第67話 明らかになる秘事

公城『シュレーベン』

    政務官執務室――



 降りしきる雨音が窓の隙間から入り込んでいた。

 暖炉に軽く火を入れ湿気を飛ばし、政務に関わる大切な書類が湿気るのを防ぐ手間は面倒であったが、メルヴェーヌは雨の日を疎むことはない。


「これで外に出るのが億劫だと思えばこそ、いっそ諦めもついて、仕事に集中できるというもの。皆は雨を憂鬱に感じているようだが、私からすればむしろ慈雨・・というべきもの――」


 報告に訪れた下級事務官を待たせたまま、他愛のない独白をメルヴェーヌは続ける。


「今や我々の働きは、公都に留まらず広く公国に影響を及ぼすほど重要度を増し、それ故に処理すべき事案は山と積まれて、机から離れることも許されないのだからな」


 だから雨でも降って仕事がはかどるなら、それに越したことはないと。

 それほどに、ルストラン体制を支えるメルヴェーヌ達直臣の業務量は激増していた。具体的には公都枠と公国枠とで単純に倍増したと云ってもいい。

 無理な体制移行からくる歪みはどうしても吸収しきれるものではなく、重々承知していたことでもあったが。


「だからこそ、まずは足下の基盤をしっかり固めておかねばならんのだ」


 その上で、と踏まえるようにメルヴェーヌが書面から顔を上げ、直立不動と化している下級事務官に報告を促す。


 良き報告であろうな、と。


 それは悪い報告を持ち込むな――いや遅滞なく適切に対処し、終わったものだけを報告せよと云っているようなもの。

 無体といえば無体な要求に、ベテランであるはずの下級事務官はいつものごとく緊張に頬を強張らせる。


「そ――失礼」


 軽く咳払いを入れてから再び。


「――それでは、本日の定時報告をさせていただきます。今回は報告事項は2件、ひとつめは『協会ギルド』との協定事案について――公都の治安維持に関して、本日、正式に締結したことをご報告します。我が国の控えとなる協定書をお持ちしましたのでご確認願います」


 そうして抱えていた革張りの挟み板を開いて、中の協定書が読めるように向きを変え、下級事務官はメルヴェーヌへ丁重に差し出した。

 まるで猛禽類のような鋭い目が書面上をひと撫でし、下端に記されたサインを一瞥したところで「よろしい」と無機質に告げる。

 事前に内容の承認は受けており、特段指摘を受けるような事案ではない。なのに、上司の了知を耳にして、下級事務官は無意識に安堵の息をかすかに洩らし肩の力を弛めてしまう。それでも同僚がその姿を目にすれば「よくやった」と彼の肩を叩き、励ましたに違いない。

 だが、報告事案はもうひとつ。

 下級事務官はひとつ息を吸い、気を引き締め、すみやかに次の事案へ移行する。少し早口になってしまうのは、過度な緊張状態からの解放を無意識に望んでいるせいだとは本人も当然気付いていない。


「ふたつめの事案に移らさせていただきます。次は、ヨーヴァル商会へ委託している重刑囚人の懲罰に関する不正執行嫌疑について。

 こちらについては、かねてから秘密裏に内偵を進めて参りましたが、本日、ヨーヴァル商会がゾエル鉱山へ向けて重刑囚人の護送を開始したのを確認いたしました。

 内偵はまだ調査段階であったため、こちらの直接的な手柄とはなりませんが、これもメルヴェーヌ様のご指示どおり、内偵に取り組んだ事が大きく影響し、今回のような結果を生んだものと憶測するものです」

「まさに憶測だな」


 ――しまった。

 吐き捨てるような上司の言葉に下級事務官が顔色を失う。

 彼としては、朗報としては味気ない内容に、少し色味を付けて気を利かせたつもりだったのだろう。だが望まぬ結果を得たどころか、逆に重要事案が抜けているぞと鋭く指摘されてしまう。


「それで? 肝腎の“隠し資産”とやらはどうした? しっかり押収できたのか? 公都における地表面は・・・・所有権を認めるが、埋設されたモノは、元来の所有者たる公都のものになる――何のために分厚い法典を隅々まで読み漁り、昔の判例を掘り返したと思っている?」


 不正を正し契約を履行させるのは当然のことであり、嬉々として報告するものではない。

 むしろ、それ以上の狙いがあったことを、その元ネタを持ち込んできたのはお前であったろうと、そしてどれだけの労力を注ぎ込んで正当性を確保する論拠を構築したのかとメルヴェーヌが語気強く詰め寄る。

 一見して大人げなくムキになるのも当然だ。

 なにしろヨーヴァル商会は、潜在的な政敵であるルブラン伯爵に繋がる商人なのだから。

 このまま見過ごし余計な儲けをさせ、力を付けさせるわけにはいかぬとメルヴェーヌは部下を叱咤する。

 いかなる難癖をつけてでも地下に眠るものすべて公庫に入れさせろと。それへ目に見えて浮かない表情となった下級事務官が「それがその……」と言いよどむ。

 実にかんばしくない展開だ。


「どうやら……バルデア様がヨーヴァル側と取引したらしく、本件については……不問にする・・・・・と」

「はあ?」


 メルヴェーヌが間の抜けたような大声を上げてしまったのは、よもや味方・・に足を引っ張られるとは夢にも思わなかったためだ。


「いえ、じ、事情は詳しく分かりませんが、商会の倉庫を狙う襲撃者を捕らえるためだとか……」

「そんなもののために? それをお前は納得してきたのかっ」

「無論、おかしいと思いますっ。しかしながらバルデア様曰く、公都の治安を護るため――引いてはルストラン大公代理の治世安定のために、襲撃者への対応こそが最も重大な事案なのだと。メルヴェーヌ様にしかと伝えよと」


