第90話 交えざるを得ない刃
シュレーベン城地下
エンセイ別動班――
無風であるはずの地下道にエンセイはわずかな風の流れを感じとった。「着いた」との簡潔な報せが闇奥からもたらされたのは、その少し後。
通路の突き当たりが小部屋状になっており、風は吹き抜けの天井から流れ込んでいるようであった。
「ここから先は梯子のようね――」
初めて耳にする声は妙齢の女のもの。
感情がこもらぬ声は冷たく響き、その印象を付けた仮面がより一層強めている。
それは感情の機微を削ぎ落としたような白蝋の面。
まるで死人の面貌を象った『
だが不気味なデザインを選ぶ女の意図よりも、エンセイが気になるのは、目抜きの穴が小さすぎるという実利の面。
あれでは視界の確保もままならず、戦いや隠密行動に支障が出かねまい、と。
その問題を女はいかにしてクリアしているのか?
術か
そうした一事を取っても、この奇妙な同行者に対する興味は尽きぬが、今はそれに関心を持っている場合ではないとエンセイは気持ちを切り替える。
「もう一人は――?」
人影がひとつきりであることに気付いたエンセイに「上よ」と素っ気ない声が返される。
「念のため、罠の確認にね」
脇に立つミケラン共々見上げれば、そこには天井の見えぬ虚空があるきりだ。
上向けた顔をなぜる冷たい微風以外に感じるものは何もない。相変わらずの見事な気配断ちに自分達の出番はないとエンセイは知る。
「――一度、状況を整理しておこう」
待ち時間を惜しむように、後からやってきた惣一朗がエンセイ達に提案してきた。
「用意していた計画とこの場の状況から察するに、ここの梯子から城の各階に行けるのは間違いない。予定では城三階の“蔵書の間”に行くことになっていたが――」
そこで惣一朗は話しを区切ってエンセイ達の様子を窺うが、昨日の打ち合わせと齟齬がない以上、二人は黙って話の先を待つだけだ。
惣一朗が続ける。
「――図らずも、若や姫君達と
「もちろん合流するに決まっている」
真っ先に告げたのはミケランだ。鼻息荒く、有無を言わせぬ態度で断言する。これに対し、より情報を求めるのはエンセイだ。
「合流するにしても、エルネ様達がどこに辿り着くかを知らねばならん」
「大方の方向は分かっている。歩く距離も我らと同じと仮定して、そこに姫君の描かれた城の絵図を照らし合わせてみればよい」
そう請け合う惣一朗。たったそれだけのことでおおよその位置は掴めると。実際、彼の脳裏に広げられた城の絵図には、明瞭な光点となってエルネ達の位置が示されているのだろう。
「少なくとも、この場より北にズレるのは確実だ。その時点で、想定される場所はひとつきり。若達が向かった方向とも合う。つまりお国で言うところの“礼拝堂”だ」
「む。だがそれでは――」
警備隊長としての経験からか、何かに気付いたミケランに惣一朗が分かっているように頷く。
「そうだ。まるで離れ小島のようになっているそこから、この城に人知れず渡るのは、常識的に考えれば不可能だ。
無論、礼拝堂からの侵入手段を警備側で考慮してなければ別の話しだが」
「そんなマヌケではない」
惣一朗の言い草に気を悪くしたミケランが反発するように語気を強める。
「昨今、大公様のご意志で警備費を節約している面はあるものの、必要な人員はしっかり確保し、要所はきっちり抑えてある。むしろ警備の柔軟性は昔より上がっているくらいだ」
「であれば確実に、姫君達を立ち往生させているだろうな」
「……」
少し自慢げに語るミケランの顔が見事に仏頂面へと切り替わる。自分が警備に力を入れたために姫を難儀させていると云われれば、例え不可抗力であったとしても、押し黙るしかない。
「冗談だ」
