた。男の猛烈な蹴りが幹を震わせた結果だ。


「……っ」


 本能的に身をかばうフォルム。そこへ今度こそ、後ろ回し蹴りに繋げた男の次撃が、がら空きの胴にきれいにめり込んだ。


「……っ」

「ぬぅあっ」


 気合い諸共に、男が蹴り足を強引に振り抜く。

 踏ん張りが利かずに為す術なく、天然の雨傘から力尽くで放り出されるフォルム。

 もんどり打って仰向けになる身に、暗天から降り注ぐ冷たい雨が冷厳に打ちつける。


「……ぉ……」


 外套の裂け目から容赦なく浸み込む雨。それがフォルムの身中から、根源的な何かを洗い流してゆくと共に、四肢の力も抜けてゆく。これこそが男の真の狙いだったのか。


 間接攻撃や外套狙いをほのめかしたのも。

 二度目の挑発に乗ったと見せたのも。

 枝葉の雨滴でフォルムを怯ませたのも。


 すべてはフォルムの意識を本命からそらし、雨中へ引きずり出すための男が描いたシナリオ。

 そうと気付いてもフォルムの空虚な胸中をざわめかすのは、憤りではない。

 それは失われたはずの――歓喜。

 そうと知れば、さすがの男も眉間に皺を深く刻んだに違いない。


「……色々と、考える……」


 感心ばかりもしていられないが。

 ぬめる腐葉土を鷲掴みながら、フォルムは両腕に力を込める。早く立て直さなければ追撃の怖れがあった。

 だがフォルムの予想に反し、男はゆるりと雨に身を晒し、鈍い動きで起き上がろうとするフォルムを見下ろした。


「あんたは雨の日を避けるべきだった。ありすぎる自信に、文字どおり溺れたな」


 確かに今や『五体霧想』の秘術は使えない。知ってか知らずか、男の策は確実にフォルムを追い詰める。

 それでも、力なく立ち上がったフォルムは唇で笑みをつくる。


「……なんとも気が早い。この程度の危地、百年の間に体験済だ」

「そうだろうな。だからじっくり・・・・やらせてもらう」


 夜が明けるのはずっと先で、それより雨が上がるのが早いだろう。

 そうなれば魔人に嵌められた“枷”は外される。

 なのに、太々しいほどの男の落ち着きよう。

 “追っ手”が来ないと理解してなお、男に余裕を持たせる理由が、雨中の“絶対有利な立場”だけにないことをフォルムは指摘する。


「何を待っているかは分かる。それは互いにとって・・・・・・賭けになる」

「やっぱり、あんたは厄介だ」


 わずかに苦笑さえこぼす男の眼が、そこで細まった。

 彼が待っていたのは弟子の二人。

 だがフォルムもまた“自分も同じ”と告げていたではないか。

 そう。


「賭けは、私の勝ちだ――」


 フォルムの勝利宣言と同時に、男がいきなり上半身を反らした。

 何があった――?

 男がバランスを崩して片手を地面につき、体勢を整える間にフォルムが踏み込んでくる。

 

 闇にほの光る偃月刀の斬線。


 それを視界の映像で捉え、戦いの経験則になぞらえて男は避ける。反射的な反応速度でなければ、雨に邪魔され、かつ、殺気のないフォルムの攻撃は男ほどの実力者であっても躱せるものではない。

 だからオーバーに避けざるを得ず、その無駄な動きが、フォルムの鈍った攻撃でも互角以上に渡らせる。それさえも、別の邪魔がなければ・・・・・・・・・、こうはならなかった話しだが。

