第86話 天秤の罠

シュレーベン城地下

 『秘密の王道』――



 華美な装飾を排した南蛮鎧に手甲と脛当て。

 兜の代わりに豊かな頭髪が見事に再現され、異人らしい彫りの深い相貌には意志の強さを表す引き締められた唇が――それは紛れもない兵士の立像であり、ひとつの大石から削り出されたもののように見えた。

 なのに。

 膝を曲げ、肘を振りだし彫像にはあり得ぬ動きで悠然と歩み始めたのは、どういうカラクリの為せる業なのか。

 これも『魔導具』なるもののひとつ?

 あるいは、妖術によって石像にいつわりの命を吹き込んだとでもいうのか――。

 動くたび、ビシパシと関節部に無数の細かい亀裂やヒビが入り、ぽろぽろと細片を剥離させながらも石像の兵士が長剣を片手に迫り来る。

 その瞳なき無機質な双眸に明瞭な殺意が宿っていなくとも、自分達を破壊の対象と捉えていることだけは、根拠もなく断言できた。


「任せる」

「……くっ、若?!」


 月齊の苦鳴は、唐突に重石を押しつけられた驚きが半分。もう半分は、弦矢の為さんとすることに対し“それは臣下の務め”との訴えだ。

 その訴えを、弦矢は背中で撥ね除ける。


 譲れるはずもない。


 ここは自分達の常識が通用せぬ、危険極まる未知の世界。

 もはや築き上げた身分は虚ろとなり、手に入れた領地も幻と消え。

 なればこそ、相身互いで生きるべきを、大蜘蛛討伐に城外周辺の探索と皆にのみ危地を歩ませ、己は城内奥にて安穏とふんぞり返る日々だなどと――斯様な傲岸不遜、許容できるはずもなし。


 共に汗を掻き、共に血を流す――


 有事における当主とは、そうあるべきぞ。

 弦矢自身の、それこそが理想像。

 だからこそ、すぐさま追従しようとする月齊の動きを制すのだ。


それ・・を放ってはならぬぞ、月齊。当主としての厳命だ――」

「そんな無体な、若っ」


 鋭い当主の命令に月齊が堪らず苦悶の声を絞り出す。

 頭では今すぐ手を放し、助太刀すべきと分かっても、当主直々のお達しに、侍としての本能が己が身を縛り上げる。

 その一瞬の硬直を突くように、弦矢は月齊にたたみ掛ける。


「許せ、月齊。儂自身高めねば、この地で当主として、差配なぞ振れようものか――」


 その言葉に月齊が押し黙る。

 抜刀隊員は向上心の塊だ。

 憧れ、野望、自尊心――理由の如何に関わらず、

それぞれが目指すべき高みを胸に抱き、そこへ近づくため、あらゆる苦難を己に課す。

 時には疑念や葛藤を抱えながら。

 それでも冷めぬ“念いの熱”に突き動かされて。

 その高みを目指す者の気持ちならば、己が事のようによく解る。

 だからこそ、勇躍せんとする当主の行動を、どうして押し留めることができようか。


「――――っ」


 当然、その沈黙の意味を弦矢は承知する。

 もはや憂い無き黒瞳に映るのは、間合いを詰めた兵士像が石の長剣を高々と振り上げる攻撃の姿勢。


 ぎりぎりのところで、主従の念いは一致した。


 ぶうん、と重い唸りを響かせ石の長剣が弦矢を袈裟斬りに狙う。


(遅い――だがあれ・・とは打ち合えぬ)


