第104話 背を向けし者

旅程【2日目】夜

領都近郊の森

 送迎団別働隊――



 一瞬だった。

 地面から湧き上がる明かりに照らされ、闇夜に幽鬼のごとく浮かび上がる人の影。

 知らず身震いさせる存在は、わずかなひと時で実像を崩し、その輪郭を墨に溶かし込んだように霧散させる。

 それは極度の疲労が見せた幻か?

 再び視界が闇一色に塗り込められ、絹糸を梳くような雨音に身を包まれても、もはや安らぐ時が失われたことを侍達は承知していた。

 なぜなら彼らを目覚めさせたのは、その人影が纏う異質の気配を察したというよりも、ただ純粋なる危機感・・・に反応した結果であるが故に。

 おいそれと動じるはずのない歴戦の剣士達に生存本能を掻き立てさせるそのモノ――。


「鬼灯――?」


 先の戦いにおいても、相似の怪物がいたことを念頭に置く片桐のといかけに、


「ええ、間違いありません」


 珍しく堅い声で応じる碧眼の侍が、誰もが思い浮かべたであろう人物・・であると保証し、嫌が応にも場の空気を引き締めた。


 公国軍外軍『俗物軍団グレムリン』が『幹部筆頭』のフォルム――。


 その正体は、妖術が当たり前のように存在するこの異界において、“伝承級の怪物”と位置づけられる不傷不倒の『吸血鬼ヴァンパイア』。

 ルストラン陣営においては、策や備えもなしに交戦することを禁じ、来たる『ゴルトラ洞穴門』での一戦においてのみ、彼の英雄諸共に雌雄を決す――そう方針を立てていた危機一等級の難敵。

 それが別働隊として孤立し、初戦の疲労も抜けぬ万全からほど遠い状態にある中、闇夜に紛れての奇襲を受けるとは。

 もはや避けること叶わぬ戦いに片桐の決断は早かった。


「……楠、席付われら以外を下がらせろっ」


 低いが雨音に消されることのない語気の強さで命じられ、楠の気配が場を離れる。続く盲目の武人が「ならば、奴の足止めを」と心得たように名乗り出れば、それに待ったをかけるのは鬼灯だ。


「いえ、ここは私の方が」


 すでに刃を交えた一日の長ありと、自負する鬼灯の決意に「やめておけ」と剛馬が野太い声で水を差す。


「さすがのぬしでも『祓いの太刀』は気軽にできまい。“切り札”の使い所ってのが、あるんだよ。それに“護りの要”を攻めに出すのも、策としては下策もよいところ」


 後者が自分を差すと解した月齊が「何を申す?」と疑念を呈せば。


敵が独りとは・・・・・・限らぬからだ・・・・・・


 代わりに答える片桐が隊頭として冷静な状況判断を示してみせる。いかな化け物とて、単独で動くはずもない。己に注目させ、その隙に網で囲む――実際、今と似た状況は公都でもあったであろうと。


「それは――」

「やはり抜け目がない。さすがに『幹部クアドリ』を倒すだけはある、ということか」


 鬼灯が何か言いかけるのを遮って、無感情な男の声が侍達の耳に割り込んでくる。


「む――」

「!」

「――っ」

「……」


 ほぼ同時に四人の視線が闇夜のある一点に注がれ、すぐ近くまでフォルムの接近を許してしまったことを遅まきに気付く。

 すぐに全員が寝床から這いだし、迎え討つ最低限の体勢を整えるも、出遅れた感は否めない。

 なのにフォルムは先手を取ることもせず、どういうつもりか他愛のない会話に興じはじめる。


「“魔境”で三人。この先の森で二人。幹部候補の『一級戦士』も含めれば、君たちによって主力級の戦士を8割方失い、団の崩壊を招きかねない痛手を受けた。

 それでも“力押し”一辺倒の野蛮な田舎士族であれば、今少し楽観視できるのだが……。やはり私が出陣てきて正解だったというわけだ」

「それじゃあ、まるで“独りで十分”と云っているように聞こえるのですが……?」


 鬼灯がさりげない口調で誘い・・をかけるが、容易に情報を漏らす相手ではない。蒼き燐光の瞳が闇夜とは思えぬ精確さで彼の貌へと向けられるのみ。

 『幽視キルリアン・アイズ』――彼ら夜の眷属を前に、闇は肌触りの良い薄絹の役目しか果たさない。

 

あの時の・・・・剣士か」

「ええ。あの時の痛み――忘れておりません」


 大切なモノに触れる柔らかさで鬼灯が胸の傷痕に手を添え、なぜか打てば響くようにフォルムが同意を示す。


「――ああ。そうとも。よく分かるよ・・・・・・


 そう口にしたフォルムの掌もまた、“慈しみ”さえ感じさせて自身の胸にあてがわれる。

 そこは鬼灯の秘太刀によって貫かれた位置。

 彼の生命を支える“夜の力”に反する清らかな心気によって、痛烈な痛みを与えられた場所でもある。

 なのに笑うのか、フォルムよ。

 その蒼白き双瞳の灯火に明らかな“悦び”を宿して。

 それを目にして内心困惑を覚える侍達など知らぬげに、フォルムの口調は冷めたまま、言葉だけが熱を帯びる。


「いつぶりか思い出せぬほど、久方ぶりに私の空虚・・・・を揺らした君の剣。その技倆。その魂――。おかげで“魔境士族”への興味が日に日に募っていたよ。会わねばなるまいと」