 上司に怒りのままに睨まれ、またバルデア卿の理解不能な言動に当惑する下級事務官も顔色を白黒させながら必死になって説明する。

 自身も何が何やら分からず、ただ分かっている情報をとにかく精確に伝えようとするのは、間違いなくメルヴェーヌの薫陶の賜ではあったろう。


「それに、こちらでも事実関係を調べようとしたのですが、肝腎の内偵に入った者と連絡がつかなくて――」


 予期せぬトラブルとは続くもの。それも自身のプランが崩れる話しであれば苛立ちも高まるが、メルヴェーヌは逆に冷静になる。


「それはいつからだ?」

「倉庫に襲撃があった、次の日からです。当日は夜に襲撃があることを伝えてきたので、その夜、何か不都合が生じたとしても不思議ではないのですが」

「なら無理だな」


 メルヴェーヌはそれがもはや事実であるかのごとくさらりと告げる。すでに消された・・・・だろうと。

 ごくりと咽を鳴らしたのは下級事務官だ。これまで上司の意に添ってどぎつい・・・・真似もしてきたが、それでも生き死ににまで至るような事柄は一件たりとてなかった。それへ間接的にであっても人の死に関わった実感を得て、初めて理解したのだろう。

 自分がいかなる仕事に携わっていたのかを。同時に“他人の命を扱う”その重さを。


「ガルフといったか? 使える男・・・・だとは聞いていたが」

「……はい。奴には『裏街』の内情を色々リークしてもらっていました。それなりの立場がある者だからこそ、貴重な情報も得られていたのですが」


 その合理性こそが事務方トップに就く者の資格なのか。さらりと実務的な損得のみを口にするメルヴェーヌに下級事務官も下手な感傷を表情から拭い去り、辛うじて上司に迎合する。

 念頭には繰り返し上司から言い聞かされてきたことがあるはずだ。命懸けなのは武官ばかりではない・・・・・・・・・のだと。

 ならばこそ、気丈に振る舞おうとするのだろう。


「皮肉な話しではありますが、数少ない手駒を失ったことも考えますと、いよいよ、締結した『協会ギルド』との協定が重要さを増してくることになるのかと」

「そうであったとしても、喜べるような事態ではない。今の件に関しては、バルデア卿にしかと抗議する。どれほどの価値があったのか、きっちり説明してもらわんと腹の虫が収まらんっ」


 百の情報より一人の貴重な情報源。すべてに当て嵌まるものでもないのだが、そう惜しむ人材は確かに存在する。今回のガルフのように。


「では、バルデア様にメルヴェーヌ様のご意志をお伝えしますか?」

「いや、顔を合わせたときに直接云うとしよう」


 “鉄は熱いうちに打て”とは鍛冶屋の格言だが、海千山千のメルヴェーヌならば必要に応じて怒りを貯蔵ストックし引き出して、今し方の出来事であったかのように憤ってみせることができるのかもしれない。

 最後は朗報どころか失敗の報告としか言えぬ内容であったが、とりあえず、これにて定時報告は終了となる。


「……しかし残念だな。“隠し資産”とやらがなんんなのか、知りたくもあったが」


 下級事務官を退出させたあと、窓外へ目を向けながらメルヴェーヌが呟く。その目にどこか子供のような好奇心を宿らせて。


「まさかバルデアめ、秘具おもちゃ欲しさに邪魔をしたか……? もし、奴が秘具を手にしていたなら、代価を請求してもよいかもしれんな」


 身内・・であっても気に入らん者である。ルストラン派の戦力増強になると思えばこそ、譲る・・のはやぶさかではないが、タダというのも業腹だ。

 良い折り合いが付けられそうだとメルヴェーヌの目が厭らしく笑み細まるのが、高価な窓ガラスに強く映し出されていった――。


         *****


ヨーヴァル商会

 “倉”の地下道――



 自らランタンを持ち、率先して地下に降り立った男は、湿り気のある冷たい空気を吸いながら「実に上手くいったものだ――」そうここ数日に起こった出来事を想起する。


「間者を使っての極秘査定など、ずいぶん目の敵にされたものだと焦ったが……冷静になってみれば、むしろ向こうの方が追い詰められているからとも考えられる」


 仮に間者の正体がバレて捕虜とされ、証拠にもされれば一転して窮地に立たされるのはルストラン側の方だ。

 それだけ大胆な策を講じてきたわけだが、あの時の自分はそう捉えず、必死になって“倉の秘密”をどう守れるかだけを考えていた。

 脳汁が絞り出せるほど眉間に深く皺寄せて。


「人生における深い悩みの答えは、案外、近くにあるという。それは私にとっても当て嵌まる格言であった――そう答えは足下にあったのだ・・・・・・・・


 そうして地下道が枝分かれとなる場所で男は足を止めた。しっかりと手を前方に掲げ、まっすぐ先の突き当たりに堂々と鎮座する“扉”をランタンの明かりで照らし出す。


 12柱神に護られた堅牢な扉を――。


 それは昔、失脚した貴族クレイトンが再興を期して隠した資産が眠るとされる、嘘か真か宝の部屋だ。

 いや、あの日の夜・・・・・にその真否は明らかにされており、男もすでに一度は部屋の中に立ち入っている。

 何者かに先を越された悔しさと初めて目にする宝物庫への興奮を胸に抱きながら。


 そして確認したのだ――空になった宝箱を。


 だが肝腎なのは、それまでは神秘のベールに包まれていたという事実だ。男女問わず耳にすれば誰もが心躍らせる秘密の話・・・・というものが。


「“失脚した有力貴族”に“隠し資産”、それが納められた意味ありげな地下室。これだけ条件が揃えば誰もが心を奪われる。果たして、こちらからそれとなく噂を流しただけで・・・・・・・・『クレイトン一家』どころか『蒐集家コレクター』まで餌に食いついてきた――」