 咄嗟の判断で左に重心を乗せた弦矢の膝が、ふいに折れた。



「!」

 ジッ――



 側頭部をわずかに擦られ、思わずたたらを踏む弦矢に「若?!」と異変を察した月齊が切迫した声を上げる。


「大事ないっ」


 砂地であるを忘れて足を取られただけだ。

 もちろん、先読みで動き出しが早くなければ、首をもぎ取れていたのは確かだが。

 所詮はただの擦り傷よ。

 そう判じた弦矢の、それは油断であったのか。

 意識ははっきりしているのに、膝に力が入らないことにすぐさま気付いた。

 脳震盪――兵士像が振るう攻撃力の大きさに、擦れただけで頭を揺すられたに違いない。



「――ちっ」

 ブンッッ



 切り返しの二撃目も力任せであったが、弦矢は膝に渾身の力を込めて跳び退っていた。

 目の前を嫌な音を立てて長剣の刃先が過ぎる。

 着地したときには、弦矢の口元に苦い笑みが浮かんでいた。

 やはり膝に力が入らない。

 初っ端からとちる・・・のはいつ以来であったか。


「やはり拙者も――」

「だめだ」


 平素の声で、しかし厳しさを込めて月齊の口を噤ませる。


「今のは砂地であるを失念した、儂の落ち度だ。じゃが、これこそが実戦でしか味わえぬもの――」


 むしろ嬉しくもあると。

 実戦の勘が鈍っている現実に弦矢は苦笑を覚えつつ、同時に、取り戻す丁度良い機会だと気合いが入る。


 砂地の動きにくさ。

 下手に切り結ぶことも、打ち込むこともできぬ石造りの頑強さ。

 そして体格はさほど変わりないながら、重量も膂力も向こうが上とみる。


 だが、不利な条件がそろうほど、己を鍛え上げるには好都合。

 これは、弦矢が異境の地でやっていくために“必要不可欠な戦い”なのだ。それを邪魔されては叶わ・・・・・・・・と。


「分かり申した」


 当主の意を汲んで、月齊はあらためて首肯する。


「然らばそれがし、据え物運びに集中させていただきます」

「ああ、こちらは任せておけ」


 兵士像の動きを窺いながら、弦矢は己の膝をぱんと叩き、揉みほぐす。

 いけるか――いける。何も問題はない。

 砂地の深さ、柔らかさを念頭に置き、相手の馬鹿力に注意を払え。

 さすれば憂慮すべき問題は、石造りゆえの頑強さに絞られる、のだが。


「……さて、どのように相手したものか」


 心中の不安とは裏腹に惚けた台詞を口にして。

 兵士像が手にする右手の長剣を視野に収めながら、弦矢は反対側へ踏み込んで兵士像の攻撃を誘う。

 誘いに乗り長剣を振りかぶり終える頃には、二歩目で懐へ。それでも長剣が振り下ろされ――

 背後へ回り込むように密着した弦矢が、兵士像の剣持つ手首を掴み取り、腰に手を回してクルリと身体を入れ替える、ように見えた。

 それだけのはずが。



 ――ガジッ――――ドズッ!!