 そうしてゆるりと首を巡らす魔人に、侍達は怖気を振るう視線を感じ取る。その視線は、ようやく入手した貴重な素材を吟味する狂った薬師のそれに似て、異様な妄執を感じさせた。


「なるほど――確かに良い顔ぶれだ。こうしてじっくり眺めると、“人”としてよく練り上げられているのが分かる」

「“武”ではなく“人”と云いますか」


 雨音に紛れそうな鬼灯の呟きを人外の聴覚が聞き漏らすことはない。


「それが“武”であれ“文”であれ……極める道すがら、人は“人”として磨かれていくものだ。真剣であればあるほどに。君たちにはその過程が表れ始めている。それは凄いことなのさ」

「……」


 まさか人外の化け物に“道”を説かれるとは思わない。その上、なぜか優しげな物言いに大いに困惑を深める侍達。


「……せっかくお褒め頂いているところ、恐縮だがよ」


 そこで二人の会話に横槍を入れるのは葛城剛馬。厚手の刀剣を肉厚な肩に預け、巨漢に似合わぬ滑らかな足取りでフォルムの横へ回り込む。


「その儂らを前に無駄口が過ぎると思わぬか?」


 誰が何かを指示したり合図したわけでもない。

 これまで連れ立って修羅場を潜り抜けてきた経験が彼らの意志と動きを必然的に同調させていた。


 すなわち、フォルムを中心とした包囲陣へと・・・・・


 鬼灯の会話はそのための目くらまし。

 それには月齊ほどでなくとも、全員が目隠しでの立ち回りを当然のように行えるのが前提だ。

 故に木立を避け、下草に足を取られることもなく、右から順に片桐、月齊、鬼灯に剛馬へと大きな半月を描いて陣を敷き、敵の大幹部を網にかけんと画策できるのだ。

 なのに、フォルムの物腰に動揺は感じられない。


「お仲間に教えなかったのか?」


 あくまで世間話のような口ぶりで。


「云ったはずだ――」


 それが自分に向けられたものだと鬼灯が気付くのは遅すぎた。




「――次は本気で戦り合うと・・・・・・・・




 その一撃は、先日までの・・・・・鬼灯であれば・・・・・・致命傷となっていたはずの鋭さと重さがあった。


「――くっ」


 正にぎりぎり――あと寸瞬でも鬼灯の反応が遅れ、かつ、柔らかく受けていなければ、内臓深く切り裂かれていたはずだ。これこそが一戦交えた経験の差であるが、そればかりではない。


「ほう。『昇格アンプリウス』したのか」


 フォルムが鬼灯の身に何が起きたのか、それが命拾いさせた要因であると精確に見抜くが、刀ごと胴に叩き込まれ、横倒しになった鬼灯は返事をする余裕もない。

 留めとばかり近づくフォルム。

 阻止せんと反応する月齊が、半歩で踏み止まる。その鼻先で空気を灼いて疾駆したのは、何者かによる遠距離支援の凶器。


 やはり別の新手が――。


 だが、ひとつきりの支援で彼ら席付による包囲攻撃を凌げるはずもなかった。


「――っ」


 フォルムのやや斜め後方より、滑り寄っていた剛馬が無言で大段平を振るう。


 完全なる、死角からの鋭撃。


 その雨を切り裂く太刀筋が、幽鬼の幻影を透かしても、それを予期していた・・・・・・・・・がごとく・・・・ツバメ返しに跳ね返る。



       ――ひゅ


 ひゃ――


       ――ひゅ



 二段、いや三段返し。

 “木の葉斬り”を“三葉”まで成し得る剛馬ならばこその稲妻がごとき切り返し。

 それすら凌ぐか、魔人フォルムの本気の力。


「――そうでなくてはっ」


 剛馬が太い笑みを浮かべた。

 だがそれは獲物を追い込んだ猟師の会心であり、事実その通りであった。

 フォルムの上体を倒し、起こし、再び倒させて、誘い込んだ先に脇差しの二刀目で罠にかける。

 『天羅看破』の予言死が、理外のモノさえ追い込みかけたということか――?


 一瞬、フォルムの気配が天地を貫いた。


 そうとしか思えぬ感覚と共に、剛馬の段平と脇差しがほぼ同時に弾かれる。それが瞬間的に凄まじい速さで身を回転させ、両手の偃月刀を閃かせた結果であることを月齊だけは感知する。いや。


「ふん。器用な真似を」


 結果を知れば剛馬にも想像は付く。

 しかも『天羅看破』を防がれた消沈はなく、むしろ満足げに呟くだけだ。


「だが、追い込むまでが・・・・・・・儂の仕事だ・・・・・

「!」


 そう、フォルムは気を取られすぎていた。

 本命はその後ろ――。

 なぜか月齊がフォルムを無視する感じで前へ出て、交差するがごとく片桐が迫っていた。その意図は、月齊の手に握られた鉄棍が、目にも留まらぬ速さで、あらぬ宙に差し出され金属音を高々と奏でたことで知るところとなる。