真顔でそう云われても。
ミケランの強張った表情がそう容易く和らぐはずもなく。
場の空気を誤魔化すようにエンセイはひとつ咳払いをする。
「その推論が確かであれば、エルネ様達の窮地を救いに行く必要があるな」
「まっすぐ向かうなら、予定を曲げて一階から城の内部に潜入するのが近道だ」
惣一朗の物言いにエンセイは引っ掛かりを覚える。
「他にも考えが――?」
「考えというよりは想定だ」
「想定?」
話しが見えずエンセイはまじまじと惣一朗の顔を見る。他の四人が仮面を付けるのと異なり、炭色に塗り込められたその顔を。
コリ・ドラ族の戦士が用いる『戦化粧』にも似ているが、これはもっと実利面だけを追求したもののようにみえる。
おかげで顔立ちも表情も掴めず、何を考えているのか読み取ることは不可能だ。
無論、それこそが狙いなのであろうが。
それがクセなのか技術なのか、ほとんど口を開かずに惣一朗が疑問に答える。
「我々の現状は、全体的に当初の予定より進みが遅い。同様に、若達が順調に罠をくぐりぬけられているかも定かでない。むしろ遅れていると仮定し、その対処法も想定しておく必要がある」
「む……確かに」
こちらの方は罠がなかったからまだいい。
だが、予定にない道行きとなったエルネ達の道中は、ミケランの話しによれば難関と言える罠の連続であるらしい。
ならば、惣一朗の云うとおり、想定外の遅延がもたらす悪状況を覚悟しておく必要もあるだろう。
場合によっては退却すらも念頭に置く必要が。
「のこのこ助けに行き、挙げ句、若達がまだ到着していなければ、我らが困る立場になることもあるだろう」
「うむ、うむ」
恥ずかしながら頷くしかない。
これはよほど慎重に行動せねばとエンセイが気を引き締めたところで、偵察に出ていたひとりが戻ってきた。
「三階とも罠はなかったよ」
まだ年若い少年の声にエンセイは内心呻きを殺す。
あれほどの手並みをまだ若輩と言える年齢で修得していることへの素直な驚きだけでなく、どれほど苛烈な修行を強いられたのかという憤りも含まれる。
そんなエンセイの胸中を知る由もない仮面の少年は淡々と報告を続ける。
「それと朗報がひとつ。こっちの扉は内側から開けられる仕掛けになってたよ」
「――ずいぶんと勿体ぶったわね」
冷淡に茶化してくる女の言葉に少年も負けず劣らずの無表情さで言い返す。
「朗報は朗報だろ。『魔導具』とやらは、あと一回しか使えないんだぞ」
「ええ、そのとおりよ。でもこの任務をもっと大局的に捉えなさい。そうすれば――」
「タイキョクテキ?」
「――はぁ。もういいわ」
少年の無知さ加減に女は興が削がれたらしい。大げさにため息をつくとそっぽを向く。そのタイミングで「確かに、もういいだろう」と惣一朗が二人を窘める。無駄口は止めろと。
「鍵を心配しなくていいなら話は早い。まずは俺たちが城内の様子を見て回ろう。あまり大勢でうろつくと見つかる怖れがあるからな」
その見解に誰からも異論は上がらない。
何か言いかけたミケランを「ここは彼らに任せておけ」とエンセイが目配せしたおかげでもある。
自分が隠密行動に不適格だと自覚するミケランは唇をへの字に曲げて、無表情をつくっていた。これでも我慢しているつもりらしい。
場の空気を読んだ惣一朗は、抑えが効いているうちに素早く指示を出してゆく。
「玄九郎と
入れ違いで若達と合流できた場合は待たなくていい。基本は俺たち三人で若達を捜すことにする」
「それでいいのか? 何なら私たちだけで図書室に隠れていてもいい」
エルネやミケランの話しでは、図書室に人が入ることは滅多にないらしい。掃除をするにしても早朝から行うことはないのだと。