 軽い地響きは壁に重量物が叩きつけられた音。

 背中から叩きつけられた当の兵士像に意志あるならば、自身に何が起こったか訳も分からず、強い困惑に襲われていたに違いない。

 さもあらん。

 体重にして倍近くある石像を二間(約4メートル)も投げ飛ばすなど、常識外の出来事。

 それでも事実は曲げられぬ。

 途中、秤皿たる石版の端に当たったらしく、揺れる石版の向こうで、壁に逆立ちする格好で張り付いている兵士像の姿が何よりの証であった。


「――お見事」


 きびすを返す弦矢の態度で事の終わりを察したのだろう。月齊より、抜刀隊『第三席次』として心からの称賛が送られる。


「それが噂の術・・・でございますな」

「噂……?」

「いえ、小耳に挟んだにすぎませぬ。――『餓狼』の強さの根底には、諏訪家直系のみに伝えられる秘術があるのだと」


 二人だけにも関わらず声をひそめる月齊に、「万雷の爺様か」と弦矢は流言の元凶にあたりをつける。


「まさか、お前まで・・・・手合わせしたいと言い出すまいな?」

「滅相もないっ。今がどのような時か、分別くらいはつけられます」


 慌てて否定する月齊に弦矢は思わず苦笑を浮かべる。それすなわち、“今でなければ申し入れたい”という念いの裏返しではないかと。とはいえ、あえて気付かぬふりをして。


「それでよい。余計なことは考えず、重石を運ぶことに集中せい」

「ならば二人の方が――」

「いいわけあるまい。一体目が動くというに、何故二体目がそうではないと考える……?」


 当然と云えば当然の指摘に、だが、失念していたらしい月齊は「ぁ」と口を開く。その時には、弦矢は反対側の壁へ視線を向けていた。

 口元に「まだ戦える」という喜びを露わにしながら。

 弦矢の視線の先で、足下に砂埃を舞い上がらせながら、二体目の兵士像が当然のように立っていた。


「いつの間に……?」

「気にするな、月齊。それより役目を全うしろ。少しでも我らの道行きを早めるために」

「……はい」


 何か言いかけた月齊が、すぐに首を振り「よいせっ」と動き出す。実際、持ったままでも辛いのだ。愚にもつかぬ事を口にするより、さっさと終わらせるべきと思ったのだろう。

 弦矢も臣下の尻を叩くだけでなく、己の役目を果たさんとする。


「さあ、お前は儂が相手してやる」


 軽く腰を落とし、わざと両手を広げて兵士像の注意を引き付ける。

 それが功を奏したか、兵士像は独特の破砕音をたてながら、ぎくしゃくと弦矢に向かって歩み始めた。

 一歩ごとに砂埃が舞い上がり、心なしか栗の花の匂いがきつくなる。気に障る匂いもまた、精神的な嫌がらせのひとつと言えようか。

 敏捷さでこちらが上回るとはいえ、集中力を削がれ隙を突かれたら、攻撃をもらう可能性は十分にある。

 なにしろ兵士像の攻撃力は十分だ。鎧も帯びぬ弦矢に当たれば、骨を折り内臓を痛めつけ一撃必倒は確実だ。

 だからこそ、己の力に慢心せず、攻略の糸口を早く掴む必要があった。


「では、お前も同じ・・・・・かな――?」


 先ほどと同様、弦矢は剣持つ逆側をついてみる。

 所詮はカラクリ仕掛け、同じ欠点を持つならこれで決まりだと。

 しかし弦矢が密着したところから、一度目と同じであった展開に異変が生じる。

 密着の度合い、あるいは時間的な差異があったのか、兵士像は長剣を振り上げきらず、間近に迫った弦矢に意表を突く左拳を叩きつけてきた。


「おう?!」


 その左腕を透かしながら右腕で抱え込み、己の身体も共にわずかに後退る。その勢いを殺すことなく、倒れ込むように身体を回転させて――



 ――――ズンッ



 今度は頭から砂地に叩きつけられ、素早く離れた弦矢の目の前で、逆立ちの兵士像はゆっくりと倒れ伏した。

 今度もまた、ひと投げで。

 斬撃でなければ打撃でもなく、ただ素手による導きで己の倍以上ある相手を宙に舞わせるとは。

 それこそが、臣下の間で噂に上る諏訪家伝来の秘術だというのか――?


「終わったぞ」

「ぜいっ……左様で? これは、気付きませんで」


 荒い息をつく月齊に、余裕がないのも当然か。さすがに罪悪感が湧いてきて、弦矢は少し反省する。


「無理をさせた。どれ、儂も手伝おう――」

「存外にあっけない。まさか他にもある、とはなりますまいな? 妖術の種は尽きぬなどと」


 そうであれば実に厭らしい罠である。

 困るのは、絶体にないと言い切れぬだけに、念押す月齊に苦笑を浮かべた弦矢であったが――そこでわずかに目を見開いた。

 そしてぽつりとこぼす。


「おぬしが……」

「え、拙者が何か?」


 おかしな戯言を口にするからだ――そんな言葉を弦矢は呑み込んだ。

 確かにあれでは物足りない。

 とはいえ、修練が本日の目的ではない。むしろこのような事に患わされている場合ではなく、早々に城内潜入を果たさねばならないのだ。

 お替わり・・・・がほしいとは、さすがに思わない。

 なのに。

 弦矢はそれ・・を見た。

 投げ飛ばした兵士像が、壁から剥がれ落ち、そこから人ではあり得ない動きでぐりん・・・と立ち上がる姿を。 

 あまつさえ、一部破損していたはずの部位も完全に治った上で。


もう一度・・・・――それを素直に喜ぶべきではないのだろうな」


 さすがに浮かべていた苦笑を弦矢は強張らせる。

 今また倒したところで終わりがない――そう予感させるに十分な怪現象を目にすれば。


「若――?」

「一体目が蘇りおった。それも壊れた身体が元通りになった上でな」

「それは――」


 言葉を失う月齊が、すぐさまもうひとつの可能性に気付いて問いかける。


「――まさかもう一体も?」

「そのようだ」

 

 当然のように、首が折れていた兵士像の肉体がゴリゴリと軋みだし、背中が正面であるかのように、逆向きに上半身を起き上がらせた。

 本物の人体なら、背骨の折れる嫌な音が生涯鼓膜にこびりついていたところだが、そもそも単なる石像だ。石の擦れ合う耳障りな音を立てたのみ。裏も表もないというわけだ。

 ただ、それよりも。


二体同時・・・・――」

「やるしかありませんな、若」


 今度こそ共闘をとの意を含める月齊に、弦矢はあくまで単身で挑むと突っぱねる。


「逆だ月齊。おそらく、やつらに構っていても切り・・がない・・・。ここは儂が刻を稼ぐゆえ、さっさと扉を開けてしまえっ」

「ですが、二体も抑えるのは――」

「苦しいな」


 それも覚悟の上だと弦矢は応じる。


「どのみち、ぬしの鉄棍では歯が立たぬ。ここは儂の組み討ち・・・・に託してもらうしかあるまい」


 さらりと言ってのけるが、不死身の兵士像をたった一人で二体も相手取るのは至難の業だ。それを承知した上で月齊は羨んでみせる。


「……狡いですな・・・・・、若」

「悪いな。これも当主の特権じゃ」


 抜刀隊流の激励に、抜刀隊流で答えを返した弦矢が力強く砂地を蹴った。

 まずは投げ飛ばした兵士像へ。

 その次に首を折った兵士像を相手する。

 一体づつ速やかかつ交互に倒して、二体同時の相対をできるだけ避け続けるしかない。いや――



「ミケラン殿、加勢を頼む!!」



 腹から声を絞り出し、弦矢は入口へ向けて助勢を請うた。ここで自分達が倒れるようなことがあれば、戦力が半減するだけでなく、仕掛けを突破するにも時間が掛かりすぎ、結果としてすべての策が水泡に帰す。それは共に異境の地へ渡った諏訪の者達の未来も閉ざしかねぬもの。