  ――き

   ――きん



 見えざる敵の飛び道具。

 月齊の超感覚による索敵範囲を優に越えたところから、殺気すら纏わせることなく繰り出される恐るべき凶器を、二度も打ち落とす。

 これにはいかなる敵とて、驚愕を禁じ得まい。

 その奇蹟の要因が、雨滴にあるなど思いの外。

 気配で追えぬと悟った月齊は、雨滴を切り裂くかすかな音を頼りに反応しているだけであった。

 だが月齊とて、決して余裕があるわけでなく、薄氷を踏む思いで凌いでいるのが事実。

 だからこそ、こうして月齊が盾となる間に決める・・・必要があり、それを承知する片桐の踏み込みは、体力の限界を迎えているとは思えぬ鋭さを持って、必殺の間合いにフォルムを捉えていた。




 ――――っ




 殺気がフォルムの肋骨の隙間に凝集し、吸い寄せられるように偃月刀が全力で翳される。

 勝敗を決める一瞬が永遠の長さに拡張され。


 片桐だけがひとり知る。


 勝手の違う他人の刀でなければ、防御が間に合うことはなかったであろうと。

 その差は刃の厚みのみ・・・・・・

 それでも競り勝つ者だけが、何が勝因であるかを決められる。


 虚を突かれぬ無感情。

 人外の身が生み出す反応速度。


 『吸血鬼』ならばこその実力で、フォルムは席付達の仕掛ける攻撃をことごとく撥ね除けたのだと。

 その畏怖すべき力を彼は低く静かに誇示する。


「云っただろう、本気を出すと」

「――だから、こんな手も・・・・・使うのです」


 魔人の勝利宣言に異を唱えるのは、意識外からの茫洋たる声。

 フォルムだけが見えていた。

 己の胸部から雨天へ向かって伸び上がる直刀の剣先を。その持ち主は、一番厄介であるからこそ、初撃で沈黙させたはずであった。


「騙し討ち……?」


 これまで常人が体験し得ぬ長さで数多の手練手管を身に付けてきた自分が、こんな単純な手にかかるかと当惑するかのような魔人の声に、静かに立ち上がる鬼灯が説き伏せる。


我らの領域で・・・・・・仕掛ける騙し討ちです。例え貴方であっても、余裕など持てるはずもないでしょう」

「確かに。術も異能アビリティも使わぬ君たちをどこかで侮っていたのかもしれない。いや、君たちという稀少な素材を惜しむ気持ちが――」

「おい。口など動かさず、手を動かせ!」


 何を悠長なと油断なく剛馬が叱責したのは、無論鬼灯の方。さらに付け加えるなら、速やかに吸血鬼対策を実施しろと暗に促してもいた。即ち、


 一に多人数で挑み、

 二に騙し討ちを仕掛け、

 三に“切り札”とする鬼灯で留めを刺す。


 だが万一仕留めきれねば、五体を刻み別けることで封じ込める“封緘の処方”を処置することとしていた。これはトッドから得られた探索者の智恵である。 


「しゃべくりは、後にせいっ」


 しっかりとフォルムの死角を確保する剛馬が、串刺しになって身動きできない相手に背後から段平を突きつける。

 何をしでかすか分からぬ者に時間など与えはしない。鬼灯に任せておれぬと剛馬が素早く処置にとりかかる。


「ん?」


 鬼灯の不審げな声。

 構わず剛馬が狙い澄まして右腕に斬り付けた。

 躊躇うな。先手こそ“最良の必勝法なり”と。



 ギャイ――――!!



 それは串刺しにあっている者が、できる動きではなかった。

 いや、正確には身を翻したわけではない。

 関節の可動域を考慮しても理不尽な動き――背後から、それも真上から叩きつけられる段平に、彼の・・右腕が・・・外側から回り込むように斜め下から被せられ、見事に刃の軌道を反らしたのだ。

 さらに、今度こそ回転を効かせた左の裏拳――偃月刀が剛馬を襲い、その胸部を切り裂いていた。


「……ぐぅっ」

「剛馬さん!」


 呻く巨漢に鬼灯が思わず意識を奪われる。見えずとも、何が起きたかくらい想像はつく。それに『神息』の準備が間に合わなかった・・・・・・・・攻撃に自責の念を感じていればなおさらだ。

 その隙がフォルムの脱出を後押しする。


「逃がさんっ」


 片桐の抜刀が後退るフォルムを襲う。

 今度こそ、確実に捉えたはずの白刃は、人差し指ほどの距離を残して空を切る。


「――むうっ」


 呻く片桐。

 またも通常刀故の差異に泣きを見る。

 フォルムの気配がさらに遠ざかり。


「ぬうっ」

「……っ」

「――待て」


 慌てて駆け出さんとする剛馬と鬼灯へ警告するのは月齊だ。


「狙い撃たれるぞっ」

「それほどか?」


 半信半疑の剛馬が声を荒げれば、「ですが、逃がすわけにも」と鬼灯も不満を露わにする。その悶着に終止符を打つのは片桐だ。


「怪我は?」


 それが自分に向けられたものと知って剛馬が憮然と答える。


「かすり傷だ」


 明かりがあれば、血塗れの切り裂かれた衣服が目に映るだろう。それを承知のはずの片桐が、打開策を提示する。


「月齊、樹木を盾に――」

「追えまするっ」


 すでに横へ移動しはじめている盲目の武人をさらなる盾にして、三人は素早くフォルムの後を追い始めた。せっかく相手がこちらの網に跳び込んできたのだ。ここで逃すという手はない。