 さらにフォルムの心理的圧力がかけられる。 


「皮肉なことに、雨中決戦の場数はそれなりに踏んでいる」


 フォルムが偃月刀で首を狙い、男の注意を上に向けさせたところで足払いをかける。

 男が飛び退って躱しても、大胆に間合いを潰して連撃を叩き込む。手数で上回る以上、攻め手をゆるめる道理はない。


「それも、夜闇を舞台とするならば――すべて返り討ちにしたよっ」

「……!」


 フォルムが鋭く振るった外套の袖口より雨水が飛沫き、男の面貌を痛烈に叩いた。

 瞬間的な男の硬直に、追撃の銀光が放たれ、男は身を投げ出すようにして転がり逃れる。

 逃さぬと踏み込むフォルム。

 そこへ握り固められた腐葉土が投げつけられ、難なく片手で振り払う。その一瞬で男も体勢を立て直していたが、今の流れは変えられない。


「すべてを消し去る雨と夜。さて、本当に不利なのは私か君か――」


 それは問答ですらない。

 夜は、王とその眷属の独壇場。

 皮膚で息するがごとく漆黒の世界を隅々まで感じとり、不自由なく気ままに闊歩するのが彼らの特権なれば。

 抗う男のそれは、もはや回避ですらなく逃げ。

 フォルムの刃はひと振りごとに男を追い立て、着実に迫り、服を皮膚を裂いてゆく。

 その次は肉。

 薄く、浅く――――深くっ。



  ギ、キ、

    キキキ、

   キンッ


 とても一人では成し得ぬ連撃を、男は致命傷に至る攻撃に絞って凌ぎきる。

 掌中に収めたクナイを盾に、最小の動きで受け、流し、時に大胆に身を投げ出しながら回避する。

 