だからこそ、隠れているだけなら問題なく、人捜しに人数を当てた方がいいだろうとエンセイは提案したのだ。
だが惣一朗は問題ないと断った。
「あくまで主力はそちらの方だ。あまり危険を冒さず体力を温存していてくれ。その代わり、場合によっては俺たちが囮役をする必要がある。その時には、託させてもらうぞ?」
「それは構わぬが……」
「ミケラン殿。貴方はこの城に詳しいと聞いた」
ふいに惣一朗に尋ねられて、意図が読めずにミケランは戸惑いを浮かべる。
「なに、城内を見て回るのに、注意すべきことがあれば教えてほしいと思ったまでだ。特別な仕掛けや手練れがいればその情報がほしい」
「……別に罠などない。城では私たち警備隊が要であり、防衛のすべてだ。腕の立つ者と云えば大公の専属護衛だが、大公様が寝室にいるならその前に、執務室にいるならその前に歩哨として立ってはいる。おそらく大公代理となったルストラン殿下の護衛も同じ手法を採用しているはずだ」
そこで何かを思い出したらしい。ミケランは「ああ」と声を上げる。
「第三軍団の部隊が呼び戻されたと聞いていたな。もしそうであれば、上級士官にだけは二階の客間を使わせているだろう。護衛を兼ねてな」
「ならば、二階をうろつくのはやめにしよう」
そうして、おおよその方針を定めたところで行動に移る。
だが一階の隠し扉を開けたところで、エンセイ達は方針の練り直しを迫られることになる。
「これは――」
「――まずいな」
エンセイが唸ったのは、扉から差し込む光のせいだ。人工光とは明らかに異なる明るさに、思っていた以上に時間が経過していたことを知る。
空はまだ薄蒼い。
それでもだいぶ闇が削がれ、公都を取り囲む大輪山を逆光で蒼く縁取らせ、太陽が新芽のように顔を出そうとしているのが窺えた。
あと少しで外輪山の峰々を越え、清らかな陽射しが溢れ出す。
一度そうなってしまえば、自分達の姿を隠してくれるはずの暗幕は失われてしまう。
それは“作戦の失敗”を意味するものだ。
「時間がない」
エンセイの呻きにミケランが「エルネ様はもう礼拝堂におられるのでは……?」と今にも駆け出さんばかりに焦燥を露わにする。
「こうなると、任せておくわけにはいかん」
「待て。全員で行けば警備の者に悟られる」
惣一朗の制止を「知ったことか」とミケランは撥ね付ける。
「これだけの面子だ。力尽くで押し通るのも可能だろう? 何なら、私とエンセイ殿が前に出る」
「奢るな。一時の優勢が何になる。城中から人が集まれば……数の力を侮るべきではない」
冷静に説く惣一朗。
何より、大切な者達を危険にさらすつもりかと。
「ではどうすると?」
「方針を変える必要はない。若達を見つけ、この秘密の道を使って三階で合流するまでだ。あくまで隠密行動が前提だ。
ただし、青汰と朱絹のふたりには目標の位置を先に探っておいてもらうことにする。ある程度下調べを済ませておけば、素早く目標に近づくことができる。
場合によっては、先に障害と成り得るものを排除する必要もあるが、その判断はそちらに任せる。それでどうだ?」
「私もソーイチ殿の意見に賛成だ。ここは下手に事を荒立てるべきではない」
エンセイも同意を示すことで、少し感情的になっているミケランに自制を促す。その効果は多少なりとあったらしい。
「……そうだな。確かにそうだ」
ミケランは厳しい表情のまま口重く承服する。
「勝手に自滅する真似をしようものなら、エルネ様にお叱りを受ける。ここは貴殿らに託すとしよう。……それに、
今や警備隊長の任は解かれているかもしれないが、それでも古巣を相手に本気を出せるほど憎くもなければ、情が薄れてしまうほど遠い昔のことでもない。