 だが“闇夜の樹林”という舞台を考えれば、一度つけられた差を縮めることは困難を極める。その予想を覆すような俊敏さで侍達は疾駆する。

 逆に人外の感性ならではか、フォルムは右に左に悠然と、あるいは眩惑するかのごとく逃げ回る。


「驚きだな。それだけ個性が強ければ、連携などできまいと高をくくっていたが……」


 追いつけそうで追いつけず、絶妙な距離を保ちながら、少しも驚いていない口ぶりでフォルムは片桐達を品評する。


「四人がかりとはいえ、誰も命を落とすことなく私の本気を跳ね返すとは。それもこの闇の中、『五体霧想』の変技を披露した上で」

「それはこちらの台詞ですよ」


 苦笑すら込める鬼灯が律儀に相手する。


「席付四人を相手に生き延びるなんて、貴方は正真正銘の化け物です」

「人の身で大した自信だが、君たちほどの手練れならばさもありなん、か」


 その言葉に何を刺激されたのか。


「『吸血鬼』といえど、貴方も元は人間なのでしょう?」

「おいおい。私は・・――まあ、いいか」


 何かを言いかけたフォルムが、思い直したように別の話に切り替えた。


「人種が“表”の存在なら『吸血鬼』は“裏”の存在だ。大いなる存在がいかなる意図を持っていたにせよ、生み出された二つは、姿形のみが同様なだけで“似て非なる存在”と認識すべきだよ」

「表と裏、ですか」


 光と影でもなければ、善悪でもなく。

 奇異な言い回しに感じるのは、伴天連被れの師を持つ鬼灯なればこそ。

 だから、こんな何気ない感想を洩らしたのだろうか。


「表と裏だというのなら。重なり合うが故に、本来であれば互いにその存在を視認し合得ぬもの――」

「――ほう」


 心情など持ち得ぬはずの怪物が笑ったように感じられたのは気のせいか。


 仮に掌の両面に目があるとする。

 手の甲にある目は、決して背中にある掌中を目にすることは叶わない。その逆もまた真なり。


 しごく当たり前のことを口にした鬼灯に、しかし、それこそが真理へ至る扉であると云わんばかりにフォルムの声は悦に浸る。


「その交わらぬはずの表と裏の存在が、こうして刃を交える現実を君はどう捉える……?」

「どうと言われましても」


 さすがに戸惑う鬼灯に拳骨を落とすような声が叩きつけられた。


「神仏の説法は、そこまでにせい!!」


 弁論に興じるが故の油断があったのか。

 ふいに間合いが縮まった一瞬を見逃さず、フォルムの薄い気配へ濃密な気配が飛び出し、差し迫る。


 直後に空気を薙ぐ二つの異なる擦過音。


 続いて叩きつけ合う断続音が重なって、飛び散る火花が夜陰の幕に“細身”と“巨漢”の影を瞬間的に映し出す。

 それは切り出す何枚もの影絵の断片を観せられているようなもの。


 巨漢が段平を叩きつけ、

 細身が偃月刀を切り返し、

 脇差しで受けた巨漢が対の段平で仕留めにかかる。


 一刀と二刀の変幻自在なる使い分け。

 その両方が一流の業前なれば、並の剣士に見極めることなど叶うはずもなく、眩惑された後に斬られたことすら気付かず倒れ伏しているだろう。

 だのに、その眩惑をはじめから無効とするフォルムの特性よ。

 これほどまでに数打ち合いながら、実は、いまだ剛馬の『天羅看破』は発動していなかった。いや、阻止されているというべきか。


「……これほどまでに、使える・・・とは」


 思わず唸る鬼灯に「感心なぞしている場合か」片桐が叱咤する。


「ここで決めねば――」

「――敵の増援が届くやも」


 片桐の云わんとすることを説く月齊が、腰を据えて護るべく奥へと踏み込む。そこまでが限界点。それ以上は待ち伏せがいれば討たれる可能性があり、あるいは、フォルムの支援部隊が登場した場合に、孤立してしまう可能性もある。

 二人の云うとおり、ここが正念場だ。


「――任せます」


 察した鬼灯が立ち止まり『神息』の準備に入る。

 今度こそあやまたずに。

 片桐は剛馬に声かけ、挟み撃ちを仕掛けんと間を空けさせる。


「おりゃっ」


 右に踏み込む剛馬が右袈裟にフォルムを狙い、身体ごと避けさせる。それで狙い通りに追いやった先に片桐がすかさず踏み込んできた。

 フォルムの死角からの攻撃。

 それをまたしても、魔人はくるりと上半身のみを回転させたがごとき動きで防いでみせる。

 ならば今が背面攻撃だと、剛馬が仕掛ければ、実は正面だったと云わんばかりに受け止めて。


「……こやつ、何でもありかっ」

「関節外しでもないようだ」


 剛馬と片桐が唸り、フォルムが眩惑するかのようにくるりと身を翻す。


「三式『五体霧想』――。現世うつしよから幽世かくりょへ。幽世かくりょから現世うつしよへ。表と裏を行き来できる私は、自在にこの身を変えることもできる。故に私を『無形』と呼ぶ者もいる」