「……くっ」


 ただの一度も反撃の糸口さえ掴めぬまま。

 力任せの、荒々しいフォルムの猛攻で一気に押し込まれた男が、気付けば大樹の足下まで戻されていた。


「立場が変わったな」

「……」


 先ほど放った小道具の明かりによって、男の身に躱しきれず刻まれた傷が浮かび上がる。

 背中に刺さっているのは手裏剣だ。

 それがフォルムの攻勢を支え、男を苦しめる決定的な要因であった。だが。



 ――キンッ



 横合いから疾駆してくる手裏剣を、男は先ほどと違って難なく叩き落としてみせる。


「なるほど。雨を断つのが狙いか」


 男が退いたのは自らであったのだとフォルムが気付く。雨に紛れる手裏剣の気配を感じさえすれば、男の技倆で対処が可能というわけだ。


「それでも二対一は・・・・絶対だ」

「……」


 自分の優勢を誇示するフォルムに男は無言。

 だが、これまでとは異なる男の深刻げな沈黙と、弾いた手裏剣を一瞬だけ一瞥した視線の動きに気付けば、意味するところは明らかだ。


「……扇間殿に・・・・何をした?」


 睨みつけてくる男にフォルムは惚けた台詞で返してやる。


「どうやら気付いたようだね」

「何をしたと、聞いている」


 怒気のこもる声音には、男がいかがわしい手管のいくつかに思い当たる節があることを窺わせた。だからこそ、彼は怒りを覚えているのだろう。

 そうと知ってもフォルムの口調に変わりはない。


「これもまた、君の勘違いだ」

「……」

「彼はすでに死ぬ運命にあった。死ぬか、私の同朋になるかは彼の選択によるものだ。チャンスは与えても、決して無理強いはしていない」


 小憎らしいほど淡々としたフォルムの物言いを、男はどう受け止めたのか不明だが、理解はしたらしい。


「……それは真か?」


 男の問いは第三者へ向けられたもの。


「ええ。選んだのは、それがしです」


 木立の合間からか細い気配が湧き上がる。

 人の身で闇夜に視認はできず、気配も男の知るそれとは違っていたであろうが、その声だけは以前となんら変わりはしない。

 その語り口も。


「今も死んでいるようなものだけど……不思議と調子がよくってね。某の場合、昼間も歩けるので役得なほどで……はは」

「敵にくみするか」


 その者――扇間惣一の乾いた笑いを無視して、男はずばりと斬り込んだ。雨具がもぞりと動いたのは肩をすくめたのだろうか。


「信じがたい話しだろうけど……この身は闇に堕ちている。もう、皆と共に歩むことは許されない」


 声音はいつもと変わらず、ただ、ゆるやかに別れを告げる。それを「そうではない」と男が撥ねつけ問い直す。


「俺は“敵対するのか”と聞いている」

「……」


 扇間は無言。それが困り果てたための沈黙かは分からない。

 代わりに口を挟んだのはフォルム。


「意外と歯切れの悪い人ですね。“裏切ったか”と尋ねればいいものを」

「元より“心は縛らぬ”のが諏訪だ」

「ほう。敵に寝返るのも有りだと?」

「そこに己の道があるのなら――」


 単なる私欲とも違う。

 あるいはやはり、これ以上なき私欲であろうか。

 とにかく、己が道と信じ歩む者を、諏訪が阻み止めることなどありはしない。

 無論、敵対すれば別であったが。

 当然、それはフォルムの与り知らぬ話しであり、しかし諏訪の侍であればこそ、男の意図が扇間に伝わらぬはずがない。

 なのに、返された内容はまるきり別の話題に切り替えられていた。


「先ほど、二人に会いましたよ」

「!」

「残念ながら、決着はつかず。……腕を上げたましたね、二人とも」


 短い間なのに、とこぼす扇間に今度は男が無言。

 はぐらかされたことに憤っているのか、すでに弟子達とやり合っている事実に驚いているのか、あるいはどう受け止めるべきか戸惑っているのかは分からない。

 扇間もバツが悪そうに話しを切り上げる。


「そうでしたね。我らは語るよりも、刃拳を交えた方が良い。時間も無駄にできないし。やりましょうか――秋水殿」


 実に『抜刀隊』の者らしい。

 彼らは皆、そよ風に身を晒すように、気兼ねなく心地よさげに挑んでくる。

 扇間の誘いに男――秋水が軽く天を向き、ひと呼吸。

 意を決したように頷いた。


「――ああ。それしかないようだ」


 二人にしか分からぬ行間の言葉が、そこにはあった。それを窺い知れぬフォルムであったが、ひとり薄く笑みの形をつくる。

 なぜなら戦いは避けられない――その事実だけで十分であったのだから。


         *****


その後

領都近郊の森

 送迎団別働隊――



 辺境伯陣営の最大戦力とも言えるフォルムの単独強襲を受け、辛うじて撃退はしたものの、別働隊の営内は深刻な空気に包まれていた。


「――どういうことだ、秋水殿が消えたとは?」


 陰師ふたりの報告を耳にするなり、月齊は訝しげに眉根を寄せた。その疑念と驚きは他の隊員も同様で、動ける者は雨で聞き漏らすまいと、歩み寄ってくる。

 「言葉どおりに」と端的に答えるのは、片膝着いてうつむく捨丸すてまるだ。


「他にも伏せられし敵を求め、念入りに周辺を警戒したのち、あるじとの合流を図りました。が、あるじの姿はどこにも見当たらず」

「まさか秋水殿まで・・・・・――」

「滅相もない」


 不用意な隊員の発言を、間髪置かずに否定したのは拾丸ひろうまるだ。陰師とはいえ、まだ十七の血気盛んな青さが、あるじの侮辱に対し感情を露わにさせる。


「囚われの身となった扇間様には、残念ながら抗う術はなかったかと。しかし、そのような状況にない我があるじが、おめおめ“吸血鬼化”されるなど、絶対にありませぬっ」

「だが、別の手法ならどうかな」

「月齊様――?」


 思わぬ裏切りに拾丸や捨丸が険しい視線を向ければ、文官を思わす怜悧な面差しで月齊が理由を伝える。

 別働隊を襲ったふぉるむとの戦いを。

 席付のみで迎え討ち、追い込みはしたものの、逆に妖かしの術で不覚をとり、逃がしたことまでを詳しく告げた。


「……なるほど、左様な妖しき術があるならば、我があるじの心も操れると」


 月齊の言い分を捨丸が噛みしめる。


「こればかりは武力でどうにもならぬ話しだ。しかも“吸血行為”に警戒はしていても、眼術までは念頭にすらない。決着は存外に早かったかもしれぬ」

「ですが、やはり納得いきませぬ」


 すべてを聞いた上で、なおも捨丸がきっぱりと否定する。


「あるじは『陰師』としても一流の練達者。心術にも精通し、当然ながら対処の術も心得ております。例え化け物の操る眼術であっても、おいそれと堕とされる方ではありませぬ」