冷静さを取り戻せたか、ミケランの肩から力が抜ける。
「では、はじめの策の通りに」
惣一朗が宣言し、それで話は定まった。
隠し扉との隙間に部屋で見つけた小物を挟んで戸締まりさせないように細工して、惣一朗達が城の一階へと消えてゆく。
見送ってすぐ、エンセイ達も三階へと急ぐ。
さすがにエルネ達が先にきているとは思えない。
なのに、いくぶんそわそわしながら梯子を上る。
肝心のエルネがおらず、ルストランの正確な居場所も不明ではあったが、三階まで上れば、目標まで目と鼻の先であることは間違いない。気持ちが逸るのはそういう側面もあるのだろう。
いよいよ、この旅路の最後が近いのだと――。
突然の公女訪問から始まり、“魔境”での苦しい冒険、スワ家の者達との出会い。そして公都に密行してからの城内潜入に至るまで。
短い間に起きた様々な出来事が、壮年剣士の胸に言葉にできぬ感慨を抱かせる。
知らず、梯子を掴む手に力を込めながら。
ついに最上段まで上り詰め、エンセイは梯子から石床へと静かに降り立った。
壁にあったレバーを下げると軋み音をあげることなく隠し扉がこちら側に向かってゆっくりスライドしてくる。
慌てて避けるエンセイ達。
革や布で装丁された古書独特の匂いに鼻腔をくすぐられながらエンセイ達は足を踏み入れる。
部屋の中は薄暗い。
本が傷まないように陽射しを避けるべく、厚いカーテンが引かれているのだが、エンセイにそんな雑学はない。
問題なのは、部屋が
正式な出入口付近に設えられた閲覧用のテーブルに明かりが灯っていたのが原因だ。
こんな夜も明け切らぬうちから利用者が――?
誰もが無言で、それでも今さら退くことはできずに慎重に歩を進めてみれば。
「――ずいぶんとゆっくりしていたな。日を改めるのかと思ったぞ?」
気さくに話しかけてくる嗄れ声。
椅子に腰掛け寛いでいた人影がゆるりと立ち上がった。
血色の悪い唇に中性的な面立ち。
それ以上に目を惹くのは、銀糸を思わす見事な白髪だ。
「!!」
思わぬ待ち伏せに、驚いたのはミケランのみ。
青汰らはいつの間にか姿を隠し、先頭に立つエンセイはわずかに目を細める。
もしやすれば――実は頭の隅に想定していた事態でもあった。
『
公国第三軍団の士官クラスでもなく。
「――やはり、お前が立ち塞がるか」
わずかに諦観を滲ませつつ、それでいて覚悟を秘めたエンセイの声音に「それが私の役目だ」と人影が応じる。
「大公家直属の騎士団長である、このバルデア・ラーエン・グリュンフェルトのな」
かすれ声の名乗りを耳にして、エンセイの片眉がぴくりと動く。
「どうした――?」
問いかけるバルデアにエンセイは「いや」と一度は受け流し、だがすぐに胸の内を言葉にした。
「グリュンフェルトか――懐かしい響きだ」
「そうか? 忘れていたように見えたがな」
それは皮肉であったのか、エンセイは口を噤み二人は無言で見つめ合う。
「…………」
「…………」
他のことなど眼中にないと思わせる睨み合いが、某かの因縁があることだけを他者に伝えるのみ。
今だけは、この図書室が二人だけの空間になる。
ふいに――
「邪魔するな」
自身の首筋に這う
それは首を絞めようとする何者かの手。
エンセイがバルデアの背後に人影を見出したときには、その身体がバルデアの右腕に引きずり出され、無造作に投げ飛ばされていた。
『
重厚な書棚が激しく軋み、重たく高価な書物が何冊もゴミのようにまき散らされる。
その直前に、バルデアの足を蹴り刈ろうとした別の人影が、きっちりブロックされた後、即座の蹴り足で別方向へ吹き飛ばされていた。
――――ドドッ
先ほどより強い衝撃に書棚が折り重なるように倒れ込み、人影が下敷きになる。