「なるほど」


 神妙に頷く剛馬が刀の柄を握り込む。


「笑えるくらいの――化け物ぶりだっ」


 それでも『吸血鬼』には弱点がある。それを理で戦う剛馬が片時も忘れることはない。だからその目が戦意を失うことはなかった。

 頭部を狙って突きをふたつ。

 威力よりも速さ重視で。


「ならば手数で押すだけよっ」


 それは片桐へ“こちらに合わせろ”との合図。

 納刀をやめた片桐が両手に持ち替え、剣先をフォルムへ向けた。

 斬撃ではない。

 古の技法に立ち返ったがごとき突きの構え。


「これは……」


 そこで口を噤んだのは、さすがの魔人も拙い状況だと悟ったからなのか。

 一瞬早くフォルムが後退り。

 それが合図となって、片桐と剛馬が同時に仕掛けていた。


「ぬんっ」

「いぇぇえい!!」


 左右両側からフォルムの身を刺し貫くように、幾つも乱れ疾る白槍が交差する。それもひと処ではなく。上下左右に万遍なく散らした上で。



  ――キ

   シュ

   ――キ

   シャ

 ――キ



 打ち鳴らし合う金属音に切り裂く音が紛れ込む。

 席付級が繰り出す連撃をさしもの魔人も防ぎきれるはずもなく、その身を刃に裂かれてしまう。

 だが、その傷を倍に増やしたところで致命傷たり得ないことを二人は知っている。

 だから、始祖の剣を受け継ぐ者に託すのだ。


「祓いの太刀――」


 碧眼の侍が満を持して滑り出た。

 先ほどと違い、『想練』から入った鬼灯の精神は容易く深層心理に根付いた清廉なる呼吸を喚起させ、速やかに『神息』の息吹をその身に芽生えさせていた。

 清流が腹腔から流れ出す。血流のごとく巡る感覚が鬼灯の心を澄み渡らせ――




「我を見よ、ホオヅキ・・・・――!!」




 低いが、殷々と闇夜に響くその声で、鬼灯の歩みがぴたりと止められた。

 碧眼の侍が注視するそこには、炯々けいけいと色合いを強める蒼き燐光の双眸が。


「二式『邪眼イービル・アイ』――しばらく私の家人・・になってもらおう、ホオヅキ」

「何を――」


 フォルムの馬鹿げた要求に鬼灯が気色ばむもその足は動かない。


「くっ……」

 

 眉間にしわ寄せ、歯を噛みしめる鬼灯の剣先がぶるぶると震え、しかしフォルムを睨むばかりで必殺の刺突は沈黙を維持する。


 どういうことだ?


 何が起きたのか、片桐達も呆気にとられる中、落ち着き払ったフォルムの声だけが闇夜に響く。


「主命だ、ホオヅキ。そこの二人が動けば、それは私に徒為あだなす悪意の表れ。躊躇わずその者を斬れ」

「……」


 フォルムの威圧感ある眼光が一層輝きを増し、ふいに鬼灯の身が頼りなげに揺れて、両腕を力なくだらりと下げた。


「む?」

「どうした、鬼灯っ」


 異変に気付く同士が声をかけるも耳に届いている様子はない。

 覇気すら失った虚ろなその身に何かが起きたのは間違いなかった。


「鬼灯、しっかりせい!!」

「――何をした、ふぉるむ?!」


 ぎろりと、剛馬が魔人を睨み付ける。


「おっと、下手に動かない方がいい。同士討ちほど憐れな展開はないからね」

「貴様――」


 凄む片桐が踏み出せば、「駄目だっ」血相を変えた剛馬が叫ぶも刻既に遅し。




「――かはっ」




 血泡を吹く片桐の目が見開かれる。

 その胸に深々と突き込まれるのは見知った直刀。

 その直刀を握り込む金髪碧眼の侍は、細い眉をしかめて味方であるはずの副長を睨み付けていた。


「……いかに副長とはいえ、ふぉるむ殿を傷つけることは許しません」

「――」


 平然と翻意を示す鬼灯に、片桐は無言でその真意を見抜かんと見つめ返すのみ。だが、その碧き瞳には一切の迷いもなければ淀みもない。

 真摯にフォルムの身を案じているのだ。


「この戯けがっ」


 裏切ったとしか見えぬ同士に剛馬が近づき、突き刺した刀を抜かんとするその背を片手で押し留める。副長には悪いが、自由にさせれば厄介な相手。ある程度の犠牲を覚悟にこの場を収拾させる必要があった。だが。