「無論だ。そう信じたい。だが姿を消しているのは紛う事なき事実」

「それが“堕ちた証拠”にはなりませぬっ」


 語気強く口出ししたのは拾丸。それに同意を示して捨丸も別の切り口を挙げてくる。


「むしろ、敵をあと一歩で仕留められるからこそ、あえて深追いしているとも考えられます。今少し広めに捜せば見つかるはず」


 確かに、捨丸の挙げた可能性もなくはない。

 口にした捨丸自身も悪くない考えだと思うから申し出るのだろう。


「月齊様。ここで論じていても前には進みませぬ。ひとつ、我らにあるじの捜索を任せてはいただけませぬか」

「む――」


 そこで月齊が躊躇するのは、万一、秋水が敵の手に堕ちていた場合、さらなる被害拡大の怖れがあるためだ。その悩みを見透かしたように「あるじは容易に屈しませぬ」と捨丸が今一度繰り返す。


「されど敵も一筋縄ではいかぬ相手。あるじであれど、無傷で追い込める相手ではなく、今にも支援を必要としているやもしれませぬ。ならばここは、躊躇よりも即決すべき時。一刻も早く、我らを向かわせて下さりませっ」

「……」

「無論、そうでない場合にも十分注意を払います。仮にあるじが敵と同伴している節があれば、戻り報せることを第一に考えまする。故に、どうか――」

「是非にっ」


 拾丸共々、訴えかける陰師ふたりに月齊が顔をしかめていると。


「――一刻だ」

「「「?!」」」

「それ以上はまかりならん」


 勝手に許可を出したのは、腹部の怪我で横になっている豪傑漢だ。わずかに顔をしかめつつ月齊が声をかける。


「剛馬、起きていたのか」

「起こされた、が正しいな。……それにしても、儂には“まじないの薬”がないのかよ」


 片桐と違って、いつもと変わらぬ手当てを受けた剛馬の文句も当然だ。擦り傷程度なら、たちどころに治せる効き目は、早期の現場復帰を願う者にとっては垂涎の薬なのだから。


「悪いが、薬は使いきってしまった」

「はん。若も真面目すぎたな」


 カストリックから提示された量は十分なものだったが、借りを作りすぎては本末転倒だとひとりひとつにまで絞ったのは当主である。昼間の戦いでそれなりに消耗していたのも不足してしまった要因のひとつではあるのだが。