 事ここに至っては、恥を忍んで助勢を求めるのが正答だ。己の意地で目を曇らせ、判断を誤ることこそ避けねばならぬ。

 必死の声が届くと信じ、今度こそ、弦矢は兵士像へと足を向けた。


「走れ月齊っ。狙われているぞ!」

「!」


 さすがに重労働が三度目ともなれば、疲労のせいで月齊の感覚が鈍くなっているようだ。

 最後の据え物を取りに向かう月齊の背に兵士像が迫っており、弦矢は注意を促しながら、回り込む形で近づいてゆく。


「所詮は愚物か、化け物よっ」


 まっすぐ月齊を追い、こちらへ見向きもせぬ兵士像に弦矢はいとも簡単に横から飛びついた。

 狙いは兵士像が踏み出し、片足となったその瞬間。

 首を片腕で極め、それを基点に身体を振り回し、遠心力を最大に効かせて兵士像を砂地に倒す。その衝撃で、柔軟性のない石の肉体があっけなく破損する。

 ぴたりと死んだように動きを止めた兵士像であったが、それも今だけの話しだろう。


「次――」


 様子を見守ることなく、跳ね起きた弦矢はすぐさま別の一体へと駆け戻る。

 それからは、ひたすら兵士像二体との間を往復し続ける戦いとなった。

 時に攻撃を受け、時に積極的に仕掛けて石像を投げ、倒して破壊のかぎりを尽くした。だが何度倒され壊されても、兵士像はそのたびに完治して以前と変わらぬ様子で動き出す。

 これにはさしもの弦矢も堪ったものではない。

 簡単に投げ飛ばしているようにも見えるが、人体とは造りの違う化け物相手の行為だけに、兵士像の力と重量だけでなく、自身の力と重量も掛け合わせることで術理を発揮させている。

 それも兵士像を破壊するほどの威力を産み出すともなれば、わざの体現に尋常ならざる集中力も必要となってくる。

 つまるところ、心身の消耗が異常に激しいのだ。

 はじめは嬉々として立ち向かっていたものの。


「ぜい、はあ、ぜい……ごほ、ごほっ」

「もう少しです、若っ……くっ」


 額から流れ落ちる汗が、目に入り浸みる。

 こするとじゃり・・・と砂埃が。

 今では腰元まで白煙のように砂埃が舞い上がり、強い栗の花が鼻につく。それが余計に二人を苦しめていた。


「……急激に、体力がっ……」

「このむせる・・・ような匂いが、息苦しくさせますな」


 はじめはただ、違和感を感じる程度であったものが。今ならはっきりと“匂い”さえも罠のひとつ・・・・・であったのだと確信できる。

 砂地は侵入者の敏捷さを奪うだけでなく、埃が立つほどの細かさや濃密な匂いといった三重の意味で、立派な罠として機能していたのだ。


「刻が経つほどに、追い込まれてゆく……」

「エグい仕掛けも、あったもの」


 そう相づちを打つ月齊が立ち止まる。

 さすがにひとりでは限界か。

 それは弦矢であっても同じこと。

 ミケランはまだ助勢に来ないのか?

 そう思った矢先に待望の声が。


「ゲンヤ様――?!」


 悲鳴のような少女の声に、弦矢は顎から汗を滴らせ短く応じた。


「来てはならぬ」

「これは一体、何事ですか――?」


 呆然とした声にエルネの耳に弦矢の声が届いていないことが窺えた。振り向く余裕もないままに辛抱強く弦矢は繰り返す。


「そのままでいよ、姫。それよりミケラン殿は?」

「ここに」


 声の位置からしてエルネのそばにいたらしい。


「見ての通り、いささか分が悪い。貴殿に助太刀願いたい」

「構いませんが、何をどう……?」

「何をも何も」


 この状況での、思わぬ愚鈍な振る舞いに弦矢は少し苛立ちを覚える。だがミケランは本気で戸惑っているようだ。

 何かがおかしい。

 不審の念はエルネの困惑しきった言葉で一層強まった。


「どうされたのです、ゲンヤ様? 先ほどから何を仰られているのです……?」

 

         *****


刻を少し遡る

シュレーベン城地下

 秘密の王道『天秤の間』手前の通路――



 ミケラン殿、加勢を頼む!!