 だから男は自信を深めた。これならば、送り込まれる――いやすでに居るのかもしれない正体不明の間者に対し、その耳目を惑わすことが可能であろうと。

 思わず笑みが咽奥から洩れてしまう。


「ふふ。騒動の後始末・・・・・・は大変だったが、おかげで因縁の相手である『クレイトン一家』やルストラン派にも相応のダメージを与え、肝腎の間者についても、こちらの手を汚すことなく処理することができた」


 一石二鳥どころか三鳥とは、これで笑わずにいられようか。

 わずかばかりの未練もなく、男は扉から視線を外して手掘りとなっている枝道にしっかりした足取りで踏み込んでゆく。

 その先にこそ、目指すものがあるのだと。

 策を以て見事困難を切り抜けた自信が、男の顔つきや歩く姿に表れていた。

 そしてすぐに道の突き当たりに・・・・・・・・辿り着く。


「――こここそが・・・・・、死守すべき我がヨーヴァル商会秘蔵の“紫水晶オド・クリスタルの鉱床”」


 男――会長であるヨーヴァルがランタンを地面に置き、手頃な石塊を掴んで掲げ持つ。そのまま目を閉じしばし――まさか、単なる石ころがほんのりと淡く輝き出すとは。


「おお……」


 すぐ近くで何者かの呻きが洩れる。それは驚きでもあり、また長年探し求めたものを手に入れた感動でもあった。

 咽を震わせるのは年を重ねた女の声。

 もはや金の卵であることを証明した紫水晶の原石へ女が向ける視線に欲望とは無縁の優しさを見てとる会長が、すっと差し出す。


「貴女はひと目見れればよいと云うが、私は商いを能くする者だ。得られる収入の一割で申し訳ないが、権利はきちんと受け取っていただく。了承していただけますな――ソリシア殿」


 女――その昔クレイトンに慕い求められながら、しかし西街区の正居に入ることを固辞したソリシアは軽くため息をついた。困った御仁だねと。


「私はあの方の想いに浴する資格のない女さ。ならば、再起を賭けた大事なものをいただくわけにはいかないだろ」


 それが美しさの面影を残しつつも一気に老けた理由ではあるまい。年月だけでは語りきれぬ疲労・・が、その相貌に滲んでいるのを暗がりの中で会長が見抜くこともなく。


「でもあの末裔・・・・には渡したくない」

あの方の意志・・・・・・がちっとも感じなくてね」


 苦笑するソリシアに会長は「なら誰にも教えず地に眠らせておけばよかったのでは?」とこれまで繰り返してきた疑念を再び投げかける。


「貴女は過失というが、時のルブラン派から護るための苦肉の策と思えば、むしろ亡きクレイトン卿も見事と称えるはず。それをわざわざ掘り起こし、あまつさえ、怨敵である現ルブラン派の一翼を担うこのヨーヴァルに手を借りるなど」


 話せば話すほど、頭の片隅に追いやっていた疑念が呼び起こされ、強くなる。自分ならば決して近づかないと。


「同じ事を何度も言わせるね――ひと目みたい、ただそれだけさ」

「見て、どうすると?」


 食い下がる会長に、ソリシアは二度目のため息を漏らす。ほんとに困った御仁だねと。


「あの方亡き今、ルブランなぞに興味はないよ。でも、焼失してあの扉・・・を見れなくなったら、どうにも気になりだしてね……」


 愛する人に託されながら、そのものを一度も目にしたことはなかったと。

 地下に眠る大事なものを、愛する者の姿に重ね見て。日ごと夜ごと地下に降り、12柱神が彫られた豪奢な扉の冷たい鉄板にそっと指を這わせてみる。


 いつまでか――と。


 だが「再起を図る――」そう口にした男はついぞ都に戻ることはなく。すがるべき想い人に抱きしめられた温もりさえ、刻の流れに晒され、冷え切って。

 そうなれば、心の隅に追いやっていた暗い猜疑心が淫蛇のごとくゆっくり首をもたげてくるのだ。そして囁く。


 ほんとうに、それはあるのか・・・・・・・、と。


 月日が流れて訃報を耳にすれば、なおさら胸奥にとぐろを巻いた猜疑の蛇を抑え込むことなどできるはずもなく。

 それまで独り身で守り続けた大事なものは、もはや自分にとって形見・・となったものは、ほんとうにあるのかと。

 託されて――愛されていたのかと。

 疎まれ、騙されていたのではなく、と。


「女はね、きちんと示してほしいんだよ――」


 さらりとした口調でソリシアは云い、すぐにそっと付け加える。

 拠り処があれば・・・・・・・耐えられもするから、と。

 そうして短い沈黙の後、場の空気を変えるようにソリシアはしんみりとした口調をがらりと変えた。


「それにしても、よく気付いたね」


 当然、空気を読むに長けた商人がそつ・・なく話しに乗ってくる。それが語らせた者の務めであるかのように。


「どうやら私にも精霊術師になれる素養があるようでね……だからこうして呼びかければ・・・・・・、石が応えてくれる」

「石が?」

「共感能力の恩恵だ――聞いたことくらいあるだろう?」


 『精霊術』を行使するにあたり、その基礎となる共感能力は、本来誰もが有する感覚のひとつである。だが、自ら生み出した文明に依存するあまり、人はその力を錆び付かせてしまっただけにすぎないと精霊術士は説く。