 それよりもと月齊が話しを戻す。


「勝手に話しを決めるな。副長の代理が必要となった場合、それ以降についても『席付』の順にすると取り決めたろう」

「ああ。だからこれは提案で、決めるのはあんたになる」


 当然のように剛馬は告げる。

 他意はないと。実際そうだろう。

 月齊は軽く息をついて「行け」と陰師ふたりに顎をしゃくる。


「――それでは?!」


 喜色を声に滲ませるふたりに月齊は先の下りを踏襲するだけだ。


「一刻だぞ。それ以上はまかりならん」

「「感謝いたしますっ」」


 速やかに立ち去るふたり。

 剛馬の含み笑いが聞こえたが、月齊は無視して話題を変えた。


「――それで、扇間の件は聞いていたか?」

「ああ。そっちの方が深刻だな」


 報告内容を鵜呑みにすれば、扇間は吸血鬼化している公算が高い。その現実にふたりの声音は自然と重くなる。


 『吸血鬼化』――。

 トッドも詳しくは知らないらしく、それでも聞かされた話を要約すれば次のようになる。

 吸血鬼は死霊の類いに属するためか、生者に許されし繁殖能力が備わっていない。そのために吸血鬼による吸血行為には二種類の意味がある。

 ひとつは力の根源を採り入れる意味。

 もうひとつは同族や眷属を増やす意味。これが繁殖能力の代替えになるわけだ。

 吸血行為は『儀式魔術』のひとつだからこそ、使い分けが可能なのだとする解釈もあるらしく、仲間を増やす手法にもふたつの方法があると言われる。

 これも端的に説明すれば、眷属にされた者は血肉に飢えて彷徨うだけの『屍鬼』となり、同族にされる場合は、夜を統べる者のひとりとして、存在変移することになる。

 扇間の場合は――


「……『同族』にされたか」


 云いにくいことをあっさり口にする剛馬に月齊は難色を示す。


「だが、本人が受け入れねば成らぬ・・・と云っていたぞ。それが儀式の制約だと」

「そういう話しもあるというだけだ。本当のところは誰も知らぬとも云っていた」


 なにしろ伝承上の化け物で、滅多に話しにのぼることもない。

 また、遠き地に吸血鬼の国が現存しており、外交上の問題があるから、一般公開されている情報は限られているとの話もある。だから、耳にするのは風聞だけなのだと。

 結局のところ、何が嘘で真かなど判断できる者はいない。だから、出立までに大した情報を集めることもできなかったのだ。

 それにもうひとつ、あまり派手に嗅ぎ廻って『暗滅騎士団』を呼び寄せることになっても堪らない。そのような皆の忌避感があったことまでは、諏訪者に分かるはずもなかったが。

 とにかく、同族や眷属のいずれであっても、扇間が吸血鬼化したという事実の前には些末な差異。

 先ほどより苦悩を深めた声で、それでも月齊が疑念を口にする。


「扇間の敵対行為は事実だ。しかしその言動には、我らに何かを伝えたがっているような節がある」

「“この身は団長に。されど心は諏訪に”」


 陰師からの報告を思い出し、そらんじてみせたのは剛馬。


「心と体は別物――例え吸血鬼に成り果てたとはいえ、魂までは売っておらぬと云いたいか。だが、敵対すれば同じこと」


 ならば、何故にそのような無為を扇間は口にしたのか。そこに引っ掛かりを覚えるからこそ、二人とも考えに沈み込む。

 そこへ、ひとつの可能性を見出す者がいた。


「もしかしたら、意外に簡単な理由かもしれませんよ」

「ほう、おまえには分かるのか、鬼灯?」


 先ほどから濡れた地面に胡座をかき、後ろ手に拘束されている金髪の侍を月齊は見やる。仲間に対するこの冷たい仕打ちは、先の戦いで敵の術にかかって不祥事を働いた罰である。