 唐突に、大音声に鼓膜を叩かれてエルネはびくりと小柄な身体をさらに縮ませた。


「今のは――」


 エルネとは逆に通路の先へ鋭い視線を向けたのはミケランだ。

 通路はゆるやかに蛇行しているらしく、弦矢達のペンダントが放つ光明を捉えることは叶わず、何が起こっているのかを直接目にすることはできない。

 ただ、助けを求める以上、よほどの事に直面しているには違いない。

 違いない、のだが――。

 ミケランの視線が自身に注がれ迷いを見せていることなど気付かぬエルネは。


「行って、ミケラン」

「それはできません」

「貴方が先に進み、後からエンセイ様が来るのなら、私に危険などあるはずないでしょ?」


 安心させようとするエルネに、だが、はっきりとミケランは被りを振る。


「理屈の問題ではありません。護るべき者から、決して離れぬことが警護の大原則――すべてはそれを踏まえての話になるのです」

「それで、彼らを見捨てることになっても?」

「……」

「非公式の場とはいえ、私が大公家の名の下に、同盟を結んだのに?」


 そうしてエルネが圧力を強めれば、


「私の役目は姫の警護であり、政治のことは存じません」


 むっつりと告げる頑固者に、エルネも口をへの字に結んで睨み付ける。

 だが通路の向こうから、ズシン、ドシンと地響きのようなものが繰り返し聞こえはじめて、いつまでもこうしてはいられないとエルネの顔に焦りが出はじめた。


「ミケラン――」

「分かって下さい、姫。離れるわけにはいかないのですっ」

「ならこうしましょ」


 意を決したようにエルネはマスクを地べたに置くや、通路の先へと歩き始めた。貴方が行かないなら、私が助けに行くまでだ、と。


「お待ち下さい、姫!」

「何よ、いいアイディアでしょ? こうすれば貴方もついてこざるを得ない」


 小柄なせいか中腰の姿勢に苦しむことなく、エルネは滑らかに天井の低い通路をすたすたと進んでゆく。


「エンセイ殿のことは、どうされるのです?」

「ささっと助けて、ささっと戻ればいいじゃない。それが無理でも、エンセイ様なら、きっとマスクの匂いに気付いてくれるはず」


 あまりに楽観的な台詞にミケランは驚いたようだが、説得は難しいと思ったのだろう。


「せめて、私が前に出ます」

「そんな余裕あるわけないでしょ」

「姫っ――」


 構わず進むエルネの後をミケランが慌てて追いかける。そうして新たな広間に辿り着く頃には、濃密な異臭に鼻をしかめさせられ、同時に幾つかの興味深い光景に目移りさせられることとなった。


(どういうこと、これは――?)


 エルネ達がまず目にしたのは、大公家の紋章が大きく彫り込まれた馬鹿でかい金属の扉。

 それは先ほど目にしたものと同じ石造りの出入口をしっかりと塞いでおり、どうやら天秤構造のカラクリで開閉される仕組みになっているらしい。

 それよりエルネが気になったのは、玄関上部に彫り込まれた『神意文字ルーン』であったろう。


(【あなた】……【重要】いえ【大切】? ……それに【三つ】かな)


 エルネはきつく目をすがめ、何とか神意文字を読み取ろうとする。

 確かルストランに聞かされた話しでは、神意文字の研究は様々な職種の者達が取り組んでいる割に、まだまだ解明されていない部分があるとのことだった。

 特にそれぞれの成果をとりまとめる機会がなかったために、同じ単語でも書物によって解釈される意味合いに相違が出るのだとか。

 そのため、文脈として捉えるのにも苦労するわけだ。


「叔父様なら、前後の流れで、イイ感じに文脈を掴めるのだけど……」


 「記述者に思いを馳せろ」、「記述者の意図を読み取れ」とはルストランがよく口にしていた翻訳のコツだが、正直、エルネにはぴんとこない話しだ。

 まあ、未熟を悔いても仕方が無い。

 それに今は他に、もっと集中すべきことがある。

 金属の扉を含めた大天秤の大仕掛けに目を奪われがちだが、助けを求めてきた肝心の二人が、何やらおかしな行動を取っていることに気付いて、エルネは思わず眉をしかめた。

 汗みずくになって胸像を抱える盲目の侍はまだいいとして、ひとり砂地に寝転がり暴れ回っている弦矢は、一体何をしているのか?