 だから稀にであるが、生まれつきその力が鋭敏な者が現れるわけである。会長はその一人であったというだけだ。

 それにしても、素人である会長でこれ・・ならば、本物の精霊術士が呼びかければ、地下道全体がいかなる輝きで以て呼応するのだろうか。

 ゆるりと周りを見回すソリシアに会長も合わせて首を巡らす。


「正確には、クレイトンが真に遺したのはこの鉱床だ……わざわざ大金をかけて『脅威の部屋ヴァンダー・カンマー』を建造したのは人目を欺くため。実に貴族らしい豪勢なトリックだ」

「ハッ……あの方はあれで中々に、小心者でね」


 懐かしげに唇を歪めるソリシアに会長は眉をひそめる。


「“どうせやるなら大胆に”――よく背中をひっぱたいてやったものだよ」

「貴女の発案だと? ――ふん」


 年上の女には気をつけることにしよう、と会長が苦笑するのを「今さらだね」とソリシアは初めて声を上げて笑った。


「あんたの女房も年上じゃないか――」


 狭苦しい地下道に、開放的な二人の笑い声が心地よさげに響き渡る。そうしてひとしきり笑った後で、会長がふいに真顔になって「再起が本気だというのなら――」云わずにはおれないと口にする。


「託された資産の価値だけ、貴女への信頼が……想いが深かったとも云えるのではないかね? ならばこの“鉱床”が、どれほど価値あるものか――」

「……それは云いすぎってもんだよ」


 かすれたソリシアの声は熱く潤んでいた――。


         *****


先日の件

ヨーヴァル商会襲撃後

 『クレイトン一家』のアジト――



「“七人殺し”に“耳狩り”……ゼイレもいねえた、どうなってやがるんだ?」


 クソ生意気な長躯族の姿を捜して、ひげ面親父が顔をぐるりと巡らせるが誰もが俯き応える者はいない。

 汗と血臭が混じり合う空気に感じるのは、気が滅入るような疲労感よりも、何かが抜け落ちたような虚無感――誰の身からも戦意や覇気といったものが消失しているのが明らかだった。


 一体何だってんだ――


 抗争の後はむしろ誰もが殺気立ち、あるいは口々に武勇伝を誇る連中が唇でも縫い付けられたように押し黙っている異様なその光景。

 俯いてないで顔を上げろ、と蹴り飛ばしたくなってくるのをひげ面親父は我慢しなかった。


「おい、ジグァット!!」


 手練れであっても吸収したばかりの組織の者でなくその名を口にしたのは、親父が心の底で誰を頼りにしているかの表れであったろうか。

 ひとり外側に立ち、聞けば必ず冷静で客観的な答えを返してくる男――ざんばら髪の荒事師はいつもの席に座していたが、驚いたことに、あれほど目もくれなかった酒を手にして景気よく呷っている最中だった。

 ごくごくと飲み干す音が聞こえそうなほど喉仏を大きく上下させてしばし、いっかな口を開かぬ信じられぬ態度にひげ面親父は極太のまじりを吊り上げる。


「黙ってねえで、さっさと説明しやがれ穀潰しがっ」

「勘弁してくれ、ボス」

「何だと……?」


 初めての口答え・・・にカッと頭に血が昇り、怒りにまかせてドスドスと近づく。わざと力任せに床を踏み締めながらひげ面親父は近づき、振り上げた拳を戦槌のごとくドカンと机に叩きつけた。


「説明しろっ」

「……死んだ」

「あ?」

「見ての通り、みんな、殺されちまったのさ!」


 さすがに睨み返すことはしなかったが、それでも常に感情を表に出すことはなかったジグァットが、憤りも顕わに唾飛ばす。

 まえより一層、静まり返ったアジト内でひげ面親父のやけに低い声が問い質す。辛うじて、恐る恐るといった調子を隠した上で。そんなことはあるまいなと。

 

「……ゼイレもか?」

「ああ……あいつは帰っただけだ」


 心底どうでもいいという感じでジグアットが吐き捨てる。むしろ彼ほどの荒事師をして投げ槍にさせる何かが起きたことをひげ面親父はようやく理解した。

 いや、手ぶらで帰ってきた時点で察しはついている。生き残った連中に漂う無気力さも退散してきたことを雄弁に物語っていた。

 だが、信じたくなかったのだ。


「あれだけの面子を揃えておきながら……」

「それ以上の化け物がいたら、何にもならねえよ」


 別方向からそんなぼやきが聞こえてきた。その足りない言葉を捕捉したのはジグァットだ。


「『蒐集家コレクター』がいたんだ」

「何だと?!」

「それもご丁寧に近衛の精鋭を引き連れてな」

「だからなんだ? そのためにこっちも手練れをかき集め、覆面を頭にしたんだろ――」


 そこまで云ってひげ面親父が動きを止める。


「そういや、覆面はどこにいる? あいつの仲間も参加するって話しだったろう」


 その言葉で、戻ってきた時がそうであったように、またもアジトを痛いほどの沈黙が包み込んだ。歯噛みする者はまだしも、手や肩を小刻みに震わせている者はいかなる心情の発露であったのか。

 それが恐怖だと気付くのは、ひげ面親父にとっては他人に与えてきた馴染みの感情であったからだ。ただ、同じ与える側であるはずの仲間が、まさか恐怖に怯える側に落ちぶれるとはどういう了見だ?