少年と女の音もない襲撃が失敗に終わる。
「……それも道具の力か?」
手練れ二人を圧倒するパワーにエンセイは称賛することも畏怖することもなく淡々と尋ねる。その冷ややかな言葉にバルデアもより冷たい声音で応じるだけだ。
「気に食わぬか。剣士は剣で応じろと?」
「いや。昔はそう拘っていたがな」
その答えが癇に障ったらしい。
バルデアの纏う空気がぐっと重くなる。
「……なら、今はどう変わった? 昔の剣を捨て、お前の剣はどう変わったのだ、“三剣士”のエンセイよ!」
バルデアにしては珍しい感情的な声。
エンセイがそれに応じる前に、飛ばされたふたつの人影が音もなく立ち上がった。
無論、ダメージを受けた様子はない。
物音が派手なだけで、二人とも全身のバネを利かせて衝撃を吸収していたのはエンセイだけでなくバルデアも承知している。
「……話しが違う」
漏れた声は少年のもの。
先ほど手練れの有無を確認したときに、ミケランが教えなかったと不満を言っているのだろう。声音には何の感情も込められてはいなかったが。
「どのみち排除するだけさ」
そう応じたのは女の声。
書棚の下敷きになっていたダメージは何もないらしく足下の本を乱雑にどけている。
二人はやる気だ。
不意打ちを容易く迎撃してのけたバルデアに、気ほども臆することなく仕掛けようとする。
問題は、意識を刈るつもりでなく殺す気で仕掛ける可能性があるということ。“三剣士”を相手にするならば、むしろ当然の気構えだが、エンセイとしては思うところがある。
「ここは私に――」
エンセイがそう制しようとするのが逆に合図となって、二人は何かを投げつけていた。
――――!!
薄闇に煌めくは
投げると同時に踏み出したふたつの人影が、走る際の、腕の振りに合わせて続けざまに短剣を投げつける。
シャシュッ――――
わずか二歩で距離を詰め、放たれた短剣は二人で四つ――先のと合わせれば六つの凶刃が白髪の騎士を串刺しに狙う。
キ
キッ――
それは『
それを仕込み手甲であろう――眼前に翳した腕で人影が受け流し、三つの影が誰一人欠けることなく殺傷圏に揃い踏む。刹那――
ヒャ
ヒュア――ッ
まず四つの凶刃が、見えない力に
その驚くべき事象に虚を突かれたか、バルデアだけが見極める人影の停滞に、騎士剣が牙を剥く。
――ザンッ
「……っぐう」
肩口に食い込んだ刃の衝撃に少年が呻く。
秘具で切れ味を増した斬撃に増強された膂力が加われば、斜めに断ち割られても不思議ではない。それを打撃の威力程度に抑え込んだのは、秘伝の鎖帷子を着込んでいることと、膝の屈伸で威力を軽減させる彼の
それともうひとつ。
剣を振り切ることもなく、出し抜けに、バルデアが片手殴りに騎士剣を背後へ振るっていた。
キッ――……ン
盲打ちとしか思えぬ斬撃が、背後から脇腹を狙っていた女の短刀を精確に受け止める。
「――嘘だろ?」
思わず死仮面から洩れた女の心情。
短剣を避ける妖術に千里眼を合わせ持つ剣の冴え。
目の前の敵がどれほどのものであったかをようやく知った驚きが故。
だが女は唇の端をわずかにゆるめるのみ。
これまでにどれほどの兵法の達人名人を喰らってきたのかと。
『幽玄の一族』こそが忍びの頂点だと自負するが故の喜悦だと、彼女らにしか分からぬ自尊心が洩れ出でる。
ふ――、と。
女の腕先が霞んだ。
それまでと段違いの速さが生み出す認識の遅延。
それが一族で『護持者』に選ばれた彼女の本気とバルデアが気付いたかは分からない。いや気付く暇などあるはずもない。
なぜなら、彼女の変化に合わせて少年の動きも劇的に変化していたからだ。傷めた鎖骨の不具合など気ほども感じさせずに。
ヒ――
ヒャッ!!