「ゲンヤ様――?」


 思わず声を掛ければ「来てはならぬ」との短い返答が。


「これは一体、何事ですか――?」


 状況が理解できず聞き返せば、弦矢は焦れたように同じ内容を繰り返す。

 その真摯な声音に悪ふざけでないことは窺える。だが、素早く起き上がるなり、ある一点を凝視して「近寄るな」と警告を発する姿にはどうしようもなく不安を煽られる。

 何かが二人の身に起きているのは確かだ。ただ、それが何なのかがエルネには分からない。


「どうされたのです、ゲンヤ様? 先ほどから何を仰られているのです……?」


 あらためて戸惑いを言葉に乗せれば、そこで初めて、弦矢の顔つきが訝しむものに変わった。


「……儂らが秤皿に重石を乗せたところ、この兵士・・・・が襲ってきたのよ」

「兵士像……?」


 どこにそんなものが?

 エルネの言葉に、弦矢の眉間に寄っていた皺が深くなった。自身とエルネとのすれ違いに・・・・・ようやく気付いた感じだ。


「無論、この動く石像のことよっ。何度倒し壊しても、そのたびに元通りに治り、襲ってきよる!」

「待って。そんなもの、どこにもいなわ・・・・・・・!」


 エルネが叫んだ時、弦矢が何かを避けるように素早く動いた。二度、三度と身を翻し、あたかも攻撃を受けているかのごとく舞い踊る。


「ゲンヤ様っ」

「姫、これはもしや幻術では・・・・――」


 思わず駆け出しそうになったエルネの肩をミケランが抑えた。落ち着くよう促す手の力強さに、エルネは辛うじて逸る気持ちをグッと抑え込む。


「幻術……これも罠だと?」

「もちろん、死霊系の怪物には実体化せずに害悪をもたらす厄介な者もおりますが……」


 『嘆きの死霊鬼グリーフ・ゴースト』や『幽界の死撃手アストラル・デッド・シューター』はその代表的な死霊系怪物であり、彼らは半身が星幽界アストラル・プレーンに存在することから、不可視な上に物理的接触自体がままならない厄介極まる敵として知られている。

 だが、ミケランの見立てではそうではないと。


「幻術にしても厄介ね。まずは止めさせたいけど」

「自分で止めるのは無理でしょう。だからといって、こちらから近づくのも無謀です。今のところ、私たちのことは認識できるようですが、下手に近づき敵と誤認されても厄介です」


 経験則からか、実感がこもるミケランの言葉を耳にしながら、云われてみれば、特徴のある幻覚作用だとエルネは気付く。


「単純に“不安を駆り立てる”のが一般的な幻覚作用なのに、これはちょっと違うみたいね……」

「それより、罠の発動条件を知らねば。私たちまで幻覚を受けるわけにはいきません」


 ミケランの心配も尤もだ。

 だが、この部屋にあるのは金属扉に大天秤の大仕掛け、そして四隅にある胸像とふたつの兵士像。一見しただけでは、幻覚作用を与えそうな怪しげな小物は見当たらない。


「念のため、兵士像を見ない方が」

「でも兵士像には何もなさそうだけど……」


 刻既に遅く、エルネは観察を終えている。

 『魔導具』か宝石でも嵌め込まれていれば別であったが、そうした怪しい物は何もない。だが弦矢達は、あの壁に嵌め込まれた兵士像が動き出していると云い、今も実際に戦っているのだ・・・・・・・・・・

 何かの仕掛けが必ずあるはず。


「ゲンヤ様、幻覚を見せられる原因があったはず。何か覚えがありませんかっ」

「む? そう云われても――」


 汗を飛び散らせながら、弦矢は記憶をひっくり返してくれている。だが気づけるものはないらしい。


「すまんっ。これといって覚えが――」

「胸像は? 胸像に何か仕掛けが」

「儂も運んだが、そんな仕掛けはなかった」

「運んだ? 二人とも?」


 それが共通点だというのなら。


「針? それとも何かが塗られていた……?」

「幻覚なら、見たり聞いたり薬を飲むのが一般的ですが」


 いや、もうひとつある。

 一緒に智恵を絞るミケランの言葉がエルネに天啓を与える。


「匂い――胸像を抱えたとき、何か香りがしなかった?」

「どうじゃ、月齊っ」


 すかさず、今も重たい胸像を抱える臣下へ弦矢が声を掛ければ「残念ながら、拙者には何も」とのげない・・・答えが返される。だが、次に続く言葉こそが大本命。


「何しろ、この“栗の花”に似た匂いの方がきつすぎて……」

「……あ、この匂い・・・・、もしかしてっ」


 思わずエルネが甲高い声で叫ぶ。

 何でこれを見落としていたのかと。

 むせ返るような嫌な匂いと幻術という言葉がエルネの中で合致して、ある記憶が掘り起こされていた。


「これ“モンブルの実”の匂いだわ」

「“モンブルの実”?」

「確か、“思い込み”を強め“幻覚症状”を誘発する薬に用いるって教えられたことがあるの。……身を守るためにって」


 貴族社会での暗殺はそう頻繁でないものの、起こり得る現実的な脅威である。

 当然、大公家の歴史においても御家騒動の一端で毒殺事件は起きており、それ故、致死毒や幻覚剤など暗殺に用いられる代表的な数種類の特性を識り、万一に服した場合の対処法などを大公家では帝王学の一環として学ぶことになっていた。