「覆面は倉庫に入っていった――」


 ここでも事情を説明するのはやはりジグァットだ。


「混乱に乗じて旨い汁を吸おうって魂胆だろうが、文句はない。問題は、強敵の足止め役を担ったゼイレが途中で戦いを放棄したことだ」

「……あの野郎っ」

「気紛れはいつものことだが、今回は堪ったもんじゃない。覆面が連れてきた助っ人もとんでもなかったが、それと対等にやり合える者が他にもいたからな」


 最後に何気なくつむがれた重大な情報に、「聞いていないぞ」との怒りを込めてひげ面親父が睨み付ける。当然、酒に目を向けたままのジグァットは気づきもせずに訥々と話しを続ける。


「黒髪黒目の二人組だ」

「いやひとりは金髪だぜ」


 また別の方から目撃した者がフォローを入れた。 俺たちを見ても平然としてた。覆面の助っ人がすげえジャンプしてた。そんな奴を退けた。覆面のあの攻撃を躱しやがった……。

 雑多に伝えられる情報のうち、共通しているのは恐るべき手練れの異人であったということだ。


「あっという間にローランを殺りやがって。もう一人の方もすげえ剣の遣い手だった。助っ人も間違いなく強かったが、最後は撃退されちまった」


 興奮気味に話す生き残りに、疑念をありありと浮かべながらもひげ面親父は我慢強く耳を傾ける。一人が手負いとなり、仲間らしき者の手助けで逃げたところまで聞き終えると。

  

「……何者だ、そいつらは?」

「わからん。商会の見張りにしては、様子がおかしかった」

「俺たちを見て、驚いてたな」


 それは当然だろうとの意見もありながら。

 とにかく奴らは逃げ、最後に助っ人と『蒐集家コレクター』の一騎打ちになったと生き残った連中は口々に告げた。今も激闘の余韻を味わうように、拳を握り、声を震わせて訴える。

 もの凄い戦いだったと。

 そもそも無教養な連中の集まりだ。言葉で表現するのは苦手としており、詳細を把握するのは困難だ。

 ただ、あまりのレベルの違いに――何がどうとも言えないが――その迫力だけは誰もが感じたらしく、ジグァットなぞは意気消沈する始末だ。手練れだからこそ、彼我のレベル差を感じて打ちのめされてしまったのだろう。


「『一指』に数えられるこの俺がな……」


 そう自嘲しながら。強い酒をぐいと呷り、唇をぬぐう。酔いたくても酔えないみたいだが。結局さらに呷るのだ。


「結果は引き分けだ・・・・・。『蒐集家コレクター』の口ぶりでは、助っ人は手傷を負っていたらしい。恐らく異人との戦いでだろうな。それがために調子を崩して、途中から戻ってきた覆面と合流しそのまま居なくなっちまった」


 捜し物はなかった・・・・・・・・と言い捨てて。

 ならば彼の“三剣士”を残りの者で相手するのか、さすがに色めき立つ襲撃者達であったが、激闘で傷を負ったのは『蒐集家コレクター』も同様であったようだ。

 覆面達が去るのを切っ掛けとして、両陣営は言葉を交わすまでもなく自然と退却を選ぶことになったという。


「……なら、その異人が怪しいな」


 ひげ面親父の言葉に「確かに」とジグァットも同意する。そもそもの目的であった捜し物・・・はそいつらが持って行った可能性が高いと。


「だが、今すぐは動けん」

「当然だ。それだけの手練れを相手に怪我人ばかりで乗り込んでも、しゃーあんめい」


 どうにもなるまい、とひげ面親父もそこは冷静に判断する。どうせ奴らも同じだと。仕切り直しがどちらにとって得となるかなぞ、周囲の状態を見るまでもなく、今考えることではなかった。

 なら、今後のために何をやるかだ。


「城門の兵には金の匂いを嗅がせて、監視させる」「居場所だけは探らせてもいいだろうな」

「当然だ。お前らが治ったらすぐに仕掛けるぞ。ゼイレの奴も落とし前をつけさせるために、引っ張り出してやる」


 むしろそうでなけりゃ駄目だとジグァットは念を押す。


「あの異人共を侮っては駄目だ。下手したら助っ人やあの『蒐集家コレクター』と同格――覆面の助けは必須だろう」

「おいおい、そりゃ本格的な化け物退治だな」

「過剰なくらいで丁度いい」


 今回の件で骨身に凍みたと歴戦の荒事師は語気を強める。あまりに深刻そうな横顔に、ひげ面親父は素直に受け止めた。


「たかが数日だ。辛抱強く、慎重にやろうや」


         *****


先日の件

ヨーヴァル商会襲撃前夜

 『協会ギルド』総括支部裏口――



 ようやく終業の真夜を迎え、最後の戸締まり確認をいつもどおりに受付頭のオクスカルが請け負ってくれる。

 「ほら、帰った帰った!」夜更けだというのに疲れも見せず、そのガタイ同様暑苦しい笑顔に華奢な背中を押されるようにして――裏口から顔を出した女は路地端に人影を見つけるや、そそくさと歩み寄っていく。


「……お待たせ」


 ただでさえ長い前髪に隠した貌をうつむき加減にして。その上、雨露凌ぎに古ぼけた外套を目深にかぶるものだから、本人かどうかなど、もはや囁くような声でしか判別できやしない。

 だがその人影はすぐに気付いた様子で建物に預けていた背を起こし無言で女の先に立つ。それを黙って後ろに続く寡黙な女。

 世に貢がせるだけ、肉体を求めるだけ、あるいは殴って憂さを晴らすだけのロクデナシがいると思えば、真夜中に黙って迎えにくる方が百倍増しという考えもあろう。

 別に手を広げ、その胸で抱き留めてくれなくとも。

 二人の幸せの形なぞ、余人が語れるはずもなく。

 身を寄り添うことも、手を繋ぐこともなく、寡黙な二人は前と後ろに別れたまま、表通りをひた歩む。その少し離れた背後に、不気味な影を貼り付けたまま――。


 にゃぁお!