「――動きましたね・・・・・・

「何?」


 鬼灯があっさり直刀を手放し、片桐の脇差しを抜き放つ。

 振り返り様のひと突きを、しかし、剛馬は避けもせずに鍛え抜いた腹筋で受け止めて、剛腕による一撃を見舞った。

 振り抜いてはいない。

 きっちり手心を加えている。

 それでも鬼灯の頭がはじけ飛び、受け身すらとれずに細身を地面に叩きつけていた。


「くそっ。――やってくれたな、ふぉるむ?!」


 脇差しを腹に収めたまま、鬼の形相で剛馬が振り返る。例え見えずとも、その怒気は魔人さえ怯ませずにはおけぬもの。

 だが、その機会は得られない。信じられないことに、混乱に乗じて討って出るどころか、魔人の気配はすでにこの場から離れていたからだ。


「む……?」


 様子がおかしい。

 先ほどのような挑発的で惑わすための動きではない。明らかに足取りのおかしい相手の不調を剛馬が感じ取る。


雨のせい・・・・やも知れぬ」


 同じ違和感を抱いたらしい月齊の私見。


「ぬしらの攻めで奴は衣を裂かれた。そこから様子がおかしくなっている。おぬしの策が・・・・・・嵌まったということだ」


 それは先ほどの剛馬の仕掛けた意図を承知するが故の弁。

 “水”を忌避する『吸血鬼』の特性を突き、衣服を裂いて雨に濡らす策が功を奏したと告げたのだ。とはいえ。


「追え……」

「追ってはならぬぞ」


 ほぼ同時に放たれた相反するふたつの指示。

 しかし追跡を命じた声音に苦痛を聴き取れば、剛馬は突き上げる衝動を抑え込むしかない。


「……ああ、追わぬ」


 少しの間が空いた剛馬の葛藤に触れることはなく、月齊がすぐさま次の指示を出す。


「副長に例の薬を。儂のもやる」

「儂にはくれんのか?」

「おまえは殺しても死なぬ」


 冷たいともとれる物言いを「ふん」と剛馬は鼻を鳴らして受け流し、カストリックから支給された呪いの薬を用意する。


「教えられたとおりに」

「傷口に浴びせて、足りなければ呑ます、であったな」

「いい。自分でやれ……る」

「深追いはできぬ。分かったら、ここは大人しく傷の手当てをさせい」


 駄々をこねる片桐を強引に寝かしつけ、剛馬が服を脱がせて傷口を見えるようにする。その間、月齊は敵の飛び道具など見張りに徹する。


「傷はきれいだが……儂らのだけでは足りぬ」

「なら、お前が皆を呼んでこい。儂は動けぬ」

「頼む」


 迷いなく剛馬が立ち上がり、闇の中を駆けてゆく。腹に脇差しを刺していると思えぬ頑健ぶりに知らず月齊は口元をほころばせる。

 その笑みを片桐の呻き声が消し去った。


「……不覚を取った……」

「我々全員が。“眼術”を使うなど誰も知り得なかったこと。まして、鬼灯の秘太刀は虚を突かれて躱し得るはずもありませぬ」


 悔恨を口にする片桐に月齊がやむを得ぬと断じる。むしろ生死を分かつあの一瞬に、鬼灯の刺突に剣を合わせ、狙いを反らしてみせた副長の技倆に畏怖すらこめて。


「生き延びたことを良しとすべきかと。あとは任せ・・ればよいのです・・・・・・・

「……そうだな」


 二人が託すのは、この場にいぬ者達。

 本来、彼らの防衛線を突破できるはずもないのだが、恐らくはわざと見過ごしたのだろうと察していた。席付が四人もいれば問題ないとの意図があったのだろうと。

 だが結果はどうだ。それが月齊にわずかな不安を抱かせたのかどうかは分からない。


「……気になることが少し」

「何だ……?」


 しばし躊躇った後に月齊は口にする。


「なに、先ほど受けた飛び道具の感触・・・・・・・に、覚えがありまして――」


 その懸念を聞かされた片桐は、しばし沈黙の中に沈み込むのだった。


         *****


同時刻

片桐達より離れたとある位置――



 その者は、濡れそぼる木立の合間に悄然と立ち尽くしていた。

 案山子に外套を羽織らせ、雨に打たせれば寂然たる様を醸し出すのも当然といえば当然。まして、その者が生気を纏わぬ人外であれば、闇夜の樹林にあってなお、孤独に際立つのも無理はない。