 エルネの場合、兄弟で帝王学を修めていたルストランから野外ピクニックの途上で聞かされたことがあったのだ。


「では、この砂地に……?」


 ミケランが指差すのをエルネは首を振って否定する。


「いえ、そうじゃない。この白い砂地そのものが・・・・・・・・・、“モンブルの実”を粉末状にしたものなのよっ」


 つまりはこういうことだ。

 天秤仕掛けは、侵入者に部屋をうろつかせ、粉末を舞い上がらせるための誘導装置。

 舞い上がった“モンブルの実”の粉を侵入者がたっぷり吸い込めば、あとは“ささいな恐怖心あるいは不安”から出た言葉を口にするだけで、その妄想は現実となって・・・・・・自身に襲い掛かる――これも精神を責める罠というわけだ。


これが・・・――幻だと?」


 追い込まれた状態であっても、二人の会話を聞き取っていたらしい。

 宙空の一点を凝視する弦矢には兵士像の姿がありありと見えるのだろうが、エルネ達にはそれが幻であると断言できる。


「私の声が正しく聞き取れるということは、“モンブルの実”である何よりの証拠です。

 乱りに幻覚をもたらさず、冷静に第三者と会話できるからこそ、この幻覚作用をうまく使い、第三者に気取られることなく自殺に追い込めると重宝がられていたわけですから」

「その言葉、信じたいが……っ」


 弦矢が低く唸るのは、その頬に紛れもない刃傷が赤く走ったためだ。

 それは強力な幻覚作用を切っ掛けとした自己暗示が引き起こす生体反応のひとつ。

 人体とは不思議なもので、氷柱に触れたと思えば冷たさに身震いし、焼きごてを当てられたと思えば火膨れを起こす。

 幻覚の中で弦矢が傷を受ければ、それは正しく実になる・・・・というわけだ。

 これで万一、弦矢が“斬り殺された”などと認知しようものなら――エルネは幻覚に関する知識を思い起こし、顔から血の気が引くのをはっきり感じとる。


「すみませんっ。解毒の術か上級ポーションなら幻覚を解除できるのに……今は何もなくてっ」

「ではどうする? この頬の血……まぎれもない本物であろう?」


 弦矢も事の厄介さに気付いたらしい。

 エルネが小刻みに頷いて、懸命に打開策を考える。


「とにかく、この場を離れましょうっ。この幻覚作用は威力が強い分、持続性が短いのが特徴だったはず」

「結局はそうなるか――」

「私たちも手伝いますからっ、もう少しご辛抱下さい! ――ミケラン!!」

「すぐにっ」


 エルネに皆まで云わせず、状況を理解したミケランが月齊に向かって走り出す。歩くも走るも一緒なら、短時間で作業を済ませることに注力するのが正しき行動だ。

 最後の胸像はもう少しで運び終えられる。ミケランやエルネまでが幻覚粉に毒される前に、何としてでもケリを付ける必要があった。

 エルネは一瞬、マスクを取りに戻ることも考えたが、エンセイのために置いておくべきと考えを改めた。

 まあ、扉を開けておきさえすれば問題ないとは思うのだが。


「――よし、これで最後だ」


 各々で胸像を運び合った時もあり、何とも偏った配置になってしまったが、ぎりぎり秤皿である石版の隅に最後のひとつを載せ終える。

 同時に天秤が動き出し、じゃらじゃらと派手な鎖擦れの音を立てながら金属扉がゆるりと持ち上げられた。


「ゲンヤ様、急いで!」

かたじけないっ」

「みんなもっ」


 口元を布で覆いながら、エルネは皆に声を掛けこの“天秤の間”とでも呼ぶべき部屋から抜け出してゆく。

 弦矢。

 エルネ。

 遅れて月齊を先頭にミケランが走り込もうとしたところで。

 ガシャリと何かの弾ける音が響いて、突然、金属扉が落下した。



「ぐおあっ」

 ――ズズリッ



 振り向いたエルネが目にしたのは、月齊が床に倒れているのと、ずり下がっていく金属扉を下支えするミケランの指先だけであった。


「え、ちょっ――」

「ぐぅ……姫を、頼む!!!!」


 ただそれだけを言い残して金属扉がズシリと落ちきってしまう。

 それきり、何の物音もせず。

 あまりに突然の出来事に、誰もがしばし、呆然と立ち尽くす。


「ミケラン……?」


 エルネの小さな呟き。

 よろよろと扉に近づいて、そっと金属板に手を添えて。