本領発揮した『護持者』の刃風が計四箇所のバルデアの急所を正確無比に殺りにくる。それをさしもの“三剣士”も防ぐ術はない。
――
薄闇に見目鮮やかに描かれるは“金色の月”。
硬質の響きと共に、ふたつの人影に手の痺れを残してバルデアは無傷で切り抜ける。
まさか不可避の凶刃そのものに攻撃を仕掛けてくるとは。その小さな奇蹟に動きを止めた人影の隙をバルデアは見逃さない。
おもむろに左手を翳した。
五指に煌めくは色とりどりの宝石を戴く魔術の指輪。
『
「『
バルデアが『
まるで切り裂くような光のインパクト。
――――――!!!!
一瞬、脳に衝撃を受けたような感覚に、誰もが首を軽く仰け反らせる。
再び図書室内に響き渡った衝撃音。
眩んだのは一瞬であったはずだが、眼が闇に慣れたとき、バルデアはもとより、エンセイのみを残してふたつの人影が眼前から消えていた。
「何だ、今のは……?」
背後から聞こえたミケランの呻きで、彼も無事であったことをエンセイは知る。
答えたのはバルデアだ。効果の説明ではなく、それを所持する意図を述べた。
「戦いは常に一対一とは限らない」
「“常に備えよ”か」
エンセイが口にすれば、バルデアは皮肉げに唇を歪める。
「お前は自身で告げたことすら忘れていたようだが、私はそれをより現実的に実践している」
「それが道具を使う理由か」
「
「勝つためか――」
一度負けたと自認するエンセイにはそれを否定する資格などあるはずがない。痛烈であり、重くのしかかる言葉であった。
図書室に静寂が戻る。
再び弾き飛ばされた二人が動き出す気配はない。何の前触れもなくそうなれば受け身を取ることもできなかったろう。
それでも書棚や本が衝撃を和らげてくれたはずだ。意識を手放しても心配するような怪我は負っていまいとエンセイは判断する。
「……ところでエルネ様はどこにおられる?」
バルデアに問われてエンセイは無言を通す。だがそれをバルデアの言葉が赦さない。
「お前はその腕を見込まれていたのではなかったのか? 役目も果たさず、
「姫はご無事だ――」
思わずエンセイはそう返していた。
バルデアに嘲られることよりも、バルデアに
「姫はご無事で、ここに来ることになっておる」
「ぬけぬけと――」
「嘘ではない。そして私の役目は――姫に先んじて、その障害と成り得るものを取り除くこと」
そう声音に覚悟をしっかと乗せて。
それが己の剣であるのだと。
グリュンフェルト――自分の下を去った
「やれるのか――
「やれる。お前が私の前に立ち塞がるならば」
エンセイはその白面をみつめる。
昔の記憶からかけ離れてしまった病的な面貌に色素を失った白髪。
愛らしい声は低く掠れて男を思わせる。
あらためて目にする娘の変わり果てた姿に、胸が詰まり、エンセイは唇を強く噛みしめる。
どうしてこうなった――はない。
すべては己の弱さが招いたことと承知している。
だから、ここで折れるわけにはいかぬ。
例え実の娘が相手でも、口先だけで逃げるつもりはない。
剣で挑むだけだ。
この、己の剣で。
視線に込められた父の思いを娘はどう受け止めたのか。
「……ここは手狭だな。場所を替えよう」
無造作に背を向けるバルデアにエンセイは黙って従う。「後を任せる」とミケランに目配せし、図書室を出てゆく娘の背を追う。
一見して冷静に見えるバルデアだが、そうでもないのかもしれない。少年や女を殺したわけでもないのに、ミケランに至っては無傷であるのに一切顧みずに先をゆく。
あるいは、エンセイ以外を脅威とみなしていないのかもしれない。それは武力としてかもしれないし、エルネにしか価値を見出していないことが理由であったろうか。
そのことをあえて問う必要もあるまいとエンセイは触れずにいた。正直、これからの一戦に集中する必要があったことも一因だが。