 むしろ、この世のすべてに疎外されて然るべき存在なのだから。

 無論、人外であればこそ、さようなことに頓着することはなく、しがらみなき自由を良しとするだけであったろう。


 そのまま日の出まで立ち尽くすかと懸念されたその者が、ふいに動いた。


 以前であれば、大きく一歩踏み出している。

 今ではわずかに半歩のみ。

 それで全体重を乗せた一投が放たれ、降りしきる雨滴を幾つも消し飛ばし、一直線に闇を切り裂いて彼方の標的に達する。

 それが防がれた。

 その者の研ぎ澄まされた聴覚が、美しき鉄の打ち合う音を聞き分ける。

 その音色は“互角”と告げていた。


「…………さすがだね」


 それはひどく冷たい若者の声だった。

 夏でも吐く息さえ白いのではと思わせるほどに。

 なのに、声音に反してその者が心躍らせていると分かるのはなぜなのか。

 その後、幾度か投擲を防がれるに至り、その者がかすかに身震いした。創造主が見たならば不審に思ったに違いない。


 “歓喜”の感情など持ち得ぬはずだと。


 だが、その者の胸奥で、いまだ残る熱い何かがあるのは間違いなかった。それが彼の空虚・・・・を震わせたのは確かなのだ。


「……む?」


 片袖が翻り、そこから疾った銀線が背後にある樹林の一角に吸い込まれる。

 手応えなし。

 フード奥の蒼白き双眸が左から右へ移り。

 再び別の片袖を翻しての一投。

 結果は同じ。

 何者が相手であってもあり得ぬ事態。


「気配がふたつ。どこから湧いた……? いや、初めから誘い込まれていたのかな」


 泳がされていたことに気付くも、動揺など微塵も見せはしない。人外に感情の波があるはずもなく、また、あったとしても同じ事。

 右に左に、樹林の影に隠れながら、俊敏に移動するふたつの気配を、その者は精確に把握しているからだ。


「へえ……」


 気配が跳ねる。

 緩急をつけるどころか拍子や規則性をほどよく乱す巧みさに、その者の血色悪い唇が、薄く吊り上がるのを本人すら気付くことはなく。


「――そこっ」


 金属音。

 樹木の影から飛び出すこれ以上ないタイミングで、矢より速い一撃を受けきる敵の実力に、「やるっ」とその者が高ぶる。

 人外を相手取る者もまた、人外か。

 その正体はいまだ分からず、ふたつの気配が間近にまで迫る。

 その者が意を決す。

 振り返り、創造主の支援よりも、まずは姿なき敵を迎え討つことを優先させる。


「お――?」


 ふたつの気配が互いに近づき、そのまま交差した。

 注視すべきはその直後。

 こちらと一定の距離を置いたまま、輪を描きはじめたふたつの気配が四つに増えた・・・・・・。そればかりか、


 四つが六つ。

 六つが八つに。


 次々と増えてゆく気配の数にその者が始めて戸惑いの空気を放ち、まるでそれを待っていたかのように、気配の描く輪が一気に縮まった。


「結局はふたつ・・・か」


 残る気配は何らかの詐術。

 相手に距離を詰められたのは事実だが、迫る生気の像を『幽視キルリアン・アイズ』がくっきりと視認させ、その者は自信を持って技の体勢に入っていた。

 身を絞り込んで、像の一点に狙いを定めて。


「まずはひとつ――」


 両足が一瞬で捻られ、その凄まじき速さに地面が抉られる。身に帯びるローブが突風に煽られたがごとくはためき、旋風となった“力”が腰から肩、肩から腕の振りへと伝播され、爆発的な投擲力を生み出した。




 カオッ――――




 先ほどと同じく樹木の影から出た直後――いや、もっと手前の幹の端を削り抜いて、その影に潜んでいた敵を銀の凶器が貫いた。

 人の身では不可能な、人外の膂力が為せる業。


「これも偽物かっ」


 千切れ飛んだ何かは人体ではなかった。

 先の詐術とその者が気付いたとき、もうひとつの気配がすぐ側まで辿り着いていた。


「ちいっ」


 振り返るその者の目に、樹木の幹で真横に立つ・・・・・気配が映り。

 そこから繰り出される常識ではあり得ぬ太刀筋が襲い掛かる。


 いつもの癖で、寸隙で躱し――。

   ――躱すと同時に手裏剣・・・を叩き込む。


 そのまま流れを止めず、振り向きざまに己の頸動脈へ手の甲を翳す。そこまでが一動作。



 ――――キッ



 掌に収めた手裏剣が、ふたつめの気配が放つ鋭い刃を受け止めていた。

 その一撃に重さはなく、ただ速く精確に急所へ叩き込むことだけを研ぎ澄ました鋭さだけがあった。

そこに感じるのは、殺しの術を積み上げた刻の血生臭さのみ。


「……うん。なんだか、懐かしく感じるね」

「その声は――」


 油断なく間を空けたふたつの気配に、初めて動揺が表れる。


「変わりないな、捨丸、拾丸」

「……何があったのです、扇間様」

 

 陰師として見せてはならぬ動揺を露わにする二人。


「……命拾いしてね。いや、厳密にはそうじゃないか」

「「?」」

「とにかく。生まれ変わったそれがしの身は団長の下にある。その立場だけははっきりさせておこう」


 そうして両袖からのぞかせる銀の剣先が見えたわけではあるまいが。


「……翻意すると申されるか」


 呻く陰師にその者――扇間は否定する。


「いいや。この身は団長に。されど心は諏訪に」

「ならば、敵対されるなっ」


 悲鳴とも苦鳴ともつかぬ台詞を残して陰師が跳んだ。その空間を寸瞬遅れで手裏剣が疾りぬける。


「そうしたいけど、どうにも“敵を倒せ”と身体が疼くのさ!」


 ここで初めて扇間がその場から動いた。

 陰師のひとり――拾丸の動きを予測して先回りするように歩み寄る。 

 