 眠りに就く人とは違い、夜にこそ活動的に動くモノは都にもいる。ただ、あえて人を引き付けようと鳴くモノは珍しかったが。

 道端でちょこんとお座りしているのは一匹の野良猫だった。身体はまだ小さく、まだ巣立つに早いやせ気味の子猫。

 一匹でうろつき軒下で動けなくなっているのは親猫とはぐれたせいであろうか。

 毛先に小さな水滴をたくさん付け、完全には避けきれぬ小雨に打たれる様もあいまって、鳴き声がやけに切なくさせる。


 にゃぁ……お!


 男が立ち止まった。興味なさげな態度でそれでも足を止めたのは、猫であっても弱者を嘲笑うための歪んだ嗜好故か。


「先、急ご……」


 それまで黙っていた女の声に男がびくりと身を震わせ、「そうだな」すぐに素っ気ない返事をして足取り荒く歩き出す。まるで何かを誤魔化すように。


 にゃぁ……


 子猫の哀願に女はといえば一瞥もくれず通り過ぎた。心なしか急ぎ足に見えるのは、見捨てる行為に胸を痛めているせいかまでは分からぬが。その無下な態度に諦めたのか、気付けば子猫の鳴き声が途切れている。

 さらにその後、ぽつりと取り残された子猫の足下に何かが転がされた。


 にゃ?


 辺りに警戒すべき何物も見えず、子猫の意識はすぐさま目の前のモノに集中される。

 恐る恐る前肢でひっかき、三度目でようやく子猫が鼻を近づけた。それがどうやら食べ物だと認識する頃には、先の二人の影はとうに見えなくなっていた。


「……ここでいいわ」

「……あ?」


 二度目の呼びかけでようやく気がついて、男はそこで初めて振り返った。腑に落ちない顔でいるのは、目的地まではまだ距離のある清浄水路に差し掛かった場所だからだ。


「どうしたってんだよ」

「用事があるの、それだけよ」

「けど金は・・……」


 ごねる男に小袋が放り投げられ、「おわっ」奇跡的にキャッチしたものをあらためて、彼は無言で懐にしまい込んだ。いつもの倍・・・・・渡されれば、即座に文句を水路に沈めて立ち去るのが利口というものだ。


また・・、な」


 馴れない笑顔を浮かべて見せて、男が背を向けるのを待たずに女は歩き始めていた。

 清浄水路に沿って進む。方向はどちらでも構わない。ただ、首筋に感じる違和感・・・の原因をはっきりさせられればそれでよかっただけだ。

 念のため、非常時に備えていた丸薬を口に含み噛み砕く。少しでも早く感覚を取り戻し・・・・・・・ておくため・・・・・に。

 しばらく進むと、通りに並ぶ建物に変化が現れはじめる。住居から水運関係の店舗や倉庫へと。

 東西に長い都の形態では、馬車よりも船で運ぶ方が荷運びとしては効率的なことから発展したものだ。最近では水路の混雑を避けるため、一定規模以上のの船については運航権を持つ者だけに利用を許可する形をとるようになっていた。

 日中はたくさんの荷が往来し活気に満ちる“水運通り”であったが、さすがに深夜の今時分では、むしろ通りに入ってから人気はぱたりと途切れ、同時に首筋の違和感は明らかな痒み・・に変わっていた。

 先ほどまではあの男がいた。けど今は――


「ねえ――こんな真夜中に淑女レディのお尻に付きまとうなんて、どんだけ変態なわけ?」


 先ほどまでとガラリと調子の変わった猛々しい女の声。媚びるような口調とは裏腹に、声に込められし感情は強い敵意・・・・

 変化は立ち姿にも表れ、肩幅以上にしっかと足を広げ、その小柄な身に威勢のいい声にも負けぬ覇気をまとわせていた。

 雨天の暗がりにも負けぬ強い存在感――それまで隠していた本性を女は惜しげもなく明らかにする。


「それで隠れてるつもり? ――これほど男のイヤな臭いをまき散らしておいて」


 無論、本当に“男の臭い”とやらをかぎ取ったわけではない。それはあくまで女独自の比喩表現であり、そうした意味においては、決して嘘をついたわけでもない。

 ただ、男に対し肌が過敏に反応するだけだ。

 異能アビリティとは異なる、彼女だけの特異体質――『異性過敏症』。

 無意識にであろう右腕をさする女は、確かな掻痒感にさいなまれながら、ゆっくりと振り返る。


「あら――思ったより素直ね」

「呼ばれたからな」


 正直、女は驚きに呻きそうになっていた。実は気配など掴んでおらず、ただ過敏症によってその存在を察したにすぎないからだ。それがまさか、気付かぬのが不思議なくらいの距離に人影が佇んでいるなんて。


「手練れな上に素直だなんて、男でなければ惚れちゃいそう」

「? 男でなければ惚れようもあるまい」


 心底いぶかしむ影に、女は口元の笑みをきれいに消し去った。「これだからっ」と不機嫌さを隠しもせずに影を睨みつける。


「女は男を愛さなければならないって? ナニルールよ!!」

「ふむ。心持ちがあまりに不安定……わけのわからん女だな」

「わけが分からないのは、あんたの方でしょっ」


 ダメだ。コイツとはまったく噛み合わない。女の在り方を決めつける、頭の堅い、まさに鈍重過ぎる“男”そのものだ。


 殺しちゃおう――


 女はすぐに行動を決める。

 できれば捕らえて痛めつけるのが理想だが、場所が悪いし、だからといって逃がすなど以ての外。こういう手合いを消し去るために腕を磨いてきたのだから。

 まあ、男がつけ回してくる理由を知りたくもあったが、彼女自身の目的・・・・・・・が達成されるのだから別に問題はない、と歪な思考で正当化する。

 それは“殺し”に対しても同様だ。

 相手にまともな理由・・・・・・があったとしてもどうせ隠密だ。殺したところで、コイツの仲間や組織が表沙汰にできるものではないはず、と。


(困るとすれば、『協会ギルド』を辞めなきゃならない、てことかしらね)