 彼は咎人とがびとのように厳しく縛られながらも、いつもの淡い笑みを絶やさずに頷いてみせる。


「ええ、今なら分かります・・・・・・・・。状況から考えてみてください。あの時、扇間さんが何をしていたのかを」

「扇間が……?」

「そう。簡単でしょう? つまり、皆さんがフォル・・・ム殿を・・・痛めつけようとして・・・・・・・・・いるから・・・・助けたんですよ・・・・・・・

「おまえ――」

「鬼灯っ」


 ぎょっとして呻く隊員達。

 その場が一瞬で、凍りついていた。

 誰もが異様なものを目にしたように金髪の侍を凝視するのは、より深刻な状況を突きつけられたためだ。


「……まだ、解けていなかったか・・・・・・・・・


 苦々しく呟く剛馬が同朋を睨みつける。


「おや? 何か変なことを云いましたか」

「何を――」

「よせ。鬼灯はふぉるむをどう思っているのだ?」


 憤る仲間を制し、月齊が静かに尋ねる。言い争うよりも即刻確認すべきことがあるからだ。

 鬼灯がほがらかに応じる。


「新しい家族ができた――そう思ってます」

「会ったばかりなのにか?」

「付き合いの長さだけが、すべてはありません。彼がいてくれるだけで、ここが・・・満たされるのです。それではいけませんか?」


 自身の胸に掌をあてる鬼灯を月齊は挑むように見つめる。


「だが、ふぉるむは我ら諏訪と敵対しており、刃を向けねばならぬ相手だ。もしまた、先ほどのように相対したならば、生死を分かつ瞬間、おぬしはどちらに刃を向ける?」

「なんとも意地悪な問いかけですね」

「どちらだ――鬼灯っ」


 口元に苦笑を浮かべる鬼灯に月齊は有無を言わせず答えを促す。それに沈黙を予期した隊員達の想像を狂わせ、鬼灯は実にあっさりと答えを告げた。


「無論、諏訪に」


 息を呑む隊員達。

 口元に甘い笑みを含む鬼灯。その深い碧眼もいつものように濁りはない。

 それでも月齊は念を押さずにはいられなかった。


「我らに、刃を向けると?」

「そうあってほしくないですがね」

「…………そうか」


 鬼灯の異様な発言に誰もが言葉を失う。

 妖術が原因と承知していても、これまで互いに命を預け合い、育んできたはずの堅い絆が、いとも容易く断ち切られた衝撃は隠せない。

 その上、これは貴重な戦力が減ったという話しだけではない。隊内に“裏切り者がいる”ことを意味してもいるのだ。それも悪意がないだけに、何と厄介なことなのか。


「“家族”というなら、大事にするのは当然だ。その想いを否定するつもりはない。だがもう一度云うが、ふぉるむは“諏訪の敵”だ。折り合いが付けられぬとなれば、このままぬしを拘束しておくしかない」

「でしょうね。私としては、ふぉるむ殿と仲良くしてほしいのですが」

「無理な話しだ。我らは姫を救うため、“るすとらん側”についたのだから」

「ですね」


 悪びれた様子のない鬼灯に、複雑な表情をみせる隊員達。

 いつもの鬼灯らしい語り口だからこそ、その異常さが際立って、本当にどうにかできないのかと煩悶する。

 そのうち数名の隊員が、ひどく消耗しきった様子で嘆き出すのも致し方なきこと。


「なんてことだ……」

「こんな強力な術、どうやって解く?」

「それより現状、『席付』は残りひとり。もはや我らの戦力が半減したどころではないぞっ」

「ああ。これでは挟撃の策も……」


 成し得まい。

 そうなれば隊員ひとりの問題ではない。

 正に別働隊という船が、夜の嵐に翻弄され、暗礁に乗り上げているようなもの。

 立ち行かなくなった船に囚われた船員よろしく、雨に打たれる隊員達は誰もが動揺を隠せない。


「退くは恥に非ず。しかし勝手も許されまい」

「ここは弦矢様に指示を仰ぐのもひとつ」

「いかが致します、月齊殿――」

「……」

 

 隊員達に詰め寄られ、沈黙を維持する月齊。

 秋水の件が宙に浮いている状況もあり、そう容易に方針を決められるはずもない。それを横たわる剛馬が腹部の傷を押さえながら叱咤する。


「何を悩む必要がある。我らに撤退はない」

「「「?!」」」


 驚く隊員達の思いを代表するのは月齊だ。


「しかし減じたのは一隊員ではない。席付とそれに互する男だぞ」


 残された戦力を考えろとの月齊に、


「どうでもいいわ、そんなこと」


 吼えてすぐ、腹部の痛みで呻く剛馬。


「考えてもみろ。次の要となる戦いでさえ、いつもの戦と違い、兵は百や千もおらぬのだ。つまり、残りの人数で仕掛けるだけでも、挟撃の策は成る。いいか、形をつくれば――役目は果たせる」


 まだ希望は潰えておらぬと。

 この程度で、退けるものかと。


「役目を果たせ」


 剛馬が力強く訴える。


「果たして、諏訪の力を示せ。それに……ここで退いては、あの“ぐれむりん”にしてやられた・・・・・・ことになる。それだけは我慢できん」

「! ――わかっておる」

「ならば儂らを置いて、陽が昇る前に発て。足手まといさえいなければ、十分間に合うはずだ」

「……援護は残さぬぞ?」


 いくぶん意地悪も込めて月齊が脅かすも、「構わん」と剛馬は返す。そして思わぬ者に支援の手を求める。


「なあ、鬼灯。やつらが襲ってきたら、守ってくれるな? 相手がふぉるむでなければ、まさか、問題あるまい」

「当然です。仲間を見捨てる真似はしませんよ」


 しれっとして答える鬼灯に月齊は呆れた風に口を開いた。他者からすれば滅茶苦茶な言動だが、鬼灯の中では筋が通っているのだろう。

 それを見越したとしても、剛馬の案はあまりにも大胆に過ぎる。


「ま、いざとなればの話しだ」


 あくまで“最後の手段”とばかり言い置いて、剛馬があらためて月齊に声をかける。まるで念押すように。


「……戦えば、死ぬ者もおる」

「……」

「だが、都合のいい方法もない」

「……」

「ならば、躊躇は無意味だ」


 剛馬は、仏然たる面差しに秘められた躊躇の理由を解していたらしい。

 隊員の誰もが十分な力を持ちながら、“未知”が命取りになって散りゆく無残さ。もっとこの地の武具や妖術など、戦い方に習熟する機会を与えていれば、失う隊員は少なかったはずである。