 堅くて冷たい手触りは、何をしても無駄だと冷厳に隔てる冥府の門のようでさえある。実際、金属扉の表面には、無数の擦過傷が走っていたがそれまでだ。いかなる金属でできているのか、生半な攻撃力では傷一つつけられないのはエルネにだって理解できた。

 それでも。


「……もう一度。そうよ、ミケラン! もう一度、胸像を乗せればっっ」


 顔を上げ、必死に声を張り上げるエルネの肩を誰かがそっと掴んだ。先ほどのミケランと同じ、ごついけれど力強く、そして温かい手だ。


「彼ならすぐに気付くはず。少し、待ってみよう」

「でもっ……いえ、そうですね」


 同意したものの、答えは見えていた。

 何の問題もないのなら、扉が勝手に閉まるはずもない。あれは鎖か秤皿か、あるいは胸像そのものが破損した結果に違いない。

 長い年月による劣化もあるかもしれないが、乱暴に扱ったせいもあるだろう。――運が悪かったといえばそれまでだが。


 よりによって、今この時に。


 やはりというべきか、しばらく待ってみたが金属扉が動く気配はない。

 さらに刻を置いたところで。

 先ほどから誰も口を開かず、エルネだけは扉のそばに立ち、探るように扉体に手を当てていたが、やがて意を決したように振り向いた。


 何も死に別れたわけじゃない。


 ただ、傍にいるのが当たり前だった人が、少しの間、離れることになっただけである。

 それだけなのに、こんなに心細くなるなんて。

 その弱音を胸奥に押し込めようと、エルネは唇を噛みしめる。


「……ゲンヤ様、お加減は?」


 通路に座り込み、ひとり胡座をかく侍に声を掛けた。彼は目を閉じたまま静かに応じる。


「うむ。姫の云うとおり、毒が抜けたようだな」

「もう? それにしては、早すぎます」

「『想練』で血の巡りをよくしたからな。……それに切っ掛け・・・・を掴んだこともある」


 その返事にエルネは訝しむ。

 さすがに言葉が足りぬと思ったか「『想練』とは心身を整える呼吸法のこと」弦矢が言い添えた。次いで、“切っ掛け”についてはシンプルに。


「部屋を出れば、奴は追って来れない――そのように思い込んでみた・・・・・・・


 それで幻覚を退けたと。

 確かに“思い込み”を幻覚に反映させるのが罠の特徴であったのだが、まさかそれを逆手にとって、退ける手段にするとは。


「それでは、この――」


 通路に不安を感じたらどうするのです? そう口にしようとして、エルネは慌てて口を噤んだ。そんな風に不安を煽れば、再び幻覚に襲われてしまうかもしれないと。

 本当に粉の効き目がなくなったかは疑念が残るのだ。月齊だっていることを思えば、余計なトラブルを招かぬよう注意しなければならない。

 だから、感想だけを述べるに留める。


「……とんでもない方ですね」

「そうでもない。雑念を払うのに、今も苦労を強いられておる」


 平然と言われても、そうは思えないのだが。

 月齊の様子も窺うが、おそらく“ソウレン”とやらを彼も試みたに違いない。それも蛮族の秘術というわけか。

 エルネは気を取り直し、毅然と声を上げた。


「先に進みましょう」


 まるで時間稼ぎでもされているような罠の数々に、エルネには焦りが生まれていた。


「この調子で次も罠があるのか分かりませんが、先を急がないとこれ以上は……」


 撤退もあり得ると、その言葉は口にできず。

 エルネの沈鬱な様子で二人には分かったのかもしれないが。


「心細いであろうが姫。我らなりに全力を尽くさせていただく」

「ミケラン殿に託されましたからな」

「頼りにさせていただきます、お二人とも」


 エルネも精一杯応じた後、通路の先を見据えた。

 出発した時に五人いたメンバーは、ルストラン陣営と渡り合うことなく、すでに三人までに減っている。

 今いるところが、城内のどのあたりに位置するのか、そしてあとどれだけ罠を潜り抜ければ出口に辿り着くのか、何も分からないまま、それでも前へ進むしかない。

 ひとつ確かなことは、いまだ当初の士気を保っているということ。

 再び歩き始めた三人の足音は、慎重ではあるものの、しっかりと意志の強さを感じさせるものであった。

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