「……」
白髪であっても丁寧に梳かされた髪。
キレイに背筋が延びて、しっかりと石床を踏む足取りに気性の強さが感じられる。
何よりも重心の安定感に彼女がこれまで基礎を疎かにせず丹念に積み重ねてきたことをエンセイは感じ取る。
その心中にいかなる念いが渦巻いていようとも、彼女なりに、剣に対し真摯に向き合っていたことだけは確からしい。
(嫌われて当然か――)
今さら、そのようなことに気付くほど、自分は娘を見ていなかった。
実際、互いに避けてきたこともあり、今回こうして話す機会を持ったのも何年ぶりか覚えてさえいない。
エンセイは自分の駄目さ加減を知り、詫びる思いが胸を占めた。
それでも移動中、父娘が言葉を交わすことはひとつもなかった。
娘が父を嫌うからか、父が娘を避けるがためか。
あるいは――袂を分かつといえど剣士と剣士。これから嫌と云うほど、刃で語り合うと思えば言葉は不要であったのか。
エンセイ自身も答えは分からず、娘の剣士にしてはほっそりした背に黙って続く。
「……ひとつ、聞かせてもらおうか」
近くの小広間に辿り着くと、バルデアが部屋中央で振り返った。
「エルネ様は……何が望みだ?」
「対話だ」
まるで自分達に必要なものを答えるかのように。
「彼女は今でも、殿下を好いている。殿下の人柄を信じているのだ」
「それは殿下も同じ事」
まるで、互いの思いを言い当て代弁するかのように。
父は娘を、娘は父の胸内を。
いや、それは錯覚か。
二人が代弁しているのは公女と大公実弟の心中に他ならない。
エンセイが言葉で踏み込む。
「ならばなぜ、父君の座を奪い、その娘を追い回す真似をする?」
「その問いかけをそっくり返そう。信じているというのなら、なぜこのような回りくどい真似をする」
愛の裏返しか。
愛するからこそ、生まれた疑念を捨て置けず、信じるからこそ、理解できぬ言動に憤る。
結局、血の繋がりがあろうとなかろうと。
伝心能力者でもないかぎり、人と人は肉体という器で区切られ、空気の壁で遮られた、所詮は個別の人間ということだ。
それぞれが独自の価値観を持ち、独自に考え行動する。その相手の言動に疑念のひとつやふたつは生まれるもの。
言葉にせねば、感情を吐き出さねば、伝わらないものがあって当然だ。
伝えきれぬ思いが、ささいな疑念や齟齬を生み出してしまうことが。
エルネとルストランの間も。
エンセイとバルデアの間にも。
「……その答えは、当人同士で語り合い、知るしかあるまい」
「それには同意せざるを得まい」
応じてバルデアが騎士剣を構える。
それだけで場の空気が冷えたような気がした。
冷水を浴びせられたような殺気は、無機質な双瞳から放たれるもの。それは彼女が見てきた死の数だけ心の熱を奪われてきたことを意味していた。
「……よほど、見なくていいものを見てきたらしいな」
「何を舐めたことを云っている? 女が“三剣士”になることの意味を、お前には分からせる必要がありそうだな」
「その心配は無用だ」
エンセイが剣を抜き放った。
それは後戻りできぬ一線を越えた証。
エンセイという稀代の剣士が、バルデアという強者を迎え討つ意志を示す行為。
おもむろに構えた途端、途方もない重圧がバルデアの細身にのしかかる。
骨が軋み肉が悲鳴を上げる錯覚。だがそれも一瞬のこと。バルデアが意識を凝らすだけで、腹腔から放射状に目に見えぬ圧力が跳ね返されていた。
ただ、気のやりとりだけで。
並の剣力では気死するか気分を悪くして倒れ込む桁外れの緊張感を漲らせ、小広間全体が軋みを上げる。
これが公国の頂点に立つ者達の戦いか。
今ここに、公国史上初めてとなる“三剣士”同士の戦いが、始められようとしていた――。
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