 そうした慚愧の念が月齊の決断を躊躇させているのだと。文官転びゆえに、非情になりきれぬ甘さを剛馬は暗に指摘する。いや、彼なりに支えているつもりかもしれない。


「分かっている」


 月齊は踏ん切りを付けるように言葉を区切る。


「どのみち慣れさせる刻はなかった。ならば実戦の中で己を高めてゆくしかあるまい。……まさにおぬしの持論を地でゆくように」


 逆に云えば経験を積むほどに、有する剣力を十全に発揮することができる。ある意味で、隊員達の力には短期間での伸び代があると云えるだろう。

 剛馬が喜びを噛みしめるように口にする。


「そういう意味では、ここはまたとない地だ。この儂でさえ、一戦ごとに新しい境地が開けてゆく。存分に味わえ」


 何とも剛馬らしい激励を呟いて、そのまま眠りに就いた。少ししゃべりすぎたのだろう。

 結局、鬼灯の問題に関心を奪われ、扇間の件は保留になってしまった。それに気付いた月齊は、剛馬を起こさず皆に目を向ける。


「これは極秘任務のため、元より連絡手段は持っていない。つまり、すべてにおいて我らは自ら考え、決定し、責任を取らねばならん」


 意図が全員の胸に染み渡るまで、月齊は間を置いてから続きを口にする。


「扇間の件は鬼灯とは違う。その身を化け物に変えられる恐るべき術に堕ちている。そうなれば、“吸血鬼化”した者を助ける術があるのかどうかも我らに判断はできぬ。ならば、言えることはひとつ」


 声音に決意を込めて月齊は発する。


「敵対するならば、扇間を討て・・・・・。躊躇して己や仲間が死んでは本末転倒。無論、役目に支障が出ても同じこと」

「……」


 さすがに戸惑いをみせる隊員達に、月齊は強めに念を押す。


「――よいな?」


 短く、重苦しい隊員達の返事が雨幕を破った。

 耳にしただけの“吸血鬼化”に疑念を覚える者は多かろうが、魅了されし鬼灯の状態を目にすれば、信じぬわけにもいかない。

 強制的に人心をかどわかし、あるいは肉体そのものを異形と化する。

 これもまた、この異境の地の怖ろしさのひとつ。

 それぞれが肝に命じて、まるで同胞の死・・・・を受け止めるように悄然と佇む。


「……化け物の身より、魂を解放するのも供養か」


 誰かの呟きに、そうだなと自身を納得させるように応じる面々。ひとり鬼灯だけは別の意志を双眸に秘めていたが、何も口にはしなかった。

 そろそろ切り上げ時であろうと月齊が口を開く。

 

「さすがに、もう夜襲はないと思うが……見張りは伝えたとおりの順でいく。あとの者はしっかり眠っておけ」


 まずは少しでも身体を休める。

 尽きぬ不安を抱えたまま、副長代理の宣言でその場は散開となった。

 その後、帰参した陰師ふたりからの朗報はなく。

 月齊達は胸の暗霧が晴れぬまま、翌朝早くに『ゴルトラ洞穴門』へ向けて出立することになる。

 