「さすがは――」


 陰師独特の眩惑する動きに読み勝って、立ち所に詰め寄る扇間に拾丸が感嘆を洩らす。それを「よく云う」と目を細める扇間。

 顔前で閃かせた手裏剣が何かを断ち切った。


「!」

「悪いけど、今の某には見えるんだ」


 それは鋭く研ぎ澄まされた“糸の刃”。

 いつの間に仕掛けていたのか、逃げるとみせて拾丸は罠におびき寄せていたのだ。


「されば、本命はこちらに」


 拾丸が振り返り、数本のクナイを放つ。

 同時に周囲で幾つもの炎が立ち上がった。


 目くらましと襲い来る飛び道具の連携。


 それを稚芸と一蹴するがごとく、扇間の手裏剣がすべて迎え撃つ。

 いや、炎の明かりに隠されて、他方からもクナイの波が押し寄せていた。


「甘いっ」


 扇間が両足を交差させると同時に前屈みになりながら腕も組み合わせる。刹那、ため・・を効かせるようにその身を瞬間的に大きく捻っていた。




 キキキキキキキキキキ――――ッ




 信じがたいことが起きた。

 襲い来るクナイの波を、扇間は同数の手裏剣の波で正確無比に迎撃してのけた。

 それも、ただ迎撃したわけではない。大きく弾いたり、押し退けたわけでもなく、まるでクナイの威力を相殺するかのように全弾落下させたのだ。


「扇間流手裏剣術の中伝『百花』――守攻両面に用いれる便利な技さ」

「……?!」


 無駄に驚嘆すべき技倆を見せつけられた拾丸の動きが驚きと困惑でさすがに固まる。当の扇間は肩慣らしでもしたかのように満足げに呟くだけだ。


「うん。――イイ感じだ」

「扇間様。貴方は――」


 それはどこまでが本音であったのか。

 語りかける拾丸の瞳に別の影・・・が映り込む。



 ――――っ



 音もなく、背後から・・・・振り抜かれた刃を前のめりに避けた扇間が前転した直後に首を横へ倒す。

 フードを切り裂く拾丸の突き。

 ほぼ交差法のタイミングで、扇間の前蹴りが拾丸の腹にぶち当たっていた。


「……っ」


 くの字に身を折る拾丸が後ろへ吹き飛ぶ。

 結果も見ずに扇間がさらに脇へ転がった。その背を捨丸の二撃目が・・・・・・・襲い、浅く切り裂く。

 追撃を防ぐべく、転がりながら手裏剣を放つ扇間。

 踏み止まる捨丸。

 さらに逃げるかと思われた扇間が、虚を突き、捨丸の懐へ潜り込んでくる。


「ふっ」


 捨丸が冷静に斬りつけ、その鍔元を肩で受ける扇間。浅く斬らせる代わりに拳を捨丸の鳩尾へとお見舞いしていた。


「がふっ」


 たたらを踏む捨丸が胃液を口からこぼす。その鈍りを見逃すはずのない扇間の動きがなぜか止まる。


「ぅ……」


 扇間の唇からかすかに洩れる呻き。それは人外の身にありえぬ“苦痛”を孕む。


「効きますか」


 捨丸の声はなぜか哀しさを帯びていた。

 これみよがしに剣の刃を見せつけて。


「これは“聖水”とやらで清めた刃。ほとんどの相手にはただの刃なれど――」

「――“邪なる者”には浄化の熱を帯びる、というわけか」


 受けて扇間が苦々しく洩らす。

 いつの時点で負ったのか、その脇腹にくだんのクナイが深々と刺さっていた。


「正直、半信半疑ではありましたが。よもや貴方に使うとは思いもしませんでした」

「参ったな。“お試し”はそちらも同じだったわけだ」


 にじり寄る捨丸の動きに、扇間が驚くべき速さで飛び退ける。


「元仲間のよしみで、ここまでにしない?」


 何とも人を食った提案に、「何を申される」と捨丸が困惑する。


「だって――某の役目は済んだようだから」

「?!」


 丁度その時、近くで明らかな剣戟の音が鳴り響いた。それに捨丸が気を取られた隙に、扇間がか細くなっていた炎の向こう側へと飛び越える。


「距離が空いたね」

「逃がすとでも?」


 拾丸が立ち上がる気配を感じて、捨丸の語気に自信が漲る。それでも扇間の声音は余裕を持ったまま。


「追うのは勝手だけど、その場合、今度はこちらの番・・・・・だと思ってほしい」

「……」


 意味深な扇間の呟きに、捨丸達が逡巡し、その隙をついてさらに距離を空けられる。


「おや? 陰師が“話術”で遅れをとるなんてね。らしくない・・・・・

「……っ」


 口惜しいが確かにその通り。

 もはや捨丸にできることは問いかけだけ。


「……扇間様は、本当に・・・?」


 聞きたいことであった。

 確かめねばならぬことでもあった。

 捨丸の苦しげな問いかけに、短い沈黙が下りる。

 答えは冷たく澄んでいた。


「某の身は団長のためにある。それは抗えない宿命だ」

「まだ、間に合いますぞっ」

「――皆によろしくと」


 扇間の姿が闇に消える。

 気配が急激に遠ざかるのを、捨丸達は腹の痛みに耐えながら見送ることしかできなかった。

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