 そうなる可能性は考慮すべきだ。

 それだって、ヨーヴァル商会の依頼を請け負う者を“未熟な探索者”に手配するよう細工する目的はすでに達成している。頃合いをみて辞めれば関係性を疑われなくて済むと思っただけで、ヤバい状況になるなら、今すぐ辞めても別に構わないのだ。

 それに別の立場を装って、斧戦士や槍の女戦士など狙った獲物もうまく誘い出し、課された任務はきれいにクリアしている。

 つまりはもう、彼女の自由裁量で動いていいわけだ。


「ちょうどいいかもね。最近事務仕事ばかりだったから、身体が鈍ってるかどうか掴むには」


 傲然と顔を上げるも前髪に隠されず望めるのは、特徴的なぷっくりと愛らしい唇のみ。それが挑発的な笑みを浮かべているのを、ほぼ闇夜に近い中で影が見てとったかどうかは分からない。“水運通り”にはあまり防犯灯が設置されていないからだ。


「ヨーヴァル商会の依頼について、聞きたかっただけだが……」


 その話しに思わず女の笑みが深くなる。よりによってヨーヴァルとは。それだけで影は「そうか」と察したらしい。ということは、見えている・・・・・のか?


「つまらないわね。そこは、“あたしに口を割らせてみせる”――でしょ?」


 これみよがしに唇を赤い舌でゆっくりと舐め回し、上げた顔をさらに反らしてみせる。「かかってきないさい」とのゼスチャーだ。


「いいだろう。“女子おなご食わねば・・・・世の半分は無明のまま”と教えられたしな」

「……やっぱりぶち殺すのが正解ね、オマエ」


 腹の底から怒りを絞り出した途端、目の前から影が消え去った。


「!! ――逃げたなっ」


 唾飛ばしながら、すぐに「否」と女は否定する。


 『隠形ヒドゥン』は『陰技シャドウ・スキル』の遣い手が得意とする技だ。影は明らかにその道に秀でた輩であり、ならば真っ向勝負など仕掛けてくるわけがない。


(――厄介ね)


 正直相性が悪い、というべきだ。

 女は真っ向勝負なら、仲間内でもトップレベルの強さを誇るが、戦闘経験値や異能など搦め手を主体とする相手には、対応能力が極めて低い。それをわきまえておごらぬからこそ、強者の位置に立っているのだが。


「あらあ。女相手に隠れんぼ?」


 油断なく身構えながら、女は外套の下で細指を腰から太腿に這わせて巻き付けた・・・・・得物を手に掴む。奇怪な技術の賜で、ある方向へひねれば自然とゆるまり、いつでも武器と化す相棒を。


「まったくひどい男ね、やるなら逆じゃない? 女に鬼を――やらせるなんてっ」


 右手の倉庫の陰に気配が沸いて・・・・・・、その違和感を感じざまに女は得物を振るっていた。



 ――――ッシィ



 外套の裾をたなびかせ、そこから飛び出し疾った先の地面を何か・・が激しく叩く。

 それは漆黒の古木に棲まう毒眼の蛇。

 凄まじい速さで獲物に食らいつき、噛み砕くもの。

 否、そう錯覚させる変幻自在の魔性の武器だ。

 だが、そこには誰もいない。


気配を囮に・・・・・? ――やるじゃない」


 察知能力のない自分が気づけた謎・・・・・に気づいて、思わず感心してしまう。

 なるほど、相手が思った以上に手強いと知り、女はすぐに動きの邪魔になる外套を放り捨てた。

 ぽつぽつと落ちてくる冷たい滴が髪や白い肌を濡らし、夜気の冷たさが頬や首筋に触れ、サブイボを立てると同時に女は開放感を味わう。

 その意味するところは、外気に直接身を晒すことで鍛え上げた五感を遺憾なく発揮させるため。


 ――ヒュッ


 真横から飛来した何かを手首のひとひねり・・・・・で女は叩き落とした。


「鞭か」


 飛来した方向とは別の位置で声が湧く。移動したにしても動きが速い。それも気取らせずに。

 だがそれがどうした? 女には他の誰にもない鋭敏な知覚能力センサーがある。それが彼女に余裕をもたらす。


「驚いた? 男はコレで・・・女に叩かれるのが好きなのよね?」


 まるで下僕のごとく黒い鞭を足下にうねらせて。

 女は無邪気にドギツイ言葉を口にする。口ぶりや声だけならば純真無垢な少女を匂わせて、その実、色欲と背徳に染め上げられた娼婦のごとく言葉でねぶる。

 受け身となるのはあなたでしょ、と。


「だから待っているだけなのは、イヤ」


 すっと歩を踏み出した先は、倉庫の陰。そこに敵が潜むというのなら、踏み入り、立場を対等にして真っ向勝負に持ち込む――それが女が築き上げた対男迎撃スタイル。


(闘う意志で、おまえらなんかに、負けるわけにはいかないのよっ)


 それは戦術というより賭けに近い。

 あまりに無謀であり、何より普通は怖じ気づく。

 だが、女は奥歯を噛みしめ気力を絞って踏み込んでゆく。

 戦士よりも戦士らしく。

 壁のごとき重厚盾タワー・シールドに身を隠すこともなく。


(――――っ)


 ただ胸中で咆哮を放ち、前へと進む。

 彼女が彼女であるための場所へ――



 ――――ザリッ



 わずか三歩で踏破し同じ陰にまぎれても、敵の姿を捕らえることは女にはできなかった。それは『隠形』の術に明瞭な差があることを物語っていたが、女は別の感覚で・・・・・はっきりとその居場所を捕らえることができていた。