         *****


旅程【3日目】朝

ヴァインヘッセ城

  辺境伯執務室――



「……一体何が起きたのか。正直、フォルム殿の未帰還はまったく想定しておりませんでした」 


 動揺を隠せない主席執政官からの話しを聞き終えても、ベルズは窓外の景色へ顔を向けたまま、物言わぬ胸像然として口を開くことはなかった。

 雨上がりの蒼穹に某かの天意を見出そうというのか、眩しげに眼を細める辺境伯の胸内を窺うことはできない。

 だから余計に主席執政官は焦れるのだ。


「とりあえずは捜索の部隊を……」

「無用だ」


 思わぬ反応に主席執政官が戸惑いを浮かべる。

 だが当のベルズは必然を口にする。


「フォルムは言わば“英雄の真なる影”。それだけの戦力を送り出して、今もなお戻らぬ現実がある。……信じがたい話しだが、ヤツが負けたと思うしかあるまい」


 重苦しい言葉ではあったが、ベルズの表情に諦めは見出せない。「勝負はこれからだ」と口にする双眸に戦意を漲らせて。


「すでに姫を手に入れ、オーネストの延命問題にも終止符が打てる。同様に、『真人部隊』の夢が潰えても真人ふたりに『俗物軍団グレムリン』の立て直しをさせれば、盛り返すことも可能だ」

「洞穴門での決戦で完勝すれば――」

「正直、完勝でなくともよい」


 思わぬ台詞に主席執政官が戸惑いを浮かべる。


「忘れたか? 亡国の憂いを残さぬことが、この争いにおける暗黙の約定だ。ならば、どちらの勢力に属していようとも、残った強駒はそのまま公国の力として数えられる。そこでだ」


 ベルズは大胆すぎる案を披露する。


「場合によっては、“魔境士族”を取り込むことも考えている」

「それは?!」


 さすがに絶句する主席執政官。

 今や難敵中の難敵というべき相手を仲間に引き入れるなど心情的に受け入れがたい。


「別に恨み辛みで戦っているわけではない。ましてや“魔境士族”が参戦していること自体、場違いなくらいで、こちらからすればいい迷惑だ。逆に言えばそれだけ接点は薄い」

「それはそうですが……ここまで争って、向こうも受け入れにくいのでは?」

「多少の禍根は残る。だが、戦も政治も昨日の敵が今日の敵とはかぎらんものだ」


 無論、二人にはエルネの誘拐がどう影響を及ぼすかまでは与り知らぬ事。彼らは彼らの持ち得る情報の中で思考するのみである。


「とにかく、勝てばよいのであれば、残り『俗物軍団』の全兵力を洞穴門に投入したいところですな」

「諸外国の眼がなければな」


 フィエンテ渓谷直近の街にいつも以上の行商隊がたむろしているとの情報が入っている。当然ながら各国の諜報員が潜んでいるはずだ。

 それにフィヴィアンの話しでは、国内諸侯の間者まで彷徨いているとの情報がある。


「派手に騒ぎ立てるのはもちろん、ヘタに兵力を失えば、ハイエナのように領土を削りにくるだろう。そんな隙はみせるわけにいかん」


 国内外の安定は、奇しくも三大名家の力学的均衡で保たれている現実がある。その実態バランスを不必要に崩し、損耗させるのはいただけない。


「むしろ、この戦況はいい。フォルムもただではやられまい。ならば、互いに繰り出した策をつぶし合っている状況と言える。

 力を出し尽くした戦いは、意外と禍根が残らぬものだ。これ以上余計な真似はしなくていい。後のことは我が息子に任せるとしよう」


 そのオーネストはどうしているとベルズが尋ねれば。


「実はベルズ様と同じことを申しておりまして。今は洞穴門に向けた出陣の支度を粛々と進めております」

「それでいい。もしやすると、久しぶりの出陣に心躍らせているかもしれぬな」


 あの冷徹な吸血鬼が?

 明らかに戸惑いを浮かべる主席執政官の表情であったが何も返さず。


「昼頃まで手を離せない状況だが、支度ができたら報せてくれ。見送りはしたい」

「分かりました」


 部下が退出してひとり残されたベルズが、おもむろに席を立ち、窓辺による。

 見つめる先は陰りを深めた城下の町。

 これまで自分が何をしてきたのか、それを受け止めようとするかのように厳しい顔つきでベルズは見つめ続ける。


「私にできるのはここまでだ。忌むべき命でも、未来を望むというなら、自らの手で切り拓け。あの時のように……」


 正しさや善悪。

 己の命さえも刃で燃やす炎に薪のようにくべる。

 それが武人の生き方であるのだから。

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