 即ち――『異性過敏症』によって。


 絶体の確信を持って、女が鞭を振るい、寸分の狂いなく目標の空間へ黒蛇を疾らせる。そして右手に感じる確かな手応え。


「……己の未熟、とは申すまい」


 女を戸惑わせたのは、そこに明らかな畏敬の念が込められていたからだ。男がじぶんに。だがすぐに一度は薄れた瞳に再び敵意を漲らせる。


そのザマで・・・・・上から目線とは、愉快な男がいたものね」

「む……何ともひねた・・・女子おなごだな」

「まだ減らず口をっ」


 闇の中、嘆息する男に女は苛立ちを口にして鞭を絞り上げる――『縛蛇の責め苦』だ。


「強がってもダメよ……どう、痛すぎて腕が痺れるでしょ? あたしは捕らえたまま、苦痛を与える術も磨いてきたのよ。呻くことさえ許さぬ責め苦をたっぷり味わいなさい」

「……やっぱり、ひねている」

「このっ」


 まだ云うか、と女はさらに絞り上げる。だが、この時彼女は影の術中に嵌められているのに気づけなかった。

 怒りに感覚が鈍り、それ故に手応えの違和感・・・・・・・という絶好のヒントに気づくことができなかったのだ。それでも――


「――これは驚いた」


 ふいに、女が背後へ首を回し、ぷっと唇を尖らせたのが“含み針”と気づける者はいないはずであった。ましてや、それを防ぐなどと。

 眼前にかざした掌で難なく受け止めたその男は、端正な顔を感嘆に染めて、だが声だけは平静そのもので感想を呟いていた。


「俺の隠形を見抜かれたのは、初めてだ」


 長身痩躯の人影に驚いたように眼を見開いたのは女も同じ。


「オンギョウ? その体術は見事だけど、あたしに気付かれず近づくのは無理な話よ……あんたが男である限り」

「なるほど。だが問題はない」

「え?」


 気付けば男が目の前にいた・・・・・・

 反応できぬ女の首筋へ男が何気に手刀を振るう。

 その途端、ぶわり、と女の全身に紅の斑点が――湿疹がびっしりと広がって、無意識のうちに肉体が緊急避難を取っていた。


「――ほう。また驚かされたな」


 空振りした手刀に目を向けることもなく、瞬時に離れた位置へ動いていた女の姿を今度は面白そうに見つめる。

 視線がわずかも外れることなく捉えていたということは、あえて見逃した・・・・・・・と言えなくもない。

 その真実を悟らせることのない男の実力こそ、不気味この上ない。


「何者なの、あなた?」

「それより大丈夫か?」


 思わぬ労りの声に、またしても女は戸惑いを浮かべる。


「その湿疹……すぐに医師に看てもらうべきだ」

「く……あんたのせい・・・・・・でしょうがっ」


 今は倉庫の影でほとんど姿形しか判別できぬ状況で、その男が小さな“含み針”を捉え、彼女の顔色まで識別してのける異様に気付くこともなく、女はただ全身を苛むひどい掻痒感に堪え忍ぶ。


「湿疹で身体能力を向上させるとは……何とも歪で妖異な術だ」

「それが分かったからって、あたしに勝てるとでも? それとも男二人掛かりなら、女のひとりをどうにでもできるかしら?」


 余裕をかましてみせる女も内心では焦れていた。特に新手の男がいただけない。ひとりは動きを抑えているといっても、裏を返せば自分もそうなのだ。

 切り札のひとつくらい・・・・・・防がれてもどうということはない。だが、女の優れているとはいえない勘が、この男には通じないと強く警鐘を鳴らすのだ。


(――けど、男なんかにやられっぱなしでっ)


 幸か不幸か『紅の暴乱』が発動している今ならば、新手の男を越えられるかもしれない。胸奥に根付いた怒りの源泉が、男に対し退くことをどうしても許さない。

 許したくないっ。


「――え、あれ?」


 思わず力んだ鞭持つ手から、ふいに手応えが消失し、女は思わず間抜けな声を上げてしまう。


「悪いが、いつまでも戯れに付き合ってられん。かしらを出て来させてはな」

「あん? ひとりで逃げ出せるなら、黙って観ておればよかったな」


 新手の男がそうぼやくのを「思ってもいないことを」そう影は淡々と返す。


「陰者が正々堂々なぞとうつつを抜かし、せっかくの挟撃の機会を逃すはずもありますまい」

「……」


 しっかり配下に見抜かれて、男が黙り込んだ時には女は素早く移動をはじめていた。完全なる二対一、それもかなりの手練れを相手取る愚をさすがの彼女も認めるしかない故に。


「おい、出し抜かれたではないか?」

「思ってもいないことを」


 今度こそ、嘆息しそうな声で影が応じる。それもわざと・・・だろうと。


「癪だけど、この場はお開き・・・にさせてもらうわ」

「ああ、異論はない」

「……どいつもこいつもふざけた男ね」


 油断なく安全圏まで退きつつ、女は苛立ちを吐き捨てる。

 まさか、自分が苦戦するような手練れに公都で出遭うとは夢にも思わなかった。連中が探索者ならば先日帰参した斥候職が思い出されるも、断じて違うと言い切れる。


(『裏街』の人間は網羅してるから、あとは最近やってきた旅人? 他の街から流れ着いた裏稼業の人間?)


 ある程度までは絞れるが、未知なる者では記憶をほじくり返したところでどうにもなるまい。


「後日、必ず会いましょ――今度はきっちり殺してあげるから」


 男と闘って無傷で帰すなど、女の矜持が許さない。だから、今宵味わった屈辱は決して忘れまい。

 『俗物軍団グレムリン』が『幹部クアドリ』のひとり――ヨーンティの名にかけて。

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